創価が宗教ではないことは誰にでもわかります

創価学会の会員さんは、創価学会だけが正しいと思い込んでいます。それは日蓮が末法の衆生を救うために現れた「御本仏」であり、その御本仏の教えを唯一実行しているのが創価学会だからだという理屈です。そもそも「御本仏」という概念が存在するという時点で、仏教なのか?という疑問を持たれて当然なのです。これじゃまるで救世主を待ちわびるユダヤ教であり、イエスを神の子であり救世主だとする一神教のキリスト教に近い考え方だと言えます。そんなとても仏教とは程遠い概念がまかり通っているのが日蓮正宗であり創価学会です。

末法の御本仏が衆生救済のために遺した三大秘法を継承しているのが創価学会であり、その三大秘法を広めている学会員だけが幸せになるのは当然だという理由です。そしてそんな創価学会を批判したり脱会者を増やそうとする行動をする私のような人間は無間地獄に堕ちると学会員さんは思っています。残念ながら私は地獄になど堕ちていません(笑)

このところ「宗教ってなんだろう?」というテーマで、宗教についての一般的な史実をざっと書いてきました。まだギリシャ哲学からユダヤ教、キリスト教、イスラム教についての話までには至っていませんし、中国の思想家や宗教の話もしていません。これからぼちぼち気が向いたらと思っていますが、その前に話しておきたいことがあります。私が常々「創価学会は宗教ではなく詐欺だ」と言っていることを「いくらなんでもそこまで言うのは極端なんではないか」と思う人もいるでしょう。学会員さんはもちろん、創価のことを知らない一般の人たちも「そこまでは言いすぎなんじゃないか」と思うようです。それは創価にまともに関わったことがなければ、そう思うのも当然だと思います。しかし、実際に何十年も創価学会の組織の中で創価の実態を見てきた人間であればあるほど「創価学会は宗教ではなく詐欺だ」という強い確信を持つに至ります。創価に疑問を持った学会員さんがこのブログにたどり着いて、恐る恐る読んでみたら「創価は宗教じゃない」どころか「とんでもなく悪質な詐欺集団だ」などと書いてあるのを見たら「いくらなんでもそれは言い過ぎだろ」と思う気持ちもわかりますが、そのうちブログを読み進むにつれて、「確かに創価は宗教じゃないし、詐欺かもしれない」と考えが変わる学会員さんが続出しました。その結果、多くの学会員さんが自分のおかれた現実、自分がやってきたことのおかしさに気がついて、脱会するに至ってきました。また自分だけが脱会することで家族との関係悪化が懸念されるために、脱会にまではいけていない方が苦しんでいらっしゃいます。

はじめに「創価学会の会員さんは、創価学会だけが正しいと思い込んでいます。」と書きましたが、人間が作り出してきた様々な宗教がある中で「創価学会だけが世界で唯一の正しい宗教だ」と自分が信じていることの不自然さに気づいてもらうには、世界の宗教がどのような経緯で変化してきて今に至っているのかということを、ざっとでもいいから理解することができれば、「創価学会だけが世界で唯一の正しい宗教だ」と信じている自分の考えが、いかに特殊なことであり、その信じる根拠がないにもかかわらず、いつの間にか完全に信じ切ってしまっている自分の不自然さに気が付いてもらえればという考えで、世界の宗教についての話を書いています。

前回も書きましたが、「この世に不変の真理とか実体などない」というのが釈迦の悟りです。「人間の不幸の原因はそんなものがあると信じるからだ」というのが仏教の基本的な考え方でした。それが日本に伝わるまでに様々に変化したあげくの、まるでキリスト教のような一神教の教えに変わったのが日蓮の教えであり、中でも日蓮本仏論というとんでもないことを言い出したのが日蓮正宗であり、その日蓮正宗のおすがり信仰をうまいこと利用して会員からお金を騙し取ってきたのが創価学会です。創価が宗教ではなく詐欺だということは、一般的な宗教についての概要と、創価学会の現実を見比べれば、誰だってわかることなんですよね。

ということで、次回は元々はユダヤ教から始まったキリスト教、イスラム教についての一般的な史実についてざっと話をしていきます。

紀元前500年代の世界同時に爆発した知性

ちょうど釈迦が悟りを開いたとされる時期、紀元前500年代前後に、世界中で知の爆発と言われる現象が起きました。中国の孔子は釈迦とほぼ同年代に生きた人物です。それからギリシャではタレス、ピュタゴラス、パルメニデス、ヘラクレイトスといった哲学者が、いわゆる哲学という学問を展開し、そのすぐ後にソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシャ哲学の黄金期を迎えることになります。一般的にはソクラテスからギリシャ哲学が始まったみたいな言い方をされますが、じつはその前にしっかりと素地が形成されているんですね。なぜそれが紀元前5世紀の頃なのかというと、ちょうど世界中に鉄器が普及し、地球の温暖化も始まり農業が定着するんです。すると働かなくてもいい人間が多く出てくるようになります。で、彼らは何をするかというと考え事をするようになるんですね。そうやって紀元前5世紀前後に世界中で知の爆発という現象が起こり、ブッダ、孔子、一連のギリシャ哲学者が世界についてのいろんなことを語り継いで行くようになったんですね。

およそ25万年前に私たちの祖先であるホモ・サピエンスが東アフリカに登場しました。もちろん当初は猿と変わらない狩猟生活を送っていましたが、次第にコミュニケーションのための言語機能が発達して行き、言語を使うようになります。そして人類は東アフリカから移動を始めます。その理由は食料が少なくなったからと言われていますが、実際のところははっきりとはわかりません。なにしろ何十万年も昔のことですからね。とにかく人類は東アフリカで生まれたことはわかっています。今の人間も全員が東アフリカにいたミトコンドリア・イブにたどり着くんです。これが科学的に証明されたことで、キリスト教の聖書の物語は嘘だということがはっきりしました。はっきりしましたが、だからと言ってキリスト教徒が少なくなったわけではありません。ユダヤ教もイスラム教も同じ神を信仰している宗教ですから、神が人間を作ったことがウソだったとわかっても信仰を捨てることはありません。それはそれ、これはこれなんですね。だから学会員さんが法華経が釈迦の説いたものではないとわかっても「それがどうした」と気にしないのも無理はありません。

あ、話が逸れました。すみません。人類が生まれて言葉を使うようになり宗教を持つに至るまでに25万年もの年月がかかったんです。さらに知の爆発と言われたものから2500年しか経っていない。25万年と2500年の差って、もはや誤差の範疇ですよ。この2500年の間に人間はこの宇宙がどうやら138億年前にできたものだということがようやくわかってきたんです。138億年の宇宙の歴史からみれば、「日蓮こそ末法の御本仏だ」「この曼荼羅にお題目を唱えたらどんな願いでも叶う」といったことを本気で信じている学会員さんって、随分おめでたいよなあと思うのは私だけでしょうか。

確かに釈迦は2500年も前に「この世に絶対と言える真実などない」と悟ったのはすごいと思います。現代の量子力学の最先端の研究成果に近いことを、瞑想によって悟っていたんですから。もし釈迦の悟りがそのまま伝承され広がっていったとしたら、人間はもっと高度な社会を作りあげていたような気もしますが、現実には釈迦の死後に仏教教団はすぐに仲間割れをし、分裂を繰り返し、釈迦の教えとは全く違うことを広め始めて、挙げ句の果てはヒンドゥ教に圧倒されて消滅することになります。むしろそのことも釈迦の言った通りのことが起こったに過ぎないのかもしれません。じつは釈迦の時代に、釈迦と同じような考えを持った哲学者が中国に現れました。老子です。老子に関しては聞けば聞くほど謎だらけの不思議な人間で、結局誰にも言わずにどこかに消えてしまったということです。しかしこの老子もどうやら「この世に絶対と言える真実などない」ということを悟っていたらしいのです。数々のとんでもない伝説がありますので、興味のある方は調べてみるといいですよ。

