「対話」と「対決」

私がこのブログを「対話を求めて」というタイトルで立ち上げてから、まだ3ヶ月ほどしか経っていませんが、いろんなことがありました。いまはこうして対話ができない状態にあります。それはある意味仕方のないことかもしれません。

ひとつ思ったのは、「対話」という言葉の捉え方の違いにあるのではないかということです。

ここは誰もが匿名で文字だけのありとりでしかないネットの世界ですから、言葉一つとってもいろんな考え方や感じ方や思い入れや、またあるいは思い違いもあるでしょう。それを一つひとつあげていきながら、誰の言ってることが正しくて、誰かは間違いだとか言うことを、こうしたネット上で議論することに意味があるとは思えません。私は誰の意見が正しいのかと言った対決をするためにこのブログを立ち上げたわけではありません。たとえ誰かの言うことが一番正しいということに多くの人が賛同したとしましょう。いったいそのことに何の意味があるでしょう。不特定多数の匿名同士の対決に意味があるというのであれば、そう思う人たちだけでやればいいことだと思います。少なくとも私はそうは思わない。ネット上で理屈をならべたり、知識をひけらかしたりすることが楽しいのであれば、そうした場所でやればいいのだと思います。少なくともここはそんなくだらない場所にはしたくないという私の思いです。

よそのブログでも、私に対して「『対話を求めて』というタイトルで、文字通り対話を求めるためのブログを立ち上げたのであれば、自ら対話を拒むような態度はおかしいのではないか」といった批判もあるようです。しかしそれは違うと思います。それは今しがた上に書いたように、私が求めているのは「対話」であって「対決」ではないからです。

創価学会に関しては、創価学会の正義を信じて活動を続けている人、創価学会員ではないけれども経済的な利害が一致していて応援している人、かつて信じていたが騙されていたことがわかったという人、創価学会とは敵対関係の団体に属して批判を続けている人、もう創価学会とは一切関わりたくない人、創価学会から多大な被害を被っている人、創価学会のおかしさに気づいてほしいと願っている人…、ほかにもいろんな立場の人がいます。

私は3ヶ月前までは、まだ創価学会の矛盾をそれほどまでに大変なことであるとは思っていませんでした。しかし組織の外側からの視点に気づいた瞬間から、創価学会がたいへんな数の人たちを不幸に陥れている現実に気づくことができました。そこで私はこのブログを立ち上げることで創価学会に関して多くの人との「対話」ができないかと思いました。ここで勘違いしてほしくないのは、私は「対話」を願っているのであって、何が正しいのかを追求するための議論をしようというのではないということです。それはつまり上に書いたように、ネット上でどんなに議論しても何の解決にもならないと思っているからです。ですから私に議論という対決を挑まれても筋違いです。議論する気はありません。誰が正しくて、誰が間違っているのかは、人それぞれが自分で考えればいいことだと思います。なにもここでの対話の部分部分をあげつらって正邪を追求したところで、追求する人にとっては多少の暇つぶしになっても、私にとってはとんだ迷惑ですし、本当の意味で対話をしようと思ってコメントしてくださる人にとっても迷惑な話です。

人が何をどう思ったとしても、それはその人の思いであり考えであり行動なのだと思います。それをネット上のどこの誰ともわからないような人に批判される筋合いはないでしょう。たとえそれが間違った考えや事実認識であったとしても、それがその人にとっての現実なのです。そこからはじめるしかありません。私がここでやりたいのは、このブログの冒頭から何度も何度も言っているように「対話」をしたいということです。

こういう理由で、私は創価学会に関して、いろんな立場の人がそれぞれに思っていることを語っていただきたい。それにたいしての正邪を追求する場ではないということをもう一度確認しておきたいと思います。ここで対話をしようとする方に対して無益な批判をするような書込みに関しては、上記のような理由で削除させていただきます。

創価学会に関して、自分が体験してきたこと、思ってきたこと、願っていること、そのことを誰もが正直に話していけるような場所にしたいということです。そのことに対して「お前は間違っている」だとか「考えが甘い」だとか、そんなことは余計なお世話なのです。私のように創価学会の矛盾に気がついたばかりの人もいれば、何十年も前に気づいた方もいらっしゃいます。まだ気づいていない方もいらっしゃいます。私個人としては一日も早く、一人でも多くの人に気づいてほしいと思っています。しかしそれはその人本人が自分で気づく以外にないように思います。まわりからどんなに言われても、自分が正しいと信じてやってきたことを、そう簡単に否定することはできないでしょう。それはそのまま自分の人生を否定してしまうという恐怖が待ち受けているし、それよりも創価学会の場合には、とくにこの信仰を捨てると必ず不幸になるという徹底的な植え付けから逃れることが難しいからです。金に目が眩んではじめたマルチ商法から脱会するのとワケが違います。そのような人に対して、どんなに理論的に学会の矛盾をまくしたてたところで問題は解決しないと思います。

