なぜお金を出せば出すほど幸せになれると信じきれるのか?

前スレのコメントがあっという間に200を超えてしまって、スクロールが大変になって申し訳ありません。このところ仕事が忙しくて、新スレどころか皆さんからのコメントの承認も丸一日後になったりしてます。おかげさまで私は仕事も順調です。創価にしてみれば、このようなブログを運営して脱会者を増やしているような私はバチが当たって当然なのでしょうが、そんなことは一切ありません(キッパリ!)。具体的なことを言うと完全に身バレするので言えませんが、去年から今年にかけては特に思っても見ないような幸運が舞い込んできまして、これまでの人生の中でもエポックメイキングな年となりました。学会員さんは創価に逆らったり、脱会したり、ましてや他人をも脱会させてりしたら、とんでもなく恐ろしいバチが当たると思い込んでいるようですが、そんなことは絶対にないと自分の経験からもはっきり言えます。これまで相当な数の脱会者いますが、本当に脱会者が不幸になるのであれば、その現証があっても良さそうなものですけど、そんな話は聞いたことありません。脱会したら不幸になる新興宗教。そんな怪しい団体に入ろうとするのが頭おかしいです(笑)。

 

さて、今、創価の現場では財務の功徳を煽って入金額をいかに上げさせるかの戦いと、来年の選挙に向けての票集めの戦いが展開されているようです。

そこで今回のテーマは『なぜお金を出せば出すほど幸せになれると信じきれるのか?』とさせていただきます。

日蓮仏法の教義には財務をすればするほど功徳があるなどといったものはありません。日蓮の遺文にもご供養というのはお金であることや、ましてやその額が大切なのではなく、気持ちが一番大切なのですということを強調されています。しかし創価が会員に毎年煽っているのは、財務の額が多ければ多いほど功徳もたくさんある、しかも出したお金はあとから何倍にもなって返ってくる。そして逆に出し惜しみをすればバチが当たるとまで脅します。出す金額が少なかったら不幸になるとまで言うんです。これって本当にめちゃくちゃな話だし詐欺以外の何ものでもないのですが、学会員さんは言われた通りそのまま信じてしまいます。日蓮の教義に財務の額で功徳のレベルが違うという話などある訳ないんです。ましてや仏教にそんな話があるわけありません。財務は創価が会員から集めるお金でしかありません。仏教とは別の話で、組織運営上必要なお金を会員に募る寄付金です。寄付をしたら幸せになったり不幸になったりするなんて話を信じてしまう学会員がどうかしているんです。でも学会員さんは功徳欲しさになんとかしてたくさん財務をしようと必死になります。そして幹部は会員に「とにかくあるだけ出しなさい」と煽りに煽ります。会合では「功徳」「宇宙銀行」「すっからかん」「すってんてん」「宿命転換」「宿業を断ち切る」などと言う言葉が飛び交います。まるで催眠商法でバカ高い羽毛布団や健康器具を買わされる老人たちの集まりと同じです。

学会員さん、たくさんのお金を創価に貢ぎ続けたことで明らかに幸せになったのかどうか、あるいはあなたの周りの学会員さんにたくさん財務をして幸せになった人がいるかどうか考えてみませんか。財務と聖教新聞の売り上げで、創価には毎年数千億円のお金が入っています。それを何に使っているのか、創価は絶対に公表しません。会館の建設維持費や職員の給料にそこまでかかるわけがありませんし、たとえかかったとしても、その収支はお金を出している学会員に公開するのが当然だと私は思いますが、学会員さんはそんなことをする必要はないと思っているんでしょうね。私も学会員だった時は創価学会が収支を公表しないことを疑問に感じませんでした。創価を疑うだけで不幸になると怯えてましたので、創価については何があろうと一切疑うことをしませんでした。疑問が浮かんでもすぐに打ち消して考えないようにしていたので、学会員が物事を考えないと言う現実はよくわかります。元気だと言われながらも池田が8年も姿を現さないことに疑問を感じないことわかります。考えないようにしているからです。だから『お金を出せば出すほど幸せになれるという創価学会の指導』を信じている学会員さんは『自分で考えていないから』だと言うこともよくわかります。ちょっとでも自分で考えたら『お金を出せば出すほど幸せになれるという創価学会の指導』がおかしいことだと誰にでもわかります。一般の人からすれば狂気の沙汰です。例えば幸福の科学の大川総裁は自分こそがこの世界を創出した最高神であるエル・カンターレだと言っていて、それを信者は信じています。一般の人からすれば「バカじゃないの?」ってしか思わないことでも、信者さんは本気で信じているんですね。学会員が『お金を出せば出すほど幸せになれるという創価学会の指導を信じている』のも同じことです。幸福の科学については学会員さんも一般の人と同じように「バカじゃないの!」と思えますが、学会員さんは同じように「バカじゃないの?」と思うような創価の指導を信じてしまうんです。不思議ですよね。

さて、今回のテーマは財務です。皆さんが創価脳時代に信じてしまっていた財務に関する「バカじゃないの?」の話をお願いします。今考えたら絶対に信じるわけがないような「バカじゃないの?話」を振り返ってみてください。よろしくお願いします。

ちなみに私も「たくさん財務をすれば経済的に守られる」と信じていましたので、できるだけたくさんやろうとしてました。ほんとにアホでした。私の両親や兄夫婦も揃って家が何軒か建つほどの財務をしてきました。父は原因不明の突然死。母は認知症で子供の顔すらわからないで施設で暮らしています。兄夫婦は子供もなく、事故と病気で二人とも障害者となりました。これが現実です。

学会員さん、日本では誰が何を信じようと自由ですから、学会員さんが創価の指導を信じてたくさんの金を創価に貢ぐのも自由です。でもそのお金が何に使われているのか教えられないことや、自分も含めた学会員さんが創価にお金を出し続けて実際に幸せになったのかどうかを考えてみるのも自由なんですよ。創価をうたがったら不幸になると怖がっている自分に気がつくことも自由なんです。ここらで一つ目の前の現実を見た上で、自分の頭で考えてみてはいかがでしょうか。

目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち 2

今回のスレッドのテーマである『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』の「目の前の現実」とは、もちろん創価学会の現実を意味しています。そして創価学会員にとっての目の前の現実とは、明らかに創価学会は高齢者ばかりになってしまっていて、今後はさらに会員が減少し、近いうちに組織として維持ができなくなるだろうということです。創価学会が目指しているのが世界広宣流布であるならば、もはやその望みは消え失せたという現実のことを指しています。しかし創価学会員にとって、その動かしがたい現実を認めるわけにはいかないので、もはや高齢者しかいない創価学会の現実の話には意地でもふれないようです。しかしこの現実にふれないという創価学会員の態度自体が『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』であることを暴露していることにほかなりません。そして創価学会を運営指揮している最高幹部たちは、この創価学会の現実を完全無視して、あたかも創価学会が世界中に広まり続けているかのようなことしか学会員には伝えません。聖教新聞の内容も、本部幹部会の会長スピーチも、この創価学会の現実にはないウソをつき続けているというのが現実です。一般の学会員も、創価の現実を認めるわけにはいかないので、創価中枢のあきらかなウソでも信じるしかありません。池田は元気だと言われたら、言われたままを信じるしかないのです。
つまり創価学会員は、自分の人生を否定したくないという理由で、創価中枢のあきらかなウソでも信じるしかありません。多少自分でもおかしいなとは思っても、今さら自分の人生を否定するわけにはいかない。だから創価学会の現実をスルーしなければ生きていくこともできなくなって、言われたとおりに聖教新聞を何部も買い、財務をさし出し、公明党の票を集めるために自腹で駆けずり回ります。創価の言う通りのことをしなければ生きていけない自分になっていることを自分でもどうすることもできないでいる。だから日々「これでいいんだ」と自分に言い聞かせながら活動しています。本当の自分を必死で押し殺しながら生きていくしかないんですね。こうした毎日を送っていれば精神的におかしくなるのが当然だし、実際におかしくなっている学会員が本当にたくさんいます。これも創価学会の現実です。

創価学会員で目の前の現実を直視することができた方たちがこのブログにたどり着いて、やっぱり自分が気になっていたことは間違いじゃなかったんだと気づきます。そしてそうした方が次々と勇気を出して自分のこれまでの創価に依存するだけだった人生と向き合い、自分の頭で考え、判断し、自分の力わわ信じて、創価との関わりを断ち切って、新しい自分の人生をスタートされています。もうそんな方が数えきれないほどいらっしゃいます。これもある意味で創価学会の現実なんです。このブログはそんなたくさんの方の生の声が集まっているからこそ、ここまで大きくなりながら続いてこれました。おそらく来年の今頃は1,000万アクセスを突破しています。創価は宗教ではなく詐欺だとわかった創価経験者の声が集まったサイトのアクセスが1,000万件を超えるということ。これもまぎれもなく創価学会の現実であると言えます。この事実は創価学会員がいくら否定しても、スルーしても、これが創価の現実であることは間違いようもない事実です。この現実を無視したままで、どんなに創価を正しい宗教だと主張したところで、誰も相手にするわけがありません。創価脳にはそのことが理解できない。というか、実際のところ認めるわけにはいかないというのが創価脳の本音なのだと思います。だから創価の現実にはスルーするしかないんですね。

今回のテーマも引き続き『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち 2』とさせていただきます。よろしくお願いします!

