統一教会がいよいよ窮地に迫られているようですね。創価学会は火の粉が飛んできやしないかヒヤヒヤしているのではないでしょうか。報道を見て、統一教会の信者の家族や二世信者の苦悩が創価学会の会員さんとよく似ているのにあらめて驚きます。統一教会の場合は霊感商法によって信者以外にも被害を及ぼしたところが創価学会とは違うところなので、創価の場合はあくまで学会員を騙しぬくところが特徴だと言えるようです。統一教会の霊感商法のようにまともな精神状態の人を騙そうとするにはリスクがありすぎるのに対し、あらかじめ洗脳を仕掛けていきながら、学会員のあるレベルの思考停止を確認した上で騙しにかかるというところは、ある意味統一教会よりも姑息で用意周到な詐欺だなと思います。私が幼い頃の創価学会はとにかく何がなんでも折伏が第一で、折伏こそが揺るぎない幸せを掴む唯一の方法だなどと会員を煽っていました。あの頃の創価学会の異様な行動を統一教会は今でも続けていたんですね。統一教会は自民党に取り入った。創価学会も公明党を通じて自民党に取り入ったこともよく似ていると思います。
さて、創価脳さんたちは、創価学会と統一教会が同じような宗教詐欺だとは思えないようです。同じようなことをやっていながら、学会員さんは「統一教会なんかと一緒にするな」と憤るでしょう。でも現実に創価学会と統一教会がやっていることは信者を騙してお金を搾り取る。信者がどんなに不幸になろうとも知ったことではないというところです。要はどうやって信者からお金を搾り取るかが創価学会と統一教会の共通の目的だということです。それにはもちろん信者(会員)に気づかれないようにしなくてはいけない。だから信者(会員)が思考停止すよようなことを常に畳み掛けているんですね。創価の場合だと、日頃の勤行唱題に始まりいわゆる学会活動が洗脳活動ということです。しかしそれが通用しない時代になりました。それは一つはネットの普及が大きな原因の一つだと言えるでしょう。だからこそ創価は必死に「ネットは嘘ばかりだから見てはいけない」と会員に刷り込んできました。驚くことに統一教会でも全く同じことを信者に言ってきたんだそうです。真面目に騙されている学会員さんにとってネットは禁断の地でした。このブログにやってきて創価が詐欺だと気づいた学会員さんもたくさんおられますが、そんな方も最初は本当にビクビクしながらこのブログに辿り着き、そして信じられないような創価についての真実を知ることになり、やがてその衝撃を乗り越えて脱会された方がたくさんおられます。そうした方は「なんでこんな簡単な詐欺に気づかなかったんだろう」と口を揃えておっしゃいます。その答えは他でもない「騙されていたから」以外の何ものでもありません。そもそも創価に限らず詐欺ってそういうものですからね。
前スレでは「創価学会の現場」というテーマで、皆さんに色々と教えていただきました。ありがとうございました。東京でも聖教新聞の配達を一般企業が請け負うようになったということがわかりました。女子部が組織として機能しなくなり、婦人部に吸収されて女性部となったり、やはりもう聖教新聞を配るような学会員すらいなくなっているということなんですね。現役の学会員さんはこの事実をどのように受け止めているんでしょうね。いつか創価学会は世界中に広まる、つまり広宣流布という創価学会の目的を果たすことができると思っているのでしょうか。逆に言えば、そう思えないままに創価学会を信じる理由ってあるのでしょうか。座談会に行っても昔からの会員である老人しかいない。いちばん若いメンバーでも50代。女子部がいたのはもう10年以上も昔の話。未来部を面倒見る男女青年部の姿はない。白蓮も創価班も人がいなくて機能しない。幸いコロナで会合も少なくなったのでさほど困ってもいない。しかしこれから新来者(懐かしい笑)がやってくるなどもはやあり得ない。現役の学会員さんたちはそんな創価学会にどんな未来を見ているのか想像がつきません。