一方、ギリシャでも知の爆発が起こります。最初は紀元前600年頃のタレスが言い始めた「万物の根源は水である」というところから、いわゆる西洋哲学がスタートします。彼を筆頭に、様々な哲学者がこの世界がどうやってできているかとか、人はどうやったら幸せになれるかなどを議論し、やがてアリストテレスという知の巨人を生み出すことになります。注目すべきはヘラクレイトス。やはり紀元前5世紀。彼の主張は「万物は流転する」です。つまり「この世に絶対と言える真実などない」です。それからもう1人特筆すべきギリシャの哲学者にデモクリトスがいます。彼は「万物は原子でできている」と主張したんです。万物は原子でできているから、その原子の配列が変われば全ては変化するという考えです。これは今でも通用する科学の基本的な考えを2500年前に考えついたのがデモクリトスです。顕微鏡もパソコンもない時代に、よくまあそこまで物事を見極める頭脳があったことはすごいですよね。ちなみにこの考えは、残念ながらあの時代には証明することができなかったので、なんとニュートンが原子の考え方を発表するまでの2000年間も世にでることはありませんでした。証明ができなかったこともさることながら、その後にキリスト教が広まったために、彼の考えがキリスト教の教えに反するということで日の目を見なかったという悲しい運命だったんですね。残念ながらキリスト教は人類の科学の進歩を2000年も送らせてしまったと言えます。

紀元前5世紀のインドの釈迦、中国の老子、ギリシャのヘラクレイトス。ほぼ同時に「この世に絶対と言える真実などない」とこの世界がどういうものかを見極めた天才が現れたんですね。しかし残念ながら、彼らの考えは正しく継承されることなく埋没してしまった。そして2000年以上も経ってから科学の台頭とともに彼らの考えが決して間違いではなかったことが証明されたんです。今でいう量子力学や不確定性原理を頭だけで考え出したんです。めちゃめちゃすごいですよね。ドラマチックですよね。

そうしたドラマを知れば「この曼荼羅に呪文を唱えたらどんな願いも叶う」とか「公明党の票を取るのが一番功徳がある」とか「創価にお金を出せば出すほど幸せになれる」と会員に教えている創価学会って本当に宗教なの?と思いませんか?そしてこんなことを少しも疑うことなく信じている学会員さんは…どうなんだろう? 2500年前の彼らの方が、よほど現実をしっかりと見て、自分の頭で徹底的に考え抜いてますよね。学会員さんが創価を信じるのは勝手だけど、なんでそんなもの自分が信じれるのか?一度じっくり考えてみてもいいんじゃないかと思うんですけど、余計なお世話ですかね〜。

前スレで私は「なんの確証もないことを真実だと思い込むことを信じるって言うんです。」と言いました。確証のあることに「信じる」という言葉は使いません。嘘か本当かわからないことだからこそ「信じる」とか「信じない」という判断をするんですね。そして学会員さんは「創価学会は絶対に正しい」と信じています。つまり創価学会が正しいかどうかは誰にもわからないからこそ「信じる」という言葉を使うんです。「信心が強い」とか「信心が足りない」というのも、正しいという確証がないからこそ言うことなんですね。「私はどんなことがあろうと息子の無実を信じています」とか「東京オリンピックが無事に開催されることを信じています」と言ったふうにです。宗教って客観的な証明をしようがないことを信じることなんです。神様の存在が証明できたら宗教じゃなくなるんです。日蓮が末法の御本仏だと証明できたら日蓮正宗も創価学会も宗教じゃなくなるんです。確実に証明できることなら信じるも信じないも関係ないんです。言い方を変えれば、ありもしないことを無理やり信じることが宗教だとも言えます。だからこそ宗教に見せかけて人を騙すような新興宗教と言われる詐欺も横行するんですね。

この数日「宗教とは何か?」について、思いつくまま書いてみました。少しは宗教について考えるきっかけになったとしたら嬉しいです。まだギリシャ哲学がその後に出てくるキリスト教に取り込まれ、ローマ帝国がキリスト教を国境にしたり、何度かの宗教会議や十字軍の遠征やプロテスタントの反乱やルネサンス芸術の開花と怪僧サボナローナによる弾圧だったりと、いろいろと「宗教とは何か?」を考える史実はたくさんあります。こうした史実を踏まえながら宗教とは何か?を考えれば考えるほど、創価学会は宗教ではないということがはっきりとわかってきます。

多少、創価に疑問を感じている学会員さんでも「いくらなんでも詐欺じゃないだろ」とか「今さらそんなこと言われても創価をやめる気はないな」とか「創価が詐欺なら今までの自分は何だったんだよ」と不安になる気持ちは良くわかりますし、実際に自分もまさにそうでした。考えれば考えるほどその不安が大きくなっていったものです。その度に「もう考えないようにしよう」と自分に言い聞かせていました。何度も何度も。それでもとうとう自分に嘘がつけなくなったんです。そしてある日「あ、やっぱ創価詐欺だったわ」と気づいたんです。そりゃ落ち込みましたよ。まさに「今までの自分の人生は何だったんだ?」ですよ。でも気づいたら最後、元には戻れません。創価が言ってることやってることが、どう考えてもことごとく創価は詐欺でしかないことを表していることにしか見えなくなります。見えなくなるというか、それまで見えなかったものが見えてしまうんです。見ないようにしてきた自分に気がつくんです。そして居ても立ってもおれないあまり、混乱している自分の気持ちを整理するために、2012年12月6日にこのブログを始めました。

今回はギリシャからヨーロッパに広がった宗教について話すつもりが、完全に脱線してしまいました。すみません。なんか、書き出すとあれもこれもってなって、収拾がつかなくなりますね。またしばらくは思いつくまま書かせていただきます。

ちなみに日蓮正宗って

昨日はバラモン教と仏教の関わりから、いまの日本の仏教がどうしてこのような形になっているかについて書きました。毎回言ってますように、特別なことを書いているわけではありません。ごくごく一般的な史実を書いているだけですから、普通の人は少しも驚くようなことではないし、なんの違和感も持つようなことではありません。ただ日蓮正宗を信じている方と、創価学会を信じている方にしてみれば、聞き捨てならない事なのかもしれません。

では、日蓮正宗としては日蓮こそが末法の本仏であり、釈迦はあくまで迹仏(一時的な仏)であるとしています。もちろん創価学会も同じ考えです。いわゆる日蓮本仏論ですね。わたしもこの日蓮本仏論がどの時点で出てきた考えなのかを知りません。学会員時代は日蓮が自らそう言ったのだと思っていましたが、どうもそうじゃないらしい。では日蓮正宗の開祖である日興上人が言い出したことなのかというと、どうもよくわからない。しかも日蓮正宗の信仰の対象である弘安二年の大御本尊は、どうもかなり後の時代に作られたものらしいという噂。これが今だに噂になっているのは、日蓮正宗が弘安二年の大御本尊は確かに弘安二年に日蓮が残したものだということをいまだにはっきり証明しないということからも疑われ続けているんだそうです。まあ、宗教ですから科学的に事実関係を問われたり証明したりする義務はないし、そんなこと言ったらどんな宗教でも何も証明できなくなります。「神様神様って言ってるけど、神様って本当にいるかどうか証明しなさいよ」とキリスト教の信者に言ってもしょうがないのと似たようなものです。「私が神様を信じているんだから、他人につべこべ言われる筋合いはない」で話は終わります。日蓮正宗にしても、弘安二年の大御本尊が弘安二年に作られていなくても、日蓮作でなくとも、日蓮正宗の信者さんにとってはどうでもいいことなんですからね。だって「信じる」ってそういうことですよね。なんの確証もないことを真実だと思い込むことを信じるって言うんです。

