自分で考えるということ

みなさん、貴重なコメントありがとうございます。
私は10年以上前に創価学会が他の新興宗教とひとつも変わらない詐欺だと気づいてから、このブログを立ち上げて、たくさんの創価に関わる人たちとの対話をしていく中で、創価学会が詐欺だということに気づいてもらうきっかけになればと続けてきました。おかげさまで数え切れないほどたくさんの方のお話を通じて、創価学会という詐欺団体が、どれだけの学会員やそのご家族の方たちを不幸にしてきたかという具体的な事実を明らかにできたと思っています。

そしてこのブログに辿り着いて「やっぱり創価学会はおかしかったんだ。正しい宗教なんかじゃなかったんだ」ということに自分で気がつくことができた結果、創価とキッパリと関係を切ることができた方もたくさんおられますし、家族との人間関係の中で、なかなか簡単には脱会できないで悩んでいらっしゃる方も相当数いらっしゃることもわかりました。


私のブログに対する基本的な考えは今も変わりませんが、兄が創価脳のままで亡くなった一昨年を境にして、創価学会に対する考えがかなり変わりました。考えと言っていいのかわかりませんが、これまでの10年間のような創価に対する危機感というか、興味と言えばいいのかわかりませんが、そうしたものが消えて、ある種の諦めのような気持ちが先行するようになり、以前ほど「創価は詐欺ですよ〜早く自分で気づいてくださ〜い!」といった必死さがなくなりました。それは創価をずっと信じて生きてきた人が、人から何か言われて考えを変えるくらいなら、とっくの昔に気づいてるだろうと思うようになりました。とうとう創価の現実を実の兄に気づかせることができないまま兄が亡くなってしまったことは、私にとってかなり大きなことだったのだろうと思います。

私がこのブログでたくさんの現役学会員さんとの対話を試みてきましたが、今はもうそんな気はありません。対話を呼びかけたところで、創価は詐欺だと言われて逆上するばかりで話にならない方がほとんどでした。10年続けたのに、まともな対話ができた現役学会員さんは一人だけでしたし、その方は結局は創価に疑問をもったがために組織から相手にされなくなって活動をやめてしまわれましたし、私との対話もしなくなりました。


今、私が思うことは、今この時点で創価に疑問を感じることができないのであれば、これからも一生創価を信じて生きていくしかない人たちなのではないかということであり、多くの一般の人たちがそうであるように、学会員さんはそっとしておいてあげたほうがいいのではないかということです。この私の学会員さんに対する心境の変化は大きいです。「シニフィエはあんなに熱く語ってきながら、自分の兄貴が創価のまま死んだからって諦めたのか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。そうかもしれません。事実、10年以上も創価のことは1日も忘れたことがなかった私が、たまにしか思い出さなくなったのです。そういう意味では私はようやく創価から卒業できたのだろうと思います。

去年、安倍首相殺害を機に統一教会の問題が一気に話題になりました。私にとって切実だった創価学会の問題が、統一教会の問題と同じような距離感に感じるようになりました。悪く言えば他人事。別の言い方をするならば、身内に創価関係者がいなくなったことで、創価のことを考えなくて済むようになったということです。もちろん創価のことで悩んでおられる方には、全力でアドバイスする気はありますが、創価を信じている人に対して、わざわざ何かを言う気はなくなりました。どうぞ思う存分、死ぬまで創価に騙されて続けていかれればいいではないですか、といった心境です。それが本人にとっての最高の幸せなのでしょうから、他人の私がとやかく言うようなことではありませからね。冷たく突き放したような言い方ですが、とはいえそれが現実なのだと思います。家族に創価脳がいらっしゃる方にとっては残酷なのかもしれません。しかしそれほど現実は厳しいのだということも事実だと思います。

これだけ多くの創価経験者が創価学会の現実をこれだけあからさまに述べても、創価脳にはひとつも入っていかないどころか、中には創価スイッチが入って殴り込みをかけてくる愚かな学会員が一部にいらっしゃるくらいです。でもほとんどの学会員さんは人を疑うことを知らない純粋な人たちだということもよくわかっています。すぐに信じてしまう人のよさに創価は目をつけてお金を騙しとり、多くの人生を崩壊させてきました。私の両親や兄もそうやって騙されて一生を終わりました。私も50歳まで騙されましたが、やっと自分で気づくことができて今に至ります。創価が詐欺だと気づくのは、誰かに言われてからではなく、自分で現実を見て、自分で考えることでしかありえないと今でははっきり言えます。だからこそ、両親も兄も気づかせることができなかったのだし、私が何を言ったところでどうなるものでもなかったのだと思います。それが今の正直な気持ちだし、諦めとも言えます。


このブログには、創価に疑問を持つ学会員さんが創価が詐欺だと気づける創価の現実の記述が山ほどあります。そういう意味ではとても貴重な記録になっていると思います。昔ほど頻繁な更新はないだろうし、昔ほど多くの方のコメントもありませんが、学会員さんが創価のことを考えるための貴重で確かな記述であると思われます。少しでも創価に疑問を持っている現役の学会員さんならば、このブログはその後の自分の人生が変わってしまうほどの内容になると思います。どこから読まれてもかまいません。自分が少しでも興味のあるタイトルがあれば、そこから読んでみることをおすすめします。ここには少なくとも数百人以上の創価経験者が語る現実の創価学会の姿があります。決して恐れることはありません。人間の幸せは目の前の現実に真摯に向き合うところから始まると私は信じています。そして創価学会は人に現実と向き合わせないようにして騙す手口で学会員さんを騙し続けてきたのです。自分で考えるという当たり前のように思えることが、じつは意外にもできずにいたという自分の現実に気づくという瞬間があると思います。

聖教新聞について思うこと

ちょっと驚いたのが、私が住んでいる地域もすでに聖教新聞の配達が一般の新聞社に委託されていたことがわかりました。聖教新聞配達の外部委託が始まったのが2020年5月で、茨城県、兵庫県、愛媛県、東京都(23区以外)に始まり、たしか北海道や神奈川県、和歌山県あたりも外部委託になった話までは聞いた気がしますが、私が住んでいる地域もすでに始まっているのであれば、この3年足らずの間にもう全国かなりの都道府県で創価学会は聖教新聞を配達する人さえいなくなっているんだと考えられます。皆さんの地元はいかがでしょうか?もしわかる方がいらっしゃいましたら教えてください。

聖教新聞の公式サイトからは、いつの間にか550万部という発行部数の数字が消えています。確かに数年前までは550万部という数字が掲載されていたのを覚えていますが、さすがに550万部は無理がありすぎだと思ったのでしょうか。ちなみに去年の10月時点で朝日新聞は約430万部、毎日新聞は約193万部、読売新聞は約686万部、産経新聞は約102万部、日本経済新聞は約175万部だそうですから、聖教新聞は朝日新聞よりも120万部も多い日本で2番目に多い新聞(実際は新聞ではなく会報)ということになりますからね。さて、聖教新聞の本当の発行部数はどれくらいなのしょう。創価学会員さんは知りません。一般の人ももちろん知りません。なのに発行部数が何部なのかも知らされないで聖教新聞には広告が掲載され、1日で数千万円の広告掲載料が創価学会に入ってきているのです。毎日数千万円ですよ。聖教新聞は新聞ではなく新興宗教の会報なので非課税ですから、創価学会は聖教新聞の売り上げがいくらだろうと税金を払わなくていいのと同時に、財務と同様にどれだけのお金が創価に入っているのかを知ることはできません。財務も聖教新聞もその他の出版物も創価にとっては金の成る木です。