私は何度もこのブログで話をしてきたのですが、創価脳のままの兄が死んだことによって、創価学会に対する考えが随分と変わりました。それまでは何とか兄に気づいてもらいたいと思っていましたが、突然のステージ4のガンの宣告と、それから半年もしないでの他界に、私はある種の「見切り」をつけざるを得ない状況になりました。その「見切り」とは、「創価脳は身内であっても救えない」ということです。だからこのブログもゴタゴタを機に休止しました。休止した後は、もうブログを再開する気力はありませんでした。というか実を言うと、もうほとんどこのブログのことを忘れていたんです。頭の中から創価学会が見事に消え去っていました。ときどきこのブログのことを思い出したりもしましたが、また再開することなど考えられませんでした。それくらいプライベートなことが充実していたし、むしろきれいさっぱり忘れることができている自分が清々しく思えていました。この清々しさは今も同じです。
以前のように創価問題で苦しんでいる人の力になりたい!という情熱や使命感は、はっきり言ってありません。それは兄の死によって「それは他人がどうこうできないことなんだ」と思い知ったからだと思います。ネット上では、創価学会員と元創価学会で今は日蓮正宗の信徒であろう人たちが不毛な言い争いをしたり、そほど活動もしていないような学会員が脱会者と言い争いをしていたりするサイトがあったりしますが、そんなのほんとにどうでもいいと思えるようになりました。ほんとにどうでもいいんです。そんなところで言い争って何になるんでしょう。創価学会はもういよいよ衰退の足を早めるしかないのが現実だし、誰がどう足掻いても創価学会はそう遠くないうちに消滅します。もうすでにその兆候が明らかではないですか?年老いた学会員さんはもうそのまま創価学会を世界で唯一正しい宗教だと信じて、そして自分はその正しい信仰を貫き通したと信じたまま死んでいった方が幸せだと思います。下手に死ぬ前に覚醒したのでは悲しすぎるでしょう。「ああ、オレは創価の信心を一生貫き通すことができた。なんて幸せな人生だったんだ」と思いながら死んだ方がいいのではないでしょうか。
このブログでも結構な数の創価脳の方と対話を試みながらも、ほぼ全員と物別れに終わりました。今考えればそれは当然のことだったと思います。所詮、対話が成り立たない関係なんです。このブログで学んだことはこれです。創価脳とはどうあっても対話が成り立たない。今でも思い出すのは白いブランコさんです。創価に疑問を抱き、真っ当な気持ちで創価学会の改革を自分の組織からやっていこうと努力された現役支部長の白いブランコさん。その純粋な気持ちは悲しいほど伝わっていました。しかし肝心の組織の会員さんから見向きもされずに非活になられた。その後どうなったかはわかりませんが、それは今でも気になります。もう創価がおかしいということは気づいておられて、おかしいところは自分達で正していこうという、実に純粋かつ真面目で心優しい方だっただけに気になります。はたして白いブランコさんは創価学会が最初から詐欺集団だったという辛い現実を受け入れることができたのでしょうか。
もう一つこのブログをやってきた中で学んだことは、創価について自ら疑問に思えた人は覚醒できるということです。自ら疑問に思えたということは、創価について自分の頭で考えることができた人が覚醒できる。つまり目の前の自分の現実をありのままに受け入れることができた方は覚醒できるということを学ばせていただきました。これは創価に関することだけではなく、いろんなことにつけてのとても大切なことだと実感しています。たとえどんなに悲しいことや辛いことがあっても、まずその現実を受け止めようとすることはとても大切なのだと思います。もちろんそれが全てだとは言いません。ことによっては必ずしも真正面から受け入れずにやり過ごした方がいい場合もあるでしょう。人間、いつ死ぬかは誰にもわからないのですから、つまらないことにわざわざ関わっている理由も暇もないとも思います。とくに60歳を過ぎてからは強く思います。関わりたくない人とわざわざ関わって嫌な思いをする必要など人生において微塵もないと思うようになりました。「物事には全部理由がある」とか、「これはなるべくしてなったのだ」とか、ましては「これは自分の宿命なのだ」などといったことは、単に自分勝手な思い込みでしかないと思うようになりました。ひどく冷めた言い方なのかもしれませんが、言い換えればお花畑で浮かれた一生を過ごして終わることだけは避けたいと思うようになったのです。
