私が公明党を支援してきた理由

世間でも選挙のムードが出てきたようですが、創価はすでに去年の秋から選挙態勢に入り、もうしばらくは本幹もしないで公明党支援というか、表向きは新興宗教なのに、完全に怪しい政治結社になっています。今年の創価は「創価勝利の年」だそうです。完全に選挙対応ですね(笑)。

昨年秋の沖縄県知事選での完全敗北というか、会長自ら沖縄入りして会員に投票依頼のマインドコントロールをしにきたにもかかわらず、学会員の多くが対抗候補に投票するという前代未聞の珍事が発生しました。いかにダーハラくんに人望も指導力もないかがはっきりしましたね。創価執行部もダーハラくんに人望がないことがわかっているので、いつまでたっても池田大仏を元気なことにしとかなくちゃいけないんですよね。

沖縄の辺野古基地の住民投票では、公明党は自主投票だそうです。沖縄の創価学会員は辺野古基地移転に賛成なんでしょうか?沖縄の学会員さんの意見を聞いてみたいですね。でも沖縄の学会員と言えども公明党に逆らうようなことをやるわけにはいかないでしょうから、座談会とかでも辺野古基地移転反対なんて言えないんでしょうね。沖縄創価学会にとって玉城デニー氏は仏敵なんでしょうか?(笑)

創価学会員は自分で政治のことを考えたり判断することができません。学会員は学会員であるというだけで公明党を応援しなければならないことにらなっています。もうこの時点で民主主義ではありません。でも創価学会員にとって民主主義なんて邪教みたいなものです。「宗教は創価だけが正しいのと同じように、政治は公明党だけが正しい」と信じています。しかし公明党は自民党のやることに従っているだけの政党です。自民党のやることに従っているだけなに、公明党だけが正しいと信じているんですね。しかも民主主義なんて考えもしない。

もう一度言います。創価学会員は政治について自分で考えることを禁じられているんです。そして学会員は公明党の票をとればとるほど功徳があると言われて、その功徳欲しさに目が眩んで選挙違反など平気でやります。これが創価学会の選挙活動ですね。つまり創価公明は日本の民主主義を壊しているんです。学会員は自分で考えることができないので、自分が何をやらされているかもわからないのです。かわいそうですよね。

投票というのは民主主義の原点であり国民の権利です。そして自分の意思で投票すらできないのが創価学会員です。創価は国民の権利すら奪っているんです。学会員はそのことに気づきません。自分が有無を言わさず公明党に投票することを精神的に強要されていることに何の疑問も感じないんです。

おそらく沖縄の学会員さんの多くは基地問題がきっかけで、自分で考えるようになったと思います。自分で考えることができれば創価がおかしいことはすぐにわかるんですが、沖縄のようなとんでもない理不尽なことが直接降りかかってくるまでは、騙され続けてしまってきたのだと思います。

もういい加減、沖縄以外の学会員さんも気づきましょうよ!秘密保護法、安保法案の次は憲法そのものが自民公明の連立政権によって変えられようとしています。自民党の草案が公明党の議席によって通されようとしています。この草案が通れば自衛隊が国防軍となって、世界の戦場に駆り出されます。創価学会員はその支援をさせられているんです。

 

学会員さん、自分の頭で考えてください。かつて創価学会婦人部が日本の平和憲法を守ろうとして作った漫画の中に出てくる憲法改悪の愚行を、今の創価学会員が何も考えずにやらされているんです。おかしいと思いませんか?「創価は正しい。創価の言うことを信じていけば自分で考えなくても間違いない。自分で考えたら我見と言って返っておかしなことになる」と、思考停止されているんです。現におかしいと思わないこと自体が自分で考えていない証拠です。

ということで、今回のテーマは、『私が公明党を支援してきた理由』とします。つまり活動家時代に取り憑かれたように必死に公明党の票をかき集めていた自分を振り返って、当時の自分がいかに思考停止されていたか、いかに政治のことを考えることなく創価の言われるままに家庭も省みることなく動いていたか。そうした活動家時代の奴隷の日々を思い出して書いていただければと思います。

創価は衰退して会員数も激減しているとは言え、自民党が憲法を変えるために必要な議席を公明党が握っています。逆を言えば、今年の参院選で公明党が議席を大量に失えば、自民党も公明党を見限るでしょう。創価としては絶対に負けられないんだと思います。

創価は宗教ではなく詐欺です。創価の思想や教義には一貫性がまったくありません。もともと日蓮の思想は平和主義ではありません。平和どころか極端に好戦的で過激な選民思想です。日蓮の思想に民主主義が入り込む隙などないのです。牧口や戸田が投獄されたのも、戦争に反対したのではなく、日蓮を重んじなければ戦争に負けると主張して治安維持法違反で投獄されました。なのに今の創価は牧口や戸田が平和主義を貫いて投獄されたかのようなウソを会員についています。会員は自分で考えることを放棄していますので、創価がどんなにウソをついても信じてしまいます。

創価は正しい、公明党は間違いない。こんな大ウソを信じて公明党の票をかき集めていたころのお話を聞かせてください。よろしくお願いします。

創価が会員についてきたたくさんのウソ

創価学会というのは、1991年に日蓮正宗から破門されてからは、伝統仏教とは何の関係もない単なる新興宗教集団です。その単なる新興宗教集団の会則をどんな内容にしようが、その集団の勝手だし、逆に言えば、創価学会以外では何の意味も持たないものです。基本的に仏教ではありません。統一教会がキリスト教のような新興宗教であって、伝統的なキリスト教と関係があるわけではないのと同様に、創価学会は仏教のような新興宗教であって、伝統的な仏教とはなんの関係もないし、伝統的な仏教界からは全く相手にされていません。しかし学会員にはそのような認識が全くありません。まるで世界の仏教界をリードしているかのように思い込まされています。
創価に疑問を感じることができた学会員さんは、まずそのあたりの創価学会の認識を再確認することから始めるといいかもしれません。
創価学会は宗教団体として世界からも日本からも全く相手にされていないという事実を知るべきです。と同時に、自分たちの創価学会に対する認識が誤ったものであったのはなぜかについて考えて欲しいです。

今回のテーマは『創価が会員についていたたくさんのウソ』です。

皆さんが創価時代に思い込んでいた創価学会と、現実の創価学会があまりにも違っていたことに気づいて脱会したり、脱会に向けて頑張っていらっしゃる方も多いわけですが、今回は「なぜ創価は会員にウソをつき続けてきたのか」ということをあらためて考えていただくために、「実際に創価が会員についてきたたくさんのウソ」を具体的に上げていきたいと思います。

おそらく創価は会員に数えきれないたくさんのウソをつき続けてきました。何もかもがウソで塗り固められていますから、何から言い出したらいいのかわからないくらいです。ここで大切なことは、単にウソを暴くことではなく「なぜ創価は会員にウソをついてきたのか?」ということを自分で考えることです。「創価め、こんなことまでウソをつきやがって」ではなく「こういう理由でウソをつかなければ成り立たなかったんだな」と理解することです。創価が会員に嘘をつく理由を理解することが大切だと思います。それは自分で考えなければできません。そしてなぜ自分がそんなばかみたいなウソに引っかかってしまったのか。なぜこんな簡単な詐欺に騙されてしまったのか?という疑問について、自分で考え、自分のやってきたことがどういうことであったのかをきちんと把握し、受け止めることが大事だと思います。

そうすれば、創価に疑問を抱いた自分に罪悪感を感じることもなくなると思います。創価に疑問を感じるのは当然なことだし、決して恐れたり不安になるようなことではありません。創価が変だと思えないことの方がよっぽど変なんです。変なんてものじゃなりません。狂ってるんです。頭がおかしくなっているんです。頭がおかしくなっているので、自分がおかしくなっていること自体にも気づくことができません。でもなんとなく「創価は変なんじゃないか」とうっすらとでも感じる心が残っているのであれば、そこをきっかけに自分の頭で考えてみてください。

そこで、皆さんからコメントをいただきたいのは、まずは「誰がどう見てもわかる創価のウソ」をあげてみてください。実際にみなさんが創価から言われ続けてきた明らかなウソを並べてみましょう。よろしくお願いします。

自分で考えるということ

みなさん本当にありがとうございます。
皆さんのコメントの質がものすごく高くて深いので、私などはみなさんのコメントを途切れなく表示していくという管理人としての役割に専念することができます。

このブログは2011年12月6日にスタートしました。今年で8年目が始まったところです。このブログを始めた7年前の2012年12月28日のスレッド『1万人の声を』というタイトルにこう書いています。