しかしその金の成る木も痩せ細り、配達できる学会員すらいなくなったというのが現実です。それはそのまま学会員の数自体が減ってしまったということです。特に若い新入会員がほとんどいなくなったのも事実です。女子部が消滅したのも当然です。次は男子部が消滅するのも時間の問題です。

そういえば私の若い頃は指導部というのがあって、私の母は県レベルの指導長という役職でした。うろ覚えですが、たしか60歳を超えると指導部になったような気がしますから、今もあるとしたら、学会員の大半は指導部行きになるでしょうね。それはともかく、創価は会員数の激減をどうすることもできないでいるのが今の現実です。残された昔からの学会員は歳をとっていなくなります。もうどうあがいても創価学会員の数が増えることなど考えられません。550万部もウソなら、827万世帯もウソ。創価はなぜこんな見え透いたウソをつき続けなければならなかったのかというと、創価学会の目的が広宣流布だからです。創価学会は日蓮の教えを世界中に広めることが使命とされた法華経に記された地涌の菩薩の集まりだとしてきた以上、学会員が減ったり、聖教新聞の部数が減ったりしては、創価学会が地涌の菩薩の集まりではないことになってしまうからです。しかし現実に創価学会は1990年に日蓮正宗から破門されてから以降、目に見えて衰退しています。歳を重ねるごとにその衰退ぶりは加速度を増すばかりで、女子部の消滅も、聖教新聞配達の外部委託もその結果です。学会員流に言うなら原因結果です。ちなみに聖教新聞の発行部数が増えていたのは日蓮正宗から破門された1990年までで、その後は30年近く550万部と発表し続けてきましたが、数年前にいつのまにかその数字が公式サイトから消えていて、今は発行部数がわからないまま掲載広告を募集しています。

こうした創価学会の現実を学会員さんには是非向き合ってほしいと思います。死ぬまで創価に騙されて人生を終えるのか、辛い現実に向き合うことでまともな人生をとりもどすのか、すべては本人次第だと思います。

「なぜ自分は創価学会が正しいと信じてきたのだろう?」

ネット上で必死に創価を擁護している現役活動家さんたちが言っていることは「創価は正しい」ということを前提に主張していますが、そもそもその根拠のない「創価は正しい」が前提にできるわけがないことに対して何一つ言えていないことに気づいて欲しいものです。そして今の創価学会が何十年も衰退の一途を辿っているという紛れもない現実についても、何の説明もできないという現実に気づいて欲しいものですが、私はこのブログで何度もそうしたことについての質問をしてきましたが、誰一人まともな答えを返してくれた現役学会員さんはいませんでした。「創価学会は正しい」ということの理論も結果もない現実を前にしてでも、あるのは「ただ信じている」というこれだけです。これって統一教会やその他の新興宗教の信者さんとまるきり同じです。
折伏の話題が出ていますが、折伏って早い話が「強引に会員数を増やす学会活動」でした。私も学生部時代から男子部時代まで、どうにかして本流を決めなければと、半ば強迫観念に襲われながらの生活をしてきた時代もあります。何も知らない人を拠点に呼び出して、ぐるりと取り囲んで、入決カードを書くまで家に帰さないような、今なら一発で訴えられるようなことを平気でやっていました。今思えば、単にカモを増殖させられていただけの話ですが、まるで創価を広めることが自分が生まれてきた理由であり使命であるかのように思い込まされていました。そんな恐ろしい考えを物心つく前から、親や周りの人間から教え込まれ、未来部で研究発表とか大石寺での夏期講習会とかに参加させられて、完全に洗脳させられていた子供たちがたくさんいたんですよね。当時はまだ人権意識が緩かったですし、創価学会が社会問題になるにしても、それ以上の勢いで創価学会は会員を増やしていってました。しかし日蓮正宗から破門されたのを機に、創価はいろんなところから崩れてきました。まず創価学会は仏教とは何の関係もない新興宗教団体になった。しかし教義は日蓮正宗のまま。しかし日蓮正宗からは完全に破門されている。信仰の対象である本門の本尊の解釈が破綻してしまった。創価は日蓮正宗から破門されて、独自の本門の本尊の解釈を変更するのに24年もかかりました。その間、池田大作は全く姿を現さなくなり、会員は池田大作がどこで何をしているのかも知らされないまま今年で14年が経とうとしています。

このページでは「創価学会の歴史3」として、主に池田大作を中心に書こうとしましたが、池田大作があまりに酷いことをしてきたことを書かなければならないことに、あらためて呆れ返って、気分が悪くなって書く気がしなくなりました。もう池田大作は人前に姿も見せられない過去の人でしかないとも思います。いまさら池田大作についてあれこれ書いたところで何がどうなるものでもないとも思います。

そうです。もう創価学会は過去の黒歴史でしかないということに気がつきました。もちろん、今でも創価によってたくさんの現役学会員が騙され苦しんでいます。騙されていることもわからずに、現実には不幸になっています。でもそうした人たちは、いくら他人が言っても気づかないし、自分で気づく他はないということだと思います。要するに、騙されたまま残りの人生を生きるしかないという厳しい現実しかないし、そこから抜け出すには、自分で気づくしか手はないのだと思います。

先ほど言ったように、日蓮正宗から破門されたことによって、創価にとっての本門の本尊の解釈が成り立たなくなって24年経ってから、あろうことか日蓮正宗以外の本尊ならどれも功徳があるなどと言い出しました。それまで完全に否定していた日蓮系の本尊も創価と同じ力があるということにしたんです。じゃあ、それまでの24年間はどういう解釈をしていたのかは不明です。世界で唯一の本物の本尊が日蓮正宗の本尊であると言っていた創価が、その24年間のどの時点で日蓮正宗以外の本尊は本物に変わったのでしょう?こんなことひとつとっても、創価はまともなことが言えないまま、会員を騙し続けてきたんです。それはひたすら「創価学会は正しい」と会員に無条件に信じ込ませることで、なんとか昔からの学会員をキープすることでやってきました。だから今の創価学会は、そうした昔からの自分で何も考えない学会員だけが活動する組織となり、そして今はその学会員もみんな年老いていなくなっているというのが現実です。

本門の本尊がどうたらこうたらなんてどうでもいいんです。今、この時点で創価学会の現実がどうなのか?そしてこれから創価学会がどうなるのかを、客観的に判断することができれば、「創価学会は正しい」だなんて言えるわけがないんです。言えるということは創価の現実を見ることができない人間にさせられているという証拠でしかありません。

ほんのちょっとでもいいですから、「創価学会ってもうダメかもしれない」と思うようになったそこの学会員さん。今こそ自分の頭で考えて「創価学会は本当に正しいの?」「このまま創価学会を信じて活動したり、お金を出したりしていいの?」って不安になったのであれば、ぜひそのまましっかりと自分の頭で考え続けてください。考えるのが怖くなったら、このブログのコメント欄にその不安な思いを書いてみてください。あなたと同じような考えで、不安な気持ちになった人たちが、このブログには驚くほどたくさんいらっしゃいます。そして多くの学会員さんが今までの自分が何だったのかに気づかれてきました。「なぜ自分は創価学会が正しいと信じてきたのだろう?」こうした基本的な問いを自分に投げかけてみる。今のあなたにはそれが一番大事な時期であると、多くの創価経験者が言っておられますよ。ちょっとでも思うところがあれば、ぜひ、勇気を出してコメントしてみてください。いつでも待ってます。

