正義は勝たない

このブログを立ち上げてから、創価学会員であることでこんなに大変な思いをしてきたという方の実体験が多く寄せられました。また入信動機を持たずに信仰を強制されてきた学会二世三世の方が、自己矛盾を感じてから脱会するにあたって精神的に乗り越えることの困難さなど、私にも多く思い当たるようなお話をきかせていただきました。さらに、言ってみれば「創価学会に未来はあるのか」といった論点になると思うのですが、末端会員の責任問題であるとか、学会組織自体の浄化の可能性など、これからしっかりと論じていただきたい問題点が出されるようになりました。みなさんの辛辣なコメントに、私も言葉を選びながら書かなくてはと思うようになりました。もちろん、みなさんにはこのまま自由にお話ししていただきたいと思います。
おかげさまでアクセス数もおおよそ一日1000ほどありますので、立ち上げてまだ2週間ですが、かなりの注目度があるように思われます。驚いたのは、あの2chの掲示板に好意的に書かれていたことです(笑)。幸い、悪意のあるコメントや荒らしの類いはほとんどありません。おそらくみなさんの真剣で毅然とした文章に立ち入る隙がないからだと思います。みなさんのコメントはリアルタイムにアップされるようになっています。ときどき長文になる場合にアップできない不具合が発生していますが、気づき次第こちらからアップさせていただいております。

また、このブログは学会本部でもチェックされている可能性があります。もしそうであるならば、私シニフィエなるものが一体何者なのかを突き止めようとしているかもしれません。逆に学会本部内にいてネットをチェックする部署にいる職員の方にも、このブログに訪れる方の声をしっかりと聞いていただければ嬉しいです。あなた方が正義だとか世界平和への行動だと信じてやっていることと、ここにコメントくださる方の話をよく比較して考えていただければと思います。

みなさんの高尚な話に水を差すような下世話な話で恐縮ですが、私はこのブログを立ち上げてから勤行をしなくなりました。組織活動はもうずいぶんとしていませんでしたし、組織の方からも諦められていたようなところもあります。親兄弟が幹部なので、いろいろ言うと面倒なことになるからということもあるのかもしれません。ただ選挙と財務だけは言いにくるのです(笑)。そんな私でしたが、勤行だけは毎日きちんとやっていました。それは組織がこんなでも仏法に関しては間違いないという思いよりも、組織から離れても信仰から離れることに言い知れない漠然とした恐怖心を抱いていたからだと思います。でも、このブログに自分の思いを書き綴り、これまでの自分の信仰体験を振り返る中で、不思議と勤行をしないことの恐怖心が薄れてきました。そう、この二週間ほどの話です。それは無理に勤行唱題をしないようにしようと決めたのではなくて、自然と仏壇から足が遠のいたという感じです。今の気持ちは「なんだ、何でもないじゃん」という感じ。これまでは組織からはなれた後でも毎朝の勤行は欠かしませんでしたし、何か悩み事があれば長時間題目を上げたりしていました。物心ついたときからずっと毎日やってきた勤行が、意外とすんなりやめられたことを自分でも驚いています。いかに漠然とした恐怖心で、つまりたいした根拠もないままに信仰という行為に自分が頼っていたのかということにです。学会と宗門とで末端の会員が偽本尊がどうとかこうとか罵り合っていますが、今の私にとって、そんなことがどうでもいいように思えるほど、あっけらかんとして勤行という宗教行為が無意味に思えてしまいました。ほんとに「え?……」って感じなんです。
とはいえ、私は無神論者にはならないと思います。人間の潜在能力を引き出す方法としての呼吸法は、たとえばインドではヨガ、中国では気功としてあるように、世界各地の優れた文化として継承されています。今考えてみると、私がこれまで見聞きして来たさまざまな事柄は、日蓮仏法と創価学会の信仰様式を取り除けば、とてもすんなりと納得がいくものばかりです。それは正しいとか正しくないなどの価値判断ではなく、様々な矛盾も含めて、世の中のいろんなことがなるほどと思えてきます。これまで自分の世界を見る目と、学会の価値判断の相違に苦しんでいました。つまりどう考えてもAであることが、学会ではBであることがある。しかしいやでもBでないといけないと自分に言い聞かせる。そうした矛盾を感じることさえ恐怖心につながってきました。私の友人のアーチストである男子部は、それで鬱病になりました。とても真面目だった彼は、自分の芸術活動が法謗ではないかと悩みに悩んで引きこもり仕事もできないまま誰とも話をしない日々が続きました。あるとき彼は私に「○○さん、これって法謗じゃないよね」と力なくつぶやきました。
私の場合、おそらく後戻りはしないと思います。聖教新聞、創価新報、大百蓮華はとっていますが、これはもう随分昔から読まなくなっています。ただ最近では池田名誉会長をどういった形で掲載しているのかとか、名誉会長メッセージはどんな人間が書いているのだろうといった興味から、聖教新聞は以前よりも隅々まで読むようになりました(笑)。
でももうこれらの出版物を購読することは学会に貢献しているということなのでやめようと思います。たぶん地元の地区では大騒ぎになるでしょうけどね。「あの○○さんの次男さんが退転したんですって」ってね(笑)。「まあ、ご両親は強信だったのにねえ。兄弟のなかでも一番まじめに活動してたのに」なんて噂されるでしょう。でも彼らはおそらく財務と公明票が減ることが心配で、なんやかんや言ってくるでしょう。その煩わしさをどうしようかと考えているところです。地区の人はともかく兄夫婦が黙ってはいないでしょうから。兄嫁などは「今こそお題目を上げきって頑張るときよ。先生の弟子かどうかが試されているのよ。先生にお応えできる人材にさせてくださいって祈るのよ。お題目を上げて祈りに祈って魔に打ち勝たなきゃね。私もお題目送るから負けちゃだめよ」と、いつも誰にでも言うような同じことを言うでしょうね。