『私の言葉足らずなところが、いろいろと誤解を生むのかもしれません。批判は真摯に受け止めるつもりですし、それに対して思うこともできるだけ書かせていただきたいとも思っています。ここは最初に書きましたように、正邪を決める戦いではなく、いろんなかたの考えや体験を語っていただく対話の場としてやっていきたいと思っています。とくに創価学会についての思いや経験を書いていただけるとありがたいです。私は学者や宗教家ではありませんので、誰かに何かを教えるようなことはできません。学会幹部が尻尾を巻いて逃げ出すようなすごい秘密を知っているわけでもありませんから、本部幹部の方、安心してください(笑)。ただ創価学会の真実の声を徹底的に集めたいと思います。もし本当に創価学会が正しい宗教であれば、それはそれで学会にとってもありがたいブログということにもなるでしょう。そうなれば私の両親のように創価功労賞をもらえるかもしれません(笑)。包み隠さず、一切の脚色をすることなく、53年間の創価学会員としての自分の思いや経験をここに書き、それをきっかけとして、他の方との意義ある対話が広がっていければと願うだけです。』

そして丸7年。このときのブログの方針は全く変わりません。「正邪を決める戦いではなく、いろんなかたの考えや体験を語っていただく対話の場としてやっていきたいと思っています。」

そして今、コメント数は1万どころか、32,670となりました。今年の末には1000万アクセス達成するかもしれないです。

7年前、まさかここまでの規模になるとは思いませんでした。当時はただただ自分が覚醒したことで襲ってきた「とんでもない間違いだった自分の人生」をどうやって受け止めたらいいのかわからなくて、頭によぎることを片っ端から書きなぐっていくばかりでしたが、結果としてそれはよかったと思います。途中で創価脳ばかりか、ネット上のわけのわからない魑魅魍魎の攻撃を受けたりしながら、時には休止を余儀なくされたことも何度かありましたが、それでもこうして続けていくことができたのは、皆さんがここに渾身のコメントを寄せてくださるからだと感謝しています。

このブログを始めたころは、私はまだ脱会していませんでしたし、家には仏壇もありました。春頃にマンダラを日蓮正宗のお寺に返しに行って、仏壇はノコギリとカナヅチで叩き壊し、自治体の「燃やせるゴミ」に出しました。私が持っていたマンダラは大学進学の時にお寺で受け取ったものでしたので、お寺に返すのが筋かなと思ったのですが、いま考えたら、破門された後なのだから、わざわざ返さずに仏壇と一緒にゴミに出せばよかったと思っています。その後は統監カードのある組織の長に「脱会します。御本尊はもうお寺に返しました。もちろん新聞などは止めてください」と言ったら、「新聞だけは今月いっぱいまで入れさせてください」と言われたので承知しました。

それ以来、組織からはただの一度も何も言ってきません。べつに退会届を本部に郵送したり、意思確認のための家庭訪問もありませんでした。ただ、選挙の時だけは通りすがりに「公明党をお願いね」と今でも言われます(笑)。創価との関わりは脱会宣言以来それだけです。統監カードがどうなっているのかもわかりませんし、もう何の興味もありません。何をどうすれば正式な脱会なのかも知りませんが、こういう脱会の仕方もあるんだという例として知っていただけたらと思います。「脱会します」の一言であとは何も言って来なかったのは「こいつを引き止めても厄介だ」と思われたのかもしれません(笑)

話は変わりますが、学会員が使う特有の言葉があります。例えば「お題目を送る」。何かにつけて使いますよね。「お題目を送る」って何でしょう?題目って贈り物ですか?(笑)誰かが病気になったので「題目を送る」とか、誰かの子どもが受験生なので受かるように「題目を送る」とか。何かの特効薬のように題目が送り送られるのが当たり前のように使っています。何を持って「送る」ことになるんでしょう。誰かの病気が治りますようにと祈ることが「送る」という表現になるのでしょうけど、これって考えるとおかしいですよね。前に何度も言いましたが、南無妙法蓮華経とは「私は蓮華のように不思議な法に帰依します」という意味の言葉です。それを「送る」ことで誰かの病気が治ったり、誰かの子どもが大学に受かったりすると本気で考えているんです。それを学会員は「送る」という言葉で納得しているんですね。例えば「シュレピッピ」ではなく「南無妙法蓮華経」でなくては病気は治らない。「テクマクマヤコン」ではなく「南無妙法蓮華経」を送らないと大学に受からない。学会員はそう信じているんです。「南無妙法蓮華経」を唱えることで仏界の命を涌現させると他人の病気も治れば大学進学も可能にすることが「題目を送る」とできると信じているんですね。どう考えても怪しい宗教です(笑)。

学会員が使う言葉に「なかんずく」というのがあります。これは日蓮正宗の人も同じように使ってます(笑)。「中でも」って言えばいいものを、何かしら勿体つけていかにも大変なこと重要なことであるかのように「なかんずくこの大聖人の仏法では…」と言います。一徃と再往も使います。文上の意味と文底の意味するものがあるという、釈迦(ではないが)の説いた法華経がなぜ末法の今に力があるのかというときの言い訳に使いますね。命が汚れている。魔にやられた。境涯が低い。他にもたくさんあります。一つ一つ考えると、これらを何の疑問もなく、つまり学会員は何も考えずに当たり前のように使っているということです。

私はこのブログで学会員さんに一貫して「自分の頭で考えてください」と繰り返しています。それは自分の頭で考えることさえできれば、創価が宗教ではなく詐欺だということがすぐにわかるからです。言い換えれば、自分の頭で考えない限りは創価を宗教だとしか思えないままになると言うことです。つまり学会員は自分の頭で考えることができなくなっているということです。自分の頭で考えることができなくなっている人に「自分の頭で考えてください」と言っても、自分が自分の頭で考えているかどうかも考えることができないので難しいんですよね。だから、とってもわかりやすい例をたくさんあげて、自分で考えていなかったことに気づく機会ができればと、こうして何度も同じようなことを言い続けています。

前スレでも少しだけ言いましたが、宗教とは根拠のないことを信じることができるかどうかです。つまり人間は考えることをやめないと信じることができないということでもあります。宗教と哲学は同じ線の上にあるような気もしますが、全く違います。哲学とは自分の頭で考えるところから始まります。宗教とは自分の頭で考えることをやめるところから始まります。例えばキリスト教では、絶対唯一神が本当にいるのかどうかを自分で考えても信じることはできません。考えることをやめて神様はいるんだと信じるところから信仰が始まります。神様がこの世を1週間で作ったと頭で考えても理解はできません。理屈に合わないからです。でもキリスト教を信じるということはそれを信じるしかない。人間は猿が進化したと頭ではわかっていても、信仰の上ではアダムとイブがエデンの園から追放されて人間になったと信じるしかないんです。信仰上ではビッグバンなんてありえない。

例えば幸福の科学では大川隆法総裁がこの世界を作り出し、過去において釈迦やキリストをも教化した最高神エル・カンターレだということを信者は信じています。本当に信じているかは別にしても、教義上ではそういうことになっていて、信者もそれを信じていることになっている。日蓮正宗と創価学会の教義でも日蓮は過去において釈迦をも教化した上行菩薩の再誕だと自覚したという教義になっています。そして日蓮正宗の信者も創価学会員もそれを信じています。やはり本当に信じているかは別にしても、誰かに聞かれたら「その通り」と答えるしかない立場にあります。言ってることのレベルは幸福の科学も日蓮正宗も創価学会も同じなんです。それを信じるかどうかという点に関しては宗教なんですね。つまり自分の頭で考えたら到底信じることができないことを信じさせる力が宗教にはあるということです。そしていつも言うように、信じるのは自由です。勝手です。勝手ですが、創価学会の場合には「バチが当たる」とか「魔にやられる」と言った脅し文句で強引に信じさせ、お金を出させるところです。信じるのは勝手ですが、それによって自分も周りも不幸にしている。この現実がわからないでいるから問題だと言っています。幸福の科学やその他の新興宗教も似たようなものですが、ここでは創価を問題にしていますので、その他の新興宗教に関しては言及しません。

そこで話は戻りますが「題目を送る」という、学会員が普段から普通に使っている言葉。これ、自分の頭で考えていないということのわかりやすい例だということです。創価が会員に信じさせていることは、会員が自分の頭で考えれば到底信じることなどできないことばかりです。「お金を出せば出すほど功徳がある」「選挙支援は最高に功徳がある」「聖教新聞をたくさんとったら幸せになれる」「創価を疑えば子どもに何が起きるかわからない」「脱会すれば必ず地獄に落ちる」普通なら「はあ?何言ってんの?あたまダイジョーブ?」ってことをマジ顔で言うんです。なぜ言えるのか。もちろん自分で考えることができないからです。「自分の頭で考えてください」と創価脳に言うと、もちろん「自分の頭で考えている」と言います。でも即座に言えるということは考えていない証拠です。自分で考えてくださいと言われて、考えもせすに考えていると言えるのは考えていない証拠だと思います。創価脳は創価についてはハナっから考えようとしません。私がそうでしたのでよくわかります。考えようとしたら矛盾がどんどん出てきてしまってどうしようもなくなって、恐ろしくなってやめてしまうんです。そんな恐怖に耐えられなくなる。だから薄々は感じていても、それとともに襲ってくる恐怖心は無理にでも打ち消さなければ頭がおかしくなってしまいそうになるほどです。これがマインドコントロールなんですね。

