幸せになる権利

たとえば、日本国憲法前文や世界人権宣言には、いまの世の中で考えられる最も崇高な精神と自由を保障するかのような言葉が連ねられています。字面を追っていけば、ほんとうに素晴らしい涙が出るほどの理想が語られています。しかし現実はどうか。この平和ボケと言われて久しい日本においても、目に見えて卑劣な人権侵害は横行しているし、凶悪犯罪は絶えることなく、私たちは民主主義などとはほど遠い利権国家にいることに甘んじています。大多数の一般庶民は単に搾取されるだけの愚民となり、小さなコミュニティのなかでのささやかな人情に生きる糧を見出しているに過ぎないようにも思います。特に311以降、私たちは幸せになる権利があるのかどうかさえ疑問に思えてしまうほどです。 しかしそうした中にあっても、やはり一人の人間としての正義感というものは絶やしてはならないと思います。それが実現できそうもない単なる理想であったとしても、言葉として掲げていくことの意味は大きいと思います。どんな世の中になろうと、私たちは幸せになる権利を持っているのだということを信じて示していきたいと思います。

創価学会の欺瞞と矛盾がもはや隠せない段階に来ているとはしても、まだまだ数百万人という会員が騙されていることに気づかないばかりか、よかれと信じてその悪行に加担してしまっています。私は生まれてずっと創価学会という閉鎖的かつ排他的な環境の中で育ってきました。私の親も兄弟もそれとは知らないままその社会悪に加担してきました。そして私は53年目にし てやっとそのことを客観的に見る機会を得ることができました。それまでの数多くの学会の矛盾に関しても、無理矢理思考停止を余儀なくされると言ういわゆるマインドコントロールによって、疑問が疑問でなくなるという恐ろしい状態に陥れられてきたわけです。個人の思想を否定し、ひとつの思想を強制し、従わないものは地獄に落ちると恐怖をあおることで縛り上げる。そしてすべての金と権力を池田という一人の傲慢この上ない人間に集中させる行為を崇高なものと植え付けていく創価学会を宗教ととらえること自体がおかしいことであって、そのおかしさに気づかないことが、あきらかにカルトによる大規模な犯罪行為であることの証左であると断言します。

こうはっきりと断言できるようになった私でさえ 、まだ自宅の仏壇を処分することにためらいを感じてしまうのは、あきらかにMCから解かれていない証拠だと思います。本尊の曼荼羅が何の意味もない印刷物だとわかってはいても、むげに廃棄してしまうことを躊躇する自分がいます。これはなんだろうかと考えます。信じてはいない。功徳などあるわけもなく、しかし自分のこれまでの人生のかなりの部分も同時に否定してしまうことの躊躇なのか。自分の中での理屈と感情が軋んで音を立てているようです。
仏壇を処分する。これは自分は仏教徒であるという、普段はさほど気にもしていなかったアイデンティティを、ここにおいて、しかもこんなくだらないことが原因で、あっさり否定してしまっていいのかという問いかけでもあると思います。もちろん創価学会とは決別するにしても、宗教とりわけ仏教との縁を切ってしまってもい いものかどうかという疑問というか不安…。これは墓の問題とも関わってくることです。この先、自分の中での宗教観というもの、また信仰というものをどのように捉えていけばいいのかという、おそらく初めてつきあたる問題に正直戸惑っています。なにかしらよくわからない重荷というより欠落感がやはり心のどこかにあるようです。
創価学会は宗教であるという前提で考えれば、これが宗教ならば必要ないという結論とともに、いわゆる無神論者として生きる道もあるでしょう。今の世の中を見れば、神も仏もあるものかと思うのも当然なのかもしれません。かといってこの世界での人間の知覚能力を遥かに超えた力の存在を否定するにも、あまりに無理があると私は思います。創価学会は宗教ではないということを前提に考えれば、あらためて自分自身と宗教、もしくは自分とこの世界をつなげるなんらかのものに対する認識について、もう一度検証し直さなくてはいけないと個人的には思っています。これはあくまで私個人の考えですが、今まで創価学会の考えと違うというそれだけの理由で、自分の中の封印してきた感覚をもっと大切に生きていきたいと思うのです。
そう考えると、創価学会がいかに人を宗教や哲学から、それ以前に人として感じ考えることを遮断させてきたかが思い知らされます。まったく愚かなことです。もはや人類が辿ってきた信仰の軌跡を否定する気はありません。そこから素晴らしい技術や文化が生まれ、芸術が生まれ、人々はさらに生きる意味を問いかけてきました。そして同時にこの世界で生きていくことの喜びをも表現してきたように思います。むしろ無心論者の言い分が偏狭なアナーキズムのようにも私には感じられるのです。
世の中はそう簡単には変わらないだろうし、現に今の世界はろくでもない支配者によって搾取され続けています。それでもこの世に生まれてきたことに感謝し、子どもたちに命をつないでいくことの尊さを伝えていく自分でありたいと思います。
このブログはなにも特別なことをやろうとしているのではありません。自分の時代には実現できないであろう幸せな世界を、せめて子どもたちか、またその子供たちの時代には、その理想を見失うことなくつくりあげていってほしいという思いで立ち上げました。創価学会の現実を一日も早く社会に示すこと。これはみなさんのひと言ひと言の積み重ねによって必ず実現するものと信じています。ちょっとしたことでもかまいません。それぞれの立場で創価学会を見てきたこと、感じてきたことをありのままお話ししていただけるとありがたいです。ここで学会を罵倒し攻撃する必要はありません。ありのままの事実とあなたの正直な思いをここに記していただけるだけでいいのです。創価学会員であるがゆえに創価学会の真実から遠ざけられて、何も知らされていない多くの会員さんの心に届けたいと思います。よろしくお願いします。