すみません、下世話な話をしてしまいました(笑)。
 
すこし話がそれますが、世の中が決して正義によって動いているわけではなく、正義がいつでも勝ってきたわけでもなく、むしろ正義は負ける場合がほとんどだということ。そして私たちは意外と簡単にだまされ、嘘を信じ込まされることが現実にあるんだということを学会員の方にも知っていただきたいと思い、二つの映像を紹介します。
日本の原発政策がどのようにして今日の大事故にまでつながったのかということがよくわかる二つの動画をご紹介します。ひとつはずいぶん前に放送されたNHKの番組です。この番組をつくった当時のNHKのスタッフはすごいと思います。またよく放送までたどり着けたなと思います。しかし世間一般の関心はあまりありませんでした。311を体験した今になって、この番組の重要性を痛感します。

もうひとつはUSTの動画で、つい先日12月16日に北九州市で行われた京都大学の小出裕章教授の講演会の様子です。
http://ustre.am/:1iF0s
このようにして私たちは自分たちの意志とは関係のないところで、ごく一部の限られた人間の利害のためにたいへんな被害を被り、それに対して何もできない立場にいます。たとえば公明党はこうした日本の原発導入に加担しています。公明党は創価学会の平和主義を政治の場で実現するといいながら、小泉内閣とともに公明党は原発を推進してきました。私は当時のPKO法案に公明党が賛成したことに相当な不信感を持ちました。原発についても公明党は自民党べったりで、結局その結果が今回の福島原発事故なのです。一般の人たちの多くはそのことを知っているのですが、創価学会員のみなさんは、一般世間の情報から意図的に隔離されていますから、目の前のことが見えないでいます。自分たちに都合の悪いことは、すべてデマであり、法華経の行者に競う魔であると言い聞かせられています。またそれを見事に鵜呑みにしてしまう。
ここを訪れている創価学会員のみなさん。少しだけでも視点を世間一般に向けてはどうでしょうか。公明党の候補者に何が何でも投票行為を強制することが民主主義の国民のやることかどうかを、一度でいいから考えてもいいのではないかと思います。私の父は学会草創期の幹部で、なおかつ公明党の議員でした。一生を創価学会と公明党に捧げ、日蓮仏法の、そして創価学会の正義を信じて最後まで疑うことなく亡くなりました。私は人間の一生って何だろうと、今さらながら思います。
私は民主主義が必ずしも正しいとは思いませんし、日本に民主主義が根付いているとも思っていません。しかし、あなたが日本が民主主義を標榜する国で、自由と平和を愛する国民の一人であると思うのであれば、創価学会員の政治行動が民主主義に反することではないのか疑問に思うはずです。自分たちの行動が、他人の信教の自由を無視し、思想を強制し、民主主義を破壊する行為だということに気づいてほしいと思います。