人類史に残る方法序説で有名な大哲学者デカルトは「神の存在証明」を書きました。大学生のとき、これが哲学の授業のテーマだったので多少は知っています(笑)。神が存在することを哲学的に証明しようとする論文です。デカルトは完全無欠の神の存在が哲学的に証明されれば、これほど完璧な哲学は他にないと考えたようです。しかしこれほどの大哲学者であっても神の存在証明はできませんでした。できなかったからこそ、それ以降のヨーロッパの哲学者は神の存在については哲学では不問とし、ニーチェ以降に至っては神は存在しないということが前提となっています。哲学、つまり人間が考えるということと、神の世界は全く別のものだというのが彼の結論であり、人間がものを考えるというところに信仰は成立し得ないということなんだろうと思います。

創価が宗教ではないということを理解するには、自分の頭で考えること、つまり哲学することが必要だと思います。哲学と言っても難しいことを考えるということではありません。目の前にあるありのままのものをありのままに認識するということです。これは原始仏教と言われる釈迦の教えと同じです。釈迦は宗教を解いたわけではなかったと思います。釈迦の教えはまさに哲学だった。その頃の社会で苦しむ人々の現実に触れて、人々がどのようにして苦しみから脱することができるのかを「目の前の現実を正しく見て、正しく自分で考えることから始めましょう」と個別に説得したのだと思います。それがあまりにも素晴らしい教えだったので、後世の人が釈迦自身を神様のように崇めて、いつしか釈迦自身を信仰の対象にしたり、釈迦を仏像にして拝んだら功徳とかご利益があるなどといった、釈迦以前の土着信仰と同じにして広めてしまったのが仏教として広まってしまったのだと思います。そういう意味では本来の釈迦の教えは宗教ではなくて偉大な哲学だったと思います。後世の権力者たちが勝手に都合よく変えておすがり信仰にしてしまったのだと思います。奈良の大仏なんてその最たるものだったろうと思います。

「題目を送る」「魔にやられた」こんなもの仏教以前の何千年も昔の土着信仰の発想です。それを世界で唯一正しい宗教だと何も疑わずに信じているのが創価学会員さんです。釈迦は何かを拝んだら幸せになれるとか、題目を送ったら他人の病気が治るなんて言ってません。題目を送ったら他人の息子が東大に入ると本気で信じているのが学会員です。あまりにも稚拙です。でもそれが稚拙なことだとは気づかない。自分で考えてない証拠です。

ということで、今回のテーマは『自分で考えるということ』とさせていただきます。私も7年前に創価が詐欺だと気づく前まで、本当に自分で何も考えていなかったなとつくづく思います。皆さんも覚醒した時はきっと同じようにショックを受けたと思います。そして愛する家族が今だに何も考えることができない創価脳だったりすると、これほど辛い日々もないと思います。そこで今回は、自分が物事を自分で考えていなかった創価脳時代と、考えるきっかけとなった事やその後の自分の変化も含めて、学会員さんに向けて「自分で考えることの必要性」について思うところをお話ししていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

この対話ブログが伝えたいこと

みなさまお待たせしてすみません。
やっと新しいスレッドを書きます。
今回のテーマは『この対話ブログ伝えたいこと』です。
もちろんブログ主である私が伝えたいことについても書きますが、みなさんにもぜひ「このブログを通じて伝えたいこと」を書いていただけると嬉しいです。
そこでまず私がこのブログを通じて伝えたいことを書きます。
新興宗教団体が自分とこの教義がどんなものであろうと、途中でどんなに変えようと勝手なわけですから、そのことに部外者の私が口をはさむつもりはありません。挟んだところで何がどうなるわけでもありませんし、創価の教義を普通の人よりは知っているだけバカバカしいです。つまり、このブログは創価や日蓮正宗の教義のここがおかしいとかいうことを指摘するような場所ではないということです。そんなの言えば言うだけバカバカしいと言うことがよくわかっているからです。なぜかと言うと、創価学会は宗教ではなく詐欺だからです。
このブログでは創価が詐欺だと言うことに学会員さんに気づいてもらうために「創価では教義も詐欺の道具だから信じるに値しない」と言うことを伝えるために、創価のデタラメな教義内容にも触れることはありますが、決して「創価の教義のここがおかしい」と言ったことを伝えることに何の価値もおいてはいませんし、基本的に創価の教義は会員を騙すために適当に捏造したものなので、それに対して日蓮正宗の信者さんもムキになって教義論争をしているのも「何だかなあ」と思います。
かと言って私は日蓮正宗を批判のターゲットにはしません。教義については「何だかなあ」とは思いますが、日蓮正宗が信者を騙してお金を巻き上げていることはないでしょうから、特に批判はしません。批判はしませんが、協力する気もありませんし、何の興味もありません。
よくネット上では創価学会員と日蓮正宗の信者(元学会員)が日蓮の教義についてああだこうだと汚い罵り合いをしているところがありますが、それに何の意味があるのか一度考えたらどうですかと言いたいくらい無意味なことをやっていますよね。単に自分の考えが否定されてお互いに頭にきて喧嘩してるだけです。そう言った意味では創価学会員も日蓮正宗の信者さん(元学会員)も目くそ鼻くそだなと思っています。このブログにも喧嘩腰で殴り込んでくる創価の鉄砲玉がいました。最初はそんな鉄砲玉にも相手をしていましたが、たいていは途中で捨て台詞を吐いていなくなりました。また、創価を批判していることもあり、ときには日蓮正宗の方が自分たちの仲間だと思って「一緒に頑張りましょう」みたいなことを言ってきましたけど、私は「いやいや、私は日蓮正宗が創価を破門するまでは創価と一緒に会員を騙してきたことに対する謝罪がない限りは仲間だなんて思えませんよ」とはっきり言うと黙って去っていきました。
このブログが新興宗教団体である創価学会のことを批判しているので、私が宗教的なことに興味があると思い込んでいる方もいらっしゃるようですが、そんなことは一切ありません。私がここで話をしているのは創価学会という犯罪集団がやってきた犯罪についてです。宗教について語っているのではなく、創価学会が会員に対して犯してきた犯罪について語っています。そこをたまに勘違いされる方が、自分のブログで「シニフィエは日蓮仏法について何もわかっちゃいない」などと言っているようです。わからなくて結構です。わかりたくもありませんし、私は最初から日蓮仏法の真偽についてなど何の興味もありません。本門の本尊がイワシの頭でもカラコピでも「ああ、そうなんですね」ぐらいで済みます(笑)私がこのブログで伝えたいことは、創価は会員を騙して不幸にしているということ。言い方を変えれば、会員は創価から騙されて不幸になっていること。私は創価の宗教性について述べているのではなく、創価の犯罪の実態について述べているのだということを、ここではっきりと言っておきたいと思います。
カラコピに祈るだけでどんな願いも叶うと言って入会させて、だんだんと活動させる中で「お金を出せば出すほど幸せになれる」と言われても疑問に思えないほどまでに思考停止させて毎年毎年驚くほどのお金を出させたり、公明党の票をとればとるほど幸せになれると信じさせてしまったり、それを疑ったり活動をおろそかにしたらとんでもなく恐ろしいことが起こると脅されることにも何も疑問を持つことなく、言われるままに活動を続けている学会員が現実にたくさんいます。
かつての自分がそうだったこともあるので、同じように騙されて不幸になっている人がいるのを知ってから、いても立ってもおれずに「もしよかったら自分で考えたらいかがですか?」と言っています。
私にとっては脱会した今となっては、創価の教義が何だろうと知ったことではありません。創価脳が信じている本尊が、破門された日蓮正宗の御本尊を部分的に勝手に修正したカラコピだろうとガチャポンのおもちゃのようなプラスチックだろうとどうでもいいことです。こんなものを拝んだら世界中の人が幸せになると本気で信じている人に「それが自分の考えで出てきた結論なのかをもう一度自分で考えてもいいのではないですか?」と問いかけています。
「『あなたはこのカラコピを拝んだら幸せになれるという宇宙根源の法則を世界中に広める使命を持って生まれてきたんだ』などと言われて自分でも知らないうちに訳もわからず信じていませんか?」というように、教義がどうだこうだと言っているのではなく「自分のことは自分で考えて自分で決めていますか?」と問いかけています。あるいは「あなたが信じているものが、客観的にはとても信じがたいものであることをわかった上で、それでも信じていますか?」と問いかけています。信じる信じないは個人の自由です。イワシの頭でもカラコピでも日本に住んでいる限り、個人が信じることを強制されることはありませんし、してはいけません。すれば犯罪です。創価はそうした犯罪を繰り返してきました。
例えば創価以外のよその新興宗教が「あなたは先祖の霊を粗末にしたので祟られている。しかしこの100万円の壺を買えば先祖供養になってあなたは守られる」と言われて買ってしまう信者さんを、学会員でさえありえないと思うのに、創価から「このカラーコピーにお題目を唱えるだけで絶対に幸せになれる」と言われてホイホイ信じてしまっているのが学会員です。そんな学会員さんに対して「自分は大丈夫なんだろうかと考えてみてもいいのではないでしょうか?」と問いかけています。
こうした問いかけは、自省も含めた意味でやっています。あのとき何でこんな風に問いかけてくれる人がいなかったのか。いや、いたのかもしれません。いたのだと思います。友人は心底心配して言ってくれたと思います。でも私の方が聞く耳を持たなかった。正法を貫こうとしたときに競い起こる魔なのだと思い込まされていました。自分のことを真剣に心配して忠告してくれる友人の話を聞く耳を閉ざしていたのは自分だったのです。そういう意味では私はひどい人間でした。創価によるマインドコントロールによって騙されていたとはいえ、本当に申し訳ないことをしたと今でも悔やんでいます。
このブログを続けているのは、そんな後悔の思いを少しでも減らせればとの思いもあるのだと思います。経験者だからこそ語れる創価学会の犯罪があると思います。経験者だからこそ思考停止されている学会員にでも伝わる何かがあると思うのです。
たぶん、このブログに私が書いた文章は、自分でもびっくりするほどの量になっていると思います。各スレッドだけでも515になり、コメントに書いたものを加えると、何十冊かの本になると思います。しかしそこで言っていることはただ一つ。
創価学会は宗教ではなく詐欺です。
伝えたいのはこれだけです。あとは自分で考えてください。教義がどうとかどうでもいいです。前スレで学会員の数は明らかに減少していると述べてきました。しかしそれもこれむ全ては「創価学会は宗教ではなく詐欺です。」ということについて考えてもらうためのきっかけとして話を展開しているにすぎません。ここで述べることは全て「創価学会は宗教ではなく詐欺です。」ということに帰結します。これを現役の学会員さんに自分で考えてもらいたいがために、いろんな形を変えながら、いろんな角度で話をしています。
この対話ブログを通じて、私が伝えたいことは
『創価学会は宗教ではなく詐欺です。』
これに尽きます。このブログにたどり着いた学会員さんが「なぜここまで言うんだろう?」と自分で考えるきっかけとなってくれたらいいなと切に願っています。

