釈迦の生命観

きのうアメリカから一時的に帰って来た友人と話をしていたら墓の話になって、アメリカ人は日本人ほど墓に執着しないと言っていました。アメリカ(西海岸)では埋葬する骨もほんのちょっとだし、逆に日本人の墓に対する執着のほうが理解しがたいと。なるほどアメリカ人の墓は小さいですよね。たぶんキリスト教世界では、死んだら神のもとへ迎えられることになっているから、死んだら肉体でも骨でもただの物でしかないと思うのでしょうか。以前なら、そんな話はそこで終わっていました。つまりそれは洋の東西での生死観の違いであって、さほど発展的な話題でもないと思っていたからです。私が学会がご都合主義のトンデモ教であることに気づいてから、今度は墓の問題をどうすればいいのかわからなくなったことは以前ここにも書きました。そこに偶然彼が墓の話を持ち出してきたのでちょっと驚いたのですが、彼がそう言ったことで、私の墓の問題への執着が日本人であることの特徴のひとつなんだと思い直したわけです。彼が言うには、仏教でも原始仏教、もっといえば釈迦自身は死後のことなんて考えなかったんじゃないか。釈迦自身は死んだらおしまいって思ってたんじゃないか。輪廻転生とか生まれ変わりとか、生命の永続性というのは、その後の教団が仏教を広め組織を維持していくために、あとからつくった教義なんじゃないかと言っていました。釈迦が過去に何度も生まれ変わっては壮絶な修行を続け、ついに悟りを得たといった話は、ずいぶん後になって教団の都合でつくられた話なのではないかというのです。私はなるほどと思いました。そう言う彼は無神論者ですが、無神論者といっても宗教に興味がない無神論者ではなく、特に仏教に関しての興味と知識は半端ではなく、そこらの仏教者よりも大変な研究家でもあります。名前をあげれば誰でも知っている有名人なので、そこから私の素性までバレてしまう可能性もあるので、アメリカ在住の無心論者の仏教研究家といっておきましょう。

もうひとり無神論者の友人がいました。いましたというのは、彼は少し前にガンで亡くなりました。生前の彼は無神論者を貫き通して、自分が死んだら医大へ献体するように遺言していました。亡くなってすぐに大学病院に運ばれ医学の向上のために徹底して解剖されたあとに骨になって自宅へ帰ってきました。彼の遺言どおり、通夜も葬式も初七日もなにもないまま、彼の妻が人知れず夫の骨を海に撒きました。そのとき私はとても寂しかったのですが、今思えばむしろこの考え方の方が本来の仏教に近いのではないかという気がしてきました。それは命に対する執着という意味で、立証のしようのない死後の生命を想定すること自体、自己の執着を捨てきれない、つまり解脱できていないことの現れではないかと思ったのです。永遠の生命観というのはわかりやすい。しかしそれは自分の死に対する恐怖を少なくするためにつくった、つまりいつまでも生きていたいという願望、執着の現れでしかないのかもしれません。

日本に存在する既成仏教では、墓はあって当然のものです。墓と無縁のお寺はおそらくないでしょうし、むしろ墓の維持のためにお寺があるといってもいいくらいです。近頃はモダンな分譲型の納骨堂(笑)を建てて金儲けに走るお寺も増えました。日本人の宗教観や生活様式や土地事情などの変化もあってのことでしょうが、それは果たして仏教の、とりわけ釈迦が見極めたであろう生命の真実だったのかということを、もう一度見直してもいいのではないかと思いました。

アメリカから一時帰国した彼を囲んでの昨夜の飲み会の話を聞いても、以前の私からは想像もできないような考え方をしている自分に少し驚きました。考え方が変わったというよりも、学会の似非教義を信じていたために無理矢理押さえ込んできた学会とは相反する物の考え方を自分の中で解放し始めたのではないかと思います。それは今まで信じてきた創価学会の教義が間違いだったから単純に無神論者に転じるといったことではなくて、神、仏、大いなる物語、なんらかの法則、時空の成り立ち…そんなものをいままでよりはニュートラルな立場で、しかもビクビクせずに考えることができるようになったのではないかと思っています。逆を言えば、いままでどれだけおかしな教義を信じて、まともな思考をできずにいたかということです。