幸せになる権利」への6件のフィードバック

  1. シニフィエさんへ、

    英語よりローマ字が好きな威風堂々の歌を好むあきれた沙樹羅は、無間地獄でのんびり苦しむのを選びました。
    シニフィエさんに勘違いして、復讐したいネット学会員のお仲間だったようですね(笑)
    彼らは金太郎飴と同じですから個性がありません。

    個人情報を聞き出す為に、純真な学会員さんに稚拙な恫喝をしたり、泣き言の真似事を繰り返していやがらせをするしか、能が無い哀れなカルト信者などに、動揺されないようにしてください。

    無視して他の話題を振って対話をされることをお勧めいたします。

    それではみなさんごきげんよう(笑)

  2. そうです。軍歌です。学会歌は短調で軍歌がとても多いです。

  3. わおっ、ちょっと見ないうちに某巨大掲示板のような書き込みになってるww
    そろそろ管理人の出番でしょうか(笑)。
    toppoさん、そんなに気にされることはありません。toppoさんの気持ちはよくわかります。これからも是非コメントください。
    愉快さん、いろいろありがとうございます。ここはこれくらいで(笑)。
    SJさんのおっしゃるとおり、触って(カマッテ)はいけない方のようですね(笑)。

    以下、沙樹羅さんのコメントに対しての感想を述べます。私はこのブログの管理人として沙樹羅さん本人と話す気はありませんので、ここではあくまで感想を述べて終わりにします。もしかしたら「ここは対話の場じゃなかったのかよ。きれいごとばかり並べやがって、都合の悪いことが出てきたらシカトかよ。」とか言ってくるかもしれませんが、挨拶も自己紹介もない口汚い無礼な輩と話をする気にはなれないです。それはこのサイトの信用問題に関わりますし、いつも真剣にコメントしてくださる多くの方々に対しても、管理者として毅然とした態度をとるべきだと思うからです。
    では、以下はあくまで私の感想であり、決して沙樹羅さんに答えを求めるものではありませんので、沙樹羅さんはもうコメントしないでいただきたい。もし話を聞いてほしいのであれば、まずはちゃんと人としての礼儀と、まともな日本語をわきまえていただきたいと思います。
     
     
    まず、沙樹羅さんにとって創価学会の存在がどうでもいいのなら、そしてあの語り口であればここではなくて某巨大掲示板のほうがお似合いのようです。平日の昼間からよほど暇なんでしょうけど、できればそちらで暇をつぶしていただきたいと思いました。

