とりいそぎ

さきほどメールチェックしましたら、ブログにアップできていないコメントがありました。
やはりブログ自体のエラーのようです。
私はここで何度も言ってますように、みなさんからのコメントは先日の匿名さんの2つのコメントだけを削除しただけで、あとは一切削除していません。もしこれから削除するときも一度ここで紹介をして、削除する理由をのべてからするつもりですので誤解のないようお願いします。
それでさきほどアップされていないことに気づいたコメントを以下にご紹介します。


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匿名 さんのコメント


シニィフィエ様
昨晩23時50分頃、コメントを載せて一度は画面表示ができていたのですが、その後消えてしまいました。何かの不具合・トラブルなのか、それとも管理の上で消されたのかがわかりません。
不具合か消されたかをお知らせください。尚、消された場合はその理由をお知らせください。管理人さんのお考えがあってのブログですから、理由が知らされることが大事で、消されることに異議を唱えるつもりはありません。許容される範囲での投稿は当たり前のことですから。

別件ですが、「月光仮面さん」のご意見に賛成です。理由は、このブログはとても大切であり、長く続くことが強く求められます。組織の真実をまだまだ明らかにし広めていき、多くの悩める会員さんへの励まし・支援が必要であるからです。

外部の者がこのことに意見を挿むのはどうかなと思うのですが、会員さんで仕事に就いている人でも、まだパソコンを持っていない人持っていてもネットをつないでいない人も多いかと思われます。組織からの情報以外は「見るな、聞くな」の世界でしょうから、まだまだ情報が広がるのに時間がかかると考えられます。焦らず、しっかりとした取り組みが大切かと存じます。 





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桃太郎さんからのコメント


≪クリシュナムルティ―の言葉より≫
『私は長い間あらゆるものに対して、他者の権威に対して、他者の指図に対して、他者の知識に対して、反逆の状態にありました。私は、自分自身で真理を見出すまで、いかなるものも真理として受け入れませんでした。私は、他人の考えに決して反対はしませんでしたが、彼らの権威や「生」についての理論を受け入れようとはしませんでした。私はあらゆる信条、あらゆるドグマや信念に不満を抱くまで、私は真理を見出すことはできなかったのです。』・・・・・。
『私は木々の間を吹き抜けていく風、そして葉の上にいる小さな蟻を感じることができました。鳥たちや埃を感じることができ、そしてあらゆる「音」は私の一部でした。私はあらゆるものの中にいました。というよりはむしろ、あらゆるものが私の中にあったのです。私はこの上なく幸福でした。なぜなら、私は「見た」からです。私は『生」の源泉の清澄な水を飲み、私の渇きは癒されたのです。二度と渇くことはないでしょう。二度と無明の闇に落ち込むことはないでしょう。私はすべての悲しみと苦悩を癒す慈悲に触れたのです。』・・・・。
『あらゆる場所で、あらゆる人々の間に、隠されたものへの探求があります。これが、人々が「真理」と呼んでいるものです。彼らは、真理はどこか遠くに、「生」から隔たったところ、喜びからも悲しみからも遠いところにあると考えています。しかし、「真理」は「生」それ自体であり、ゆえに、「生」を理解すれば、「真理」の理解が生まれるのです。』
     <以下中略>
上に紹介した言葉はインドの宗教家『クリシュナムルティ』の言葉です。この紹介を私が思い到ったのは、次に紹介するある日の出来事が心に甦ったからです。(想学サロンで一度コメントに載せたことのあるできごとです。)

『ある夏の日のできごと』より
昨年夏のある日、家内と娘を連れて標高1200mほどの山登りをしました。普通で2時間程度かかる山で、早朝5時半くらいから登山口を出発し、樹齢200年以上もあろうかという杉林をいくつもくぐって登っていきました。朝霧が激しく立ち込め神秘的な景色であり、とてもすがすがしいものでした。霧が深く「ご来光」は見られませんでしたが、眼下に見える湖、遠く近くの山々の稜線に幾重にも立ち上がる朝霧が描き出す景色は、水墨画のようでした。頂上についてみると、既に父親と8歳の男の子が休んでいました。朝4時に家を出てきたそうです。
5分ばかりして二人の若者が息を切らして登ってきました。走って登ってきたとのこと、時間を聞くと40分ほどですと。更に聞くと土日祭日には、度々1,500m級の山をかけ登っているということでした。
又5分ほど後に、初老の男の人が登ってこられました。なんと上半身裸で汗が激しく流れ落ちていました。聞いてみると、1時間程で登って来たとのこと、更に年齢を尋ねると73歳とのことで再び驚いたのでした。この男性は13年前から山登りを始め、1,500m級の全国の山々を駆け登っているとのこと、事情を聞くと定年退職直後に奥さんを亡くし、それから始められたということでした。遠くは関東地方、東北地方への出かけ一月くらいは帰らず、車の中で寝起きし川や露天風呂を利用し、自炊とコンビニの食事ですませて、宿泊所は利用しないということでした。

下山しながら娘や家内とこの人達のについて話が弾み、私は深く考えさせられたのでした。・・・・< 幼い男の子は生涯に亘ってこの体験は忘れることはないだろうし、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の手で確かめたものでなければ、決して巧みな言葉であってもそれをそのまま信じることはないだろうな>・・・
< この二人の青年は、とかく世間で話題となる青年の「引きこもり」「鬱病」、そして新興宗教に安易に嵌まってしまうことは少ないだろうな >・・・< 初老の男性は、自然の中へ深く分け入り、奥さんとの山登りのありし日々を 偲び、自然の息づかい・森霊を感じながら山の頂上で心静かに手を合わせておられるであろうな>・・・・と。
人生色々、日本中の老若男女は日々に何を感じ何を「生きがい」として生活し、何を信じて生きているのだろうか?
この老人にとって「信仰」とは何なのか。仏壇に向かっての「一日千遍」の「お題目」より自然の「神秘・荘厳さ」の中で「神・仏」を感じて、心の中での奥さんとの対話の方が真の供養・信仰を感じておられるのではなかろうかと、考えることしきりでした。

「宿命転換のため」「福運功徳獲得のため」「選挙勝利のため」などに「お題目」を唱えて、信仰になるのでしょうか?と考えながらの下山でした。 


 
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以上です。ただいま仕事中ですので、今後の対応については後ほどごれんらくします。とりいそぎ。

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