話のついでに日蓮正宗について、もう少し話をしますね。別に日蓮正宗を嫌ってるわけじゃありませんのでお間違いなく。

日蓮正宗の公式HPの中で、「日蓮大聖人の教え」という項目には、このように書いてあります。

「釈尊(しゃくそん)は、今から約3000年前、人々を救うため50年間にわたって説法し、その最後の8年間で出世の本懐(目的)である法華経(ほけきょう)を説かれました。
 この法華経の予言どおり、釈尊滅後2000年が経過し、釈尊仏法の功力がなくなる末法(まっぽう)時代に、民衆を救済する仏として出現されたのが、日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)です。
 日蓮大聖人は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説かれました。」

さて、日蓮正宗としてはこの話が前提に成り立っているということですね。

日蓮正宗としては釈迦は3000年前に50年間説法をして、その最後の8年間で法華経を説いた。この釈迦が説いた法華経の中には「自分が死んだ2000年後には、自分の教えの効力がなくなる時代がくる。しかしその時は自分ではない仏が出現して民衆を救うのだ」という予言が書かれている言っています。確か闘諍言訟とか百法隠滅とか教わった気がします。いわゆる末法思想ですが、日本ではそれが平安時代に流行ったんですね。芥川龍之介の羅生門に描かれた恐ろしく荒れ果てた世の中だっただけに、いよいよ末法が訪れたというリアリティがあったのでしょう。だから釈迦が3000年前に法華経を説いたという話が平安時代に広まったんでしょう。

まず、釈迦は3000年前に生まれてもいません。確かに詳しい年代は不明です。なぜ不明かというと、石や木に記録したメソポタミアや黄河文明とは違い、当時のインドの記録は葉っぱに書かれたものが主だったので何千年も保存できなかったからです。しかも釈迦自身が自分の説法を何かに書き留めることを禁じていたので残っていないというのもあります。しかし近年の研究により、とにかく釈迦が生きていたのは今から2500年前後である可能性が一番高いことは確かなようですので、日蓮正宗の公式HPの「釈迦は3000年前に50年間説法をして」という記載は明らかに間違いです。釈迦はシャーキヤ族の王子として生まれたわけですが、ヒマラヤ山麓のカピラヴァストゥに都があったシャーキヤが存在したのは紀元前5〜6世紀だったことがわかっていますし、釈迦の晩年にシャーキヤ族はコーサラ国に滅ぼされます。

それでは日蓮正宗が「その最後の8年間で出世の本懐である法華経を説かれました。」というのはどうでしょう。これも明らかに間違いです。法華経は釈迦が説いたものでないのはもちろん、誰が書いたのかもいまだにわかっていません。しかも書かれたのは釈迦が死んで少なくとも500年以上経ってからの100年間ぐらいの間に書かれたということまではわかっています。日蓮正宗に破門された創価学会でさえ、法華経は釈迦が説いたものではないという史実を認めていますが、日蓮正宗は今もこのように「法華経は釈迦の晩年8年間に解いた究極の教えだ」という立場を崩すことはありません。それもそうでしょう。日蓮正宗は法華経を最高の教えであるということを前提に成り立っているのですから、その法華経が間違ってましたなどと認めるわけにはいかないんでしょうね。いいんです。べつに日蓮正宗を批判しているのではありません。ただ史実とは違うことを言い続けなければならない日蓮正宗は、何を持って「正しい」と言えるのかどうか心配にすらなります。でもいいんです。宗教なんだから。史実がどうあれ、誰に迷惑をかけていないのでれば、信じれる人が信じたらいいんじゃないでしょうか。私はそう思っています。私はとても信じる気にはなれませんけどね。

そこで素朴な疑問が浮かぶんです。もし釈迦が晩年の8年間で法華経を説いたのだとしたら、なぜそれから500年以上も誰一人として法華経について語らなかったのか?ということです。実際は釈迦が死んで500年以上も法華経は存在しなかったから当然ですね。でも、それでも日蓮正宗は「その最後の8年間で出世の本懐である法華経を説かれました。」と公式HPに堂々と書いているんです。もしかしたら「法華経は末法の衆生を救うために説かれたから、末法より前の時代には誰も語らなかった」という言い訳をしてくるかもしれません。そうなると釈迦は2000年後の人々にしか通用しない教えを晩年の8年間を使ってまで説く必要があったのかどうかという疑問が湧いてきますね(笑)

もう少し話を続けます。日蓮正宗としては、法華経に末法には末法の仏が現れて民衆を救ってくれると書いてあって、その末法の仏こそが日蓮なのだという考えなんですね。私は勉強不足で、法華経に本当にそんなことが書かれているとは知りませんでした。学会員時代はそう教えられるのでそうなんだろうとは思っていましたが、実際に法華経のどの部分がそれに当たるのかを知りません。それと、法華経にそんなことが書かれているとしても、その末法の仏が日蓮だということは法華経にはもちろん、何のどこにも書いていないのですが、日蓮正宗とそこから派生した新興宗教団体だけは日蓮が末法の御本仏だと言い張っているんですね。

それともう一つ。日蓮正宗では「釈迦は3000年前に法華経を説いて、その法華経には2000年後には末法になって釈迦ではない末法の本仏が民衆を救ってくれるという予言がある」となっていますが、実際の釈迦は2500年前の人間ですから、その2000年後となると、日蓮はもうとっくに死んじゃってます。末法の御本仏として出てくるにはちょっと早かった(笑)実際の釈迦滅後2000年は、日本にザビエルやフロイスが来てキリスト教を広めている頃ですよ。おそらく日蓮正宗のお坊さんたちはこのことを知っているからこそ「釈迦は3000年前に法華経を説いて」といった明らかな間違いを書くしかなかったんじゃないでしょうか。

それから「日蓮大聖人は、法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され、その御本尊に向かって“南無妙法蓮華経”の題目を唱えることにより、いかなる人も仏の境界に至ることができると説かれました。」と日蓮正宗の公式HPには書かれていますが、法華経には南無妙法蓮華経と唱えるとどんな人も仏界に至るなんて書いていません。日蓮が勝手に言ってるだけです。それと「法華経の極理を御本尊(漫荼羅)として顕され」と書いていますが、法華経の極理があの曼荼羅に書き表されていると言っても、前スレで紹介したように、半分はバラモン教の神様の名前が並べてあるだけなんですよ。その神様の名前は、バラモン教の司祭が自分たちの都合がよくなるように作られた話に登場してくるいろんな神様の名前でしかないんです。それがなんで「法華経の極理」と言い切ってしまえるのか、日蓮正宗は説明しているのでしょうか。少なくとも私は知りません。たとえその曼荼羅が法華経の極理であったとしても、その法華経自体が釈迦の教えでもないし、誰が書いたのかもわからないものなんです。

おそらく日蓮正宗のお坊さんたちも、法華経が釈迦の説いたものではないことぐらい知っているはずです。もし本当に知らないならもっと問題だと思います(笑)。でも今さら法華経は釈迦の教えではなかったなんて言えるはずもないんでしょう。理屈が通らなくても日蓮の曼荼羅が法華経の極意だと言うしかないんでしょう。それはちょうどスケールこそ違いますが、カトリックが地動説や進化論を認めるわけにいかなかったのと同じようなものではないでしょうか。ちなみにカトリックは今ではさすがに認めてますけどね。いいんですよ。それはそれ、これはこれで。信じる人がいて、それでその人が幸せだというのであればいいじゃないですか。

これまで書いてきたように、宗教ってフィクションなんです。これまで書いてきたように、いろんな宗教が長い年月の中でごちゃ混ぜになりながらどんどん変化してきた物語なんですね。でもそのフィクションによって心が救われてきた人たちがいることは間違いないのですから。それこそ「信じる信じないはあなた次第です」でいいと思います。他人がとやかくいうことではないと。