創価学会の歴史 2

昔、創価は「どんな病気でも治る」という宣伝文句で会員を増やしていました。考えてみれば、この時点で立派な詐欺ですね(笑)。 もちろんその確かな根拠などありませんし、強いて言えば「題目を唱えると生命力がついて、どんな病気でも治る」という訳のわからないことを「根拠」にしていました。私の両親は草創期の幹部でしたので、私の実家には草創期の幹部たちが普通に出入りしていました。その幹部たちのほとんどが癌で亡くなりました。それも相当な苦しみ方でした。あれは何だったのかなと学会員は考えません。「これにはきっと何か意味がある」と自分に言い聞かせるだけで、それ以上は考えないようにしているのです。
例えば、病気になって、医者が処方した薬を飲んでもちっとも治らなかったら、その薬が自分には合わなかったんだとか、もしかしたらその医者が判断を誤ったのかもなどと考えるでしょう。でも学会員さんの場合、学会員さんが癌になって亡くなったとしても「これには何か深い訳がある」とか「今世で大聖人の信心に出会って罪障消滅をすることで使命を全うして、今頃は学会員さんの家に健康な体で生まれ変わっている」などと何の根拠もない適当なことを信じてしまいます。信じているというよりも思考停止しているんですよね。自分で考えようとしないから、どんなトンデモ話だろうが信じてしまえるんだと思います。
私の実家には戸田城聖の講演が録音されたレコードがありました。子どもの頃、何度か聞いたことがあります。今はYouTubeにも一部動画がアップされていますから、誰でも見ることができます。その内容は「この信心で病気と貧困は必ず解決する」というものでした。戸田は持ち前のユーモアを交えた話術で、病気と貧困に苦しんでいる一般市民を巧みに思考停止に引き込んでいました。戦後すぐから高度経済成長期にかけての多くの日本人が望んでいたものは、この病気と貧困の解決だったのではないでしょうか。戸田はこれに目をつけたのです。戸田だけではなく、当時は雨後の筍の如く怪しい新興宗教ができては消えていきました。その多くはお金目的のものでしたし、それは今も変わりません。戸田が当時の多くの新興宗教の教祖と違ったのは、創価学会は日蓮正宗の外護団体であるとしたことでした。つまり創価学会は新興宗教ではなく、仏教の本流を真に伝承し実践する団体だというふれ込みで信者を獲得していったところです。ご存知のように仏教の中でも日蓮正宗というのは異端中の異端の宗派です。なにしろ仏教の教祖であるはずの釈迦を否定するんですから、その時点で仏教ではありません。同じ日蓮系でも教祖の釈迦を否定しているのは日蓮正宗だけですから驚きです。だったら初めから仏教などとしない方がまだスジが通ります。今でこそ創価学会は日蓮正宗から破門されて、ただの新興宗教になっていますが、創価学会は日蓮正宗の外護団体としてスタートしたんですから、日蓮正宗から破門された時点で解散するのが当然でした。話が長くなるのでこの辺でやめておきますが(笑)、なにしろ戸田は信者(会員)獲得のために、当時の人々がいちばん食いつくであろう「病気と貧困の解決」というおいしい餌をばら撒くことで、爆発的に信者を増やしていきました。

さて、戸田城聖は牧口亡き後、創価教育学会を創価学会と改名し、宗教法人の認可を受け、信者からの寄付に税金がかからないようにし、収支を報告することもしないで良くなりました。出版、建設、投資、金融など事業にことごとく失敗し、莫大な借金を抱え込んでいた戸田にとって、収支報告も納税も免除される宗教法人の経営は、夢のような金儲けだったでしょう。同時に大蔵商事といった高利の貸金業も経営していた戸田の元に現れたのが若き池田大作でした。池田はその高利貸しの厳しい取り立て屋として大蔵商事の中でも頭角を現していきます。今思えば、戸田が小説人間革命を執筆して会員に読ませることで、こうした創価の黒歴史を隠し、捏造された美談を会員に信じ込ませるという手法を池田も踏襲していきました。同時に会員にそうした洗脳出版物を購入させることで金儲けができるという一石二鳥の宗教詐欺が池田へと受け継がれたのです。

創価学会の歴史1

みなさま、あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

年があらたまりましたので、このブログも新たな気持ちで更新していきたいと思います。

基本的にこのブログで言いたいことが「学会員さん、創価学会は詐欺ですから早く気づいてください」であるということに変わりません。しかし学会員さんにそんなことを言ったところで見向きもしないでしょうから、何をもって創価学会を詐欺だと断じるのかを、あらためて誰が読んでも分かりやすく述べていきたいと思っています。そして全ての学会員さんに向けてではなく、学会員さんの中でも、少しでも「創価学会はおかしいんじゃないか?」と自分で疑問に思っている方や、自分は信じてないし辞めたいのはやまやまだが、家族に強信者がいて辞めるに辞められないでいる創価2世・3世の方にとっても、創価が詐欺であることの確証が掴めるならば、思い切って辞めるという行動に出られるのではないかと思います。したがって、何がなんでも「創価学会は世界で唯一の正しい宗教であり、創価学会以外の宗教を信じるものは一人残らず不幸になる」と信じている信心強情な学会員さんには声がけしませんし、対話をするつもりはありません。

とはいえ、もう創価学会はかつての勢いは全くありません。日蓮正宗から破門されてからのここ30数年間は衰退する一方で、活動家が激減を続けるとともに、残っている活動家も高齢化が進み、かつてのように4者別に会合を開けるような組織の規模ではありませんし、活動家の多くが60歳以上の、ある意味社会をリタイアした方が中心でやるしかなくなってしまいましたので、これから先に創価学会がいくら世界平和などと言ったとしても、社会に及ぼす影響はほとんどなくなるものと思われます。創価学会の座談会が老人会のようだと言われても何も言い返すことができないほど創価学会は衰退と高齢化が顕著です。どんな言い訳をしようがそれが創価学会の現実です。この現実すら認めようとしない人との対話が成り立つわけがないということを、このブログを10年間続けてみて、はっきりと検証できたものと思っています。

そこで今年最初のテーマは「創価学会の歴史」ということにします。あらためて創価学会がどのような経緯でつくられ、どのように大きくなり、そしてどのように衰退してしまったのかということを大まかに確認することで「何を持って創価学会を詐欺だと断ずるのか」に対する答えの一つとしたいと思います。

みなさんご存知の通り、創価学会は当初「創価教育学会」という名称で、1930年に当時小学校の校長職であった牧口常三郎氏が戸田城聖氏と共につくったということになっている団体です。その名が示すように教職員ばかりの団体でした。日蓮正宗の信仰を中心にした教育者の育成を目的とした団体でした。この1930年に設立とありますが、この年に牧口常三郎氏が自書『創価教育学体系』の第1巻を刊行した年を創価教育学会発足の日にしようと後から決めたものであって、この年に発足したというわけではありません。その後、創価教育学会は1937年に日蓮正宗の信徒集団である法華講の一つとして認められたので、ここではじめて宗教的な色合いがはっきりしたと考えられ、実質的にはこれが創価学会の前身である創価教育学会が発足したといえると思われます。今でも創価学会は1930年創立としていますが、実際と異なることははっきりした事実です。

牧口常三郎氏は1927年に日蓮正宗に入信し、その3年後から『創価教育学体系』の書籍化を開始し、7年後に創価教育学会を設立します。その時、創価教育学会は日蓮正宗の信徒団体ではなく、牧口の価値論を実践する団体として、宗教団体という位置付けではないようです。それまで牧口常三郎は八紘一宇(国会で三原じゅん子参義院議員がドヤ顔で右翼思想の発言をしたことで話題になりましたね)で有名な田中智學に出会い、彼の右翼思想と日蓮の立正安国論の融合する考えに傾倒していたようです。牧口の日蓮正宗への傾倒は、それ以前の田中智學の影響が大きく、その後も軍人会館(現九段会館)で総会を開くなど右翼的な思想に日蓮正宗の教義を合体させたような思想集団であったことが伺われます。つまり、この創価教育学会時代は、詐欺集団ではなく、あくまで思想集団であったと思われます。