一個人として宗教全般を否定し自分を無神論者と断言することは簡単です。どんな宗教であれ様々な問題を抱え、中には戦争の建前に利用され、多くの罪のない人の命が奪われたりもしますから、宗教を否定する人がいても無理のないことだと思います。ただ私はその時代その時代でのいろんな都合によって作り替えられてきた仏教に関して、そう簡単に否定できるものではないと思っています。昨夜の「『じつは人は死んだらそれまで、死後のことなんて考えたって無駄なんだよ』って釈迦は思ってたんじゃないか」と言った彼の言葉から、今までとは違った受け止め方をしている自分に驚いています。

また別の友人にターミナルケアを日本に確立すべく走り回っている医者がいます。余命幾日と告げられた人の心のケアをどうしていくのか。これは個人の宗教観とも深く関わっていく問題なので、一筋縄ではいきません。またそうした問題を、唯物論的な西洋医学を範とする医師が取り組むべき問題なのかという基本的なところから出発するべきだろうし、医療の現場にそうしたことまで抱え込むだけの余裕はありません。彼は日常のたいへん多忙な実務の合間に、日本でのターミナルケアの確立を目指している医師たちのネットワークを広げながら、自費と時間を投じて日々戦っています。ターミナルケアの問題は医療よりも心理学、とりわけトランスパーソナルの分野で奨められていくべきではないかと個人的には思います。昔、キューブラー・ロス氏による死後の生命についての研究が取りざたされた時期がありました。何千人、何万人もの死に行く人との関わりのなかで、彼女は死後の生命の永続性を確信できたかのような研究を数多く残しています(どこぞの名誉会長もよく話を引用して、仏法の生命観と科学の共通点を嘯いていましたが)。「死は生命のひとつの変化というか区切りであって、古い着物を着替えるように、ひとつも怖くなんかないのよ」と言っていた彼女の末路は、結局自分の死を受け入れることができずに、まわりのすべてに悪態をつきながら醜い最期をとげたと聞いています。死というものをどのように捉えるのか。これがおよそ宗教と呼ばれるものの大きなファクターであることは間違いないでしょう。しかしじつは哲学や医学や心理学や社会学などの学問はもちろん、芸術も含めたすべての人に関わる永遠の課題です。あらゆるものは死へ向けて突っ走っている。この避けがたい現実に対して私たち一人ひとりが深く考えていかなければなりません。

創価学会では生命哲学とか人間革命といっても、所詮搾取のための詭弁でしかありません。知らないうちに偏狭な似非生命観から逃れられなくなって思考停止を余儀なくされる。私は先に紹介した創価学会ではない友人たちの生命に対する真摯な考え方と行動に深く敬意を抱きます。学会の間違い、ひいては自分の人生の選択の間違いに気づかされたときにも、こうした多くの友人の存在に支えられているのだと強く感じました。昨夜の友人が発した「人は死んだら終わりと釈迦は考えていたのではないか」という言葉は、ぱっと見本来の仏教観から遠く離れているように思われますが、じつはこれこそが仏教の根幹にも関わっているのではないかと昨夜からずっと考えています。仏教は場所と時代の要請によって様々に変わってきた。そして日本に伝わった仏教も様々に変化し、あるときは人々の心を魅了し、あるときは殺し合うまでになった。インドや東南アジア、中国における仏教の変遷や、空海、親鸞、道元、日蓮等々…彼らが日本の精神史に何をもたらしたのかを、あらためて勉強したいなと思っています。創価学会は宗教を利用した悪しき社会現象です。創価学会は断じて宗教などではありません。創価学会が仏教は言うに及ばず、およそ宗教団体ではないことが一日も早く世に示されるべきだと思います。このブログはそのことを多くの方の証言で明らかにしたいと考えています。

釈迦の生命観」への3件のフィードバック

  1. 『死生観』について考えてみました。

    井上靖氏の「化石」という言う小説に出会いました。その中から一部を拾ってみたいと思います。
    主人公は建設会社の社長で、ガンを宣告され余命あと1年と言われている。かっての同僚で、すでに2年前からガンで入院していることが分かって、見舞いに出かけた。そこの病院での対話・・・・・・・。