ですから、私は創価学会の矛盾に気づいた人の思いが、できるだけたくさんここに集まっていくことができれば、ここを読んでいくことで、創価学会と関わった自らの人生をもう一度考えてみるきっかけになっていただければと思っています。創価学会の矛盾に気づくといっても、いろんな場合があるでしょう。

もうしばらくして、このブログも再開しようと思っています。

このブログのコンセプトは最初から変わりません。おそらくこれからも変わりません。「対話を求めて」というタイトルがすべてです。創価学会が正しいのか正しくないのかといった議論をする場所ではないし、アンチ創価といわれる方たちの正邪を議論する場所でもありません。ましてやネットを徘徊する暇つぶしの場所でもありませんから、そうしたコメントはすぐに削除させていただきます。

「自分に都合の悪いコメントを片っ端から削除して何が対話だ」といった批判をする方もおられます。そう思われるならそれでけっこうです。ここへは来なければいいだけの話です。こうした批判を見るたびに思うのですが、どこの誰ともわからない人同士が文字面だけで議論して何になるのかということです。私が思うには、単に暇つぶしにしか思えません。よく地方の新聞の「読者の声」みたいな欄に、なにかと批判的な文章を寄稿する人がいます。これは全国どこにでもいるようです。自分の生活とはまるで関係のないようなことまで、こと細かに批判を繰り返して、自分の言葉が載っている紙面を見て満足している人たちです。商品に対するいわゆるクレーマーも同じです。趣味でクレーマーをやっている人たちです。

私は自分の生活の中でそれほどネットに関わる機会が多いわけではないし、テレビなどのマスメディアに触れる機会も極端に少ないです。このブログを始めてからは、結果的にコメントしていただく方に対する対応に追われて、はじめてブログ管理の大変さを思い知りました。そして面白半分で他人のブログをかく乱したり、いわゆる「荒らし」といった類いも経験しました。やはりあまり関わりたくない世界です。

これからもうしばらくしてブログのコメント欄を解放して、ふたたびみなさんからの対話をお願いしていくことになると思います。そのときはどうか上に書いたような私の考えに賛同していただく方にコメントしていただければと思います。

もう一度言います。ここは「対決の場」ではなく「対話の場」であることを踏まえて、大いにコメントをいただければと思います。議論がしたいと思われる方は、どこか別の場所でおおいにやっていただければと思います。自分のコメントを削除されることに不満のある方は、最初からコメントしないでいただきたい。それが一番の解決策だと思います。

ひとつみなさんに見ていただきたい映像があります。これは創価学会とは全く関係のない映像です。イギリスBBC放送が制作した福島の子どもたちを中心にしたドキュメンタリーです。まずはこの映像をご覧ください。

この映像に関しても、おそらくいろんな立場の人からの批判があると思います。しかし少なくとも私はすばらしいジャーナリズム精神にあふれた映像だと思いました。外国のジャーナリストが捉えた福島の現実。もちろんこれは多大な被害を受けた福島の人たちのほんの一部の現実かもしれません。もちろん全てを語ることはできません。できないことを十分にわかったうえで、こうした取材と編集をしている制作者の良心さえうかがえる映像だと思います。考えてみてください。この映像に関して、ネット上でどんなに批判をして何になるでしょう。それよりもこの映像…といいますか、ある視点から見た事実に対して、それぞれが考え、思いを伝えることのほうが大切なのではないでしょうか。ネット上での「対話」と「対決」にはそれほどの隔たりがあると私は考えます。はっきり言って「対決」に意味はないと思います。何かに対して批判することがどれだけ虚しく、また人はそのことに何も期待していないことを批判者は思い知るべきだと思います。人を批判して自分が優位に立っていると思い違いをして満足しているクレーマーと同じだと思います。私はそんな他人の自己満足と暇つぶしに関わっている暇はありません。大切なことは自分がどう考えて、実際にリアルの世界でどう行動していくのか、リアルの世界でまわりの人たちとどう繋がっていくのかということだと思います。このブログはそうしたことを大切に思える人が、自分の思いを正直に語ることのできる場所にしていきたいと思っています。そうした展開ができるようになるまで、もうしばらくコメント欄は閉じておくことにします。

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