ただし、それはあくまでも宗教である場合に通用することだと思います。だからと言って、宗教の曖昧さ、いい加減さ、デタラメさを利用して人を騙すような詐欺行為は許されるものではありません。だから私は宗教の神秘的でいい加減なところを利用して会員を騙してお金を搾り取るような創価学会という詐欺集団は許されてはいけないと言っています。伝統的なお寺や神社や教会も、かなりえげつなく商業主義に走っているところも少なくありませんが、それもまあ仕方ないかと思います。宗教も半分商売ですよ。でも創価学会の場合はそんな生易しいものではありません。とにかく会員になったら最後、骨までしゃぶって、お金を出せなくなったら簡単にポイするような、それこそ反社会勢力と同じことをやっています。私は実際にこの目で見てきましたから言うのです。

さて、ここ数日、世界で最初に現れた宗教であるゾロアスター教から東側に広がったバラモン教、仏教までをざっと書きました。次はゾロアスター教が西側に広がってギリシャ哲学やユダヤ教、キリスト教になった話をしてみたいと思います。創価学会にしか興味のない学会員さんにしてみれば、ギリシャ哲学やキリスト教なんてただのボンクラ宗教としか思えないのかもしれませんが、少なくとも中学生が知る程度の宗教に関する知識を持っていても損はしないと思うので、よかったら次も読んでみてください。その前に、よくギリシャ哲学って言いますけど、あれじつは宗教なんですよ。有名なソクラテスやプラトンも偉大な哲学者と言われていますが、じつは宗教の神官だったんですね。じゃあなぜ一般に宗教家ではなく哲学者と呼ばれているかというと、それにはなるほどと納得する訳があったんです。

私は以前、しばらくヨーロッパの古い町に住んだことがあるのですが、ヨーロッパ人のキリスト教会に対する敬虔な態度は、日本人にはおよそ想像がつかないと思いました。バチカンはバチカンでその強大な権力と商業主義を目の当たりにしますが、田舎の小さな村に行ったりすると、神とキリストとマリアが人々の心に深く染みついていることを目の当たりにしたものです。日曜の教会に行くと感動します。もちろん私はキリスト教の神を信じてはいませんが、それでもこの人たちに神様が本当にいると思いますかなんて、口が裂けても言えるものではありません。

では次の「なるほど!ザ・宗教」でお会いしましょう(笑)。

仏教ってじつは

前スレのタイトルを「バラモン教の神様はじつは」ってしましたが、実際は「じつは」とするほど大げさなことではないです。普通にそういうものなんですから。創価のご本尊に書いていないバラモン教の神様はたくさんいます。七福神の一人である大黒天。あの打ち出の小槌と大きな袋を背負って太鼓腹のニコニコしたおじさん。あれもヒンドゥ教の最高神シヴァの化身マハーカーラだし、よく港町にの石像になってる恵比寿天は日本の土着信仰の海の神様です。東京オリンピックを描いた大河ドラマ「いだてん」の韋駄天ももとはヒンドゥ教の神スカンダが仏教の世界でも登場します。こんなふうに仏教に出てくる神様っていうのは、おおかたバラモン教やその後のヒンドゥ教から持ってきたものです。で、そのヒンドゥ教の神様っていうのはバラモンが自分たちが都合のいいように創作した物語に出てくる神様でしかないってことです。もちろんゾロアスター教も仏教に入り込んでいることも広く知られていることです。仏教の弥勒信仰はゾロアスター教からきていますし、バラモン教の火の神アグニをはじめ、火炎信仰はゾロアスター教、バラモン教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、ユダヤ教にも及び、日本では密教の不動信仰や護摩行に限らず全国の火祭りの起源はゾロアスター教以前に遡るものです。

釈迦は腐敗したバラモン教によるインドの都市国家の統治を批判して仏教を起こすのですが、釈迦が死んでからの仏教教団は組織を維持するために、逆にバラモン教の教えを取り入れたりして、釈迦の教えとは随分と違ったものになっていったんですね。釈迦はもともと知りようのない死後の世界を語るべきではないとしていましたが、釈迦滅後はいつの間にかバラモン教の輪廻転生の考えを取り入れてしまいました。その方が一般民衆に有り難がられたからです。それは根本分裂だったり大乗仏教が出てきたりすることで、本来の釈迦が提唱した徹底したリアリズム思想が激しく変化したものが中国に伝わり儒教とも混ざり合ったものが日本に持ち込まれたので、日蓮もそんな変わり果てた仏教の一部しか知ることができないまま、あのような特殊な教えを言い出す羽目になったんですね。

このように、仏教はバラモン教(のちのヒンドゥ教)とのすったもんだの中で、教義にしてもどんどん変わっていきます。バラモン教もどんどん変わっていってヒンドゥ教となり、やがてヒンドゥ教がインド全体の宗教と認められることとなり、仏教がインドから消滅することになります。ただ仏教はインドから追い出されたものの、東南アジアや中国に伝わって行く中で様々に形を変え、それぞれの地域の土着信仰と結びついて、それぞれの地域独特の仏教が形作られることになります。日本へは飛鳥時代に遣唐使を介して伝わった仏教もありますが、特にその後の空海が伝えた仏教がその後の日本の仏教に大きな影響を与えることとなるのは誰もがご存知ですね。しかしその後に鎌倉時代に新仏教が乱立します。仏教というよりは当時の新興宗教といたほうが近いものです。その中の一つが日蓮なのですが、創価学会がかつて外護団体をしていた日蓮正宗は、その日蓮の宗派の中でも極めて珍しいものでした。何が珍しいって、仏教だというのに教祖の釈迦を否定して、日蓮が本当の仏だ。つまり末法の御本仏だと言い出したのです。そんなこと言うのは後にも先にも日蓮の弟子の中の一人だった日興だけでした。この辺りのことになるともうキリがないのでやめておきますが、要は仏教といえども教祖の釈迦の考えなんかほとんど伝わってないってことです。ましてや教祖の釈迦そのものを否定する日蓮正宗や創価学会の教義が仏教であるわけがないと、私は思いますが、それも個人の自由ですから、とやかく言うつもりはありません。自分で考えることですもんね。

バラモン教に関しては、ウパニシャッドという宗教とも哲学ともとれる、なかなか面白い教義を紹介するつもりだったのですが、ちょっと簡単には説明できないんで、興味のある方は自分で調べてください(笑)。特にウパニシャッド哲学最大の立役者と言えるヤージュニャヴァルキヤはどえらい人物だったようです。バラモン教の中心的なアートマン、ブラフマン、梵我一如といった概念を確立させた人物だとされています。一部ではこの人がいたから釈迦が悟りを得られたんじゃないかと言われるぐらいの切れ者だったようです。

ここで知っておくべきことは、輪廻転生とか生まれ変わりとか永遠の生命という概念は、釈迦の教えではなく、バラモン教がカースト制の揺るがない根拠として人を納得させるために作ったフィクションであり、釈迦はそんないい加減なことは決して言わなかったということです。輪廻転生が仏教に取り入れられたのは釈迦が死んでから、仏教教団が分裂したり、ヒンドゥ教に圧倒されたりして行く過程の中で、存続するための変化だったようです。これに限らず、釈迦仏教は地域や時代の変化によって様々に変わっていったということであり、日本の仏教もそんな変わり果てたものの一部に過ぎないということです。

バラモン教の神様はじつは

さて、前回はバラモン教の成り立ちについてざっと書きました。しつこいようですが、これは一般的な史実を簡単に書いているだけですので「そんなのデタラメだ」などと言われても困ります。ウソだと思うなら、自分で調べてみてください。学会員さんが毎日ナムナムしているご本尊様にはバラモン教の神様の名前がズラリと並んでいるんです。なぜかって?そんなこと私は知りません。知りませんが、それが事実です。現実です。世間一般に普通に知られているバラモン教(初期のヒンドゥ教)に関する史実というだけです。