その後、日本が真珠湾攻撃を機に太平洋戦争を始め、日本国内でも軍部による思想統制が激しくなる中で、創価教育学会、特に牧口と戸田は独自の思想を曲げなかったことにより投獄されます。彼らの根底には右翼思想がありましたが、日蓮に傾倒していたために、神道を中心とした思想統制を進める軍の方針を受け入れることができませんでした。ここで勘違いしていけないのは、牧口や戸田を中心とした創価教育学会は、平和思想などではなかったということです。日蓮と右翼思想の合体を目指していた彼らにとって、日本が戦争に勝つためには神道ではなく日蓮正宗を国教としなければならないと言い張ったために、治安維持法違反と不敬罪で投獄されたのです。こうした事実を歪曲して、牧口や戸田があたかも平和主義を命をかけて貫いたかのように今の会員に広めている今の創価学会は本当にあざといですよね。

牧口は獄中で栄養失調と老衰で亡くなり、戸田は1945年に出獄してから翌年、創価教育学会を創価学会に名称を変えます。戦前に日本正学館という出版会社を立ち上げ、当時ベストセラーとなる算術の本を出版していましたが、戦後の教育指導要領にそぐわない内容だったこともあり経営が急激に悪化し倒産します。ちなみに日本正学館は学習参考書ばかりではなく、少年雑誌や、『ルビー』というタイトルのカストリ雑誌(エロ本)なども出版し、そのほか金融や証券業においても一定の実績を上げるようになり、創価教育学会の財政面も支援していたようです。

戦争が終結し、戸田が出獄してから出版事業を再開するもうまくいかず、さらに東京建設信用組合を立ち上げるも多額の負債を抱えたまま破綻します。戸田は経済的にかなり厳しい状況に陥ったようです。その時に戸田は創価教育学会を創価学会と改名し、5年後の1951年には創価学会2代会長に就任し、翌年の1952年に創価学会を宗教法人化します。つまり右翼思想と日蓮思想を合体させようとした思想集団である創価教育学会は、経済的に困窮した戸田の手によって宗教団体となったのです。

これはとても重要なところです。牧口は創価教育学会を宗教法人にするつもりはなかったのではないかと思います。戸田は牧口亡きあと、創価教育学会を創価学会と改名し、一般の人たちを日蓮正宗に入信させることで、大白蓮華や聖教新聞を購入させるという事業を展開します。聖教新聞や各種出版物を半ば強制的に会員に買わせる手法は、この時から今に至ります。また同時に大蔵商事といういわゆるサラ金の事業も展開し、そこに現れたのが若き池田大作であり、池田はサングラスに黒いコートという暴力団まがいの格好で高利貸しの冷徹な取り立て屋として頭角を現していきます。

まずは創価教育学会から創価学会に変わり、池田が登場するところまでの簡単な経緯を述べました。

ここでのポイントは、牧口は田中智學の右翼思想と日蓮の立正安国論の融合を目指す思想団体を目指していたのに対し、戸田は経済的な困窮の打開策として思想集団である創価教育学会を創価学会という宗教団体に衣替えをしたというところです。そして持ち前の出版事業のノウハウによって、創価学会の会員を増やすことが出版事業でも安定した莫大な収益を上げられると踏んだのだと思います。また戸田は創価学会2代会長として振る舞う中で、一般受けのする世界平和思想を取り込みました。もちろん戦前の牧口の思想とは全く異なりますし、日蓮の思想とも違います。それはいかに会員を増やして事業収益を上げていくかという戸田独特の手腕であったと思われます。

今回は以上です。学会員さんは小説人間革命に書かれていることが創価学会の真実の歴史だと信じているようですが、実際はそんなことはありません。今でも知ることのできる資料をもとに事実関係を確認すれば誰にでもわかることです。これだけを見ても、創価学会がいかに会員を都合よく誘導しているかが伺えますよね。

宗教2世として生まれて

私はこの10年続けてきたブログの中で、言いたいことのほとんどを書いてきたつもりです。それも何度も何度も同じことを繰り返し書いてきたので、これ以上に言いたいことや考えていることはありません。どんな質問をされても、たいていはこれまで書いた中に答えがあると思います。そして結論は「創価学会は詐欺ですから、騙されている学会員さんは早く自分で気づいてください」ということに尽きます。このようにこれ以上に言いたいことはありませんし、この結論に反対意見を出されても、私には議論する気もありません。「議論する気がないというのは卑怯だ」という方もいるかもしれません。しかしこの10年間のブログ運営の中で、どれだけ真摯に議論をしようとしても、まったく話にならなかったという経験があるので、議論する気になれなくなったのです。まず議論以前に、挨拶や自己紹介すらできない人間と議論ができるわけがありません。そういうことです。議論以前に人としてどうなの?ってことです(笑)。現実社会で通りすがりの人が突然挨拶もなく文句を言ってきたとしたら「あなた誰?」となるのは当然です。このこともこれまで何度も何度もブログの中で話をしてきましたが、結局は批判する人のほとんどがこうした人ばっかりだったので、今回ブログを再開する時には「ルール無視の方はこちらも無視させていただきます」ということにしました。

さて、このブログは以前と比べてとても穏やかになりました。ブログを再開したことを知らない方が多いからだと思いますし、おかげさまで変なコメントはほとんどありません。今回のように本当にたまにありはします。昔は一日に10も20もコメントをいただいて、それなりに賑やかでした。創価を批判されて怒り心頭の現役学会員さんから殴り込まれたときは、それこそアクセス数も1日に8,000とか多い時は1万超えたりしていましたが、今は300とか400程度です。私はそれでいいと思っています。たまに学会員であることに疲れたり疑問を持ったりした方がここにたどり着いて、その疲れや疑問の原因が何なのかに気づいてくれればいいと思っています。