正義は勝たない」への11件のフィードバック

  1. 数日前に「匿名」で連投したものです。とくめいに変えました。勤行をやめるということ、大変な選択だったと思います。一切の購読をやめることも、苦しいことです。私も、しばらく仏壇に向かわないと何だか罪悪感を感じてしまいます。宗教自体は害悪ではないのでしょうが、そこに「強制」が関わった時、それは組織悪として構成員の精神を蝕んでいくことになります。しかし、組織がなければ世界の平和を訴えた所で何の影響力もなくなるわけです。世界の平和を考えない宗教は、自己満足に過ぎないですしね。この超克はなかなか大変なことです。急ぎ拡大しすぎたゆえでしょうか。高度成長期の経済的豊かさと功徳との混同もあったかもしれません。信仰の何たるかをほとんど考えないまま、創価学会の活動は驀進してきましたね。「強制」は外部からされるべきものではありません。しかし、人を動かす力のような「何か」を全く持っていない宗教は、結局人間を変えるには至らないでしょう。ここにおいて多くの幹部や力のない人間は、外発的な強制に頼ってしまうのでしょう。「あれをしろ、これをしろ」と。しかしそのような強制は全く方便にすぎないことを自覚しなければ、破滅的な結果を生んでしまいます。内発的な自己強制を全ての会員が意識的に行うことができれば、まだまだ創価学会には変革の余地があると言えます。私は、そこに賭けたいと思っています。なぜなら、友人のほとんどが善良な学会員であり、彼らすべてを否定するような生き方や、彼らの将来の苦悩に無責任な生き方は、私にはできないからです。まだ、ぎりぎり間に合うと、私は思います。

  2. サンダーソニア良かった・・とくめいさん!、私もぎりぎり間に合うと思っていますし、それに賭けます。

  3. おはようございます。勤行のくだり、すみません笑ってしまいました。私もまだ脱会していない、離会の状態です。非活になった当初のほうが、脱会したくてたまらなかった。けど、あの時脱会していたら、未だに組織に対しての恨み節を色んなところに書き込んでいたでしょう。今は、脱会してもしなくてもいいという感じです。何なら、今から郵便局へ行って本部へ内容証明をおくることもできます。しかし、しつこく脱会しないことによって、内部の人に私のような存在をアピールして、小さなきっかけになるのかもしれないとの思いもあります。葛藤し何周もした私の今の気持ちです。疑問を持ち始めた二世から話を聞くことがあります。親・役職・幹部に対する悩みは様々ですが、根本に「生き辛さ」を感じていると見て取れます。私もそうだったので、よく理解できます。私なりの結論ですが、私たち二世は学会の価値観を刷り込まれています。価値観とは、育っていく過程で知り自身で変えていき、他人と磨り合わせて大人になる。というのが自然の流れと私は解釈しています。しかし私たちは、その過程を全てすっとばして、偏った他人の価値観の中で育ち大人になっています。生き辛いのは、刷り込まれた他人の価値観を生きているからです。311以降、倫理観や価値観の修正を突きつけられているようで、それに気付くかどうかを、人として試されているような気がしています。

  4. 仮に今、疑問を持っている人が全員池田大作氏や側近幹部とゆっくり会話する時間を得たとしても、それは全ての疑問を氷解させることとイコールではあり得ないでしょう。他人が何を考えているのか、きちんとわかることなど究極的に言えばあり得ないからです。おそらく友人を信じるのと、宗教を信じるのは基本的には同じ構造であるということになります。それは必ず主観によるのです。ここに、盲信と言われても首肯せざるを得ない、ある種の宗教の悲しさがあるといっていいでしょう。宗教は客観性を持ち得ないのです。それを乗り越える術は、宗教が盲信であることを認識した上であえて積極的に盲信し、かならず振り返って自己反省をし、信の妥当性を吟味し続ける以外にないと考えています。これは基本的な生き方が「他社依存」「組織依存」である人には、とても難しい要求となることでしょう。少なくとも、現代社会においていわゆる「衆愚」状態に陥ることがあらゆる場面で要求される中、一人ひとりが自己の正義を確立することは、どんな組織においても難題です。本来であるならば創価学会はそういった権力の思惑や操作を破ることを志向しなければならないのでしょうが、逆に衆愚を強化してしまった部分もあるようです。「その宗教が人間を賢くするのかどうか」という池田氏の言われる宗教の判定基準はやはり重要であると感じています。