目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち

自分の信じていることが正しいと信じている人にとっては、それが例えば宗教である場合、その信仰の対象であるご本尊を破壊する行為は卒倒するほど恐ろしいものだと思います。私も創価学会員のときはそう思っていたのでよくわかります。創価が宗教でさえないと気がついた今は、そのご本尊が会員を騙すためのただの詐欺の道具でしかないこともわかったので、破り捨てようと燃やそうと何の抵抗もないのは当然です。信じていたときには考えもしなかったことですが、実際にはこのご本尊を破り捨てたり燃やしても、信者が恐れているようなことなどひとつもありません。

このブログでの学会員さんとの対話でもはっきり言えることなのですが、いわゆる創価脳の際立つ特徴は、この現実を常にスルーするということです。これは学会流に言ってもいちばん重要であるはずの現証を完全にスルーしてしまうことなんですね。自分が信じているはずのことが、現実には起こらないことに疑問を感じきれないのです。だから、創価の信仰によってどれだけの学会員の願いが叶いましたか?どれだけの学会員が幸せになれましたか?どれだけの脱会者が不幸になりましたか?こうした問いにきちんと答える学会員はいません。あるいは、創価だけが世界で唯一正しい宗教ならば、創価ができてから80年経った今、学会員が減り続けて老人ばかりになっている現実をどう説明できるのですか?あなたの周りの学会員、例えば座談会や協議会に参加している活動家は、この20年でどれくらい幸せになりましたか?その幸せは学会員ではない近所の人たちと比べてどれくらいの違いがありますか?創価に貢いだお金と時間や、ご近所や職場や友人との信頼関係をも失っても、その信仰によってそれ以上の幸せを手に入れたのですか?といった質問にまともに答えることはありません。創価脳は自分の目の前の現実に対して何も言えないんです。この何も言えないという確かな事実でさえ学会員はスルーしてしまいます。おそらく実際に幸せなんかじゃないことに目を向けるわけにはいかないからなんだと思います。実際に自分も含めた周りの学会員が誰も幸せになんかなっていない事実を事実として認めるわけにはいかないのでしょう。

「池田先生はこのように指導されている」「日蓮大聖人の御書にはこのように書かれている」学会員は池田の発言や日蓮の言葉というだけの理由で、そのことが絶対の真実だと信じています。しかし、それが真実だという根拠は何ひとつないということに関してはスルーします。ただただ何の根拠もなく信じているだけなので、根拠を問われても何も言えないのは当然です。これは創価だけに限らず宗教とは総じてそうしたものです。言いかえれば、何の根拠もなく信じてしまうことを信仰と言います。つまり理論をどこかの時点で飛躍させなければ、あるいは停止させなければ信仰とはならないのではないかと思います。根拠のあることを信じることを科学と言います。根拠のないことを信じることが信仰だとも言えます。

ただし、根拠のないことを信じることは必ずしも悪いことではありません。子どもの可能性を信じること。親や恋人の愛を信じることは素晴らしいことだと思います。場合によっては神の存在を信じて生きていくことも個人の自由です。そういう意味では信仰は人に生きる希望を与え、モラルを維持し、社会の平和と秩序を保つ力となる場合もあると思います。また人間の信仰心から生まれた素晴らしい芸術作品の数々が、宗教の存在価値を証明してくれていると思います。だから少なくとも私は宗教そのものを否定する立場ではありません。

しかし問題は、信仰に必ず存在してしまう「根拠のないものを信じなければ成り立たない宗教の性質」にあると思います。つまり根拠のないものを信じることを正当化してしまえる部分を利用されてしまうところです。

創価学会はこの信仰の最大の特徴にして最大の弱点を詐欺の道具として、多くの日本人を騙してきたのです。池田や日蓮の言葉が正しいと何の根拠もないことを、それが信仰だということによって正当化され、学会員はいつの間にか疑うことを放棄してしまうのです。これを信じたら幸せになれる、何でも願いが叶う、最高の人生を送ることができる。いつのまにか何の根拠がなくてもそう信じてしまうんですね。そう信じた方が楽だから。そう信じることで希望が湧いてくるから。つまりこれを信じたら幸せになれると言われ、その行為で本当に幸せになれるかどうか自分で考えることまでやらなくなるんです。池田が、日蓮がそう言っているから間違いないんだ。自分以外にもこんなに同じように信じているんだから、きっと間違いなんてあるわけない。誰よりも幸せになれる方法に巡り会えた自分はそれだけでも幸せなんだ。そうやっていつの間にやら何の根拠もないことを信じてしまうんです。

そしていったん信じてしまうと、多少のおかしなことはたいしたことではなくなります。この本人にとっては多少のおかしなことが、客観的に見ればじつはとんでもなくおかしなことなのですが、自分で物事を考えるより、信じているものの言う通りにしていれば絶対的な幸せになれると信じてしまっているので、自分で物事を考えることを忌み嫌うようにさえなります。あるいは池田や日蓮に従うことこそが自分の本来の正しい姿だと思いこんでしまいます。

これは創価に限らず新興宗教が信者にかけるマインドコントロールの典型なパターンなので、普通に考えれば誰にでもわかりそうなものなのですが、何かを信じることにわけもなく喜びを感じてしまっている信者にとっては、もうその現実がたいした意味を持たなくなってしまっているんですね。だからどんなに目の前の現実を指摘しても、その現実が何を意味しているのかがわからないので、何の躊躇もなくスルーできるのだと思います。

学会員にとって創価を信じる根拠とは池田や日蓮が絶対に正しいという前提で成り立っていますが、一般常識で言えば池田や日蓮の言うことが正しいという根拠など何ひとつありません。もうこの時点で学会員の言うことは破綻しているのですが、そのことに学会員は気づきません。

ということで、今回のテーマは『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』です。

学会員にとっての目の前の現実とは、もう衰退に向かって突き進んでいる創価学会そのものの現実です。自分の周りの学会員がひとつも幸せになってはいないという現実。病気や貧困から抜け出したいという願いを何十年祈りつづけても、学会員ではない周りの人たちと何の違いもないどころか、お金も時間も創価に捧げてきたぶんだけ、創価以外の人よりも確実に多くのものを失ってきたという現実。創価以外の宗教を否定し、先祖代々の墓に入ることも拒否した結果、まともな親戚づきあいもできなくなったり、いつまであるかもわからない貧相な創価の墓苑に埋葬されるしかないという現実。こうした創価学会員の目の前にある厳しい現実を、学会員自身が完全にスルーしてしまっている。これこそが創価学会員の現実だと思います。

マインドコントロールによって騙されているという自覚をもてない学会員。しかしその学会員の数も目に見えて少なくなっています。座談会の現実を見れば明らかですが、それでもその現実をスルーしているのが残された学会員なのです。もはや創価学会活動家は「残された学会員」と言えるでしょう。もう若い学会員がいないのは明らかです。もう座談会に出席するような未来部はわずかになりました。女子部も地区にいるかいないかです。男子部も目に見えて減っています。いるのは圧倒的に婦人部です。その婦人部に引っ張られるように壮年部がいます。例えば10年後にはこのメンバーがそのまま歳をとって座談会にいるでしょう。未来部はもちろん男女青年部の姿はありません。今より10歳歳をとった壮年部婦人部がいるだけです。いや、高齢者の方は10年で施設に入ったり亡くなる人も出てきます。10年で今の半分になると思います。それも高齢者ばかりの座談会です。聖教新聞は誰が配達・集金するのでしょう。選挙のウグイス嬢は誰がやるのでしょう。会館警備や会合運営は誰がやるのでしょう。未来部の運営は誰がやるのでしょう。会館の清掃や植栽の維持管理は誰がやるのでしょう。みんな高齢者の学会員がやるしかないんです。もうすでに創価の現場は半分以上が高齢者です。これが創価の現実なんですが、それでも活動家は「世界広布新時代」を信じているんです。目の前の現実を見ればそんなものが信じられるわけがないんです。だから学会員というのは『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』だと私は思います。