私はこの10年間、このブログを通じて「創価学会は詐欺です」と言い続けてきました。なにも「創価学会員は詐欺師です」とは言っていません。「創価学会員は創価学会に騙されている被害者です」と言ってきました。しかし学会員さんはその違いを理解しようとはしません。というより「自分を詐欺師呼ばわりしている」と勘違いしたまま怒鳴り込んでくる学会員さんばかりでした。「創価学会は詐欺だ」という言葉を、自分が詐欺呼ばわりされていると勘違いして、異様に感情的になってこのブログに文句を言ってきた方が多かったです。それを私は「創価スイッチ」と名づけました。ちょっと言い方を変えてみます。「創価学会は統一教会と同じ詐欺だ」と、「統一教会と同じ」を付け足すと、もしかしたら理解できる学会員さんがいるかもしれないですね。いないか(笑)。学会員さんでも統一教会が詐欺だということは理解できるでしょう。ただ創価学会も統一教会もやっていることは基本的に変わりません。変わらないのに統一教会は間違っていて創価学会は正しいと信じているのが学会員さんです。私の友人に幸福の科学の信者がいるのですが、彼も幸福の科学は正しくて、創価学会は間違っていると信じています。創価学会のことはボロクソに言います。統一教会の友人はいませんが、おそらく統一教会の信者も統一教会は正しくて創価学会は間違ってると信じていて、創価学会のことをボロクソに言っていることでしょう。いわゆる目くそ鼻くそってやつですが「自分は正しくて他は間違い」というのは見事に同じです。なぜ同じなのか。同じ方法で騙されているからです。いわゆる新興宗教の全てとは言いませんが、私が知る限りの新興宗教は詐欺だと言っていいと思います。人の将来の不安につけ込んで、つまりは「お金を出せば幸せになれる。疑うと地獄に堕ちる。」と騙すやり口です。創価学会員は創価学会から言われたことをそのまま信じています。統一教会の信者は統一教会から言われたことをそのまま信じています。そのどちらも「お金を出せば幸せになれる。疑うと地獄に堕ちる。」と言われ、それをそのまま信じているのが創価学会の会員であり、統一教会の信者です。違いますか?なのに創価学会員は「創価学会だけが正しく統一教会なんてインチキだ」と創価学会から言われるままを信じていますし、統一教会の信者は「統一教会だけが正しくて、創価学会なんてインチキだ」と統一教会から言われるままを信じています。見事なくらい同じですよね。幸福の科学やその他のたいていの新興宗教はこれと同じように信者が騙され、お金を搾取され、教団はどこも莫大なお金をほしいままにしています。しかも税金がかかりません。税金がかからないというのは、それだけではなく、信者からどれだけお金を搾取しているのか教団側以外に誰も知る術がないということです。創価学会も毎年の財務がどれだけ集まったのかを発表したことはありません。通常、寄付を募ったら、どれだけの寄付が集まったのか、それを何に使ったのかを寄付をしてくれた人に報告するのは当然です。なのに毎年数百億円と予測される財務であるにもかかわらず、創価学会はただの一度も発表したことはありませんし、何に使ったのかの報告もありません、そして学会員もそのことをなんとも思わない。思ったりすると地獄に堕ちると脅されているからでしょう。だから創価学会はその莫大なお金を何に使おうが構わないし、どこに送ろうが何の規制もないということです。教団側にとって、これほどおいしい話はないのです。騙すだけ騙したお金は何にでも使えるし、国は手を出せない。全く恐ろしい話です。だから今だにたくさんの新興宗教がこれほど蔓延っているわけです。

そもそも「お金を出せば出すほど幸せになれる」と本気で信じること自体が狂っています。例えばこんなことを自分の子どもに真顔で言える親も狂っていると思います。しかし創価学会員も統一教会の信者もその他の新興宗教の信者も、そこを疑わないんです。今回の統一教会にまつわる報道でも、取り憑かれたようにお金を差し出す信者の様子がありました。そしてそんな狂った親を持つ不幸な子どもたちのことを「宗教2世」という名前で取り沙汰されるようになりました。ここまで世間を騒がせているにもかかわらず、それでも「お金を出せば幸せになれる」と信じて疑わない統一教会の信者と、毎年3桁だ4桁だと取り憑かれたようにお金を出す創価学会員の頭の中は同じでしょう。取り憑かれたようにではなく取り憑かれているんだと思います。何が幸せなのかわからなくなっているんですね。ちょっと冷静になって考えれば分かりそうなものですが、それができない精神状態になっている。そのことを取り憑かれていると表現しています。

安倍元首相銃殺事件を機に、宗教2世の問題がクローズアップされました。新興宗教による詐欺被害は、騙された被害者の問題とはまた別の宗教2世の問題があります。生まれた時から親によって洗脳されたり、自分の人生を著しく制限されたりしていることが、やっと社会問題として取り上げられるようになりました。私もその宗教2世の一人です。50歳になるまで創価の洗脳下に置かれてきました。創価2世、3世、4世もいます。さすがに4世ともなると創価学会自体が衰退しているので少ないようですが、人生を思うように生きられない2世3世がまだまだたくさんいます。宗教詐欺は直接騙される信者の問題とは別に、生まれた時から間違った価値観を強要される宗教2世の問題がもっときちんとクローズアップされるべきだと思います。

今回のテーマは「宗教2世として生まれて」とします。

統一教会の件で宗教2世の問題がクローズアップされるようにはなりましたが、その認識はほんのごく一部です。統一教会の問題も大変大きいとは思いますが、創価学会には桁違いの数の宗教2世という被害者がいるのが現実です。生まれた時から狂った考え方を頭に叩き込まれたがゆえに辛い人生を送らなければならなかった宗教2世の声を、もっと発信すべきだと私は思います。しかし子どもとして親を悪く言えないという問題も根深いと思います。親は子どもに良かれと思ってやったことも子どもとしてはよくわかるからです。悪いのは教団側であり、基本的には会員や信者は被害者だと思います。ただその被害者が加害者となって被害者を増やしている。これが宗教詐欺の現実です。

宗教2世の現実について、皆さんのお考えをお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

このブログのこれからについて

統一教会がいよいよ窮地に迫られているようですね。創価学会は火の粉が飛んできやしないかヒヤヒヤしているのではないでしょうか。報道を見て、統一教会の信者の家族や二世信者の苦悩が創価学会の会員さんとよく似ているのにあらめて驚きます。統一教会の場合は霊感商法によって信者以外にも被害を及ぼしたところが創価学会とは違うところなので、創価の場合はあくまで学会員を騙しぬくところが特徴だと言えるようです。統一教会の霊感商法のようにまともな精神状態の人を騙そうとするにはリスクがありすぎるのに対し、あらかじめ洗脳を仕掛けていきながら、学会員のあるレベルの思考停止を確認した上で騙しにかかるというところは、ある意味統一教会よりも姑息で用意周到な詐欺だなと思います。私が幼い頃の創価学会はとにかく何がなんでも折伏が第一で、折伏こそが揺るぎない幸せを掴む唯一の方法だなどと会員を煽っていました。あの頃の創価学会の異様な行動を統一教会は今でも続けていたんですね。統一教会は自民党に取り入った。創価学会も公明党を通じて自民党に取り入ったこともよく似ていると思います。

さて、創価脳さんたちは、創価学会と統一教会が同じような宗教詐欺だとは思えないようです。同じようなことをやっていながら、学会員さんは「統一教会なんかと一緒にするな」と憤るでしょう。でも現実に創価学会と統一教会がやっていることは信者を騙してお金を搾り取る。信者がどんなに不幸になろうとも知ったことではないというところです。要はどうやって信者からお金を搾り取るかが創価学会と統一教会の共通の目的だということです。それにはもちろん信者(会員)に気づかれないようにしなくてはいけない。だから信者(会員)が思考停止すよようなことを常に畳み掛けているんですね。創価の場合だと、日頃の勤行唱題に始まりいわゆる学会活動が洗脳活動ということです。しかしそれが通用しない時代になりました。それは一つはネットの普及が大きな原因の一つだと言えるでしょう。だからこそ創価は必死に「ネットは嘘ばかりだから見てはいけない」と会員に刷り込んできました。驚くことに統一教会でも全く同じことを信者に言ってきたんだそうです。真面目に騙されている学会員さんにとってネットは禁断の地でした。このブログにやってきて創価が詐欺だと気づいた学会員さんもたくさんおられますが、そんな方も最初は本当にビクビクしながらこのブログに辿り着き、そして信じられないような創価についての真実を知ることになり、やがてその衝撃を乗り越えて脱会された方がたくさんおられます。そうした方は「なんでこんな簡単な詐欺に気づかなかったんだろう」と口を揃えておっしゃいます。その答えは他でもない「騙されていたから」以外の何ものでもありません。そもそも創価に限らず詐欺ってそういうものですからね。

