久々の投稿になります。

久々の投稿になります。311関連のいろんなことや仕事やプライベートなことで、このブログを開くことさえできないほどの忙しさでした。またぼちぼち書いていくことにします。

私が53年間続けてきた創価学会がおかしいということに気づいて5ヶ月ほどが経つことになります。創価学会のおかしさに気づいてからわりとすぐにこのブログ「対話を求めて」を立ち上げました。最初の3ヶ月ほどはいろんな方の意見を聞くことができたり、自分の中での学会の矛盾が日ごとに明らかになっていいく過程を記録することができたと思います。多くの方がこのブログを見てくださいました。多い時には一日に4,500ものアクセスがありました。しかし、これだけ多くのアクセスがあるなかでは、考えられないような誹謗中傷や無益な議論などもあって、ブログ自体の信頼性さえ失われる事態となり、しばらくお休みすることにしました。悪意のある書込みというものはネット上では仕方のないことなのでしょうが、予想以上に疲弊するものだと言うこともわかりました。それから何週間もまったく更新しないのに、それでも一日に300から400ほどのアクセスがあります。かつての10分の1とはいえ、創価学会の問題についての感心の深さには驚きます。

私と同じようにいわゆる学会二世と言われるような、生まれたときから入信動機を持たずに創価学会員として純粋培養されてきた方にとって、創価学会が宗教を騙る詐欺集団だったということが、どれだけ信じがたいショッキングなことかは、当事者でなければわからないことだと思います。逆にその間違いに気づいた学会二世の気持ちの動きやその後の行動は、まったく学会とは関係のない立場の人が語ることとは違った説得力をもつものだと思います。そうした意味でもこのブログはどこかの時点で再開できればと思っています。

私はブログを通して自分の考えの正しさを主張したいのではありません。前にも書きましたが。誰かの考えが正しくて、誰かの考えは間違いだといった議論をネット上ですることに意味があるとは思えないからです。そういう意味で「議論」ではなく「対話」をすることで、創価学会の問題を多くの方と共有していければと思いました。議論ではなく、対話であればネット上でも可能なのだと、そして大いに意味のあるものだということも、このブログを通してわかりました。そうした趣旨を理解された多くの学会二世の方が、ご自分の体験や考えを語ってくださいました。それに対してさらに多くの方が共感してくださいましたし、さらに多くの方が興味を持って読んでくださいました。私はそれでよかったと思います。このブログでできることはそれで十分なのだと思います。私は議論するためにブログを立ち上げたわけではありません。それこそこれまでの人生のすべてにおいて、創価学会と言うまちがった信仰を強いられてきた自分ですから、今でさえこのことをどう捉えていけばいいのかはっきりとはわかっていません。おそらくこれからも人間にとっての信仰とは何かと言った問いかけはしていくことになるでしょう。53年間の間違いをほんの数ヶ月で払拭できるとも思いません。ましてやネット上のどこの誰かもわからないような人と議論することに、およそ意味があるとは思わないのです。

以前このブログに私の発言を「思い込み」や「自分の都合」で書いているという指摘がありました。科学者の論文ならいざ知らず、自分のブログに自分の思い込みや都合を書くことがそんなにいけないことなのか今でもわかりません。それでももしかしたら私の発言がその方に対して失礼があったかもしれませんので謝罪したのですが、その方はさらに私に議論を求めてこられました。私は上に書いたように、ネット上で、つまりお互いにどこの誰ともわからないようなもの同士が文字だけのやりとりで物事の正邪を議論することに意味を持てないばかりか、そんなことをしている時間も興味もなかったので、さんざんお断りしてきました。どんなに自分の立場を説明したとしても、ネット上の架空の人格同士が議論することは、単に議論のための議論でしかないと思いますし、場合によっては単なる揚げ足取りの応酬で、最終的にはみっともない口げんかのようになってしまうと思いました。それはその「語り口」からそう判断しました。この方は議論を通して自分の優位を主張することが目的なのだと言う気がしたからです。私としてはそれ以外にこの方の発言の目的をうかがい知ることができませんでした。その方にしてみればこのような私の「勝手な思い込み」を批判されるのでしょうが、つまりはこのような対話なき討論ではお互いに徒労でしかないと思うからこそ議論をお断りしてきました。しかしその方はそうした私の意図を解しないのか無視してのことなのか、さらに私の態度に対する批判をされています。私としては誰とも議論する気は最初からないことを何度も申し上げてきましたので、それ以上のことは控えさせていただきました。

私がわざわざこのことをここに書いたのは、これからこのブログを再開したときに、同じように「議論」を望まれる方とっては相応しくない場所だということを言いたかったのです。ネット上で議論したい方は、どこか別の「議論」が大好きな方の集まる場所で思う存分やっていただきたいということです。少なくともここはそうした場所ではないということをはっきりと申し上ておきます。

私はもともとネットに大きく関わるような仕事ではないし、あまり興味もありません。現代社会はネットなしには考えられない構造になりましたが、それはあくまで「便利な道具」であって個人的な思想や生き方にまでネットを介入させてはいけないと思っています。若い世代にとっては、それこそ生まれたときからネットがあたりまえの環境としてありますから、なかにはネットに精神まで依存してしまう人も出てきているようで、リアルな人とのコミュニケーションのありかたが未発達なまま大人になってしまっている人も多く見られるようになりました。私などは他人のブログをあれこれ読んでまわるような人間ではありませんから、たとえば他人のブログの発言を批判して何が楽しいのだろうと思っています。私がこのブログを立ち上げたのは、創価学会のおかしさに気づいて、まず何をしていいのかわからないままに、とりあえず同じような境遇や考え方の人がいるのかいないのかを知りたいと思ったからでした。さすがにネットはこういったところでは本領発揮するもので、結果はすぐにわかりました。みなさんの切実な体験や思いのこもったコメントを拝見していく中で、やはり私が感じていた創価学会の矛盾はまちがいではなかったんだということがわかりました。それどころか、創価学会の問題は深刻な社会問題だということもわかりました。とはいえ、ネットがなにかをしてくれるわけではありません。私たちは何かをしていくなかでネットは有効な道具として活用できると言う意味です。真偽のほどは別として、さまざまな情報を手に入れることができる。しかしその信憑性はマスコミ以上に疑わしい。私は放送や新聞や出版社に多くの友人がいますが、とくに本社やキー局の人間にとってジャーナリズム精神が著しくゆがめられているというジレンマを聞きます。マスコミはよほどのことがないかぎり嘘は言わない。言わないかわりに、言うことと言わないことやタイミングを調整しながら意図的な情報を受け止めさせようとする操作はするようです。しかしネットはほとんどなんでもありの無法地帯と言っていいでしょう。よく言われるように、技術の高度化や広がりにモラルが追いついていっていません。FBやグーグルの戦略には恐ろしささえ感じます。こうしたネットワークシステムによって世界中の個人情報が急速に画一的な管理下に支配されようとしています。私のような歳になれば、それもどうということはないのですが、若い世代にとっては知らないうちに個人的な嗜好まで調整管理されるような世の中に急速になっているような気がします。

話がそれましたが、このブログもコメント欄を閉鎖してからしばらく経ちましたが、その間も私の内面的な創価学会にたいする意識は変化しています。また信仰そのものに対する考え方や気持ちも変化しているのがわかります。できるだけ冷静にこうした変化をみつめていきたいと思っています。

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