折伏もしない創価学会に未来はあるのか?

明けましておめでとうごさいます。

今年もよろしくお願いします。

今回も大晦日は親しい友人たちと我が家で年越しパーティーを開き、お酒や年越し蕎麦をいただきながら楽しく新年を迎えました。元旦は実家に兄弟とその家族が集まり、いつものように宴会したりお年玉を渡しあったりと普通のお正月を迎えました。

父が生きていた頃は、まだ創価が破門される前でしたから、12時を回る頃に近所の日蓮正宗のお寺に行き、翌朝から会館に行き、そのあとで実家で父が導師となり全員で勤行をしてから宴会をしていました。父が他界し母が認知症で施設にいる今は、学会員は兄夫婦だけなので、兄夫婦だけがまだある実家の仏壇に題目三唱するだけです。無駄に豪華な仏壇に手を合わせるのは、年に数回訪れる兄夫婦だけです。施設にいる母が亡くなったら仏壇も父の名前入りの常住ご本尊も処分しようと思います。兄夫婦が引き取るといえばそうします。しかし子どものいない兄夫婦が引き取ってもそれで終わりなんですけどね。あ、その前に創価は消滅してるでしょうね。

近所のお寺で除夜の鐘を突かしてくれるという話しを聞いていたので、友人たちと年越しパーティーをしているときに、みんなで行ってみようとしたのですが、大人気ですごい行列ができていて諦めました(笑)昔なら近所のお寺で除夜の鐘を突くなんて発想はなかったよなあと、しみじみ自分の覚醒ぶりを自覚しました(笑)。

創価学会は2014年を会則(実際には教義を180度変えてしまった)を変更して、日蓮正宗以外の御本尊は創価と同じ力があるという教義に変更しました。日蓮正宗の弘安2年の大御本尊は御本尊としては認めないが、日蓮宗や顕正会や立正佼成会の御本尊は創価の御本尊と同じだと宣言しました。しかしそれを知っている学会員がどれだけいるのでしょうね。創価学会員でなくても、顕正会の人でも人間革命できるという教義に変更したことをどれだけの創価学会員が知っているのでしょう。今の創価学会の教義ではべつに学会員でなくても、そして日蓮を末法の御本仏とはしていない日蓮宗の御本尊に題目を唱えても仏界を涌現できる。それは顕正会でも妙信講の御本尊でもいい。創価を破門して御本尊を出さなくなった日蓮正宗でなければ、あとは皆同じように力がある御本尊だという教義になりました。だから創価学会は特に折伏しなくても、日蓮宗や顕正会でもいいですよという立場になったのです。つまり「創価学会は広宣流布やめました」というのが2014年の会則の変更だったんですね。もっと言うなら「べつに学会員にならくてもいいっすよ。折伏やめたし」ってことだから、当然学会員は減る一方だし、今の学会員が歳とっていなくなったら創価は自然消滅するしかないですやん。それ以上に脱会者続出してるから、自然消滅する前に詐欺だとバレて崩壊するでしょう。

創価も変わりましたよね。でも肝心の会員さんにはそんな大変更の話しをほとんどしないんです。しかしこうなると今まで広宣流布目指して全てを投げ打って頑張ってきた学会員さんは何だったんだってことになりますから、この「創価学会は広宣流布やめました」を大っぴらに言えないんですね。じゃあ何で会員にも言えないような教義に変更したのかと言うと、創価のカラコピ御本尊にも力があるということにしないといけなかったからです。日蓮の御本尊ならどれでも力があることにしないとつじつまが合わないからです。でもこのつじつまを合わせようとすると日蓮正宗の御本尊も力があることになるから、そこは「受持しません」といったわけのわからない言葉で濁したんですね。いずれにせよ創価は会員にも説明できない苦し紛れに変更した教義で会員を騙くらかしています。会員は「疑ったらバチが当たる」と脅されていますから、どんなにおかしな教義に変わっても信じるしかない。

1991年に破門されて御本尊を下付されない創価は無断でカラコピ御本尊を作って会員に買い替えさせました。ちなみにあのとき買い替えさせられた当時の学会員が200万人だったとしても、3000円×200万人=60億円です。ただのペラペラのカラーコピーで少なくとも60億円は儲かったんです。

一人3000円集めただけでこれだけもうかるんです。活動家が100万人になっても新聞と財務でどんだけ会員のお金をふんだくられているのか、会員員だけがわからないでいるんです。

折伏しないで減っていくだけの創価学会は今後どうなるかというと、今いる学会員、つまりまだ騙される学会員から新聞と財務と墓と、その他の書籍やら何やらを買わせるだけ買わせて、採算がとれなくなったところで解散するんじゃないでしょうか。

いずれにせよ創価に未来はありません。学会員さん、新年勤行会に参加している学会員の様子を見て、これから創価が世界に広まると本気で思えますか?思えるとしたら、折伏しなくなった創価がどうやって広まると思いますか?一度考えてみてください。

と言うことで、2019年最初のテーマは「折伏もしない創価学会に未来はあるのか?」とします。この10年で創価学会員が激減しているのは新年勤行会を見ればもはや言い逃れなどできません。それでなくても座談会をみればわかりますよね。今、女子部の会合ってどうなんでしょう。未来部の会合って成り立ってるんでしょうか?せいぜい新年勤行会に無理やり連れて来られるのが関の山でしょう。どう考えても創価学会に未来はありません。今いる創価脳がお金を貢ぐだけ貢いだところで終了です。10年持つかどうかってところでしょう。じゃあまた折伏すれば創価学会員は増えるでしょうか?そんな信教の自由も基本的人権も無視するような行為が日本の社会で許されるわけないですよね。創価もそれがわかっているからやらなくなったんです。ではどうすれば創価学会は増えるのか?広宣流布ができるのか?誰が答えることができますか?いたら是非教えて欲しいです。誰かが言ったように中国で爆発的に学会員が増えますか?(笑)あと何年したら中国が信教の自由を認めるんでしょうね。それまでに日本の学会員がいればの話ですが。

今の創価をとりまく現実を客観的にみれば、創価に未来などありません。今の年寄りばかりになった学会員が出すお金がなくなれば終了するしかないです。現実がすべてを教えてくれています。

 

 

来年の抱負

先月でしたか、このブログが表示されなかったり、アクセスが不安定だったりしたことを受けて、今年の5月にあったように、また強制削除されちゃかなわんなと思って、タイトルも含めてブログから創価学会の文字を消したところ、これまで「創価学会」でググッたときに公式HPとWikipediaの次に表示されていたこのブログが表示されなくなりました。そのせいかはわかりませんが、以前1日6000あったアクセス数が3500ほどに下がってしまいました。なので1000万アクセス達成が来年の10月ではなく2020年になるかもしれません。それでも強制削除になったりするよりはいいかと思います。