創価の御本尊には中央の南無妙法蓮華経と日蓮の周りに25人の名前が書いてあります。

まずは二仏と四菩薩の6人ですね。

・釈迦牟尼仏

・多宝如来

・無上行菩薩

・無辺行菩薩

・浄行菩薩

・安立行菩薩

それから以下の13人はバラモン教の神様です。

・梵天 ブラフマー(バラモン教の最高神)

・帝釈天 インドラ(雷と戦いの神)

・大毘沙門天王 ヴァイシュラヴァナ(北方の守護神)

・大増長天王 ヴィルーダカ(南方の守護神)

・大持国天王 ドゥリタラーシュトラ(東方の守護神)

・大廣目天王 ヴィルーパークシャ(西方の守護神)

・鬼子母神 ハーリーティー(もとはインドの土着信仰の神)

・不動明王 シヴァ神(破壊と混沌の神)

・愛染明王 ラーガラージャ(ヒンドゥ教の愛の神)

・十羅刹女 ラークシャサ(ヒンドゥ教の鬼神)

・大月天王 バラモン教の月の神様

・大明星天王 バラモン教の星の神様

・大日天王 バラモン教の太陽の神様 

あとの6人は

・八大龍王 インドの土着信仰の説話が法華経に取り入られた神様だが主に神道に登場する

・八幡大菩薩 日本神道で応神天皇が神格化されたのちに菩薩となった

・天照大神 言わずと知れた日本神話の代表的神様

・伝教大師 日本の天台宗の開祖 最澄

・天台大師 中国天台宗の開祖 智顗

・第六天魔王 龍樹が書いた大智度論に出てくる天魔のこと

書き忘れがあったらごめんなさい

さて、学会員さんが毎日拝んでいる御本尊に書いてあるのは25人中13人はもとはと言えばバラモン教の神様です。残りの6人はインドの土着信仰と日本神道の神様と天台宗開祖の2人と第六天魔王です。仏教由来は最初の二仏と四菩薩の4人だけなんですね。

このラインナップを見てどう思うか?です。

特に、毎日毎日これらの名前を見ながらナムナムしている学会員さん。「いったい自分は何に向かって祈ってるんだろう?」と疑問に思うことはありませんでしたか?

ないでしょうね。私もありませんでした(笑)。

もちろん、日本は信教の自由が保障されている国ですから、誰が何を信じて何を拝もうと自由です。それこそ紙に「ハクション大魔王」と書いて拝んでも誰も止める権利はありません。

では、なぜ日蓮は自分の魂とまで言い切った曼荼羅にこんなにもバラモン教由来の神様を書き連ねたのでしょう。もちろん仏教がインドから中国、中国から日本へ伝わる間に、バラモン教が仏教に圧倒されたり、仏教がバラモン教に圧倒されたりする過程で、お互いに一般受けする相手の宗教の要素を取り入れて行ったんですね。それがよくわかるのが密教です。前スレでちらっと言いましたが、真言密教に見られる護摩行は、ゾロアスター教やバラモン教のどちらにも見られるもので、元々はアーリア人の火炎崇拝をバラモン教や仏教が勢力拡大のためにいろんな信仰を取り込む中で伝承されて日本にまで伝わってきて今日まで続いているものです。

それは護摩行に限ったことではなく、ゾロアスター教、バラモン教、仏教は、中国の儒教やそれぞれの地域の土着信仰が入り混じった形で日本に伝わってきたがゆえに、日蓮もこのようなごっちゃ混ぜの神様連合曼荼羅を書くに至ったと考えられます。おそらく日蓮は自分が書いた曼荼羅の半分以上がバラモン教の神様だとは知らなかっただろうと思われます。四箇格言や五重相対で外道をボロクソに批判する一方で「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とまで言って書いたものの半分が外道の神様の名前だったとは、お釈迦様でも気がつくまい(笑)あ、お釈迦さんはバラモン教に直接触れてきた人だから、バラモン教の神様については当然よく知っていたでしょう。しかし日蓮は知らなかった。外道というのは仏教以外のインドの宗教や儒教だと教わりはしても、梵天や帝釈天や四天王がその外道の神様だったとは教えてもらえなかったのではないかと思います。

日蓮が末法万年に渡って一切衆生を救済する力のある曼荼羅にバラモン教由来の神様の名前を書いたということは、知らなかったとはいえちょい恥ずかしくないですか?しかし日蓮はそうした外道の神様の存在を諸天善神として認めていたということでもあります。前スレに書いたようにバラモン教の神様というのは、トルキスタンにいたアーリア人が東に移動して、インダス文明の都市やガンジス川流域の原住民を奴隷にして、原住民がやっていた農耕を中心とした定住国家を広げるために作った作り話なんですね。アーリア人の祭祀であるバラモンたちが征服先の原住民を奴隷にして働かせて、自分たちは神様の使いであるという大義名分で遊び呆けて贅沢三昧をするために作ったカースト制の根拠とするために作り上げた嘘八百の神様の物語なんです。もしかして日本の八百万の神って、嘘八百からきたのかもしれません(笑)。そんなフィクションに出てくる神様が仏教の物語にも取り込まれ、天台を介して中国に伝わり、さらにいろんな土着信仰の物語が加わってから伝教を介して日本にやってきたのを、回り回って日蓮が知ることになり、日蓮は本当にそんな神様が世の中に存在するものだと思い込んで曼荼羅にその名前を書き連ねたのだと思われます。なにも思い込んだのは日蓮だけではありません。もうバラモン教の時代からみんなどんどん壮大な思い込み伝言ゲームをしていった結果です。

そこで、これは私の考えですが

「宗教とは壮大な思い込み伝言ゲームだ」

と思っています。

さあ、そんなやりたい放題のバラモン教から対抗勢力の仏教やジャイナ教が生まれ、バラモン教はすっかり勢いを無くしますが、今度はバラモン教がいろんな土着宗教を取り込んで仏教やジャイナ教を追い込んでいく中で、いわゆるヒンドゥ教が成立し、徹底したカースト制度が確立します。その後もヒンドゥ教は時代とともに様々に形を変えて今に至るのです。いろいろ大変ですね。宗教って、人を幸せにするものではなくて、人を支配するために作られたフィクションだということがわかってくると思います。

次回は、そんなヒンドゥ教と仏教、ジャイナ教の攻防についてお話ししますね。

バラモン教について

バラモン教について、ごく一般的な史実を簡単に紹介します。前スレでも書きましたが、創価の活動を真面目にやっていると、創価以外の宗教について自分で考えることをしなくなります。だから学会員さんは活動に真面目でればあるほど本当に宗教についての基礎知識を持たなくなるんですよね。たとえ持っていても一般的な知識は間違いだと創価から教えられるので、気づかないうちに創価以外の宗教を見下すようになるんです。私もある意味創価から純粋培養されて育ちましたので、50歳になるまで一般の宗教そのものをどこか見下していたように思います。別に悪気があったわけではないですが、創価だけが唯一の正しい宗教で、いつか創価を世界中の人が信じる時代が来ると思っていました。今思えば、本当に愚か者でした。そんなわけないじゃん(笑)と小学生にすら笑われるような馬鹿げたことを本気で信じていたんですからね。なので、しばらくは誰でも知っているような宗教に関する基本的な史実を、あえてここで紹介させていただきます。普通の人が読んだら「そんなもん誰だって知っとるがな」と見向きもしないかもしれませんが、宗教についての知識を完全にスルーしてきた学会員さんにとっては「え、そうだったの?イヤイヤそんなはずないでしょ」と、なかなか受け入れてくれないかもしれません。でも史実は史実ですから、否定しようはありません。言い換えれば、学会員さんは否定のしようのない事実を否定しながら生きているということです。もちろん否定したところで史実は変わりません。そもそも「創価だけが人間が幸せになれる唯一の正しい宗教だ」なんて信じてる時点で、普通の人から相手にされないのは当然です。そんな学会員さんが史実にノート言っても誰も相手にしません。事実、学会員さんは普通の人から相手にされてませんよね。学会員とわかった時点で普通の人は一歩引きます。しかし学会員さんは一歩引かれることに疑問を持たないように教育されています。一歩引く方が何もわかっていないんだと思うように教育(洗脳)されているんですね。