    ▽「 あなたが、もしあと1年の健康な時間が残されているとしたら、あなたは、何をなさりたいですか?」 と、社長。
    〇「 禅をしたい」 「自分が消えて大きな宇宙と一つになってしまうように思えるからです」 と、友人。
    ▽「 仕事についてはどう考えていますか 」 と、社長。
    〇「 仕事の鬼でした。 鬼として生きることはなかったと思う 」 と、友人。
    ▽「 あなたは自分の人生は失敗だったと思いますか 」 と、社長。
    〇「 失敗であったと思う 」 と、友人。
    ▽「 もし人生をやり直しするとしたら、何をしたいですか?」 と、社長。
    〇「 身辺が清潔である生き方をしたいですね。他人のことをもっと考える生き方がしたいですね 」 「自分がのし上がろうとする生 き方はいやですね。 金を追いかけるのもいやですね」 「一生何かに縛られていました。金、地位、名誉、幸福・・・・みんな大し たものじゃありませんよ 」 「 『本当の生き方』 と言っても、その正体は分かりません、残念なことに分からないが、それはちゃ  んとあると思いますよ」 「 せいぜい今の私には、 『鳥の鳴き声を聞いて、ああ鳥が鳴いている、花が咲いているのを見て、ああ 花が咲いている 』、と思うそんな生き方がしたいですね 」 「 幸福を一生追いかけましたが、みんな逃してしまいました。 随分 沢山の幸福とすれ違ったと思います」・・・・・・・、と友人。

    『本当の生き方』に向き合おうとする二人の初老男性の姿を見るとき、ここ数年で多くの近親者、友人を見送ってきた私自身としても他人事とは思えない深く重いものを考えてしまいます。「死」の問題は考えてもしかたのない問題であると、多くの人達はその時が近づいて来るまで放置する道を選んでいるかのように見えます。少なくとも40歳代半ばまでは、まだまだ祖父母や両親が生存できてさえいれば尚の事そうだと思われます。

    人生多感な青春時代には、「本当の人生」を、「悔いなき人生」を生きたいと考えていたのですが・・・・。日々、仕事や子育ての生活に追われ、悲喜こもごもの人生の試練に洗われる中で、いつもその影に見え隠れする「死」という問題は、「今の自分」には縁のない事として先送りし、或いは、見て見ぬふりで過ごすのが常であったように思います。この「死」の問題を何時も何処かに仕舞い込んで生きる生き方に慣れてくるにつれ、「本当の人生とは何か?」を自らに問うことまでも棚上げにしてしまい、多くの日々を過ごしてきてしまったように思われます。
    しかしながら、「死」という限界状況を前にして、自分が消滅するという精神的恐怖、生き残る者への後ろ髪引かれる思いなどは通常のことでしょうが、「本当の生き方」を問う思いに駆られることもまた切実な問題であると誰もが感じざるをえないことでしょう。

    『神谷美恵子』の本、「人間を見つめて」 (朝日新聞社)に、次のような言葉があります。
    ◇ 「 宗教は、絶対的な救済の原理を提示するものです。死によって象徴される人間の有限性に発する苦悩の解決こそ、宗教の役割があるのです。死は、人と場合によっては、自己の人生や存在に対する鋭い内省を誘発します。その内省の精神こそが『宗教』への道を開くものです。自己の有限性に苦しむ心が堆積して初めて、目前に迫る『死』が宗教への踏切板になるのです。」と。

    私は、今はまだ「絶対的な救済」を求める 心境にはありません。これからもないかも知れません、あるかも知れません。「神」とは何か、「仏」とは何か、宗教とは何か、私には分かっていないからです。「信心」「発心」は日々生活と離れたところにあるとは考えられないからです。宗派宗教にすがりついて「救済」を求めたいとは思わないからです。これが唯一絶対の「神」「仏」「宗教」であると決めつける考え方には立つことができないからです。

    それでも、他の人が「絶対的な救済」を求めることについて、否定も非難もできないと思っています。何故なら、宗教への出会いは人それぞれの境遇においてであり、人それぞれの人生に対する「内省」の精神においてであるからです。「神谷美恵子」さんの示すところの宗教観をそっくりそのまま、すべての人が受け容れるべきであると考えねばならないとすることには、説得力はないように思います。なおその上で、「宗教とは何か」を考える時に、「創価学会」がやっていることは、余りにも欺瞞的で腐敗したものであり、信者の人間としての尊厳を恥かしめるもの、社会の信頼を裏切るものになってはいないかと、思わずにはいられません。