アクセス数をあげるためだけなら、創価脳とバトルすれば撥ねあがるのはわかっているのですが、もうそんな不毛なことをやる気はありません(笑)。創価脳とのバトルでアクセス数が上がっても何の意味もないばかりか、ブログの信頼性を失うことになります。ただ、創価に疑問を持った学会員さんがこのブログにたどりつきやすくする必要はあると思います。なので、ブログのタイトルの先頭に「創価学会とは」とつけました。

とにかく学会員さんに創価学会の現実に気づいてほしい。目の前の現実をありのままに見てほしい。自分の頭で考えて行動してほしい。そのきっかけになるように、創価学会の現実の話がたくさん集まったブログを、学会員さんに読んでほしい。その思いでこのブログを7年間続けてきました。

ここに集まった創価学会についての話は実際の創価学会経験者が語る本当の話です。創価学会が正しい宗教だとしたら、ここの32,000ものコメントがすべてウソだということになります。もちろんそんなことを証明することは不可能です。創価学会が宗教ではなく詐欺だということは、このブログが7年間も多くの創価経験者がコメントを寄せ続けて、そのコメントにすでに845万以上のアクセスがあるという事実自体が証明していると思います。

来年でも再来年でも、創価学会が宗教ではなく詐欺だと創価経験者が語るブログのアクセス数が1000万を超えるということ自体が、とても大きな意味を持つことになると思います。 しかし創価学会が正しい宗教でなければ自分のアイデンティティを保つことができない創価脳は、このブログに書かれていることがウソでなければいけないのです。

さてこのブログに書かれていることにウソがない事は明白です。これだけの量のウソの話をこれだけの数の人が一つのブログで語るなどというのはありえない話なのですが、創価脳からすると、このブログの内容はウソであり偽善であり、私たちは創価で嫌な思いをした恨みで悪口を言い続けているのだと思っているんだそうです。すごいですよね。自分が信じてきたものをブログで批判されただけで、ここまで頭に血が上ったりするというのも創価脳の特徴です。

私たちは「創価は正しい宗教である」との自分の考えが間違いだったことに気づいたことを語っているんです。そして同じように今でも間違っている人に対して「間違ってるんですよ」と呼びかけています。学会員の悪口を言うために書いてるわけじゃないことなど、普通の人がみればわかるんですが、創価脳には自分が信じているものや自分の人生を丸ごと否定されているように感じてカッとなるようです。

例えばこのブログで最後の創価脳との対話の試みとなった鯛焼きさんは、自分で『シニフィエさんとの対話 鯛焼きとシニフィエさんとの対話記録を中心に、アンチ創価の偽善を暴くブログ』という名のブログを立ち上げて、このブログにあるような創価経験者による創価批判が偽善であることを暴くつもりだったのでしょうが、結局のところ学会員にさえ相手にされないまま、何一つ暴くこともできないで放置されています。そいう意味では鯛焼きさんのブログは今の創価学会の姿をそのまま象徴しているような気もします。

先ほど久々に鯛焼きさんのブログをのぞいてみたら、ほぼ空き家状態になっていて、鯛焼きさん自身も全くやる気がないようでした。最初はシニフィエの偽善を創価の正義で暴くのだと鼻息も荒かったのですが、その勢いも3ヶ月ほどでなくなりました。誰も反応しないのであればやる気も起こらないでしょうけど。ただ私の名前を勝手にブログのタイトルに使っている以上、鯛焼きさんもブログの管理者としての責任はあるのではないかと思います。と言うか、「対話ブログの偽善を暴く事はできないばかりか、支部長である自分の意見に学会員の誰にも相手にされませんでした」ということを晒しているだけなのではないでしょうか。べつに蒸し返すつもりはないですが、自分の名前がくだらんブログのタイトルになっているのは気持ちのいいものではありませんからね(笑)

ということで、いよいよ2018年も押し迫ってまいりました。今年一年、みなさんはどうでしたか?私は昨年の秋からとってもラッキーなこと続きで、いろんな素晴らしい人やモノや土地との出会いがあり、仕事やプライベートでも信じられないほどのいい年だったです。そういう意味ではあっという間の2018年でした。創価脳的には真っ先に疑獄行きのシニフィエのはずが、どうしてなんでしょうね(笑)

みなさんがおっしゃるように、創価と関わっている限り、幸せにはなれないと思います。それはいつまでも暴力団と関わって悪いことをしている限り幸せになれないのと同じようなものです。1円だろうが創価に財務をするって事は暴力団にお金を貢いでいるようなものです。とにかく何とかして創価との関わりを断ち切って、創価とは全く関係のない人生を送れるように頑張って欲しいと思います。それには創価がそれだけ極悪犯罪集団であることに気づくことが先です。人によっては気づいていても簡単には脱会できない事情のある方もいるのですから、奪回しようと思えばできるというかたは、ぜひ脱会した方がいいと思います。べつに脱会するからと行って幹部と話をしたりしないといけないわけではなりません。今の創価学会は、取り立てて会員を増やすような事はしません。昔はあそこまで強引にやってきた折伏なんて、今となっては嫌われるだけだと執行部も方針を変えたようです。折伏はかえって社会的な信用をなくすと気づいたんでしょう。聖教新聞も販売店に電話一本で断ることができます。脱会も御本尊を脱会届けと一緒に本部に送りつけてから、地元の幹部にその旨を報告すれば、地元の幹部だってどうすることもできません。問題は家族に創価脳がいるかどうかです。自分が脱会すると親が半狂乱になって縁を切ると言う。妻が離婚すると言い出す。家族が崩壊するかもしれない。学会員さんが脱会するときの悩みで一番多いのは創価脳の家族がいる場合のようです。

でもそんな困難を克服して、見事に脱会し、家族全員が覚醒して幸せになった方のコメントをたくさんいただいています。もちろんまだ創価脳家族とのバトルが続いていて悩んでおられる方もいらっしゃいます。そうしたよかったこと悪かったことも含めた創価問題の現実をできるだけたくさんの人に語っていただいて、これから脱会に向けて頑張ろうとされている方へのエールになればと思います。

このブログは今月で8年目に突入しました。少なくとも10年目のはじめ、つまり再来年のはじめには1000万アクセスを達成します。その時までに一人でも多く創価学会と縁を切ることのできた学会員さんが増えるように頑張ってこのブログを続けて行きたいと思っています。どうか今後ともよろしくお願いします。

あ、今回のテーマですね(笑)

みなさんの『来年の抱負』としましょう。皆さんそれぞれにいろんなことがあったと思います。中には匿名でもとても語れないこともある方もいらっしゃるでしょう。そんな方でも来年の抱負、あるいは具体的な目標でもいいです。いつまでに脱会します!でもいいです。とりあえず新聞やめますでもいいです。静かにそうかから去るための行動目標をこのブログにコメントすることで励みになる方もいらっしゃると思います。これまで創価で傷ついたり、財産を根こそぎ持って行かれたり、大切な家族を洗脳されたりして不幸だった経験もあるでしょう。でもここにいらっしゃる方はみんなそんな苦しみや悩みがわかる方たちです。吐き出したい事はみんな吐き出して、明るい2019年を目指して抱負を語るというテーマにしましょう。

それではよろしくお願いします。

 

 

なぜお金を出せば出すほど幸せになれると信じきれるのか?

前スレのコメントがあっという間に200を超えてしまって、スクロールが大変になって申し訳ありません。このところ仕事が忙しくて、新スレどころか皆さんからのコメントの承認も丸一日後になったりしてます。おかげさまで私は仕事も順調です。創価にしてみれば、このようなブログを運営して脱会者を増やしているような私はバチが当たって当然なのでしょうが、そんなことは一切ありません(キッパリ!)。具体的なことを言うと完全に身バレするので言えませんが、去年から今年にかけては特に思っても見ないような幸運が舞い込んできまして、これまでの人生の中でもエポックメイキングな年となりました。学会員さんは創価に逆らったり、脱会したり、ましてや他人をも脱会させてりしたら、とんでもなく恐ろしいバチが当たると思い込んでいるようですが、そんなことは絶対にないと自分の経験からもはっきり言えます。これまで相当な数の脱会者いますが、本当に脱会者が不幸になるのであれば、その現証があっても良さそうなものですけど、そんな話は聞いたことありません。脱会したら不幸になる新興宗教。そんな怪しい団体に入ろうとするのが頭おかしいです(笑)。

 