では、バラモン教についてです。バラモン教は釈迦が仏教を起こす前のインドで支配的な宗教でした。それくらいは学会員さんでも知ってるでしょう。そのバラモン教とは、バラモン(司祭)という最高位の身分たちが自分たちの都合がいいように考え出した、のちのカースト制の元となる差別主義による宗教でした。ではバラモン教以前のインドの宗教はどうだったかというと、バラモン教ほど徹底的に人を差別するほどの考えはありませんでした。世界四大文明の一つであるインダス文明は、バラモン教が起こる前に消滅します。インダス文明は紀元前2500年~1500年頃まで、インダス川流域の気候変動による砂漠化が進んで消滅したのではないかと考えられています。もっとも実際のところはよくわかっていません。なにしろインダス文明の存在は19世紀のイギリスによる植民地支配によって初めてわかったものなんですね。

紀元前1500年頃、インダス文明なきインドの地に西トルキスタンで牧畜を営んでいたアーリア人がインドへ移動してきました。そのアーリア人がインドで広めた宗教がバラモン教の始まりです。ちなみにバラモン教という名称は、のちにイギリス人が植民地支配するようになってつけた初期のヒンドゥ教につけた名前です。アーリア人は先住民を奴隷として支配下におきながら、さらに土地の肥沃なガンジス川周辺にまで侵攻したことにより、生活形態を牧畜から農業に変えることで社会が安定する一方で、強大な階級社会が作り上げられることとなりました。

長くなりそうなので、今日のところは一旦終わります。

それにしても宗教って、こうやって特定の民族が人々を支配下におくために都合のいいように作った物語だということがわかります。そして、このバラモン教が仏教に深く関わっているという点も、今更ながら驚くほどです。

だって、学会員さんが毎日拝んでいる創価の御本尊に書かれている漢字のほとんどは、このバラモン教に出てくる神様の名前なんですから。

「え?そんなはずないでしょ」と思った学会員さん、自分が毎日古代インドの神様に手を合わせてナムナムしているって知らなかったのですか?もしくは知ってて拝んでいたのですか?どっちにしても3500年も昔のトルコあたりで生活していた遊牧民が考えた神様の名前を書いた紙を拝んでいることに変わりはありません。

次回は、その創価の御本尊にもずらりと並んでいるバラモン教の神様について書きますね。

いずれにせよ、こうした史実をもとに「宗教とは何か?」ということを自分の頭で考える機会になれば嬉しいです。

続きはまた後日。

宗教とは人間が作ったもの

昨日から、創価学会とは直接は関係のない一般的な宗教についての話をしています。しつこく言いますが、これはあくまでごく一般的に知られている宗教についてことを簡単に書いているだけの話だということがポイントです。なぜこんな話をするのかというと、学会員さんはあまりにも一般的な宗教についての知識がなさすぎるということに気づいて欲しいということがあります。単に勉強不足で知識がないというのではなく、創価から宗教についての話をシャットアウトされているからです。創価は学会員さんに「創価学会だけが正しい宗教だ」と思い込ませるために「創価以外の宗教は間違っているんだから、そんな間違った宗教のことなど知る価値などない」というめちゃくちゃな理屈で学会員さんに一般的な宗教について学ぶことをさせないようにしてきました。それはときに四箇の格言だったり五重の相対などを持ち出して、あたかもそれが真実であるかのように思わせることで、私も創価以外の宗教について知ることに興味を失ってました。

創価は日蓮正宗から破門される前までは、日蓮正宗だけが正しいのだから、日蓮正宗以外の宗教について学ぶ必要はないと学会員さんに教えていましたよね。「いちばん高い山に登れば、それより低い山に登らずとも全ての山のことがわかるように、日蓮正宗を信じれば、他の宗教のことを学ばずともわかるのだ」と言っていました。ところが日蓮正宗から破門されると、じつは日蓮正宗だけが間違いで、そのほかの宗教とは仲良くしていかなければいけないと、完全に手のひらを返すことを言い出しました。さらに日蓮正宗の本尊は偽物で、今まで邪宗としていた日蓮宗の本尊も創価学会の本尊と同じ力があると言いだしました。めちゃくちゃな屁理屈というか屁理屈にすらなっていないのですが、学会員さんはそれでも疑問に思うことなく「創価が言うから絶対に間違いない」としか思えないんですね。

例えばそれまで法華経が釈迦が晩年に説いた究極の教えだとしていたのが、破門されると法華経は釈迦滅後500年以上経ってから100年程の間に書かれたものだという学術的に立証されたことを認めるようになりました。まあ、それが学術的に立証された事実なんですから、認めないでいる方がおかしいわけですし、そこは今だに法華経が釈迦が実際に説いた経文だとしている日蓮正宗が明らかに間違っているんですけどね。でも日蓮正宗にしてみれば、いまさら教義の根本的な部分を「間違ってました」と認めるわけにはいかないのでそのままにしているのでしょう。

それはともかく、創価学会は破門されたことを機に、発足以降60年間言い続けてきたことを自ら覆したのです。しかし創価はそのことをはっきりと「今までは間違っていました」とは言いません。教義を180度ひっくり返しても、まるではじめから「法華経が釈迦が説いた教えではないですけど何か?」といった感じにしています。そしてそのことについて学会員さんは疑問に思わないことがもっと奇妙なことなんです。でも、学会員さんは創価から一般的な宗教についての知識を学ぶことがいけないこと、無駄なことだと教えられているので、創価の教義がこんなにひっくり返っても、別に何とも思わないんですね。「創価が言うことなんだから絶対に正しい。たとえ教義が変わったとしてもそれが正しいのだから、そこで疑ったら負けだ」となってしまうんです。めちゃくちゃです。創価は学会員さんに徹底して勝ち負けにこだわらせます。理屈なんか関係なく「負けるもんか〜!」と一心不乱に創価のためにお金と労力を使うことが唯一幸せになる方法だと信じて活動するんですね。それは結果的に幸せにならなくとも関係ないんです。「疑うことさえしなければいつか必ず幸せになれる。いま幸せになれていないのは、自分の信心が足りないからだ」と組織の上の人から指導されたり、自分で自分に言い聞かせながら自分を思考停止に持ち込んでいるんですね。これを一般的には思考停止と言います。創価学会では信心強情と言います(笑)。ちょっと自分の頭で考えればわかりそうなことを、とにかく「負けるもんか〜!」で頭の中の疑問を搔き消し続けているんですね。こんな無理をして生きていたら精神疾患になるのも無理はありません。実際に精神をやられてしまう学会員さんが多いのが現実です。創価はこのように学会員さんをあの手この手で思考停止に追い込んで、何も考えずに創価にお金を差し出させるようにしてきたんですね。もちろん今もそんな学会員さんがいるから創価はこうした詐欺行為をやめません。今も創価学会員として活動している学会員さんは思考停止されながら創価にお金を貢がされています。公明党の票をたくさんとれば功徳をもらえると信じて、選挙になると血眼になって選挙違反などなんとも思わず選挙活動に走り回ります。思考停止だからこそやれることです。