私は個人的には「死んだら終わり」だと思っています。前世とか来世とか、その存在を証明できるものがないようなことを信じる気にはなりません。もし百歩、いや千歩譲って自分が死んでもこの生命が何らかの形で存在したりすることが証明できたとしても、今のこの自分の記憶はないのですから、今の自分にとっては「死んだら終わり」と同じことです。約10万年前に人間がこの地球に誕生して、死んだらどうなるかが証明されたことがないことを、たかだか100年も生きられない人間が前世だの来世だの永遠の生命だなどというのは勝手ですが、それはどう考えてもただの都合のいい思い込みでしかないと私は思っています。
無駄だとは思いますが、学会員さんに言いたいのは「現実を見たらどうでしょうか?」ということです。昔なら「何をもって創価学会が世界で唯一正しい宗教だと信じているのですか?」と問いかけていたところですが、今はもうそんな問いかけすらする気にはなりません。もっと言えば「勝手にやってください」といったところです。ただ、自分で気づけそうな人なら、そこをしっかりと自分で考えて突き詰めていってはいかがでしょうか?ということです。そこが一番大事なところだと私は思っています。ただ学会員さんは自分で考えている「つもり」でいますから、つまりは考えていないんです。そのことを私は自分の実体験から痛感させられました。人間、洗脳された状態では、自分が思考停止していることに気づけないんです。なぜなら思考停止しているからです(笑)。人間は思考停止から抜け出せて初めてそれまで思考停止していた自分に気づくことができます。だから学会員さんは余程のことがないと「自分は正しい」としか思えないで、そんな自分を客観的に捉えたり考え直したりすることができないんですね。そんな人に他人が何を言おうが話を受け入れ切れるはずがないことは当然といえば当然です。だから私は創価脳さんとの対話の試みは無駄だと判断したのでやめることにしました。
ちょっと考えただけでも、「私は法華経を信じます、と昔の中国語で書かれたカラーコピーに向かって、その通りに口に出して唱えたら、どんな願いも叶う」と頑なに信じている見ず知らずの人とどんな話をしろと言うのでしょう。
「あ〜なんかシニフィエも変わったなあ」と思ってる方もいらっしゃるかもしれません。確かに変わったと言えば変わったと思います。このブログを始めた頃の熱い思いは確かにないです。逆にすごく冷静になれたと思います。いわば、無駄に熱かったと思います。まだ50代初めでしたし(笑)
このブログにたどり着いて、脱会へと背中を押してくれたという方はたくさんいらっしゃいます。それは別に私のお陰なんかじゃないです。すでに創価に疑問を感じてこのブログに辿り着けたあなた自身が自分でやり遂げたことに他なりません。創価に疑問を感じた時点で脱会への道を自分で歩いて行かれたんです。その道の途中にたまたまこのブログに立ち寄ることがあったというだけだと思います。
これからもこのブログは続けるつもりです。ただ以前のような感じにはなりません。創価脳とのバトルがないのはもちろんです。これまでよりもブログの進行はゆっくりになると思います。
ただ、創価について疑問を感じていたり、創価が原因で苦しい立場にあり、自分ではどうしていいかわからないといった方の悩みに対しては、みなさんとその解決法を探っていけるようなコミュニティになれば嬉しいです。つまり、少しでも創価に疑問を感じることができる学会員さんに対しては全面的に相談に乗れるような場所になればと思っています。逆に完全創価脳さんたちは完全にシャットアウトしていきますので、みなさん、これからもよろしくお願いします。