創価の現実と世界広布新時代のあまりのギャップをどう考えても説明なんかできません。だから目の前の現実をスルーするしか学会員には生きる道がないのだと思います。創価脳は自分が騙されていることに気づく気はありません。10年後の創価がどうなっているか、真剣に考えることもできないのが創価学会活動家の現実です。

 

何かを信じるということ 2

  • みなさん、連日のたくさんのコメントありがとうございます。

このところ仕事が忙しくて、みなさんからのコメントを承認するだけが精いっぱいで申し訳ありません。とりあえず今回のテーマも『何かを信じるということ  2』とさせていただきます。

そこでもう一度、私の考える『何かを信じるということ』についての話をします。

前スレでおじいさんとおばあさんの話を再掲しました。おじいさんは死ぬまで薬が本物だと信じていました。おばあさんは途中で薬が偽物だという噂を聞いて、実際に自分で真実を確かめたところ、薬が偽物であることに気がつきました。そこでおばあさんはおじいさんにも薬が偽物だと気づいてもらいたくて、必死に話をしますが、おじいさんはまったくおばあさんの話を信じようとはしません。それどころか、おじいさんはおばあさんが薬といっしょに自分まで信じなくなったと怒りだします。おじいさんにとって何かを信じることは善であり、何かを疑うことは悪なのでしょう。それも普段から「この薬を疑ったら効き目がなくなる」と脅されていたからかも知れません。それでもおばあさんはおじいさんのためによかれと思って薬が偽物だと言ってあげるのですが、言えば言うほどおじいさんの心はおばあさんから離れていくことがおばあさんにもわかってきたのです。そこでおばあさんはおじいさんに薬の話をすることをやめることにしました。おじいさんにとって薬が本物であるか偽物であるかという事実は関係ないのです。自分が健康で生きていけるのはこの薬のおかげだと信じることが自分が生きることの拠りどころになっているのだから、もうそれだけで充分なんです。おばあさんはそんなおじいさんを受け入れました。だからおばあさんは薬もおじいさんも否定しないことにしたのです。ただ、おばあさんとしては、ただの小麦粉にバカ高いお金を出し続けるわけにはいきませんから、おじいさんには内緒で薬を買ったふりをして、おじいさんには普通に買った小麦粉を飲ませて続けました。そして二人はずっと幸せに暮らしましたというお話です。

私が「このブログでカルトは詐欺だ」と言い続けているのは、このお話に出てくるおばあさんのように、人の話をきちんと聞いて、自分でもそれが正しいかどうか、事実を自分で確かめることができるような人に対して言っています。実際に多くの「おばあさん」がこのブログにたどり着いて、自分でその事実に向き合い確かめた結果、薬が小麦粉であること、つまりカルトが詐欺だと気づきました。

ところがときどき「薬が偽物であるはずがない!」と怒り心頭の「おじいさん」がやってくるのです。なので私をはじめ、ここにコメントしてくれるおばあさんたちは、そんなスイッチの入ったおじいさんに薬が小麦粉だと説明しますが「おじいさん」は一向に「おばあさん」の話を聞こうともしないで、ただただ自分が否定されたような気になって怒りをぶちまけます。中には「おばあさん」を名指しで悪口を言うブログをたちあげるおじいさんも現れましたが、もちろんそんなブログはよほどの暇人しか相手にされないのは当然です。

おじいさんにとっては薬が本物か偽物かということ以前に、薬を本物だと信じている自分を否定されることに腹を立てているのです。そんなおじいさんとは話にならないと判断したおばあさんは話をすることをやめることにしました。このブログではもともと自分で考えたり確かめたりすることをしないおじいさんに話をしているわけではないのですから当然です。

ところがある日、おじいさんが飲んでいた薬が偽物だとわかったどこかのおじさんが「あの薬は偽物だけど、おじいさんとおばあさんが前に飲んでいた薬は本物だよ。でも今おじいさんが飲んでる薬は偽物だから、いっしょにその薬が偽物だとボロクソ言ってやろうぜ」と言ってきました。なのでおばあさんは「前の薬が本物だとどうしてわかるの?」と聞いたら「そんなの誰にもわかるわけない」と言いました。このブログはおじいさんの悪口を言うための場所ではないし、おばあさんには前の薬も後の薬もただの小麦粉だと自分で確かめてわかっているので、そのおじさんと一緒におじいさんの悪口を言うつもりはありません。これも当然の話です。

ということで、このブログの大前提として、薬が偽物かもしれないと自分で疑問を持つことができる「おばあさん」に対して、つまり「カルトは詐欺です。自分の頭で考えたらすぐにわかりますよ」と言っています。「おじいさん」に話をしているわけではないということをはっきりしておきたいと思います。また、どこかのおじさんと一緒におじいさんの悪口を言う気もないこともはっきり言っておきます。

私は創価に限らず『何かを信じること』を否定するものではありません。日本国民であるかぎり、そんなことを他人にしてはいけないんです。だからたとえ詐欺だとわかっていても創価を信じている人に面と向かって否定はしません。できません。しても無駄なこともよくわかりました。創価でも鰯の頭でも信じたらいいと思います。ただそれでどうなるかは本人の自己責任です。普通に物事を見たり考えたりできる人なら創価のやっていることが宗教なのか詐欺なのかはすぐにわかりますが、一旦信じてしまうとそんなこともわからなくなるのが人間なのでしょう。

私もこのブログをたちあげたころには「おばあさん」のように「おじいさん」に一生懸命に説明してきましたが、それが無駄なことだと何度も思い知らさせました。それはどこかのおじさんとて同じでした。何かを信じる人に対して、それが何であろうと、他人が否定することは無駄なことだと体験的にわかった気がします。それが身内であればなおさら問題がこじれてしまう。「おばあさん」は相手を否定しているつもりはなくても「おじいさん」は自分自身を否定されたと受け止めてしまうんですね。だから身内にカルト信者がいるところの悩みは大変大きいし、なかなか解決も難しいです。

カルト信者に対して自分が詐欺にあっていることに気づいてもらうには、相手が信じるものを否定するのではなく、相手に自分で考えてもらうことだと思います。「自分は何を信じているのか?」を自分で考えることが大切だと今は思います。だから先日も日蓮正宗の梵我一如さんにそのことを考えてもらえたらと思って、まずは日蓮正宗の仏とは何か?を聞いたのです。残念ながら「そんなのわかるわけがない」との回答でした。私はわかるわけがないものをどうして信じることができるのかも聞きたかったのですが、そこで対話は終わりました。ということは梵我一如さんにとって自分が何を信じているのかをはっきりさせることは大した問題ではないのかもしれません。だから普段考えていないことを聞かれて困ったのかもしれませんので、私もそれ以上聞くのはやめました。

思えば『何かを信じるということ』を自分で考えることの大切さこそが釈迦の教えではなかったかと思います。つまり釈迦は何かを信じることを教えていたのではなく、逆に何かを安易に信じてしまう自分を徹底的に疑いなさいと教えていたのではないかと思います。紙切れに願い事をしている自分を疑いなさい。疑ったら地獄に落ちると怯えている自分を疑ったほうがいいんじゃないか。新聞を何部も購入したら功徳があるとか、ある政党の票を集めたら集めるだけ功徳があるとか、お金を出せば出すほど功徳があるということを信じている自分を疑いなさいというのが釈迦の教えではなかったかと思います。私はべつに仏教や釈迦の教えを信じているわけではありませんが、少なくとも学会員さんは自分で物事を考えることができなくなるようにマインドコントロールされ、創価を疑うことができない状態だということは明らかだし、それが学会員さんにとっては本当の仏教だと信じて疑わないというのも、とても皮肉なものだと思います。創価が会員に対してする「指導」とは徹底的に「疑うな」です。つまり「余計なことは考えずに、言われた通りのことをやっていれば幸せになる。必ず願いが叶う」です。学会員はこれを繰り返し聞かされ、疑うことが恐ろしくてできなくなります。そうやって何年何十年も言われた通りにお金を貢ぎ続けてきたのですから、それを今さら詐欺だと言われたら、自分の人生を否定されたとしか思えなくなるのも無理はありません。どんなに理屈を並べられても、現実を見せつけられても、今さら創価を疑うなんて、自分の人生を自分で否定するなんて、恐ろしすぎてできるわけがないと思います。そうやって創価は会員からものすごい額のお金と時間を奪い続けてきました。その結果、幸せになった学会員などいるはずもないのですが、学会員はその現実に目を向けることができません。