  5. とくめいさん、コメントありがとうございます。どうも私の場合、言葉を選んで話をしようとすると、なかなか文章になりません。失礼を承知でぶっちゃけて話しますね。とくめいさんは学会の反社会的な部分を認識しながらも、組織として社会をいい方向に変革できる可能性にまだ期待が持てるという考えなんですね。そしてその根拠は、学会員さんたちがとてもいい人だからと。すみません、とくめいさんのおっしゃりたいことはそんな単純なことではないとは思うのですが、ざっくりとつかむとすればそうなるといった感じでしょうか。確かに学会員さんはとってもいい人が多いというのは私もそう思います。少なくとも私のまわりでもそうです。その人の良さというか、疑うことを知らない、意地悪な言い方をすれば付和雷同といってもいいと思いますが、そうした多くの人たちの心を利用して大きくなったともいえます。私があえて上に原発導入のシナリオや小出教授の講演の動画を掲載したのは、一般市民というのがいとも簡単に情報操作をされ、思想統制をされてきた現状と、人のいい学会員がよかれと思って学会活動にいそしんできた姿とがよく似ていると思ったからです。今でも原発が無くなったら電気が足りなくなるんじゃないか、じゃあ仕方がない、原発は必要悪だなどといった考えをする人も少なくはありません。じつは今すぐにでも、いや、昔から原発なんて一つもなくても何も困りはしなかったし、今すぐに日本の原発のすべてを停止させたとしても、私たちの生活に影響はありません。ただ、原発利権に依存してきた多くの人たちが困るし、原発によって多くの恩恵を受けてきた地方自治体や企業やそこに関わる中小企業やら労働者が途方に暮れるなどの問題は大きいと思います。また、日本に核兵器をつくる基盤をなくしてしまうと、アメリカの国際戦略的な思惑に支障をきたすとか、民主党がアメリカに対して申し訳が立たなくなるとか、中国や半島への軍事バランスがいよいよ壊れてしまうとか、私たちではどうしようもないいろんな大人の事情(笑)もずいぶんと変わっていくようです。しかしそれでも原発は本来あってはならなかった。私はそう思います。それは小出教授が講演の中で言われている通りだと思います。同じように、戦後日本における創価学会の存在は、高度経済成長時の荒れ果てた都会の人間関係を緩和するコミュニティとなりえたのかもしれません。しかし今思えば、ただそれは敗戦からの復興を旗印に、景気拡大のために大量消費が美徳であるかのように宣揚されてきた日本国民の心の隙間に巧妙に侵入し、組織拡大を行なってきた創価学会が、ほんとうに宗教を基盤とした世界平和を実現しようとしたものなのかどうかは、私としてはまったく考えられないのです。創価学会の組織拡大の目的は金と権力であったと、私は思います。そして時代は移り変わり、世界の情勢もずいぶんと変わってきた今、当時と同じような学会の排他的な思想体系が通用しなくなったと思うのです。創価学会が初めは正しいことをしていて、どこかの時点で間違った方向に行ってしまったのではなくて、はじめから間違っていたという点で、日本の原発導入のための国民の思想誘導に似たものを感じます。創価学会の真実が世間に明らかになれば、また多くの学会員が自分たちやって来たことに気づいたとしたら、そうとうな混乱が生じるでしょう。でもそれは仕方がない。もうそう遠くはないどこかの時点でそれはやってくるだろうし、ソフトランディングなんてもはやあり得ないと思います。それだけ多くの人々の人生を棒に振らした罪はそう簡単はぬぐえないと思います。もうすこし時間があったなら、もう少しわかりやすくまとめてお話もできるとは思うのですが、私はとりあえずざっとこんなふうに思っています。とりいそぎすみません。