前スレでは「創価学会の現場」というテーマで、皆さんに色々と教えていただきました。ありがとうございました。東京でも聖教新聞の配達を一般企業が請け負うようになったということがわかりました。女子部が組織として機能しなくなり、婦人部に吸収されて女性部となったり、やはりもう聖教新聞を配るような学会員すらいなくなっているということなんですね。現役の学会員さんはこの事実をどのように受け止めているんでしょうね。いつか創価学会は世界中に広まる、つまり広宣流布という創価学会の目的を果たすことができると思っているのでしょうか。逆に言えば、そう思えないままに創価学会を信じる理由ってあるのでしょうか。座談会に行っても昔からの会員である老人しかいない。いちばん若いメンバーでも50代。女子部がいたのはもう10年以上も昔の話。未来部を面倒見る男女青年部の姿はない。白蓮も創価班も人がいなくて機能しない。幸いコロナで会合も少なくなったのでさほど困ってもいない。しかしこれから新来者(懐かしい笑)がやってくるなどもはやあり得ない。現役の学会員さんたちはそんな創価学会にどんな未来を見ているのか想像がつきません。

私は何度もこのブログで話をしてきたのですが、創価脳のままの兄が死んだことによって、創価学会に対する考えが随分と変わりました。それまでは何とか兄に気づいてもらいたいと思っていましたが、突然のステージ4のガンの宣告と、それから半年もしないでの他界に、私はある種の「見切り」をつけざるを得ない状況になりました。その「見切り」とは、「創価脳は身内であっても救えない」ということです。だからこのブログもゴタゴタを機に休止しました。休止した後は、もうブログを再開する気力はありませんでした。というか実を言うと、もうほとんどこのブログのことを忘れていたんです。頭の中から創価学会が見事に消え去っていました。ときどきこのブログのことを思い出したりもしましたが、また再開することなど考えられませんでした。それくらいプライベートなことが充実していたし、むしろきれいさっぱり忘れることができている自分が清々しく思えていました。この清々しさは今も同じです。

以前のように創価問題で苦しんでいる人の力になりたい!という情熱や使命感は、はっきり言ってありません。それは兄の死によって「それは他人がどうこうできないことなんだ」と思い知ったからだと思います。ネット上では、創価学会員と元創価学会で今は日蓮正宗の信徒であろう人たちが不毛な言い争いをしたり、そほど活動もしていないような学会員が脱会者と言い争いをしていたりするサイトがあったりしますが、そんなのほんとにどうでもいいと思えるようになりました。ほんとにどうでもいいんです。そんなところで言い争って何になるんでしょう。創価学会はもういよいよ衰退の足を早めるしかないのが現実だし、誰がどう足掻いても創価学会はそう遠くないうちに消滅します。もうすでにその兆候が明らかではないですか?年老いた学会員さんはもうそのまま創価学会を世界で唯一正しい宗教だと信じて、そして自分はその正しい信仰を貫き通したと信じたまま死んでいった方が幸せだと思います。下手に死ぬ前に覚醒したのでは悲しすぎるでしょう。「ああ、オレは創価の信心を一生貫き通すことができた。なんて幸せな人生だったんだ」と思いながら死んだ方がいいのではないでしょうか。

このブログでも結構な数の創価脳の方と対話を試みながらも、ほぼ全員と物別れに終わりました。今考えればそれは当然のことだったと思います。所詮、対話が成り立たない関係なんです。このブログで学んだことはこれです。創価脳とはどうあっても対話が成り立たない。今でも思い出すのは白いブランコさんです。創価に疑問を抱き、真っ当な気持ちで創価学会の改革を自分の組織からやっていこうと努力された現役支部長の白いブランコさん。その純粋な気持ちは悲しいほど伝わっていました。しかし肝心の組織の会員さんから見向きもされずに非活になられた。その後どうなったかはわかりませんが、それは今でも気になります。もう創価がおかしいということは気づいておられて、おかしいところは自分達で正していこうという、実に純粋かつ真面目で心優しい方だっただけに気になります。はたして白いブランコさんは創価学会が最初から詐欺集団だったという辛い現実を受け入れることができたのでしょうか。

もう一つこのブログをやってきた中で学んだことは、創価について自ら疑問に思えた人は覚醒できるということです。自ら疑問に思えたということは、創価について自分の頭で考えることができた人が覚醒できる。つまり目の前の自分の現実をありのままに受け入れることができた方は覚醒できるということを学ばせていただきました。これは創価に関することだけではなく、いろんなことにつけてのとても大切なことだと実感しています。たとえどんなに悲しいことや辛いことがあっても、まずその現実を受け止めようとすることはとても大切なのだと思います。もちろんそれが全てだとは言いません。ことによっては必ずしも真正面から受け入れずにやり過ごした方がいい場合もあるでしょう。人間、いつ死ぬかは誰にもわからないのですから、つまらないことにわざわざ関わっている理由も暇もないとも思います。とくに60歳を過ぎてからは強く思います。関わりたくない人とわざわざ関わって嫌な思いをする必要など人生において微塵もないと思うようになりました。「物事には全部理由がある」とか、「これはなるべくしてなったのだ」とか、ましては「これは自分の宿命なのだ」などといったことは、単に自分勝手な思い込みでしかないと思うようになりました。ひどく冷めた言い方なのかもしれませんが、言い換えればお花畑で浮かれた一生を過ごして終わることだけは避けたいと思うようになったのです。

私は個人的には「死んだら終わり」だと思っています。前世とか来世とか、その存在を証明できるものがないようなことを信じる気にはなりません。もし百歩、いや千歩譲って自分が死んでもこの生命が何らかの形で存在したりすることが証明できたとしても、今のこの自分の記憶はないのですから、今の自分にとっては「死んだら終わり」と同じことです。約10万年前に人間がこの地球に誕生して、死んだらどうなるかが証明されたことがないことを、たかだか100年も生きられない人間が前世だの来世だの永遠の生命だなどというのは勝手ですが、それはどう考えてもただの都合のいい思い込みでしかないと私は思っています。

無駄だとは思いますが、学会員さんに言いたいのは「現実を見たらどうでしょうか?」ということです。昔なら「何をもって創価学会が世界で唯一正しい宗教だと信じているのですか?」と問いかけていたところですが、今はもうそんな問いかけすらする気にはなりません。もっと言えば「勝手にやってください」といったところです。ただ、自分で気づけそうな人なら、そこをしっかりと自分で考えて突き詰めていってはいかがでしょうか?ということです。そこが一番大事なところだと私は思っています。ただ学会員さんは自分で考えている「つもり」でいますから、つまりは考えていないんです。そのことを私は自分の実体験から痛感させられました。人間、洗脳された状態では、自分が思考停止していることに気づけないんです。なぜなら思考停止しているからです(笑)。人間は思考停止から抜け出せて初めてそれまで思考停止していた自分に気づくことができます。だから学会員さんは余程のことがないと「自分は正しい」としか思えないで、そんな自分を客観的に捉えたり考え直したりすることができないんですね。そんな人に他人が何を言おうが話を受け入れ切れるはずがないことは当然といえば当然です。だから私は創価脳さんとの対話の試みは無駄だと判断したのでやめることにしました。

ちょっと考えただけでも、「私は法華経を信じます、と昔の中国語で書かれたカラーコピーに向かって、その通りに口に出して唱えたら、どんな願いも叶う」と頑なに信じている見ず知らずの人とどんな話をしろと言うのでしょう。

「あ〜なんかシニフィエも変わったなあ」と思ってる方もいらっしゃるかもしれません。確かに変わったと言えば変わったと思います。このブログを始めた頃の熱い思いは確かにないです。逆にすごく冷静になれたと思います。いわば、無駄に熱かったと思います。まだ50代初めでしたし(笑)