    >嫌なら関わらなければいいだけ
     
    この言葉はまさに沙樹羅さんに対して言われるべき言葉ではないでしょうか。自分で批判していることを同時に行ってもいるという、アクロバティックなプレイ。「俺は納豆が死ぬほど嫌いなんだ」と叫びながら納豆をバクバク食ってるみたいな(笑)。まわりで親切に「そんなに嫌いなら食うなよ」と言ってあげてるのに、「死ぬほど嫌いな納豆をこんなに食ってる自分を見て見て〜」って叫んでるように見えます。「嫌なら関わらない」のが信条であれば、ここにも関わらないでいただきたい。おそらくここを見ているかなりの人がそんな風に思ったんじゃないでしょうか。
    見ず知らずの初対面(初対面というのも変ですが)の方に対して失礼かとは思いましたが、あえて言いますと、この捨て台詞は戦後日本の似非民主主義にどっぷりとつかって育てられてきたモラトリアム甘えん坊君のように思えます。二十歳かそこらの若者が言うのであれば笑って説教のひとつもしようと思いますが、非活20年とおっしゃることが本当であれば、そこそこの年齢にしてはものごとの考え方がいささか幼すぎるのではなかろうかと思うわけです。大人になるのをかなり先送りしていらっしゃる。
    言葉というのは不思議なもので、人はその「物言い」だけで、いやでもその人物像を想定してしまいます。ブログというのは言葉だけが表に出ている特殊な世界なわけですから、おそらくこの私「シニフィエ」も100人が100様の「シニフィエ」のイメージを想定してコメントされていると思います。また意図的な「物言い」をすることで、偽の人物像を浮かびあがらせることも可能です。で、沙樹羅さんの「物言い」から想像できる人物像とは、精神的に発育不全の大人であるように思えます。簡単に言うと「甘えん坊」ですね。沙樹羅さんの言葉を借りればまさに「カマッテ君」だと思いました。言葉にするならば「ネエネエ、カマッテカマッテェ〜」と言った感じでしょうか。これは沙樹羅さんにとっては失礼な「物言い」かもしれませんが、ここでの沙樹羅さんの「物言い」も十分失礼だなと思いましたので「あえて」言いました。もう一度、

    >嫌なら関わらなければいいだけ
     
    私はこの「嫌なら関わらなければいいだけ」という言葉に、特に若い世代に見られる「甘え」を感じます。それは「どうして人を殺してはいけないの?」と真顔で訊いてくる子供のようです。甘やかされるだけ甘やかされて自分で考えることができない。衣食住がある程度保障されている国に生まれ育って、よほどのことがないかぎり命の危険に晒されるような場にはいない。なのにそのことを当たり前と思って、誰にも感謝の気持ちもなく、あたかも自分一人の力で生きてきたかのような「物言い」をする子供のような言葉。これがどれほど虚しいものかを沙樹羅さんには理解してもらえないだろうなと。
    ですからそんな感じの印象の人から

    >自分でやったことを人の責任にするなよ。
    >甘えるな。
     
    とか言われても、なんだかな〜っていうふうにしか思えないわけで、ふつうの大人ならこんな言い草は鼻にもかけないでしょう。とうてい話にも何もなりゃしないよな〜と思うのです。何度も言うようにこれが若者ならまだしも、ある程度人生経験がある人の言葉であるとしたら…。いや沙樹羅さんがじつは年端も行かない甘えん坊の若者であることを願っていましょう。沙樹羅さんには申し訳ないけどできれば他の場所でカマッテもらっていただきたいと思いました。

    以上

  4. シニフィエさんお疲れ様です。お体を自愛されて頑張ってください。応援しています。
    また、ここにコメントを寄せられる皆様方、あまり具体的な情報を書き込むと身元が判明する可能性もありますので慎重にされるほうが無難だと思います。
    共産党が生き残ったのは、永い地下活動を耐えた結果だと思います。巨悪に臨むにはそれくらいの覚悟も必要なのでは。
    先ほどのtoppo さんのお話も、私も似たような情報を聞いたことがあります。激しい人は、自分の家を売って財務をした話も聞いております。決して驚くようなことでもありません。バリ活さんとしては。何でもありですから。
    それでも、本人がしたくてやってんだろと例のお方は言うのですよ・・・。コメント終わり。

  5. 北斗七星さん、里芋さん、応援ありがとうございます。ほんとうに心強いです。よろしくお願いします。

  6. はじめまして。
    よかったら、柴田倭成のホームページをご覧になってください。
    あなた様が幸せになれますように。
    一切の答えに出会えますように。

    似たようなプロセスを踏んだ者より。

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