  6. 宗教の本来の使命は、なにも小難しいことではなくて、大それた世界平和とかでもなくて、一人の悩める病める人を救いたい、救われたいが原点だったと思うのです。自分自身が、本来のぴゅあな生命、魂が打ち震えるような感動と感謝、そしてこころからしあわせだと思えなくて、どうして人を幸せにできるだろう。。と感じます。ただ、いまの組織が勿体ない?とか。。。唖然としてしまいました。善人の集まりをどのようにコントロールしていこうとしているのでしょうか?組織活動。。という視点でしょうか?正しい日蓮仏法の教学を重点的に。。でしょうか?その前に、目の前にいる人を。。そしてまず自分自身を幸せにすることが宗教本来の使命ではないでしょうか?しあわせを実感していない人が、どうして人を幸せにすることができるでしょう?わくわくしていますか?自分の選択したことに。。楽しくて喜びに打ち震えるような想いでしょうか?どうせなら、わくわくするようなことを選択してみませんか?シニフィエさんのお話をとても良く理解できます。小出さんの講演会、わたしも来月伺います。いまは、とにかくいろいろな所に出向いてさまざまな考えを知りたいんです。長い間、創価学会という檻に入って他のことを知ろうとしてこなかったので、さまざまな枷を取り外し作業中です。創価学会を辞めて4年ほど。。最近、まざまざと実感するんです。世の中が、こうやってどんどんスピードを増して変化変化していっているのに、何故か創価学会の方々だけは、まるで集団そのものが、大きなドームにすっぽり包まれて、下界とは、まるっきり違う世界に生きている。そこだけが、700年前?創価創立の時代?から動いていないんです。まるで人類の進化から取り残されていっているみたいに。。その時代遅れの組織を再生させて、いったい何がしたいのでしょう?そこにいる自分は、そのときなにをしていますか?こころから笑っていますか?

  7. サンダーソニアさん、はじめまして。コメントありがとうございます。もしよろしければ、まだ間に合うという判断、気持ち、もしくは願いが、どこからどうやって出てきたのかをお話していただければと思います。SJさん、いつも的確なコメントだと感心します。私の言葉の至らなさをしっかり代弁してくださるようで恐れ入ります。こんな話ができるなんて夢のようです。ほんとに。私はとくめいさんやサンダーソニアさんの言われる「まだぎりぎり間に合う」という考えに共感できません。誤解しないでください。これは対話を進めるための自分の考えている立場の表明であって、正邪を決めるための論争をしようというのではありません。あしからず。「まだ間に合う」というのは、これから修復できる余地がある、可能性があるという意味だと思いますが、それはもともと正しい状態のものがあるという前提があって、それが何らかの要因によってあらぬ方向に行き過ぎてしまったとか、部分的に機能しなくなったという経過があればこそだと思います。おそらくラピスラズリさんは学会はもともとが間違っていて、修復とか改善とかそういう問題ではないということなのだと思います。私もそう思います。私たちは第二次大戦や太平洋戦争に突進して行った日本人の歴史が何であったのかをしっかりと検証しなければならないのと同様に、戦後の創価学会が私たちに何をしてきたのかを検証しなければならないと思います。数ある新興宗教の中のひとつが生き延びれるかどうかたいった問題ではないと思っています。自分の価値観、人生観を子どもの頃からの様々な体験を通じて築き上げていくことは、人間にとってとても大切であると思います。SJさんのおっしゃるように、私も含めて学会2世3世はそんな大切な価値判断に至る行程を頭ごなしにスっとばされて育ちました。まずそこから間違っていたと思います。もしまだ間に合うというのなら、創価学会が会員の子どもたちに教えてきたことのどこをどう変えたら、もしくはどう修復すれば大丈夫なのかということがどう考えても出てきません。ものごとの何が正しくて、何が間違っているのかを初めから決めつけられて、自ら判断することを否定される。ものごとを正邪のふたつにわけて、創価思想以外を排斥する思考回路というか、思考停止にもっていく組織に、私たちの子どもを託せるわけがありません。排斥思想を身体に徹底的にしみこませるやり方のどこに修復の余地があるのでしょうか。創価学会が日蓮仏法の排他思想的側面を利用したのか、日蓮仏法であるがゆえに創価学会がこうした組織になったのか。私は前者だと思います。宗門は日蓮仏法を継承している宗派ではあっても、学会のように人の人生をまるごと縛り付けたりはしません。他人の財産や政治判断に有無を言わさぬ指図はしません。創価学会がそうしたことを平気でやってきたことは、SJさんや私のような2世でなくともわかると思います。いったい「間に合う」って何でしょう?それにはこれまで創価学会が社会に果たした役割が何だったのかと言う認識をはっきりさせなければならないでしょう。聖教新聞に載っているようなことが、一般社会にも通用していると思っているのは学会員だけです。外部の人間で創価学会への支援を表明しているのは、単に利害関係で結びついているだけではないでしょうか。おそらく利害関係が崩れれば、外部からの支援は何もなくなります。内部に対しては宗教的呪縛によって精神的に支配し、外部に対しては内部で得た潤沢なお金を使って利害関係を有利に運んでいく。そうして巨大にふくれあがってきた組織のどこをどう修復すれば「間に合う」のか理解できません。それから百歩譲って間に合うとしましょう。間に合ったとしたら世界は創価学会が目指して来た広宣流布を完成させることになるのでしょうか。日蓮仏法を根底とした、つまり他の思想の存在を許さない排斥思想が中心となる世界ができあがるのでしょうか。日本には民主主義ではなく、日蓮仏法を根本とした政治体制のようなものができあがるのでしょうか。では、そうした排斥思想を修復していけばいいのではないかという考えもあるでしょう。するとそれは創価学会ではなくなるのではないでしょうか。それは同時に学会思想の根幹たる日蓮仏法を否定することになるのではないでしょうか。創価学会が今までやってきたことをチャラにできるような修復が、はたしてどうやってできるのか。というより、そうした発想自体が私には理解できないのです。