このブログにたどり着いて、脱会へと背中を押してくれたという方はたくさんいらっしゃいます。それは別に私のお陰なんかじゃないです。すでに創価に疑問を感じてこのブログに辿り着けたあなた自身が自分でやり遂げたことに他なりません。創価に疑問を感じた時点で脱会への道を自分で歩いて行かれたんです。その道の途中にたまたまこのブログに立ち寄ることがあったというだけだと思います。

これからもこのブログは続けるつもりです。ただ以前のような感じにはなりません。創価脳とのバトルがないのはもちろんです。これまでよりもブログの進行はゆっくりになると思います。

ただ、創価について疑問を感じていたり、創価が原因で苦しい立場にあり、自分ではどうしていいかわからないといった方の悩みに対しては、みなさんとその解決法を探っていけるようなコミュニティになれば嬉しいです。つまり、少しでも創価に疑問を感じることができる学会員さんに対しては全面的に相談に乗れるような場所になればと思っています。逆に完全創価脳さんたちは完全にシャットアウトしていきますので、みなさん、これからもよろしくお願いします。

創価学会の現場

おかげさまで、1年ぶりの突然の再開にも関わらず、ブログに来てくれる方がこんなにいらっしゃるとは思いませんでした。本当にありがとうございます。

連日、統一教会がメディアを騒がしています。ひとつ思うのは、テレビでの一部ワイドショーに出演している芸能人コメンテーターが統一教会について語る内容がとても稚拙なもので、こんなものを垂れ流すメディアもいかがなものかと思います。宗教2世がどのような被害を被ってきたかなど知りもしないで「信教の自由があるから何もできない」とか「もう統一教会のことは(問題にしなくて)いいんじゃないか」など、まったくの他人事の好き勝手な発言には呆れます。対して日本のカルト宗教問題に正面から挑んできた被害者救済弁護団やジャーナリストには頭が下がります。なのに芸能人の無責任なお喋りと同じステージで語らなければならない弁護士やジャーナリストは、それだけでも忸怩たる思いだろうと思います。

ちゃんと向き合ってきた弁護士やジャーナリストはこの問題を悪質な金銭詐欺事件と捉えているのに対し、内容をろくに知らない芸能人は宗教の問題だとしか考えきれないところに、こうしたおかしなワイドショーの状況がうまれているのだと思います。私もたまにテレビを見たりしますが、芸能人だけでなくタレント化した弁護士や俳優までもが的外れな発言をしているのを見て、テレビ業界がなんとも情けなく思います。

何度も言うように統一教会問題も創価問題もそうですが、これは宗教の問題ではなく金銭詐欺を行なっている犯罪者とその被害者の問題だということです。そして被害者である信者たちは同時に加害者になってしまうというところに、こうした宗教詐欺の特徴があります。何が問題なのかということが全く食い違っているのに同じステージで議論ができるわけがないんです。それはこのブログでも展開してきた創価脳との対話の試みがことごとく破綻してきたのも同じ要因だと思われます。創価擁護者は創価の実態を見る客観的な視点を持てないまま、創価の批判者を感情的に批判する。実態を把握することもなくテレビ番組で勝手なことを言うタレントとよく似ています。

さて、このブログを再開してからちょうどひと月が経ちましたので更新します。以前のように一つのテーマを出しますが、テーマに沿わないコメントも大歓迎です。テーマを設定するのは、みなさんがコメントしやすくするための一つの方法だとお考えください。

それでは、今回のテーマは「創価学会の現場」です。

私は脱会して10年経ちますので、今の実際の創価の現場がどんな状況なのか知りません。以前もこのブログで多くの方に教えていただきましたが、今回、あらためて座談会をはじめ、男子部、女性部、壮年部などの会合がどんな感じなのか。また創価班、牙城会などの人材グループの実情を知っておられる方がいらっしゃいましたら教えていただきたいと思います。一部の県では聖教新聞の配達や集金などの業務を一般の業者が請け負うようになったそうですが、まだ聖教新聞を配達員さんが配っている地域での配達部数がどれくらい減っているのかなども教えていただければと思います。コロナ禍で座談会や各種会合などがどうなっているのかも教えていただけるとありがたいですし、先の参院選での学会員による選挙活動もどんな感じだったのでしょう。私が住んでいる地域のいくつかの会館の前を通っても、少なくともこの2年間、ほとんど会合が行われている気配を見たことがありません。それから、池田氏はあいかわらず会員の前に姿を見せることはないんですよね。創価はいつまで「先生はお元気です」という明らかな嘘を会員につきとおすのでしょうね。

ということで、今回のテーマは「創価学会の現場」ということで、できればコロナ後の創価の実態を実際に知っておられる方に話していただければと思います。よろしくお願いします。

再開します。

みなさま、ご無沙汰しております。

みなさまと言っても、去年の9月から閉鎖しているこのブログを見ている方がどれだけおられるのかわかりませんが、とりあえずお久しぶりです。

去年の9月に何の説明もなく閉じたので、何かあったんじゃないかと心配してくださった方も少なからずおられたことは、ある筋から聞き及んでおりました。ご心配をおかけした方に対しては、大変申し訳なく思っております。結論から言うと、ブログ閉鎖の理由は、単にやる気がなくなったということです。特に何かがあったということでは全くありませんのでご安心ください。

なのになぜ再び公開したのかと言いますと、統一教会の事件がきっかけです。閉鎖する前にも少しだけ書きましたが、創価脳だった私の兄が創価脳のまま癌で亡くなったことで、このブログを続けていく気が急速になくなってしまったことがいちばん大きいです。またこのブログの文章が明らかな悪意をもって無断使用されたことも、ブログ閉鎖のきっかけの一つとなりましたが、その件に関しては相手にするのもあまりにバカバカしく時間の無駄だと感じましたので、この際閉鎖することに決めました。閉鎖後は自分でも驚いたのですが、このブログの存在すら忘れてしまうほど、創価問題そのものに興味を持てなくなっていました。そしてそれはそれでいいかなと思っておりました。これまでこのブログでもさんざん述べてきたように、創価学会は誰が見ても衰退の一途を辿るしかない状況だし、私も創価学会の崩壊はここ10年で決定的なものになると感じています。もうこのブログがあろうとなかろうと、創価学会の崩壊は時間の問題であると思っていますので、これ以上ブログ更新に自分の時間を割く理由も無くなったと思いました。

ところが、6月の安倍元首相銃殺事件に端を発した統一教会問題が世間を騒がせるようになり、これは統一教会に限った問題ではなく、あるいは統一教会以上の被害者を出している創価学会にも及んでくることではないかと思った次第です。つまり、統一教会の問題をそれだけで終わらせるにはもったいないと思いました。統一教会の問題が連日報道されている中で、創価学会の上層部は飛び火してこないか気が気ではないでしょうし、実際にメディアも多少は注目しているようです。公明党の山口代表が統一教会の問題に関しては明言を避けていることも取り上げられていますね。自民党も公明党も、どうにかしてこの問題がうやむやになっていくことを静かに願っているのが目に見えるようです。

メディアが取り上げる統一教会の論点が、政治と宗教から二世問題にシフトしてきたようにも思います。統一教会の場合の2世問題とは、合同結婚式で強制的に結婚させられた結果生まれたいわゆる「祝福2世」と呼ばれる子どもたちの生きづらさや、信教の自由という基本的人権がないという実態です。創価学会の場合は「福子(ふくし)」問題ですね。宗教学者の島田裕巳氏の著作『親が創価学会』にもあるように、親が子供の意志を無視して洗脳してしまうという人権無視の恐ろしい実態は、このブログを見てくださった方はよくご存知のことと思います。私も創価2世で50歳になるまで創価学会が詐欺であることに気づかなかったのですが、今、苦しんでいるのが3世、あるいは4世にまで及んでいるということです。