何度も言いますが、このブログは自分の頭で考えて真実に向き合おうとしている「おばあさん」に対して創価の真実を発信しています。創価を信じてきた人にとって真実に向き合うことの辛さは並大抵のことではありません。だからこそそんな辛い思いを分かち合えるこの場所が存在し続けることができるのだと思います。

『何かを信じるということ』とは場合によっては恐ろしいことだし、だからこそ今の自分を疑ってみることも大切なことだと思います。人類が発見し生み出してきた思想哲学も科学も疑うことによって発展してきました。疑うことによって人間は発展してきたのです。疑うことなしに今の文明は存在しません。物事を疑うことは決して悪いことでないばかりか、信じることよりも素晴らしい人間の能力なのです。

何かを信じることを否定はしません。しかし信じることが疑うことの妨げになってはいけないと思います。

何かを信じることによって自分が幸せになれないばかりか、家族までをも不幸にしている現実を目の当たりにしても疑うことができないでいる学会員さんが、まだまだたくさんいます。

ひとりでも多く、今の自分が何を信じて、何を疑うべきなのかを自分の頭で考えることのできる学会員さんが出てくることを願っています。

ということで、今回のテーマも『何かを信じるということ』ですが、テーマにこだわらなくてもいいですので、言いたいことを思い切り言ってみてください。言葉にすることは、自分の頭の中を整理することでもありますが、それをアウトプットすることで元気になります。さらにそのアウトプットに返ってくるレスポンスによって、客観的な自分を再確認できます。かつて創価を無条件に信じていた自分がいかに操作されていたのかがいやというほどわかるのは辛いですが、あのまま騙される続けていたとしたら、本当にみじめなままに一生を終えることになります。どんなことがあっても、何を言われても、創価を正しい宗教だと信じ続けるのはある意味簡単です。何も考えず、まわりの人たちからどんなに嫌われても、創価という狭いコミュニティの中だけで言われた通りにお金と時間を創価に捧げて死んでいけばいいのです。それが創価学会を信じている最高の人生なのですから、他人がどうこう言うことではありません。日蓮正宗を信じて死んで行くことが最高の人生だと思う人に何も言うことはありません。ここでは創価に疑問を感じることができた人に、なぜ自分が疑問を感じたのか、他の人はどうなのかをはっきりわかるような場所です。また、なぜ今まで疑問を感じきれなかったのかの訳もたくさんの創価経験者の声によって明確にわかります。

『何かを信じるということ』が自分にとってどういうことなのかを、みなさんでもう一度語り合っていきたいと思います。よろしくお願いします。

何かを信じるということ

4年前に、このブログのコメント欄に一つの物語を書きました。

タイトルは「薬を飲ませ続けたおばあさん」と翌年もう一度載せた時につけました。

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昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。二人とも歳はとっていましたが、飲むだけで元気になるという噂の薬を毎日飲んでいました。おじいさんはそれを薬だと思っている。もちろんおばあさんも同じようにずっと薬だと思って飲んでいたのだけども、なかなかこれといった効き目がないものだから、なんかおかしいなと思い始めました。そして同じようにその薬を飲んでいた近所の人に訊いてみたら「あれは薬じゃない。何にも効かないよ。まだ飲んでたの」と言われました。

おばあさんはビックリして、他の多くの人にも訊いて回ったのですが、みんな「あれは薬なんかじゃないよ。みんなそれがわかったから、あの薬屋には行かないようになった。行ってるのは何も知らずに薬だと信じている年寄りだけだよ」と言っていました。それでおばあさんはよくよく考えてみることにしました。自分のこれまでの体験にも照らし合わせてみたところ、それが薬じゃないと仮定したら、みんなつじつまが合うのでした。そこでおばあさんはおじいさんのことを思って「それはじつは薬じゃななかったんだよ」と言いました。

おじいさんは思ってもみないことを言われたのでビックリすると同時に、おばあさんは頭がどうかしたんじゃないかと心配になりました。ついこのあいだまで一緒にこの薬を飲んでいたのに、なんで今さらそんなことを言うのかわかりませんでした。おじいさんは薬屋から「これは絶対よく効く薬です。でも元気になると信じて飲まなければ効きません。効き目を疑ったりしてはいけませんよ」とくりかえし言われてきたことを思い出して、薬をやめようとはしませんでした。おばあさんはそんなおじいさんの姿を見て、なんとか薬をやめさせなければと思い、客観的な証拠をたくさん集めておじいさんを説得しようとしました。しかしその薬を疑うことで効き目がなくなることを恐れたおじいさんは、おばあさんの話を聞こうとはしません。かえってそこまで言うおばあさんは自分のことを嫌ってるんじゃないかなどと疑心暗鬼に陥ってしまいました。

そんな態度のおじいさんを見て、おばあさんはとても悲しくなりました。「おじいさんはどうして私の言うことを信じてくれないんだろう」とさらに考えました。そしておばあさんはこう思ったのです。「おじいさんは薬を信じているのではなくて、薬をくれている薬屋のことを信じているんだわ。だから薬が効いてなくても効いているような気になってるのよ」。おばあさんはその薬局のことを調べました。するとその薬局では、お客さんに「これはよく効きます。でも信じなかったら効きません。それに効かないと文句を言ったりしたら、今まで飲んだ薬の効き目もなくなってしまいますよ。そして薬を飲むのをやめたりでもしたら、病気になってしまいます。初めから飲まない人よりも悪くなるんです。ですから絶対この薬はやめないでくださいね。はい、今月のお薬代1万円」。

おばあさんはビックリしました。「薬を飲まない人よりも具合が悪くなるだなんてどういうことでしょう」おばあさんはますますこの薬局は怪しいと思って、さらにいろいろと調べてみました。するとこの薬局はときどき薬の内容を変えていたのです。つまり仕入れ先ともめて、いままでの薬が仕入れられなくなったものだから、その薬の成分表を仕入れ先から盗んで、自分たちで勝手に薬をつくって売るようになりました。お客さんには「こんどお薬の中身が変わりました。今度の薬はもっと効きますよ。じつは今までの薬にはちょっと問題があったので、私たちでもっといい薬を開発したんです。今までよりちょっと高いんですけど、安心して飲んでくださいね。私たちがいい薬を作ったものだから、いままで作っていた仕入れ先が私たちのことを妬んで、あることないこと言ってますけど気にしないでくださいね。それから、飲んだことのない人にも紹介してくれたら、この薬はもっと効きますよ。これはそんなとってもありがたい薬なんです。でも効き目を疑ったりしたら毒になってとっても苦しみますから注意してくださいね。はい2万円」。

もうおばあさんはビックリ仰天です。ただの薬屋が、勝手に薬までつくって売ってるのですから、それは驚きます。これでその薬屋が完全に怪しいことがわかりました。「やっぱりこの薬屋は効きもしない薬を客に騙して売りさばいて金儲けをしているんだ」おばあさんはやっと気がつきましたが、おじいさんにそのことをいくら話しても聞こうとはしません。おじいさんはそんな話を聞いたら、今まで飲んできた薬が効かなくなるどころか、病気になると思って怖がっているからです。そしておじいさんは、あろうことかおばあさんが自分を病気にしようとしていると思い始めました。「こんなばあさんの話なんか聞いてられるか」と、あんなに仲の良かったおじいさんはおばあさんを憎むようになってしまいました。おばあさんは途方に暮れます。「おじいさんのためを思ってここまで言ってあげているのに、どうしてわからないんだろう。いままで何十年もいっしょに暮らしてきた私をさしおいて、あんな薬屋の言うことを信じるなんてあんまりだわ」おばあさんも、いいかげんおじいさんを嫌いになり始めました。

おばあさんは、その薬を何十年も飲んできました。その薬を飲んで来たからこそ、たいした病気もせずに、おじいさんと仲良く暮らして来れたと、その薬に感謝もしていました。でもよく考えてみると、この薬のおかげで元気だった証拠なんてどこにもありません。それにこの薬をやめてずいぶんとたちますが、体調の変化もありません。ただおじいさんのことが心配で、不眠症になったぐらいです。そこでおじいさんが飲んでいる薬の成分が何なのか調べてみました。そしたらなんとただの小麦粉だったではありませんか。おばあさんは愕然としました。「私とおじいさんは何十年も何千万円も出して小麦粉を飲んでいたんだ」おばあさんは気が遠くなりそうでした。