    星野富弘さんの絵画展を紹介され行ってみました。教職に勤務中、23歳にして事故で首の頸椎を骨折し、危篤状態から奇跡的に「いのち」が救われ、寝たきりで感動的な水彩画と詩を創作しておられます。この方は、意識を回復した時に病院で、「キリスト教」の洗礼を受けられました。そこには、「命」は「母」から頂いたもの、そして「神」から頂いたものという「死生観」があるかのようでした。人それぞれの真摯な生き様に対する敬意を払うことのないところで、「創価学会」のように布教を使命とさせる「宗教」に心を許す者は一人としていないことが強く感じられました。
           
               『 木にある時は 枝にゆだね
                     枝を離れれば 風にまかせ

                地に落ちれば 土と眠る
                     神様にゆだねた人生なら

                木の葉のように        
                     一番美しくなって 散れるだろう 』  ( 星野富弘 詩 )

     死生観について、最近の素朴な私の思いをお届けいたしました。 

  2. 桃太郎さん、素晴らしいお話をありがとうございます。私はほんとうはこんな対話をしたかったのです。自分が心や身体で感じることを表現し、生命の不思議さ、この世界の深さ、人生の儚さと尊さを共感できる対話が実現できれば、自ずと創価学会のやっていることがどういうことであるのかが誰の目にも明らかになると思います。そして多くの創価学会員がここを訪れることによって、学会の真実に気づいてくれると信じています。ほんとうにありがとうございます。

  3. 釈迦は、悟りを拓いた時点では、説明したって誰も理解しないから、俺だけが真理を知って死んでいけば良いと考えました。それで梵天は、いやいや釈迦の悟りを素晴らしいから、皆に伝えるべきだと説得しました。その説得を受けて、釈迦は、試しにやってみるかとかつての兄弟弟子に伝えたのです。

    あるいは仏教における善悪は、悟りの邪魔になるかならないかです。だから愛は、悪とされます。何故なら、愛は、何かに執着することだからです。

    あるいは仏教では、悟りを啓けば、生まれ変わりません。悟りを拓けない者が、輪廻転生から解放されないのです。ちなみに「人は死んだら終わりと釈迦は考えていたのではないか」というのではなく、無記説といって、釈尊は、死後について語らなかった。何故なら死後のことはわかならいからです。わからないから語らない、ただし悟りを啓けば、死後についての悩みから解放されるということです。

    仏教の根本は無明(十二縁起の一)で、人は生まれながらにして苦しみがあり、それは無知だからである。悟りを拓いて、真理を知ることで、その苦しみから解放されるのです。現実社会で幸福になるのではなく、現実社会の苦しみから解放されるわけです。

    とまあ、仏教に対する誤解というのが、日本人の多くにあります。「誤解された仏教」 (講談社学術文庫;秋月龍珉著)というのもありました。

    最後に「日本仏教史―思想史としてのアプローチ 」(新潮文庫;末木文美士著)をお勧めします。アマゾン等のレビューをまずは見てください。「日本仏教の可能性―現代思想としての冒険」 (新潮文庫)が昨年出ましたが、これも面白いと思います。文庫なので安いですし。

    文庫だと、中村元先生の岩波文庫一連の著作や「龍樹」 (講談社学術文庫)、宇井伯寿著の「大乗起信論」(岩波文庫)がお勧めです。

    まあ生死について言えば、生きることは死ぬことです。今、一分一秒生きていることは、一分一秒死に近づいているのです。武士道とは、禅を通じてこれを取り入れ、朝起きては死ぬ、毎朝死に、死人として生きることであると解釈したのが、隆慶一郎でした(「死ぬこことと見つけたり」)。

    ちなみに今の私は、いつも出来るとは限りませんが、人間は感謝することしかできないということです。自己と森羅万象は縁があり、自己の利益は、その縁によってもたらされたものでしかありません。だとすれば縁に感謝し、森羅万象に感謝することしかできないのです。

    同じく星野富弘さんの言葉で締めます。

    「私にできることは小さなこと。

     でも、それを感謝してできたら、

     きっと大きなことだ。     」

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