さて、今、創価の現場では財務の功徳を煽って入金額をいかに上げさせるかの戦いと、来年の選挙に向けての票集めの戦いが展開されているようです。

そこで今回のテーマは『なぜお金を出せば出すほど幸せになれると信じきれるのか?』とさせていただきます。

日蓮仏法の教義には財務をすればするほど功徳があるなどといったものはありません。日蓮の遺文にもご供養というのはお金であることや、ましてやその額が大切なのではなく、気持ちが一番大切なのですということを強調されています。しかし創価が会員に毎年煽っているのは、財務の額が多ければ多いほど功徳もたくさんある、しかも出したお金はあとから何倍にもなって返ってくる。そして逆に出し惜しみをすればバチが当たるとまで脅します。出す金額が少なかったら不幸になるとまで言うんです。これって本当にめちゃくちゃな話だし詐欺以外の何ものでもないのですが、学会員さんは言われた通りそのまま信じてしまいます。日蓮の教義に財務の額で功徳のレベルが違うという話などある訳ないんです。ましてや仏教にそんな話があるわけありません。財務は創価が会員から集めるお金でしかありません。仏教とは別の話で、組織運営上必要なお金を会員に募る寄付金です。寄付をしたら幸せになったり不幸になったりするなんて話を信じてしまう学会員がどうかしているんです。でも学会員さんは功徳欲しさになんとかしてたくさん財務をしようと必死になります。そして幹部は会員に「とにかくあるだけ出しなさい」と煽りに煽ります。会合では「功徳」「宇宙銀行」「すっからかん」「すってんてん」「宿命転換」「宿業を断ち切る」などと言う言葉が飛び交います。まるで催眠商法でバカ高い羽毛布団や健康器具を買わされる老人たちの集まりと同じです。

学会員さん、たくさんのお金を創価に貢ぎ続けたことで明らかに幸せになったのかどうか、あるいはあなたの周りの学会員さんにたくさん財務をして幸せになった人がいるかどうか考えてみませんか。財務と聖教新聞の売り上げで、創価には毎年数千億円のお金が入っています。それを何に使っているのか、創価は絶対に公表しません。会館の建設維持費や職員の給料にそこまでかかるわけがありませんし、たとえかかったとしても、その収支はお金を出している学会員に公開するのが当然だと私は思いますが、学会員さんはそんなことをする必要はないと思っているんでしょうね。私も学会員だった時は創価学会が収支を公表しないことを疑問に感じませんでした。創価を疑うだけで不幸になると怯えてましたので、創価については何があろうと一切疑うことをしませんでした。疑問が浮かんでもすぐに打ち消して考えないようにしていたので、学会員が物事を考えないと言う現実はよくわかります。元気だと言われながらも池田が8年も姿を現さないことに疑問を感じないことわかります。考えないようにしているからです。だから『お金を出せば出すほど幸せになれるという創価学会の指導』を信じている学会員さんは『自分で考えていないから』だと言うこともよくわかります。ちょっとでも自分で考えたら『お金を出せば出すほど幸せになれるという創価学会の指導』がおかしいことだと誰にでもわかります。一般の人からすれば狂気の沙汰です。例えば幸福の科学の大川総裁は自分こそがこの世界を創出した最高神であるエル・カンターレだと言っていて、それを信者は信じています。一般の人からすれば「バカじゃないの?」ってしか思わないことでも、信者さんは本気で信じているんですね。学会員が『お金を出せば出すほど幸せになれるという創価学会の指導を信じている』のも同じことです。幸福の科学については学会員さんも一般の人と同じように「バカじゃないの!」と思えますが、学会員さんは同じように「バカじゃないの?」と思うような創価の指導を信じてしまうんです。不思議ですよね。

さて、今回のテーマは財務です。皆さんが創価脳時代に信じてしまっていた財務に関する「バカじゃないの?」の話をお願いします。今考えたら絶対に信じるわけがないような「バカじゃないの?話」を振り返ってみてください。よろしくお願いします。

ちなみに私も「たくさん財務をすれば経済的に守られる」と信じていましたので、できるだけたくさんやろうとしてました。ほんとにアホでした。私の両親や兄夫婦も揃って家が何軒か建つほどの財務をしてきました。父は原因不明の突然死。母は認知症で子供の顔すらわからないで施設で暮らしています。兄夫婦は子供もなく、事故と病気で二人とも障害者となりました。これが現実です。

学会員さん、日本では誰が何を信じようと自由ですから、学会員さんが創価の指導を信じてたくさんの金を創価に貢ぐのも自由です。でもそのお金が何に使われているのか教えられないことや、自分も含めた学会員さんが創価にお金を出し続けて実際に幸せになったのかどうかを考えてみるのも自由なんですよ。創価をうたがったら不幸になると怖がっている自分に気がつくことも自由なんです。ここらで一つ目の前の現実を見た上で、自分の頭で考えてみてはいかがでしょうか。

目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち 2

今回のスレッドのテーマである『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』の「目の前の現実」とは、もちろん創価学会の現実を意味しています。そして創価学会員にとっての目の前の現実とは、明らかに創価学会は高齢者ばかりになってしまっていて、今後はさらに会員が減少し、近いうちに組織として維持ができなくなるだろうということです。創価学会が目指しているのが世界広宣流布であるならば、もはやその望みは消え失せたという現実のことを指しています。しかし創価学会員にとって、その動かしがたい現実を認めるわけにはいかないので、もはや高齢者しかいない創価学会の現実の話には意地でもふれないようです。しかしこの現実にふれないという創価学会員の態度自体が『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』であることを暴露していることにほかなりません。そして創価学会を運営指揮している最高幹部たちは、この創価学会の現実を完全無視して、あたかも創価学会が世界中に広まり続けているかのようなことしか学会員には伝えません。聖教新聞の内容も、本部幹部会の会長スピーチも、この創価学会の現実にはないウソをつき続けているというのが現実です。一般の学会員も、創価の現実を認めるわけにはいかないので、創価中枢のあきらかなウソでも信じるしかありません。池田は元気だと言われたら、言われたままを信じるしかないのです。
つまり創価学会員は、自分の人生を否定したくないという理由で、創価中枢のあきらかなウソでも信じるしかありません。多少自分でもおかしいなとは思っても、今さら自分の人生を否定するわけにはいかない。だから創価学会の現実をスルーしなければ生きていくこともできなくなって、言われたとおりに聖教新聞を何部も買い、財務をさし出し、公明党の票を集めるために自腹で駆けずり回ります。創価の言う通りのことをしなければ生きていけない自分になっていることを自分でもどうすることもできないでいる。だから日々「これでいいんだ」と自分に言い聞かせながら活動しています。本当の自分を必死で押し殺しながら生きていくしかないんですね。こうした毎日を送っていれば精神的におかしくなるのが当然だし、実際におかしくなっている学会員が本当にたくさんいます。これも創価学会の現実です。

創価学会員で目の前の現実を直視することができた方たちがこのブログにたどり着いて、やっぱり自分が気になっていたことは間違いじゃなかったんだと気づきます。そしてそうした方が次々と勇気を出して自分のこれまでの創価に依存するだけだった人生と向き合い、自分の頭で考え、判断し、自分の力わわ信じて、創価との関わりを断ち切って、新しい自分の人生をスタートされています。もうそんな方が数えきれないほどいらっしゃいます。これもある意味で創価学会の現実なんです。このブログはそんなたくさんの方の生の声が集まっているからこそ、ここまで大きくなりながら続いてこれました。おそらく来年の今頃は1,000万アクセスを突破しています。創価は宗教ではなく詐欺だとわかった創価経験者の声が集まったサイトのアクセスが1,000万件を超えるということ。これもまぎれもなく創価学会の現実であると言えます。この事実は創価学会員がいくら否定しても、スルーしても、これが創価の現実であることは間違いようもない事実です。この現実を無視したままで、どんなに創価を正しい宗教だと主張したところで、誰も相手にするわけがありません。創価脳にはそのことが理解できない。というか、実際のところ認めるわけにはいかないというのが創価脳の本音なのだと思います。だから創価の現実にはスルーするしかないんですね。

今回のテーマも引き続き『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち 2』とさせていただきます。よろしくお願いします!