そこでおばあさんは気を取り直して、もう一度よく考えてみました。「おじいさんはどうしたら気がついてくれるだろう?」「もし自分がおじいさんの立場だったら?」「みんなどうしてあんな薬屋の言うことを信じてしまうんだろう?」いろんな疑問が次々に湧いてきました。そしてこう思いました。「みんな何かを信じている。何かを信じるには、それなりの理由があるのだけど、それは科学的な根拠だとか、目の前の事実だとか、そんなものは理由にならないんだ。どんなことであっても、いったんその人がそれが正しいと信じれば、その人にとっての真実になってしまう。たまたまこの薬を飲んだときと、病気が治ったことが重なって、この薬のおかげだと信じきってしまうのも当然だわ。だってそう信じたいんだから。信じるって、信じたい気持ちが、ものごとをそんなふうに見せるのね。でも、この世の中に何があっても動かない絶対的な真実なんてありはしないとお釈迦さまも言ってた。あるのはその人にとって都合のいいことを真実だと思い込んでしまうこと。それこそが人間の不幸の原因であり、不幸の始まりなんだと、2500年も前に教えてくれてる。だからまわりからどんなにあからさまな間違いを指摘されても、それが何を意味するものかがわからなくなるんだわ。おじいさんの都合では、あの薬屋の言うことが真実だから、それと違うこととなると、私がどんなに間違いである事実を言っても聞かない、聞こうともしないのは当然なのよ」おばあさんはそう納得してはみたものの、それではおじいさんを救えない。原因がわかったところで、このままじゃおじいさんはただの小麦粉に大金を払い続けることになる。それよりも何よりも、このままでは私とおじいさんの仲が壊れてしまう。私は優しかったおじいさんと一緒にいつまでも暮らしたい。なんとかしておじいさんの優しい心を取り戻さなければ…」。

おばあさんはおじいさんを説得する材料がないか、さらに調べました。その薬局のことも。そしたら、その薬局の社長がどうもそうとうな悪人らしいのです。その社長は自分のところの薬が効くことを客に信用させるために、ただの小麦粉を薬だと騙して売ったお金を使って世界中の著名人と会ったりしているところを写真に撮らせて、それらを載せた会報を有料でお客さんに売っていました。ただの小麦粉に高い値段をつけて売っているというのに、さらにそのお客さんの家族や友人知人にもその会報を購入させているのです。お客さんを自社の商品の販売員としてタダ働きさせているのでした。お客さんは、自分が飲んでいる薬が効くようにと、その薬を売ってまわります。どこまで欲深い社長でしょう。ところがなぜ会報を売ったら薬が効くのか、なぜかお客さんは何の疑問も持ちません。それはそういうものだと信じているからです。お客さんは薬が効きさえすれば何だってする気持ちになってしまっています。お客さんにとってはもはや理屈などどうでもよくなっていることに、おばあさんは恐ろしいものを感じました。

それからその社長は薬を飲んでいる人同士を集めて、その薬や会報をたくさん購入するにはどうしたらいいかを相談する会合を開くようになりました。たくさん薬を売ったお客さんが体験発表をして、まだあまり売れてない人を激励するようになりました。そのうち、あちこちにそんな集まりができて、お互いに競争するようになり、それがだんだんエスカレートしていくと、あろうことか売れなかった会報をひとりで何冊も買う人が出てきました。もうおばあさんは開いた口が塞がりません。薬が効くようにと会報を何冊も買う人の気持ちは普通の人には理解できません。でも、そんなことを言っても、お客さんたちは何の疑問も持ちません。それで自分が飲んでいる薬がいっそう効くのだと本気で信じているからです。おばあさんは思いました。「人間、信じるものを間違えると大変なことになる。もしかしたらおじいさんも一生このまま小麦粉を飲み続けて死んでしまうかもしれない」。おばあさんは寒気がしました。

さらにその薬局の社長が今何をしているのか気になりました。なにしろ自分の大切なおじいさんに、バカ高いただの小麦粉を飲ませ続けているのですから。すると、どうもその社長は近頃人前に姿を見せないのだそうです。もうかれこれ4年半も。おばあさんはおかしいと思いました。「会社の社長が4年半も社員の前にすら顔を出さないなんてあるかしら。でも病気じゃないと言うし、あいかわらず会報には大量の執筆をしているし。でももっとおかしいのは、そんな社長のことを社員もお客さんも誰一人として心配していないことよ」おばあさんは、何かあると思いました。「社長がいなくても、この薬屋はどんどん小麦粉を売りさばいているし、社員も何一つ文句も言わずに働いている。会報には薬を飲んで幸せになったお客さんたちの満面の笑顔がびっしり載っているし、社長の文字だけのメッセージには、なぜか大昔の社長の写真が載っている」おばあさんは思いました「あまりにも不自然だわ」。

ある日のこと、おばあさんは結論を出しました。「おじいさんに正気に戻ってもらうには、この私を信じてもらうしかない。はじめから理屈なんかじゃどうにもならなかったのよ。私はおじいさんに元気になってもらいたい。以前の優しかったおじいさんに戻って欲しい。おじいさんは自分が信じているものを私が否定したから私を嫌って、ますます私のことを信じられなくなっているんだわ。だから私は何があってもおじいさんを信じなくちゃいけないの。私までその小麦粉にふりまわされてなんかいられない。私が大事なおじいさんを信じていけば、きっといつかおじいさんもわかってくれる日が来る」

それからおばあさんは、その薬の話はいっさいしなくなりました。おじいさんの言うことにいちいち反論したり、冷たくしなくなりました。そしたら次第に優しいおじいさんに戻ってきました。おじいさんは優しくなったおばあさんの変化に少し気がつきましたが、薬をやめようとはしません。おじいさんにとって、おばあさんと薬はなんの関係もないからです。

おばあさんは何事もなかったように、優しくおじいさんに接しました。おじいさんも何事もなかったように、仲良く暮らしました。それからさらに20年の月日が流れ、いよいよおじいさんの寿命が尽きようとしています。もう動けなくなったおじいさんに、いつもかいがいしく面倒を見てきたおばあさんも、別れの覚悟を決めるときが来ました。

「ばあさんや、わしもいよいよお迎えが来たようじゃよ。いままで本当にありがとう。いろいろ世話になったな。贅沢はさせてあげられなかったけど、こうして今までたいした病気もせずに、事故にもあわずに生きてこれたのは、ばあさんのおかげだよ。感謝してるよ。ありがとう」

「いいえ、おじいさん。私こそ、いままでほんとうにありがとうね。私はおじいさんと生きてこれて幸せでしたよ。途中でいろんなことはありましたけど、おじいさんを信じて生きてこれた私は幸せでした。ほんとうにありがとう」

「それとわしがこうして元気で来れたのも、若い時からずっと飲み続けてきたこの薬のおかげじゃよ。この薬にも感謝しないとな。まあ、ずいぶん高い薬ではあったが、命には換えられんものな」

「そうね、感謝しなくちゃね。ほんとにいい人生だった。私もすぐあとから追いつきますからね。また一緒にくらしましょう」

そうやって、ふたりは最後まで心を重ねたまま幸せに生涯を全うしたのでした。

ただひとつ、おばあさんはおじいさんに言わなかったことがありました。それはおばあさんが薬の正体に気がついた20年前から、あの薬を台所にある小麦粉にすり替えてきたことでした。

チャンチャン(^^)

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今回のテーマは「信じるということ」です。

何かを信じるということは、人としてとても尊いことだと思います。自分を信じる。他人を信じる。あるいは神を信じることも、人によってはかげがえのないことだと思います。ですから、そうした「信じる」ということにおいて、人は強制されてはいけない。何かを信じること、あるいは信じないことを、誰からも強制されてはならないことを国民の権利として憲法に保障しているのが戦後日本の民主主義です。したがって国家権力であろうと、人に何か特定のものを信じるように強制するのは民主主義の国では許されないことです。

戦前の日本政府は神話を現実にあったことだとして人間であるはずの天皇を神様だと国民に信じ込ませていました。今考えたらとんでもないことですが、70年前までの日本はそういう国でした。女性には選挙権すらありませんでした。今でこそ、人間は誰しも平等であり基本的人権も信教の自由も国民の当然の権利という感覚がありますが、私の両親が若い頃はそれがありませんでした。特定の人間を神だと信じなければいけない社会だったのです。