そこで、こうしてこのブログを再開した大きな理由としては、創価学会も統一教会以上に2世3世の人権問題が存在することを、少しでも多くの人に知っていただける機会になればと思った次第です。ネット社会の到来により、もはや昔から騙され続けている老人ばかりの集まりとなった創価学会は遅かれ早かれ崩壊することは明らかです。問題はまだ若い3世4世の学会員が存在するという事実です。統一教会のあきれた実態がここまで明らかになった今が、そのまま創価学会の闇の部分を照らしだす光明になってくれればと切に願っています。

ということで、私としてはガチガチの創価脳のお年寄りにどうこう言う気はもうありませんし、言っても無駄なことも体験的によくわかります。残念ですがこれはもう仕方のないことだと思います。私としては創価脳のまま死んでいった兄のことがあって諦めました。創価学会は世界で唯一正しい宗教だと信じて身も心もお金も捧げてしまった人に「じつはあなたの人生は間違っていたんですよ」と面と向かって言うほど残酷なことはできませんでした。もちろん知ってて言わなかったことに対する無念さを私は死ぬまで背負っていかなくてはならないと覚悟しています。しかしまだ若い人はこれからいくらでも人生を取り戻すことができると思います。このブログでは、これからも自分の体験や事実に基づいた意見を、かつては同じように創価を信じてきた者同士の対話を通じて確認することで、生まれてすぐから創価を信じるしかない人生を歩まされた3世4世の方たちへ向けて、人生を再出発させるきっかけとなる情報を発信していければと思っています。

そこで、これまでとは違ったルールとして、

・創価学会の正しい間違いを議論する場ではない

・あくまで自分の体験や事実をもとにした発言であること

・ルール違反のコメントは最初からシャットアウトする

この3点を基本にコメントを受け付けるようにします。

ネット上のコミュニケーションとしてSNSが主流になった今、ブログという形式にどれだけのアクセスがあるのかわかりませんが、特に創価学会3世4世の方で、創価学会に少しでもモヤモヤしている方。どうぞ遠慮なくそのモヤモヤをコメント欄に書き込んでみてください。また「え?創価学会って衰退してるんですか?とてもそうは思えないんですけど」といった素朴な疑問に対しても納得のできる回答を差し上げられると思います。

ゼロさんと曽根さんのブログ休止について

とてもお世話になったゼロさんのブログ『創価崩壊の鐘』が突然クローズし、曽根俊矢さんのブログも休止されました。どういう経緯があったのかはわかりません。ゼロさんにはこのブログで起こったゴタゴタを解決するために大変なご尽力をいただきました。本当に感謝しています。また曽根俊矢さんも、ご自分では常に謙遜されてはいましたが、創価問題に対する鋭い視点と素晴らしい語彙力で創価の矛盾をズバリ突いておられましたので、今回の突然のブログ休止には驚きました。特にゼロさんのブログの内容の客観性や説得力の素晴らしさについて書こうとしていたところだけに、突然の閉鎖という事態に一体何があったのだろうと考えずにはおれません。また曽根さんもご自分の仕事についての一途な思いや、ほのぼのとした家族愛を秀逸な文章で綴られていたので、やはり突然の休止の理由が全くわからないままでいます。同じ時期にお二人の周辺に何があったのか、創価関連のブログから離れていた私にとっては知る由もありません。そこで思い当たる場所をいくつか訪れたところ、はっきりとはわかりませんが、どうもこのブログで起こったゴタゴタが別の場所でくすぶり炎上しているのではないかと思えるところがありました。詳しいことはわかりませんが、どうやらそういうことかもしれないと思った次第です。このブログを休止にした直接の原因となった文章パクリ事件は、ゼロさんのご尽力によって収まったと思っていたので、それ以上私から蒸し返すことはしないでいましたし、前スレでも書いたように、創価問題自体に関しても興味が薄れてしまったこともあり、自分の中では過去のことになっていました。ですから創価関連についてはときどきゼロさんと曽根さんのブログを読むくらいで、それ以外の場所には全く立ち寄ることがなくなっていただけに、お二人のブログの休止は思いもかけないことでした。それにしてもこのお二人の事ですから、よほどのことがあってのことなんだろうと心配しています。私のブログで起こったことが原因で、私の知らないところでお二人がブログを閉じなければならないほどのトラブルが続いていたとしたら、本当に申し訳なく思います。

いわゆる創価脳の思考回路というのは、はっきり言ってしまえば異常です。狂っています。特に創価批判に関しての思考回路はとてもまともだとは言えません。それはかつての自分もそうだったからこそ、そして創価脳から脱却できた今だからこそ、こうしてはっきりと「異常だ」と言えます。これは学会員さんを罵倒しているのではなく、学会員さんはそうなるまで精神を支配されてしまった被害者だということを述べています。しかし残念ながらいわゆる創価脳と私が呼んでいる学会員さんは、私のこうした指摘を単なる人格否定だとしか受け止めることができなくて、血相を変えて批判されます。「いやいや、そうじゃなくて」とどんなに説明しても、そんなことが理解できるようなメンタルではないのが創価脳さんです。だからこそあえて「異常だ」ときつい言い方をします。それでも、創価脳といえどもこのブログに来られた方には、できるだけ話が通じるように、微に入り細に入り、自分でも嫌になるくらい詳細に言葉を選びながら説明しているつもりなのですが、どうにもこうにも理解を得られることはありませんでした。そしてそれは想像を絶するほどのストレスが襲いかかることは、私もこのブログを運営してきた経験があるがゆえにわかる気がします。私もきっと同じような経験をしてきたのではないかと思います。私も何度かこのブログを休止しました。それは決まって絶望的なディスコミュニケーションに襲われたときです。「なんで普通に話してる簡単な日本語がわからないんだろう?」とか「なんで素朴な質問に答えてくれないんだろう?」という忸怩たる思いが積み重なったときに、ある時点で限界に到達するんです。

先に述べたお二人の突然のブログ休止も、もしかしたらこの絶望的なディスコミュニケーションによるものなのではないかと勝手に想像しています。

このように、創価脳との対話は成立しないというのが、この10年間実際に創価脳との対話を試みた私の結論です。いつも言ってきた「自分で気づかなければわからない」というのもそうした気づきの一つです。そもそも創価脳は対話のステージに立てないということです。つまり人の話を聞く気がないというのが一番の原因です。それはもともとその人の素養ではなく、創価を信じる過程で植えつけられる排他的思考が「創価以外の人の話を聞かなくなる」というものだからでしょう。そしてもう一つ気づいたのは、創価批判ブログに執拗に批判をしてくる創価脳の人たちは、熱心な学会員というわけではなく、学会員ではあってもそれほど真面目な活動家ではない場合がほとんどだということです。またすでに創価に疑問を感じて脱会した人であっても、極端な思い込みはそのままに見ず知らずの人を批判するような人がネットという場を手に入れて、あたりかまわず自己主張をする人もいるということがわかりました。私がブログを休止して今もコメント欄を閉じている理由の一つは、このようなわけのわからない人と関わりたくないという気持ちもあったからです。今はもう、こうした話の通じない、なおかつさほど創価を信じてもいない人と議論しても意味はないと思うようになりました。私がブログ上で繰り返してきた「創価は宗教ではなく詐欺だ」という言葉を目にした中途半端な学会員、あるいは脱会者が、自分のこれまでの人生を否定されたかのように思い込んだ結果の怒りなのだと思います。