  8. とくめいさんのおっしゃることが、いまいちぼやけて見えにくいのは何故なんでしょう。私の読解力不足も大いにありますが(笑)宗教・組織・池田氏に対する感情や理想がごっちゃになって、ぶつける場所が他にないような印象です。学会に違和感を感じて間もなく、まだご自分の考えが整理されていないのでしょうか。もっとも、リアルで話せる話じゃないですからね。吐き出したくなる気持ちも分かります。少し、質問したいのですがいいですか?・とくめいさんは、学会の何に対して疑問をもたれているのでしょう?・それは、明確な組織として疑問に感じること?・組織と会員と池田氏を分けて考えることに、違和感はありませんか?・とくめいさんにとって、組織とはどんな括りなんでしょうか?(例えば組織≒幹部という意味で使われてるとか?お答えいただければ幸いです。

  9. 創価学会は、もともとは戦後の病気と貧乏に喘ぐ庶民に希望を持たせ救うことから始まったように思うんですよね。地獄にのたうつような人々は、考えてみたら、この創価学会で救われた人も多いと思うんです。それって、とてもすごいことだと思います。そういった創立の原点に立ち戻り、また日蓮仏法の真の教え精神に還り、いまならまだやり直せるかもしれなうという深い気持ちのうえからでしょうか?とくめいさんの想いはそこかな?と、ふと思いました。日蓮大聖人の精神を拝し深々とお題目をあげていったとき、その想いに還る本来の自分を再発見ということでしょうか?わたしのこころは行ったり来たりしますが、とくめいさんのような人が雨後の筍現象になれば、何かが変わるのでしょうか。。?日蓮仏法は生命哲学。。その視点からは期待する気持ちも少しだけあります。でもなぜか、その将来に苦渋に満ちたとくめいさんのイメージしか浮かばないんですよね。。