目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち

自分の信じていることが正しいと信じている人にとっては、それが例えば宗教である場合、その信仰の対象であるご本尊を破壊する行為は卒倒するほど恐ろしいものだと思います。私も創価学会員のときはそう思っていたのでよくわかります。創価が宗教でさえないと気がついた今は、そのご本尊が会員を騙すためのただの詐欺の道具でしかないこともわかったので、破り捨てようと燃やそうと何の抵抗もないのは当然です。信じていたときには考えもしなかったことですが、実際にはこのご本尊を破り捨てたり燃やしても、信者が恐れているようなことなどひとつもありません。

このブログでの学会員さんとの対話でもはっきり言えることなのですが、いわゆる創価脳の際立つ特徴は、この現実を常にスルーするということです。これは学会流に言ってもいちばん重要であるはずの現証を完全にスルーしてしまうことなんですね。自分が信じているはずのことが、現実には起こらないことに疑問を感じきれないのです。だから、創価の信仰によってどれだけの学会員の願いが叶いましたか?どれだけの学会員が幸せになれましたか?どれだけの脱会者が不幸になりましたか?こうした問いにきちんと答える学会員はいません。あるいは、創価だけが世界で唯一正しい宗教ならば、創価ができてから80年経った今、学会員が減り続けて老人ばかりになっている現実をどう説明できるのですか?あなたの周りの学会員、例えば座談会や協議会に参加している活動家は、この20年でどれくらい幸せになりましたか?その幸せは学会員ではない近所の人たちと比べてどれくらいの違いがありますか?創価に貢いだお金と時間や、ご近所や職場や友人との信頼関係をも失っても、その信仰によってそれ以上の幸せを手に入れたのですか?といった質問にまともに答えることはありません。創価脳は自分の目の前の現実に対して何も言えないんです。この何も言えないという確かな事実でさえ学会員はスルーしてしまいます。おそらく実際に幸せなんかじゃないことに目を向けるわけにはいかないからなんだと思います。実際に自分も含めた周りの学会員が誰も幸せになんかなっていない事実を事実として認めるわけにはいかないのでしょう。

「池田先生はこのように指導されている」「日蓮大聖人の御書にはこのように書かれている」学会員は池田の発言や日蓮の言葉というだけの理由で、そのことが絶対の真実だと信じています。しかし、それが真実だという根拠は何ひとつないということに関してはスルーします。ただただ何の根拠もなく信じているだけなので、根拠を問われても何も言えないのは当然です。これは創価だけに限らず宗教とは総じてそうしたものです。言いかえれば、何の根拠もなく信じてしまうことを信仰と言います。つまり理論をどこかの時点で飛躍させなければ、あるいは停止させなければ信仰とはならないのではないかと思います。根拠のあることを信じることを科学と言います。根拠のないことを信じることが信仰だとも言えます。

ただし、根拠のないことを信じることは必ずしも悪いことではありません。子どもの可能性を信じること。親や恋人の愛を信じることは素晴らしいことだと思います。場合によっては神の存在を信じて生きていくことも個人の自由です。そういう意味では信仰は人に生きる希望を与え、モラルを維持し、社会の平和と秩序を保つ力となる場合もあると思います。また人間の信仰心から生まれた素晴らしい芸術作品の数々が、宗教の存在価値を証明してくれていると思います。だから少なくとも私は宗教そのものを否定する立場ではありません。

しかし問題は、信仰に必ず存在してしまう「根拠のないものを信じなければ成り立たない宗教の性質」にあると思います。つまり根拠のないものを信じることを正当化してしまえる部分を利用されてしまうところです。

創価学会はこの信仰の最大の特徴にして最大の弱点を詐欺の道具として、多くの日本人を騙してきたのです。池田や日蓮の言葉が正しいと何の根拠もないことを、それが信仰だということによって正当化され、学会員はいつの間にか疑うことを放棄してしまうのです。これを信じたら幸せになれる、何でも願いが叶う、最高の人生を送ることができる。いつのまにか何の根拠がなくてもそう信じてしまうんですね。そう信じた方が楽だから。そう信じることで希望が湧いてくるから。つまりこれを信じたら幸せになれると言われ、その行為で本当に幸せになれるかどうか自分で考えることまでやらなくなるんです。池田が、日蓮がそう言っているから間違いないんだ。自分以外にもこんなに同じように信じているんだから、きっと間違いなんてあるわけない。誰よりも幸せになれる方法に巡り会えた自分はそれだけでも幸せなんだ。そうやっていつの間にやら何の根拠もないことを信じてしまうんです。

そしていったん信じてしまうと、多少のおかしなことはたいしたことではなくなります。この本人にとっては多少のおかしなことが、客観的に見ればじつはとんでもなくおかしなことなのですが、自分で物事を考えるより、信じているものの言う通りにしていれば絶対的な幸せになれると信じてしまっているので、自分で物事を考えることを忌み嫌うようにさえなります。あるいは池田や日蓮に従うことこそが自分の本来の正しい姿だと思いこんでしまいます。

これは創価に限らず新興宗教が信者にかけるマインドコントロールの典型なパターンなので、普通に考えれば誰にでもわかりそうなものなのですが、何かを信じることにわけもなく喜びを感じてしまっている信者にとっては、もうその現実がたいした意味を持たなくなってしまっているんですね。だからどんなに目の前の現実を指摘しても、その現実が何を意味しているのかがわからないので、何の躊躇もなくスルーできるのだと思います。

学会員にとって創価を信じる根拠とは池田や日蓮が絶対に正しいという前提で成り立っていますが、一般常識で言えば池田や日蓮の言うことが正しいという根拠など何ひとつありません。もうこの時点で学会員の言うことは破綻しているのですが、そのことに学会員は気づきません。

ということで、今回のテーマは『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』です。

学会員にとっての目の前の現実とは、もう衰退に向かって突き進んでいる創価学会そのものの現実です。自分の周りの学会員がひとつも幸せになってはいないという現実。病気や貧困から抜け出したいという願いを何十年祈りつづけても、学会員ではない周りの人たちと何の違いもないどころか、お金も時間も創価に捧げてきたぶんだけ、創価以外の人よりも確実に多くのものを失ってきたという現実。創価以外の宗教を否定し、先祖代々の墓に入ることも拒否した結果、まともな親戚づきあいもできなくなったり、いつまであるかもわからない貧相な創価の墓苑に埋葬されるしかないという現実。こうした創価学会員の目の前にある厳しい現実を、学会員自身が完全にスルーしてしまっている。これこそが創価学会員の現実だと思います。

マインドコントロールによって騙されているという自覚をもてない学会員。しかしその学会員の数も目に見えて少なくなっています。座談会の現実を見れば明らかですが、それでもその現実をスルーしているのが残された学会員なのです。もはや創価学会活動家は「残された学会員」と言えるでしょう。もう若い学会員がいないのは明らかです。もう座談会に出席するような未来部はわずかになりました。女子部も地区にいるかいないかです。男子部も目に見えて減っています。いるのは圧倒的に婦人部です。その婦人部に引っ張られるように壮年部がいます。例えば10年後にはこのメンバーがそのまま歳をとって座談会にいるでしょう。未来部はもちろん男女青年部の姿はありません。今より10歳歳をとった壮年部婦人部がいるだけです。いや、高齢者の方は10年で施設に入ったり亡くなる人も出てきます。10年で今の半分になると思います。それも高齢者ばかりの座談会です。聖教新聞は誰が配達・集金するのでしょう。選挙のウグイス嬢は誰がやるのでしょう。会館警備や会合運営は誰がやるのでしょう。未来部の運営は誰がやるのでしょう。会館の清掃や植栽の維持管理は誰がやるのでしょう。みんな高齢者の学会員がやるしかないんです。もうすでに創価の現場は半分以上が高齢者です。これが創価の現実なんですが、それでも活動家は「世界広布新時代」を信じているんです。目の前の現実を見ればそんなものが信じられるわけがないんです。だから学会員というのは『目の前の現実をスルーしなければ生きていけない人たち』だと私は思います。

創価の現実と世界広布新時代のあまりのギャップをどう考えても説明なんかできません。だから目の前の現実をスルーするしか学会員には生きる道がないのだと思います。創価脳は自分が騙されていることに気づく気はありません。10年後の創価がどうなっているか、真剣に考えることもできないのが創価学会活動家の現実です。

 

何かを信じるということ 2

  • みなさん、連日のたくさんのコメントありがとうございます。

このところ仕事が忙しくて、みなさんからのコメントを承認するだけが精いっぱいで申し訳ありません。とりあえず今回のテーマも『何かを信じるということ  2』とさせていただきます。

そこでもう一度、私の考える『何かを信じるということ』についての話をします。

前スレでおじいさんとおばあさんの話を再掲しました。おじいさんは死ぬまで薬が本物だと信じていました。おばあさんは途中で薬が偽物だという噂を聞いて、実際に自分で真実を確かめたところ、薬が偽物であることに気がつきました。そこでおばあさんはおじいさんにも薬が偽物だと気づいてもらいたくて、必死に話をしますが、おじいさんはまったくおばあさんの話を信じようとはしません。それどころか、おじいさんはおばあさんが薬といっしょに自分まで信じなくなったと怒りだします。おじいさんにとって何かを信じることは善であり、何かを疑うことは悪なのでしょう。それも普段から「この薬を疑ったら効き目がなくなる」と脅されていたからかも知れません。それでもおばあさんはおじいさんのためによかれと思って薬が偽物だと言ってあげるのですが、言えば言うほどおじいさんの心はおばあさんから離れていくことがおばあさんにもわかってきたのです。そこでおばあさんはおじいさんに薬の話をすることをやめることにしました。おじいさんにとって薬が本物であるか偽物であるかという事実は関係ないのです。自分が健康で生きていけるのはこの薬のおかげだと信じることが自分が生きることの拠りどころになっているのだから、もうそれだけで充分なんです。おばあさんはそんなおじいさんを受け入れました。だからおばあさんは薬もおじいさんも否定しないことにしたのです。ただ、おばあさんとしては、ただの小麦粉にバカ高いお金を出し続けるわけにはいきませんから、おじいさんには内緒で薬を買ったふりをして、おじいさんには普通に買った小麦粉を飲ませて続けました。そして二人はずっと幸せに暮らしましたというお話です。