つまり、人は状況によってはなんでも信じてしまうということです。第二次大戦突入する過程で、静かで思慮深いドイツ人がナチスに熱狂しました。ほとんどのドイツ人が優生思想に蝕まれ、ユダヤ人の虐殺を見て見ぬ振りをしました。日本も同じく「天皇陛下万歳」と、年端もいかぬ多くの若者が戦地で命を落としました。子供を失った親が悲しみにくれました。

「信じるということ」とは、場合によっては尊いことですが、それは「何を信じるのか」によって全く違うということを、ここでもう一度考えてみたいと思います。

「信じるということ」と信仰とはまた別のものだと思います。自分を信じるのは信仰とは言えないと思います。でも私は自分を信じることができなければ、人は生きていけないとも思います。また何かしら神のような人間の力では抗うことのできない強大な力の存在に自らの生き方を委ねたりするような一神教。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がそれに当たりますが、日本においては日蓮本仏論を標榜する日蓮正宗と創価学会だけが、この一神教的な「強大な力の存在」に依存する信仰形態を取り入れています。ここで宗教の教義について議論する気はサラサラありませんが、本来の仏教の基本的な考え方は、釈迦がのちに仏教と言われる哲学を見出す以前のインドにおいて長いこと信じられていたバラモン教やその他の土着信仰で、それは宇宙の根本原理であるブラフマンが当時の権力者バラモンと同一であるという思想に基づいて、社会を成り立たせていました。そうした特権階級中心の社会に異を唱えて出てきたのがアンチバラモンである仏教でした。つまり仏教はブラフマンといった「宇宙の根本原理」の存在を否定したところから始まったのです。日本においてはなぜか仏教であるにもかかわらず日蓮正宗と創価学会だけが宇宙の根本原理の存在を主張するブラフマン思想を主張しています。そしてその宇宙の根本原理とは南無妙法蓮華経という言葉に集約され、その言葉を唱えることで宇宙の根本原理と一体化することができて、無常の幸福境涯を得ることができるというのが日蓮正宗と創価学会の基本的な教義となっています。それを仏教ということ自体がおかしなことだと普通は考えられていますが、日蓮正宗と創価学会だけは、自分たちの考え方以外は間違ってるということを主張するので、日本の宗教界の中では完全に孤立してきました。

「何かを信じること」は尊いけれども、「何を信じるか」を他人から強制されるのは重大な人権侵害であるということは、少なくとも今の日本においては言えるでしょう。ではなぜこのように明らかな人権侵害行為を創価学会は会員に強制するのかを、学会員のみなさんは考える機会があってもいいのではないかと私は思います。

上に再掲したおじいさんとおばあさんの物語の中で、おじいさんは小麦粉の薬を飲んだから幸せになったと信じています。おばあさんはおじいさんとの幸せを考え抜いた結果、おじいさんが信じているものを死ぬまで否定せずに貫きました。幸せになると信じて飲んでいた薬がただの小麦粉とだということを知ってしまったおばあさんは、ショックを受けておじいさんにもわかってもらおうと必死に訴えますが、その薬が自分たちを幸せにしてくれると信じきっているおじいさんは、逆におばあさんを信じられなくなります。そこでおばあさんはおじいさんが信じているものを否定しないことにしました。真実を訴えることで自分を信じてもらえなくなるとわかったからです。それではおばあさんは何を信じていたのかという問いかけでもあります。

それが何であろうと自分が信じているものを否定されるのは耐え難いことだと思います。耐え難いだけに否定した人に憎悪の感情を抱くのも仕方のないことだと思います。世界の戦争や紛争の原因のほとんどがそうしたディスコミュニケーションから生じるものだと思います。また、そうした構造を利用して、他国において一部の特権階級にいる人たちにより意図的に戦争や紛争を起こして暴利を貪ってきたのが世界の近現代史だと言えます。そういう意味でも「何かを信じること」あるいは「何を信じるのか」といったことは人間の幸せを左右する大きな問題だと言えます。

このスレッドのテーマは「何かを信じるということ」とさせてただきます。このテーマに関してみなさんの思うところを聞かせてください。よろしくお願いします。

現場は今?

創価の現場、つまり座談会や協議会、本幹など、学会員が集まって活動する場所に男女青年部の姿が見えなくなったという現役学会員さんからのリアルな声が、ここ最近とくに増えています。今回のテーマは、あらためて今の創価の現場がどういう感じなのかを教えていただきたいと思います。題して「現場は今?」とさせていただきます。具体的に座談会や協議会に参加している学会員さんの人数とうちわけですね。参加人数と四者別人数。それと男子部長、女子部長、地区部長、地区婦人部長、支部長、支部婦人部長がちゃんといるのかどうか、そして地元の会員かどうか。この数年内でのわかる範囲でいいですので、実際のところ創価学会の現場はどんな感じなのかを皆さんで共有できたらいいなと思います。もちろん、以前も何度か同じようなテーマで教えていただきましたが、今回は創価離れが加速しているということを、はっきりとした事実として押さえておきたいと思いますので、あえてこのテーマにしました。この創価の現場の実態から、これから先、創価の目指す広宣流布ができるような団体なのかどうかを、学会員さんに自分の頭で考えてもらう材料にしてもらえたらと思います。

皆さんよろしくお願いします。

証拠

とあるノーベル文学賞作家の小説の中に「独裁者が国民を支配する方法は、国民に情報を与えないようにすることと、教育である」といった意味のセリフがありました。創価学会そのものですね。「ネットはデマだから見るな」「日本は池田先生に嫉妬しているから悪口しか言わないが、世界では認められている」「いよいよ世界広布新時代がやってきた」「先生はお元気で、全国の同志の激励に飛び回っている」みんな何の証拠も根拠もないデタラメです。聖教新聞社は会社ではありませんし、聖教新聞は新聞ですらありません。創価に都合のいい情報だけを会員にお金を出させてしんじこませ、一般社会の情報を遮断するために作られている会報です。勤行唱題も会員が考えるこができないようにするための儀式です。会合も組織活動も会員のマインドコントロールを強化し、会員同士を相互監視するためのシステムです。創価は会員に対してあらゆる手段を使って情報を遮断し、創価の都合のいい嘘をつきまくって会員からお金を巻き上げ続けてきました。ネットがなかった昭和まではそれが通用しましたが、ネットの普及によって誰もがある程度の情報を手に入れることができるようになりました。若い人が創価に入らないのは、情報を得ているからでしょう。これから先も若い人が創価に入ることなど考えられません。創価は今になって情報操作に必死ですが、今さら遅すぎです。今の創価はほとんど50歳代以上が中心です。日本の人口分布と同じで70歳前後の団塊の世代がピークですので、10年後は情報が遮断されたままの80歳代前後の会員だけしか残ってはいないと思われます。当然、聖教新聞を読む人も配る人もいなくなるし、集まる財務の額も激減します。10年後には創価の損益分岐点が来ると個人的には思います。
もちろん創価学会が目指しているとする広宣流布は100%できるわけはありません。そもそも創価学会は広宣流布をやるなどと考えていません。広宣流布は会員を騙してお金を巻き上げるための見え透いた嘘です。デタラメです。インチキです。ましてや宗教なんかじゃありません。単なる詐欺です。学会員さんにとっては信じられないかもしれませんし、信じたくもないでしょうが、創価学会はどこをどう見ても最初から詐欺でしかなかったんです。情報を遮断され、創価に都合のいい教育だけを受けてきた学会員にはそれがわからなかった。しかしネットの普及によって、創価の真実に気がつく会員が増えてきた。ネットの情報と創価の現実がピタリと一致していることに気づいた学会員は次々と脱会し始めた。そして今は創価の活動家は情報を遮断し続けている100万人程度に減ってしまった。これからはさらに減り続けるしかないのが創価学会です。現実を見れば広宣流布などできるわけがないのは小学生にでもわかる話です。高齢の学会員も長年創価の活動をしてもちっとも幸せになっていない自分がいることにようやく気づいてきた。ようやく目の前の現実を見て自分の頭で考えることをはじめた。これから先、創価に残る学会員がいるとしたら、現実を受け入れることが恐ろしくてできない人たちだけになるでしょう。これから先、増える見込みのまったくない創価学会が、残された学会員だけでどうやって広宣流布をやるのでしょう。その人たちは死ねまで創価からお金を絞り取られるだけの人生になります。あるいは創価が崩壊するのが早いかもしれません。創価が正しい宗教だと信じるのは勝手ですが、それで幸せになった人を見たことがあるかどうか、自分は創価でない人よりも幸せなのか、目の前の現実を見てほしいと思います。