  10. シニフィエ様いつも読ませていただいております。まず、創価学会が正しく日蓮仏法を継承しているか否かを確認しなければ、議論が迷走するのではないかと思います。私は、1)牧口初代会長の時代にすでに日蓮正宗の教義とはズレが生じており(価値論など)、2)戸田会長時代に牧口時代を反省して教義に忠実になり発展し、3)池田会長時代に入って宗門からの独立を目指し、現在に至ると考えています。池田時代の指導は一見すると教義に忠実に見えますが、客観的に見ると完全に逸脱しており、池田氏の個人崇拝が強化されていきます。池田氏が宗門外護を言いながら、自分に権限を集中させてきたことは、少し調べればすぐにわかります。池田氏は日蓮仏法を利用し、個人崇拝の教団を完成させました。ポイントは日蓮正宗=創価学会とは言えないということですね。創価学会とは、池田大作氏を事実上の教祖とする新興宗教です。多くの学会員が悩んでいるのは、日蓮正宗の教義ではなく、池田氏が作り上げた組織に関してだと思います。この辺りをはっきりさせないと、シニフィエさんが“開放”された「勤行」についても、「学会式勤行」と「宗門の勤行」が内容として異なるにも関わらず、「勤行そのものが悪」だと簡単に断じてしまう恐れがあります。「正統な日蓮仏法を実践しているのは創価学会だけ」と主張しているのは、それこそ学会だけです。日蓮仏法から個人崇拝の考えは出てきません。学会はどう見ても池田氏を大聖人と同一視するくらいに崇拝しています。これは、完全にカルト宗教と言えるでしょう。私は池田大作という人物そのものに、かなりの疑いを持っています。池田氏が純粋に日蓮仏法を求めていたとはまったく思えません。彼は戸田城聖という人物と出会うことで、陽の当たる道を歩いて来れました。彼は成り上がるために日蓮正宗や戸田城聖を利用したと思います。戸田会長がいまの学会を見たらどう思われるでしょうか。まとめれば、日蓮正宗教義を忠実に実践していたのは戸田時代だけであり、牧口時代、池田時代はそうとは言えません。とりわけ、池田時代(とくに破門後)は「世界広布」という美名の下、池田氏の宣揚を目的とするとんでもない教団へと暴走してしまいました。多くの学会員は「すり替え」に気づいていませんが、そこをよく認識しなければいけないのではないでしょうか。

  11. 鯵助さん、コメントありがとうございます。なるほどですね。私は創価学会を通しての日蓮仏法しか知らないので、なんとも答えようがないのですが、あの宗門との争いを外から見てきた限りでも、本来の日蓮仏法とは隔たりがあるんだろうなとは思います。でも、もうあんまり興味がないので、知識としてしか学ぶ気がしません。私は芸術系の仕事をしているので、仏像や曼荼羅の芸術的価値を通して真言密教や曹洞宗などに興味を持っています。今度、永平寺に行ってこようと思っています。インドに行って人生観が変わった友人も何人かいますし、1970年代にいわゆるフラワーチルドレンの一員だった友人で自分用の大麻の栽培もしていた友人もいましたが、当時はそんな友人の話を否定しないまでも日蓮仏法が最高だと思い込んでいましたから、彼らの話も聞き流していたように思います。とにかくいろんな面で友人に恵まれていたにもかかわらず、私はそこから学ぶべきだったことを拒絶し続けていたのだと今になって気づきました。学会員の多くが未だにとんでもない世間知らずなのは、そういった他人の言うことを聞く耳をもたないということが、やはり決定的なんだろうなとあらためて思います。私は気づいたからまだいいようなものの、多くの人が学会こそが最高だと信じ続けて人生を終えていった。それが自らが選んだ宗教であるならばいいのでしょうが、搾取されるために思考停止させられ、さらに多くの人を引きずり込んでしまうことに加担させられたとなると話は別でしょう。このあいだ東北出身の牧師さんとお友達になりました。実家が石巻の近くだとか。少なくとも学会幹部よりは人のことを真剣に考えられていると思いました。さすがに「ハレルヤ」とは言えませんでしたが(笑)。これから自分にとっての宗教とは何かということを真剣に考えなくてはいけないなと思っています。何かの既成宗教に帰依するというのではなくて、かといって無神論者になるというのでもない。とにかく今は幼い頃から植え付けられた創価思想を除染して(笑)、宗教そのものについて罪悪感を感じることなしに自分の意志で迫ってみたいと思っています。

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