私が「このブログでカルトは詐欺だ」と言い続けているのは、このお話に出てくるおばあさんのように、人の話をきちんと聞いて、自分でもそれが正しいかどうか、事実を自分で確かめることができるような人に対して言っています。実際に多くの「おばあさん」がこのブログにたどり着いて、自分でその事実に向き合い確かめた結果、薬が小麦粉であること、つまりカルトが詐欺だと気づきました。

ところがときどき「薬が偽物であるはずがない!」と怒り心頭の「おじいさん」がやってくるのです。なので私をはじめ、ここにコメントしてくれるおばあさんたちは、そんなスイッチの入ったおじいさんに薬が小麦粉だと説明しますが「おじいさん」は一向に「おばあさん」の話を聞こうともしないで、ただただ自分が否定されたような気になって怒りをぶちまけます。中には「おばあさん」を名指しで悪口を言うブログをたちあげるおじいさんも現れましたが、もちろんそんなブログはよほどの暇人しか相手にされないのは当然です。

おじいさんにとっては薬が本物か偽物かということ以前に、薬を本物だと信じている自分を否定されることに腹を立てているのです。そんなおじいさんとは話にならないと判断したおばあさんは話をすることをやめることにしました。このブログではもともと自分で考えたり確かめたりすることをしないおじいさんに話をしているわけではないのですから当然です。

ところがある日、おじいさんが飲んでいた薬が偽物だとわかったどこかのおじさんが「あの薬は偽物だけど、おじいさんとおばあさんが前に飲んでいた薬は本物だよ。でも今おじいさんが飲んでる薬は偽物だから、いっしょにその薬が偽物だとボロクソ言ってやろうぜ」と言ってきました。なのでおばあさんは「前の薬が本物だとどうしてわかるの?」と聞いたら「そんなの誰にもわかるわけない」と言いました。このブログはおじいさんの悪口を言うための場所ではないし、おばあさんには前の薬も後の薬もただの小麦粉だと自分で確かめてわかっているので、そのおじさんと一緒におじいさんの悪口を言うつもりはありません。これも当然の話です。

ということで、このブログの大前提として、薬が偽物かもしれないと自分で疑問を持つことができる「おばあさん」に対して、つまり「カルトは詐欺です。自分の頭で考えたらすぐにわかりますよ」と言っています。「おじいさん」に話をしているわけではないということをはっきりしておきたいと思います。また、どこかのおじさんと一緒におじいさんの悪口を言う気もないこともはっきり言っておきます。

私は創価に限らず『何かを信じること』を否定するものではありません。日本国民であるかぎり、そんなことを他人にしてはいけないんです。だからたとえ詐欺だとわかっていても創価を信じている人に面と向かって否定はしません。できません。しても無駄なこともよくわかりました。創価でも鰯の頭でも信じたらいいと思います。ただそれでどうなるかは本人の自己責任です。普通に物事を見たり考えたりできる人なら創価のやっていることが宗教なのか詐欺なのかはすぐにわかりますが、一旦信じてしまうとそんなこともわからなくなるのが人間なのでしょう。

私もこのブログをたちあげたころには「おばあさん」のように「おじいさん」に一生懸命に説明してきましたが、それが無駄なことだと何度も思い知らさせました。それはどこかのおじさんとて同じでした。何かを信じる人に対して、それが何であろうと、他人が否定することは無駄なことだと体験的にわかった気がします。それが身内であればなおさら問題がこじれてしまう。「おばあさん」は相手を否定しているつもりはなくても「おじいさん」は自分自身を否定されたと受け止めてしまうんですね。だから身内にカルト信者がいるところの悩みは大変大きいし、なかなか解決も難しいです。

カルト信者に対して自分が詐欺にあっていることに気づいてもらうには、相手が信じるものを否定するのではなく、相手に自分で考えてもらうことだと思います。「自分は何を信じているのか?」を自分で考えることが大切だと今は思います。だから先日も日蓮正宗の梵我一如さんにそのことを考えてもらえたらと思って、まずは日蓮正宗の仏とは何か?を聞いたのです。残念ながら「そんなのわかるわけがない」との回答でした。私はわかるわけがないものをどうして信じることができるのかも聞きたかったのですが、そこで対話は終わりました。ということは梵我一如さんにとって自分が何を信じているのかをはっきりさせることは大した問題ではないのかもしれません。だから普段考えていないことを聞かれて困ったのかもしれませんので、私もそれ以上聞くのはやめました。

思えば『何かを信じるということ』を自分で考えることの大切さこそが釈迦の教えではなかったかと思います。つまり釈迦は何かを信じることを教えていたのではなく、逆に何かを安易に信じてしまう自分を徹底的に疑いなさいと教えていたのではないかと思います。紙切れに願い事をしている自分を疑いなさい。疑ったら地獄に落ちると怯えている自分を疑ったほうがいいんじゃないか。新聞を何部も購入したら功徳があるとか、ある政党の票を集めたら集めるだけ功徳があるとか、お金を出せば出すほど功徳があるということを信じている自分を疑いなさいというのが釈迦の教えではなかったかと思います。私はべつに仏教や釈迦の教えを信じているわけではありませんが、少なくとも学会員さんは自分で物事を考えることができなくなるようにマインドコントロールされ、創価を疑うことができない状態だということは明らかだし、それが学会員さんにとっては本当の仏教だと信じて疑わないというのも、とても皮肉なものだと思います。創価が会員に対してする「指導」とは徹底的に「疑うな」です。つまり「余計なことは考えずに、言われた通りのことをやっていれば幸せになる。必ず願いが叶う」です。学会員はこれを繰り返し聞かされ、疑うことが恐ろしくてできなくなります。そうやって何年何十年も言われた通りにお金を貢ぎ続けてきたのですから、それを今さら詐欺だと言われたら、自分の人生を否定されたとしか思えなくなるのも無理はありません。どんなに理屈を並べられても、現実を見せつけられても、今さら創価を疑うなんて、自分の人生を自分で否定するなんて、恐ろしすぎてできるわけがないと思います。そうやって創価は会員からものすごい額のお金と時間を奪い続けてきました。その結果、幸せになった学会員などいるはずもないのですが、学会員はその現実に目を向けることができません。

何度も言いますが、このブログは自分の頭で考えて真実に向き合おうとしている「おばあさん」に対して創価の真実を発信しています。創価を信じてきた人にとって真実に向き合うことの辛さは並大抵のことではありません。だからこそそんな辛い思いを分かち合えるこの場所が存在し続けることができるのだと思います。

『何かを信じるということ』とは場合によっては恐ろしいことだし、だからこそ今の自分を疑ってみることも大切なことだと思います。人類が発見し生み出してきた思想哲学も科学も疑うことによって発展してきました。疑うことによって人間は発展してきたのです。疑うことなしに今の文明は存在しません。物事を疑うことは決して悪いことでないばかりか、信じることよりも素晴らしい人間の能力なのです。

何かを信じることを否定はしません。しかし信じることが疑うことの妨げになってはいけないと思います。

何かを信じることによって自分が幸せになれないばかりか、家族までをも不幸にしている現実を目の当たりにしても疑うことができないでいる学会員さんが、まだまだたくさんいます。

ひとりでも多く、今の自分が何を信じて、何を疑うべきなのかを自分の頭で考えることのできる学会員さんが出てくることを願っています。

ということで、今回のテーマも『何かを信じるということ』ですが、テーマにこだわらなくてもいいですので、言いたいことを思い切り言ってみてください。言葉にすることは、自分の頭の中を整理することでもありますが、それをアウトプットすることで元気になります。さらにそのアウトプットに返ってくるレスポンスによって、客観的な自分を再確認できます。かつて創価を無条件に信じていた自分がいかに操作されていたのかがいやというほどわかるのは辛いですが、あのまま騙される続けていたとしたら、本当にみじめなままに一生を終えることになります。どんなことがあっても、何を言われても、創価を正しい宗教だと信じ続けるのはある意味簡単です。何も考えず、まわりの人たちからどんなに嫌われても、創価という狭いコミュニティの中だけで言われた通りにお金と時間を創価に捧げて死んでいけばいいのです。それが創価学会を信じている最高の人生なのですから、他人がどうこう言うことではありません。日蓮正宗を信じて死んで行くことが最高の人生だと思う人に何も言うことはありません。ここでは創価に疑問を感じることができた人に、なぜ自分が疑問を感じたのか、他の人はどうなのかをはっきりわかるような場所です。また、なぜ今まで疑問を感じきれなかったのかの訳もたくさんの創価経験者の声によって明確にわかります。

『何かを信じるということ』が自分にとってどういうことなのかを、みなさんでもう一度語り合っていきたいと思います。よろしくお願いします。