そこで今回のテーマはズバリ『創価学会は詐欺だという証拠』とさせていただきます。

先日、ダイナムさんが声をかけられた4人の学会員さんが、ダイナムさんの話を真剣に聞いてくださって、このブログも真剣に読んでくださったそうです。学会員さんにとって『創価学会は詐欺だ』という言葉はあまりに衝撃すぎて、とても信じられないのが当然だと思います。今、4人の学会員さんはものすごく動揺されていらっしゃると思います。こういう私もそうでした。何日も眠れませんでした。かといって誰にも相談できませんでした。おそらくこのブログを訪れる人のほとんどが創価学会が詐欺だなんてそんなことがあるわけないと思っていたと思います。でも現実は違いました。創価が詐欺だということは、自分の頭で考えたらすぐにわかることでした。ただその現実はあまりにも残酷で、恐ろしくて、すぐには受け入れられませんでした。それでもこの現実を受け入れるしか、これからの人生はないと思いました。このどうしようもない恐怖と焦りと絶望感を、私はとりあえず言葉にしました。それがこのブログのスタートです。そしたら自分と同じような思いをしている学会員や学会経験者の人たちがたくさんいることがわかりました。一人で落ち込んでいる私にはカンダタが蜘蛛の糸を見つけたときのような思いでした。それから同じ思いをしていた人がどんどんブログにコメントされるようになりました。今ではコメント数は3万件を超え、そのコメントを読まれる人のアクセス数が800万を超えました。今も毎日5,000から6,000のアクセスがあります。来年の今ごろは確実に1,000万アクセスを突破する勢いです。なぜここまでのアクセス数に至るのかの答えは明らかです。このブログには創価経験者の膨大な真実があるからです。根も葉もないいい加減な感情論は徹底して排除しています。ここで語られるのはまぎれもない創価学会の現実だけです。そしてその創価学会の現実とは「創価学会は宗教ではなく詐欺だ」ということです。

あらためてこうした創価学会の現実を見て、創価学会を信じてきた自分の人生を振り返ってみたときに「創価学会は人々を幸せしてきたのか?」という疑問、あるいは「創価学会員である自分は幸せになったのか?」といった素朴な疑問が浮かんだ人が多かったと思います。それまでも時々同じような疑問が浮かんでも「疑問を持つと罰があたる、福運を消す」などとどうしようもなく恐怖心が湧いてきて、それ以上考えることをやめてしまっていたのも事実でしょう。それもこれもみんな知らないうちにマインドコントロールされていたんですね。今まではそうしたマインドコントロールで学会員を思考停止にさせてこれましたが、もうそんな時代は終わりました。

若い学会員はもちろん、長年創価にすべてを捧げてきた活動家さえ、創価が詐欺だということに気づいて、今ではどんどん脱会者が増えています。

このスレッドでは、このブログの原点である「創価学会は宗教ではなく詐欺だ」ということを、動かしがたい事実をもとにして、あらためてわかりやすく検証していきたいと思います。

そして、おそらく今はまだとても混乱のさなかにいらっしゃるであろう4人の学会員さんが、皆さんとの対話を通じて、少しでも心の平安を取り戻されるように願っています。

これから創価学会はこうなります

前スレで少し話しましたが、今回のテーマは『これから創価学会はこうなります』とさせていただきます。これまで皆さんが実際に見てきた創価学会の現実の姿を語っていただきました。その現実をもとに、これから先、創価学会がどのようになっていくかを、できるだけ具体的に予想して話をしていただけたらと思います。

ひとつはいちばんわかりやすいところで座談会はどうなるでしょうか?それから男子部の牙城会、創価班はどんな形になるでしょう。白蓮はどうなるでしょう?守る会(今もあるのか知りませんが)やその他の各種活動、あと女子部はもうすでに消息不明になっているようですよね。未来部も男女青年部がいないので消息不明みたいです(笑)。創価学会は何と言ってもやはり婦人部が支えていますよね。できるかぎり仕事をしないで、朝から晩まで勤行唱題と活動に入り浸ることができるのは婦人部ですからね。選挙で票をとるのも婦人部だし、新聞配ったり集金したり、日顕撲滅唱題会で人を呪い殺そうと本気で考えてるのも婦人部の皆さんです。壮年部は婦人部からお尻をひっぱたかれてしぶしぶやってる感じです。創価の活動家の半分以上が婦人部ではないでしょうか?知りませんけど(笑)

これから創価学会は間違いなく減り続けるでしょう。今回の沖縄県知事選では出口調査で公明党支持者の4人に1人が玉城氏に投票したと答えたそうですから、沖縄創価学会の崩壊は本土より早いかもしれません。ただし今も公明党は疑っても創価は正しい、あるいは今の創価はおかしくても池田は正しいなどと、自分を正当化したいがために現実を見誤っている学会員さんもまだまだたくさんいるでしょうから、沖縄創価学会完全崩壊はもうしばらくかかるでしょうね。とはいえ、創価学会はこれから大きくなることは絶対にありえないことは確かです。若い人は減り続けます。今さら創価に入るような若者がいるわけないですからね。座談会でさえ青年部は見かけないのですから、増えるわけないです。あと、今の壮年婦人部は当然歳をとります。いまの壮年婦人部が10年後には確実に減ります。すでに少ない青年部が10年後に組織の中心になり、10年後に半減した壮年婦人部と協議会や座談会をやるわけです。そのとき青年部がいると思いますか?未来部がいるでしょうか?

これから10年後には、創価学会員のほとんどが50歳から高齢者だけの集団になると思います。牙城会はすでに男子部だけでは成り立たなくなって、壮年部が手伝っているという話もありましたね。創価班はどうなんでしょう。男子部だけでやれてるんでしょうか?では10年後の牙城会や創価班はどんな様子なんでしょう。この10年で男女青年部はかなり減りましたよね。これから増える可能性があるのでしょうか?あるわけないのは明らかですね。

学会員が減っているのは日本人全体の少子化の影響とは比較にならない割合で減っていることは以前にも話をしました。また、創価は会員数を絶対に明かしませんが、地域の統監数と活動家数の割合でいえば、活動家数はおよそ4人に1人ぐらいのようです。このブログでもわかるように、活動家の方が脱会する割合が高いです。籍だけある非活の学会員はとくに困りもしないし疑問を感じることもないので脱会もしないようです。つまりこれからは活動家がより脱会していくだろうとおもわれます。

いま実際に創価の活動家って何人ぐらいいるんでしょうね。ここで言う活動家とは、座談会に出るくらいではなく、新聞啓蒙や折伏や家庭訪問するような学会員のことです。そうなると100万人ぐらいかなと私はおいます。10年後は半分の50万人ぐらいにはなってると思います。しかし活動家が50万人で創価学会は成り立つでしょうか?今現在、聖教新聞は550万部だそうです。活動家が50万人にらなったら聖教新聞の売り上げも半減するでしょう。財務の総額を少なくとも半分になります。少なくともと言うのは、10年後の学会員の年齢構成が高齢者が圧倒的に増えるので、出せる金額は今より確実に減るからです。

さて10年後に活動家が半分になって、集まるお金も半分以下になった創価学会が現実的にやっていってるかという話です。活動家が半分ですから公明党の得票数も単純に半分の350万票となりますから、議席も半分くらいにはなるでしょう。自民党は連立を組む意味がなくなります。たぶんその前に公明党は孤立するでしょう。自民党に見放された公明党は当然野党からも相手にされなくなります。政党としての存在意義がなくなるのです。今でこそ自民党の太鼓持ちとして存在していますが、票もとれない議席も少ない、野党からは嫌われている公明党は10年後にあるのかどうかも怪しいです。

また、10年後は確実に池田大作はこの世にいません。創価学会を率いる力は今の執行部にはありません。だから今でも「先生はお元気です」と言うしかないのです。8年半も姿を見せない90歳の池田が100歳まで誰にも見られずに「お元気です」はあり得ませんから、Xデーは近いですね。会憲とかで会長の権限をどんなに大きくしても、ダーハラ以下、他の最高幹部の誰だろうと学会員を率いる魅力のある人間はいません。なのでXデーをさかいに脱会者は急増するでしょう。