さて、前スレのゾロアスター教についての基礎知識はいかがでしたでしょうか。ゾロアスター教は名前は聞いたことはあっても、今の世界的な宗教にここまで多大な影響を与えてきたことまでは私も知りませんでした。もしゾロアスターがいなかったら、いまの宗教の内容も随分変わっていたのではないでしょうか。それとゾロアスター教は今もインドからアラブの一部の地域で続いているんですね。規模は小さくなったとはいえ3,000年以上も続いている宗教は他にないです。そういう意味でも、宗教とは何かを考えるきっかけになるのではないでしょうか。

ここで私が言いたいのは、宗教とは人間が作ったものだということです。宇宙根本の法則が存在するとか、この世界は神様が作ったのだとか、死んだら地獄に落ちるとか、別の人間や動物に生まれ変わるとかいうのも、みんなそのときの人間が集団生活や都市国家を仕切っていくために必要な物語だったからこそ世界中でいろんな形の宗教が生まれ、伝わり、伝承されてきたのだということです。そのもとになったのが3千数百年前に始まったゾロアスター教だったということです。

次は仏教に多大な影響を与えたバラモン教の一般的な話をしようかなと思います。

ゾロアスター教ってすごい

ここで述べることは、私が勝手に言ってることではなく、一般的に広く知られていることで、中学生でも理解できるわかりやすい本に書かれている、いわば常識的なことです。私は元来本を読むのが苦手な人間なので、難しかったり専門的な本ははじめから読む気になれません。ここに書くことも、特に専門的だったり難しかったりすることではありません。そのことを踏まえて読んでいただければと思います。

人間の歴史の中で、宗教が登場するのは、私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスが現れてから25万年の歳月を必要としました。つまり人間がこの地球に現れてから25万年間、ほぼ宗教を必要としなかったのです。もちろん何をもって宗教とするのかという定義によって、宗教がどの時点で発生したのかをはっきり定義できませんが、例えば人間が初めて組織立った宗教団体を作ったのは三千数百年前のペルシャ地方に現れたゾロアスター教なんだそうです。つまり、人間が登場して25万年経つのに、宗教らしきものを作ったのは最後の3千数百年の時点だったということを思い浮かべながら読んで欲しいです。

それまでは土着信仰などはあったものの、太陽を神様のように拝んだり、水害や日照りが起こるのを超越的な力の存在だとするような信仰のようなものはあったにせよ、そのことを組織的な権威づけの根拠にして人の心を支配するようなものまでには至らなかったと考えられているようです。つまり、人類にとって世界的な影響を与えることになった初めての宗教がこのゾロアスター教であると言えるわけです。

ゾロアスター教というのはゾロアスターという名前の人間が唱えた宗教ですが、その経典とされる「アヴェスター」はゾロアスターの死後1,000年以上も経ってから整えられたんですね。ちょうど法華経が釈迦の死後500年以上も経ってから書かれたのに似ています。

そのゾロアスター教の内容は、意外と興味深いものなんです。

ゾロアスター教の信仰の対象は最高神アフラ・マズダーです。このアフラ・マズダーという名の神様がこの世界を創造したということなのですが、この最高神の他にも何人(人という単位が適切なのかどうかは別にして)かの神様が存在していて、そこにはいい神様のグループと悪い神様のグループがあって、いつもそのグループが争っているのがこの世界だということだそうです。まるでヤクザや暴走族の対立抗争みたいで面白いですね(笑)。

で、そのいい神様のグループの総長がスプンタ・マンユで、彼も含めた7人の神様がいて、悪い神様の総長は大魔王アンラ・マンユ(古坂大魔王でもハクション大魔王でもない)で、やはり彼を筆頭に7人の悪い神様が人間を苦しめているんだそうです。面白いですよね。中国や日本の信仰にも7福神というのがありますが、もしかしたらここから出てきたのかもしれません。あ、これは私の勝手な想像です(笑)。

ただ、3,000年以上前のペルシャの宗教と日本の信仰に関係があるわけがないとは言い切れないほど、ゾロアスター教の内容は興味深いんですよ。

もう少しゾロアスター教の教義の話をしますね。

ゾロアスター教ではこの宇宙は時間的に限りがあって、1万2千年ということになっています。ま、今でこそそれが間違いであることははっきりしているのですが、科学も学問もネットもない3,000年以上前の人たちにとって、善悪の神様たちの抗争や、この世界が1万2千年だということを信じない理由はどこにもなかったんですね。ましてや人間が猿から進化したなんて思いもしないし、この世界は神様が作ったとしなければ、他に説明のしようがなかったんです。

これって創価の言うことを疑うことなく丸ごと信じてお金を差し出す学会員さんに似てませんか?3000年前ならまだしも、科学も学問もネットも普及している今の世の中で「創価学会だけが世界の人々を幸せにできる力のある唯一の宗教だ」と信じて疑わない学会員さんに似てますよね。

話がずれますが、そもそも人間が宗教らしきものを作り出したのは、狩猟採集生活から定住農耕生活に移行して、農産物や家畜を育てるような生活を始めたおよそ1万年前だそうです。それによって小さな集団によって行われていた狩猟採集生活から、大量の食料を移動せずに得られる農耕生活へ変化し、次第に生活集団が大きくなっていき、都市国家を形成するようになったんですね。そして大人数で支配するものと支配されるものという概念が生まれた結果、農耕に絶大な影響を与える太陽や川の流れを司るような大きな力の存在を言い出すものが現れ、神様の概念を作り出していったと考えられます。それが宗教の始まりだと。だから太陽そのものを信仰の対象としたり、人の力ではどうにもできない自然のはたらきを信仰の対象としていたのは当然の成り行きなのだと思われます。

話を元に戻します。ゾロアスター教はこの世界がどのようにしてできて、これからどうなるのかを神様の存在を前提に説明します。自分はどこから来て、死んだらどうなるのかといった理解しようのない不安に答えるために、神様の物語が作られていったわけです。この後に世界中に世界的な宗教が出てくることになりますが、このようにこの世界の成り立ちを神様がやったことにすれば、それ以上のことを説明する必要がないので、とても都合が良かったのだろうと思います。都合がいいというのは、神様の存在を信じさせることで、多くの人を精神的に支配するのに都合が良かったのです。この世はそういう風になっているんだから、つべこべ言わずに従うしかないと思わせることに成功したんですね。まるで創価学会が会員にやってきたことと瓜二つです。

実際に、ゾロアスター教のこうした教義は、その後のセム的一神教であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教の教義に受け継がれることになるんですね(セム的一神教については長くなるので後にします)。さらになんとインドのバラモン教や仏教にまで影響を与えることになります。この辺りを考えると、ゾロアスター教って本当に面白いんです。

たとえば、ゾロアスター教によれば、1万2千年間の善悪の神様の抗争が終わるときに世界の終末がやってくるわけですが、その時に死者も生きている人間もこの世の終わりの時にみんな審判を受けて、悪いことをしてきた人間はそこで永遠に消滅し、いいことをしてきた人間は天国に行って永遠に楽しく生き続けることができるというのです。これってユダヤ教やキリスト教と一緒ですよね。というか、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教もこのゾロアスター教の教えをパクったってことです。また、ゾロアスター教には入信するときにナオジョテという洗礼の儀式があるのもキリスト教が取り入れています。

そのゾロアスター教の洗礼ですが、7歳までは行ってはいけないことになっています。物事の判断がつく前に入信させるのは間違いだという、個人の人権を重んじる考えが3,000年前のゾロアスター教にすでにあったんですね。生まれてすぐに有無を言わさず入信させるどこかの新興宗教とは違います(笑)

また、ゾロアスター教では精霊とか守護霊を前提とした先祖崇拝を説きました。仏教の盂蘭盆会はここから来たんですね。さらにゾロアスター教では偶像崇拝ではなく、火を信仰の対象としました。それが後のバラモン教の火の神アグニとなり、それが仏教にも伝わって比叡山延暦寺の不滅の法灯だったり、護摩行として伝わっているのです。