このように、これから創価の会員が増える要素は何ひとつありません。数は減り続け、残った会員も高齢者ばかりになり、活動自体も老人会さながらとなるでしょう。

私の予想では、創価は会員に事前の説明もなく突然解散すると思います。その前に創価に関係する企業が手を引くと思います。職員は突然解雇され、会員も突然ほったらかしになると思います。地方の副会長が矢面に立たされて吊るし上げられるでしょう。最高幹部はトンズラ、あるいは東電の幹部のように家族もろとも海外で悠々自適に暮らすのかもしれません。しばらくは日本中がパニックになると思います。日本中に被害者の会がたちあがり、しばらくはテレビのワイドショーは創価でもちきりになるでしょう。全国の閉鎖された会館には石が投げられ荒れ放題になると思います。日蓮正宗の信者は浮かれまくりでしょうね。

私の予想はざっとこんな感じです。いずれにせよ創価の崩壊は時間の問題であり、10年以内には創価が詐欺だったことが一般社会に知れ渡ることになると私は思います。

皆さんもこの機会に創価崩壊の具体的なシナリオを聞かせてください。もちろん部分的な話でかまいません。一日も早く創価崩壊の日が来るように、気づいた人から創価学会を静かに去りましょう。

自分のことを創価脳だったなあと思う瞬間

現役の創価学会員は創価の実情をいちばんわかっているはずなのに、創価が衰退しているという明らかな事実をなかなか認めようとはしません。この事実を事実として認められない限り、学会員は対話などできるわけがないと思います。

そこで、このブログでは『対話を求めて』というタイトルにあるように、対話ができることが覚醒の第一歩だと考えています。言いかえれば、創価が衰退している事実を事実として認められないのは、マインドコントロールされて、対話能力を奪われている状態だということです。創価脳は対話の意味すら理解できなくなっているということです。

だから座談会に参加している学会員が、その座談会の様子を見て「創価は衰退している」と思えないのは、もはやホラーだと思います。赤いリンゴを見て「このリンゴは黄色いですね」「そうですね、このリンゴはたしかに黄色いです」とみんなで喜んでいるようなものです。怖いです。その中には「あれ?これ自分としては赤く見えるんだけど、そんなことこの場では言えないな」と思っている人がかなりいる。でもそんなこと言ったら最後、このコミュニティにはおれなくなることがわかっているから口が裂けても言えない。創価とはそんな人たちの集まりだと思います。

創価脳かどうかを判断するとき「創価は衰退していると思いますか?」という質問にたいして、組織の中ではっきりとこの真実を言えるかどうか。あるいは創価ではない人たちに向かって「はい。創価学会は明らかに衰退しています」と、目の前の真実を認めることができるかどうかで判断できると思います。

同様に、原田会長が会員に向かってしきりに池田大作は元気だと言っていることを疑わないのも、創価脳であるという判断ができると思います。また池田が元気でないことぐらいわかっていながら、決してそのことを口にだせないのが創価学会という組織です。むしろそれは学会員同士でのタブーとしてまかり通っていることが問題だということに気づいていないのです。

問題は池田が本当に元気かどうかではなく、池田が元気だと思っているような顔をしなければいけない組織だという事実です。

8年半もの間、まったく動いている池田の姿を一般の会員が1人も見たことがないことも十分に奇妙なことですが、会員の誰もがそのことを疑問として口に出すことがないことのほうが何倍も奇妙で恐ろしさを感じます。

「池田先生はお元気ですと原田会長は言っていますが、あなたは本当にそう思いますか?」という質問で、創価脳かどうかを判断することができると思います。そのとき「聖教新聞にはちゃんと元気な先生の写真が載っている」とか「先生はすべてを私たちに託されたので、あえて姿を見せないんです」などと苦し紛れの言い訳しかしないのであれば創価脳です。屁理屈だとわかっていながらもそんな答えしかできないのが創価脳です。

このブログではそんな創価脳とは対話ができないことはわかりきっているので対話はしません。ただし少しでも創価に疑問を持てる学会員であれば、対話ができる可能性はありますから、喜んで対話をします。これがこのブログのスタンスです。

そこで、今回のテーマですが、

『自分のことを創価脳だったなあと思う瞬間』

とさせていただきます。

創価脳の方たちはもちろん自分が創価脳だなんて思いません。自分の頭で考えて正しい判断して、最高の信仰を実践していると信じています。それがまるごと自分の頭で考えていない結果であることに気がつきません。自分の頭で考えて、創価に疑問を抱けるようになって初めて覚醒し、自分の愚かさに気がついてショックを受けます。また、多少は創価に疑問を持っていても、自分がそこまでものごとを考えないようになっていたなんて思いもよらないんですよね。それは覚醒しなければ絶対に気づけないことは、みなさんが自分のこととして痛いどころの話ではないほどわかっていると思います。

そこで、あえて今回は創価脳だったあの頃を思い出しながら

『自分のことを創価脳だったなあと思う瞬間』

について率直に語っていただけるとありがたいと思います。つまりあの頃の自分では何を言われでも聞く耳を持たなかったなあといったことです。そして自分の頭で考えることがいかに大切なことなのかを、あらためて確認できる場にしたいと思います。

よろしくお願いします!

ここ1・2年ぐらいの座談会の様子を教えてください

みなさん、先日の800万アクセスの際には怒涛のお祝いコメントありがとうございました!

5日間で180のお祝いコメントと3万を超えるアクセスをいただきました。そして創価崩壊の足音が一段と近くに聞こえてきました。

それでも創価脳のみなさんたちは、創価は世界中に広まって、いよいよ世界広布新時代がやってきて、もうすぐ世界は創価の思想によって平和が訪れるなどとお花畑満載の人も多いようです。そこで、今回は創価学会の現実の姿をもう一度確認するスレッドにしていきたいと思います。

このブログにも1年前まではまだ普通に活動をしていた方もたくさんおられます。座談会や協議会に参加し、聖教新聞のノルマをどうやって穴埋めしていこうかと頭を悩ませておられた婦人部の方も多いのではないでしょうか。また同中に行っても来てるのは座談会と同じ老人たちばかりで、いつもの創価班が進行して、いつもの幹部が同じようなことを話すだけの状態だと思われます。私は10年以上も創価から離れていますので、今の創価の実態を知りませんから、私が見てきたようなことを言っても説得力がありません。なので、ここ1年ぐらいの座談会や協議会、同中に参加した方の話をできるだけ具体的に教えて欲しいのです。はたして、そこにダーハラ会長が言う世界広布新時代の到来が感じられる光景があるのかどうか。連日のように聖教新聞に載っているような幸せいっぱいの笑顔の学会員が本当にいるのかどうかを、実際に参加している方の話をしていただければ嬉しいです。それからすでに学会組織は来年の選挙態勢に突入しているということですので、みなさんが実際に学会員から選挙の話をどのようにされているのかも合わせて報告していただけるとありがたいです。

創価学会の現場は今どうなっているのか?

10年前とどう違っているのか?

20年前とどう違っているのか?

新しい会員が座談会に参加しているのか?

地区座に地元の男女青年部が何人ぐらいいるのか?

協議会ではどのような雰囲気なのか?

ぜひ教えていただけるとありがたいです。それは脱会した私たちにではなく、創価に少しでも疑問を持っている学会員さんに、創価学会の現実に気がついてもらうきっかけにして欲しいからです。

聖教新聞に載っているような男女青年部が嬉々として参加している笑顔いっぱいの座談会が自分の組織にもあるのかどうか考えて欲しいと思います。学会員はこの新人によって本当に幸せになっているのかどうか?学会員じゃない人とどこが違うのか?学会員じゃなくて幸せそうな人が近所にたくさんいるのはなぜなのか?自分はいつになったら学会員じゃない人より幸せになれるのか?幸せになる前に死んでいった学会員が周りにいっぱいいるのはどうしてなのか?

そんなことを考えるきっかけになればと思います。

どうかよろしくお願いします。

それからいつも言ってますが、スレッドのテーマは、あくまでみなさんからコメントをしてもらいやすくするためのものですので、テーマに関係のないことでも大歓迎です。

特に「新聞やめました」「脱会届け出しました」「脱会宣言しました」「アポなし訪問を撃退しました」など、嬉しい報告はどしどししてください。もうそれだけでとても勇気づけられる方がたくさんいらっしゃいます。些細なことでもいいんです。創価から一歩でも離れることができた話がたくさん集まれば集まるほど嬉しいです。今の創価学会の現実の姿を学会員さんに気づいてもらえれば素晴らしいと思います。

よろしくお願いします!