ね、3,000年以上前のペルシャの宗教が、今の世界宗教と言われるものの基本をすでに作っていたって、すごく面白いですよね。

地球上にホモ・サピエンスが現れて25万年。農耕生活が始まって1万年。宗教が初めて現れたのが約3,000年前。その時の宗教が、今もある世界の主な宗教の基本概念となって今も続いているという事実。

この続きはまた(^ ^)

創価は宗教ではありません。

たまには創価学会とは直接関係のないことを書いてみます。

創価学会についての話は、宗教や哲学の話とは基本的に違う次元の話です。創価学会は宗教ではないからです。創価学会は宗教に見せかけた詐欺集団です。ですから創価学会の話というのは、宗教の話ではなくて詐欺という犯罪の話でしかありません。

こう言うと、創価を宗教だと信じている人にとっては「なんてバチ当たりなことを言うんだ」と怒るでしょうし、学会員でなくても「詐欺というのは言い過ぎなんじゃないの」と思うでしょう。創価学会の現実を知らない一般人にしてみれば無理もないことです。ただ、一度創価学会の現実を知ってしまえば「なるほど詐欺でしかない」と納得します。実際に創価のことを何も知らない友人に創価のことを話す機会はあまりありませんが、話せば「ああ、やっぱりそうなんだ」とほぼ納得してくれます。それでも「どうして学会員さんはそれがわからないの?」と聞いてきますが、それこそが詐欺の真骨頂だと答えます。「例えば金銭詐欺でも結婚詐欺でも騙されているときは気づかないでしょ」と言えば納得します。要するに騙されている時には相手を信じているので騙されていることに気づかないのですから当然なんです。だから学会員さんも騙されているうち、つまり創価を宗教だと信じているうちは、すってんてんになっても気づかない。家族が不幸な死に方をしても「幸せだったはず」と無理やり思い込んでしまうんです。結婚詐欺にあった女性が、詐欺だと気づいた後になっても「あの人は私を愛してくれた」と思い込んでしまうのと似ているように思います。

創価は宗教ではありません。宗教でないばかりか、あろうことか悪質な詐欺です。それは創価学会が実際に何をしているのかを客観的に見ることができれば誰の目にも明らかなのですが、客観的に見ることを徹底的にさせないように、あの手この手で学会員を騙しているのが創価学会です。私が「現実を見ましょう」と言い続けてきた理由がこれです。もう一度言います。創価は宗教ではありません。そう言われて腹が立ったり、反論せずに折れない気持ちになるとしたら、それは創価から騙されている何よりの証拠です。腹をたてる前に、冷静になって創価学会の現実を客観的に見てください。

ということで、最初に言ったように、これからしばらく創価の話ではなく、宗教の話をしてみようと思います。そうすれば、創価が宗教ではないことが「創価は宗教だ」と思い込んで来た人にも少しはわかるのではないかと思うからです。いくつか前のスレッドに「宗教とは何か」というタイトルで書きました。

https://signifie.wordpress.com/2021/02/21/宗教とは何か-2/

これもぜひ読んでみてください。

創価学会の現実

もうしばらくは、こうしてときどき思いつくままを書いてみたいと思います。

私が9年前に創価が詐欺だと気づいて脱会したのは、ある日突然に創価が詐欺だと気づいたのではもちろんありません。創価はおかしいと薄々感じるようになってから、創価が宗教ではないという確信を持てるようになるまでに、およそ10年という歳月がかかりました。脱会する10年前までは「創価も人間の集まりなんだから、完璧じゃないし、完璧じゃないからこそ、少しでも平和でよりよい世界にするために行動し努力している学会員は素晴らしい」と思っていました。今思えば、そう思うしか自分の行動を正当化することができなかったからだと思います。その時に目の前の現実を現実としてシビアに受け入れることができていたならば、創価が詐欺だと気づくのに10年もかからなかっただろうと思います。そうした自分ができなかったことの反省も含めて、私はこのブログで「学会員さん、目の前の現実を現実として受け入れましょう。そうしたら創価が詐欺だということが否が応でもわかるはずです」と言い続けてきたのです。学会員さんにとっての目の前の現実とは何かというと「創価学会は衰退している」という現実や「創価学会員であることによって自分は幸せになっていない」という現実です。他にもあります。「財務をたくさんすればするほど幸せになれると信じて、実際には生活に困るほど多くのお金を創価学会に貢いでる」という現実や「公明党の票をたくさん取ることが一番の功徳がもらえると信じて、選挙違反(法律違反)も厭わずにやってしまう」という現実をはじめとして、創価学会のためにやっている行動のほとんどが、一般常識では考えられないほどの非常識であるという現実です。

先日も書きましたが、兄の葬儀であらためて思ったのは、創価学会員はあいかわらずの創価脳だということでした。私の兄弟で唯一創価学会員だった兄は、母親よりも早く亡くなりました。それも癌が見つかって亡くなるまで半年しかありませんでした。折しもコロナ禍で親族以外の面談が許されず、実の弟である私でさえ数回しか会うことができませんでしたので、地元の学会員さんにも、昔からの友人にさえも会うことができずに、そのまま病院で亡くなりました。葬儀も近くに住む親族と地元の学会員さんだけの寂しいものでした。一生を創価学会の活動に明け暮れた結果の最期でした。子供のいない兄夫婦でしたので、今は障害をもつ兄嫁が一人で生活しています。こうなっても兄嫁は創価学会に疑問を持つことはないでしょう。兄は幸せだったのか?兄嫁は創価学会のおかげで幸せな人生だったと本気で思っているのか?そんなことがしょっちゅう頭をよぎります。もう考えても暗い気持ちになるだけですので考えないように務めています。

さて、このブログはもうしばらくはコメントできない設定にするつもりです。もう少し静かに考える時間を大切にしたいと思っています。なのでここには自分の考えを整理したり確認するために、思いついたことを書きとめていきたいと思っています。なので、創価とは直接関係のない話もあえてすると思います。特に目新しいことや、驚くようなことを書くつもりはありませんので、あらかじめご了承ください。

こうしてときどきとりとめのないことを書くだけですが、それでも1日に600から700ほどのアクセスがあります。ここ数日はなぜか増えてもいます。もしかしたら再開しているかもしれないと期待されて覗いてくださっているのかなとも思いますが、申し訳ありませんが、まだしばらくはコメント欄を解放するつもりはありませんのでご了承ください。ブログに常にコメントがあるという生活から解放されるとこんな感じになるのかと、なんだか不思議な気持ちです。そしてとても気持ちが軽くなっています。そこまでプレッシャーを感じていたつもりはなかったのですが、いざコメント欄を閉じてみると、この9年間のブログを気にしなければいけない生活が、自分で自分に足枷をつけていたんだなと思いました。かといってブログ運営は嫌じゃなかったんです。もちろん荒らされたり、創価脳の理不尽な態度には嫌な思いをしましたが、それもある程度は覚悟の上でしたので、9年間続けたことも、そして今こうして休止していることも自分で納得しています。

これからもうしばらくは思いつきでときどき書いていきます。いつも言うことですが、創価脳さんに対しては何も言うことはありません。私と同じように創価が詐欺だと気づいて脱会した学会員さんや、脱会しようと頑張っている方にはもちろん、創価が何かおかしいなと思っている学会員さんには読んで欲しいです。そして考えて欲しいです。創価に疑問を持つことはいけないことではないし、疑問を持てないことのほうが異常なのだということをわかってほしいです。そして「え?創価がおかしいと思っているのは自分だけじゃなかったんだ!」とわかったら、このブログのどこからでもいいですので読んでいただきたいです。特にこのブログに寄せられた4万1千件以上のコメントを読んでほしんです。実際に学会活動を一生懸命続けた結果、どのような人生であったのかということの現実の話が当事者の声として収められています。これこそが創価学会の現実だということを前提にして読んで欲しいです。