芸術と宗教

芸術と宗教に関して、先日は音楽を例に出しましたが、たとえば美術でいえば、ダ・ヴィンチの「受胎告知」や「最後の晩餐」は人類史上に残る名画です。システィナ修道院のミケランジェロが描いた「最後の審判」やサンピエトロ大聖堂にある彫刻の「ピエタ」にしてもそうです。もっと時代をさかのぼってギリシャ彫刻はどうでしょう。有名な「ミロのヴィーナス」をはじめ、みなギリシャ神話の神々です。一昔前、バーミヤンの石窟寺院がイスラム過激派によって爆破されました。それは宗教的な観点から仏像が否定されたからです。エジプトの彫刻は太陽神を中心とした宗教がもとになっています。日本においても山水画は茶道とともに禅の思想が基盤になっています。禅の思想を表す「十牛図」や「円相」にしても「不立文字」の考え方がよくわかります。そう言う意味では「南無妙法蓮華経」とは正反対の思想です。日本の仏像の芸術性は世界でも群を抜いています。有名な興福寺の阿修羅像をはじめ新薬師寺の十二神将や広隆寺の半跏思惟像など、あげればキリがありません。そうした人類の生み出した世界の芸術の多くというか、ほとんどといってもいいでしょう。それらを日蓮の思想に照らし合わせると否定されなければならなくなります。いい方を変えれば、特定の宗教によって思想信条、表現の自由を制限されることになります。
もし万が一、学会や日蓮正宗の言う広宣流布がなしとげられたとしたら、これらの人類の文化遺産はどういう扱いを受けるのでしょう。その先に芸術家は思想統制をされた作品しか世に出せなくなるのでしょうか。それが文化と言えるでしょうか。これは「それはそれとして」などといったいい加減なことでは済まされない問題です。

芸術と宗教」への5件のフィードバック

  1. 仏像に魂があると感じたのは、阿修羅像を拝観した時でした。胸に迫るものがあり涙がこぼれそうでした。
    曼荼羅にしても素晴らしいものがあり感動しました。
    また、深くキリスト教を信仰される方に昨年、念願が叶いお逢いすることもできました。ほんとうにマリアさまのような観音さまのような方で、この方に逢えた自分は幸運だと想い感謝しました。写経は、わたしの中では観心する作業です。
    わたしは、創価学会から解き放たれていま、自由に神社仏閣をお詣りすることができるようになりました。
    一つの宗教を熱心にされている方には、節操がないと思われそうですが。。
    わたしが何故宗教にはもう入らない、かというと、やはり、それぞれの宗教には戒律のような約束事があり、それぞれの宗教で違いはあっても修行があります。それが、わたしには面倒で。。それだけです。広く浅く、いまは知りたい。。そして、他の宗教は常に門戸を広く開け放たれているのですよね。いまは市民活動をされている方のお話にも共感できますし、わたしのなかには学会から教え込まれた箍は外れたと思います。

    ひとつだけ。。
    法華講員さま。。
    日蓮正宗は違います、と言われていますが、あの白バラ通信の、いつも書き込みされているあの方の書き込みを見ると、やはり誤解してしまいます。。
    あの方も日蓮正宗の方なんですよね。。?

  2. シニフェさんこんにちは。暑い日が続きますね。
    体調に気をつけてお過ごしください。

    私も最近、シニフェさんと同じような疑問を抱くようになりました。

    『もし万が一、学会や日蓮正宗の言う広宣流布がなしとげられたとしたら、これらの人類の文化遺産はどういう扱いを受けるのでしょう。その先に芸術家は 思想統制をされた作品しか世に出せなくなるのでしょうか。それが文化と言えるでしょうか。これは「それはそれとして」などといったいい加減なことでは済ま されない問題です。』

    全く同感です。日蓮自身が庶民感覚の上で一体何を幸福と感じ、何を平和と考えていたのか判りませんよね!
    昔、聞いた話ですが、日蓮が佐渡流罪のときに何を考えていたのか?

    まず一つ目は、自分が衆生救済のために身の危険も顧みず法華経を広めてきた結果、流罪された身を嘆いたそうです。

    二つ目は、日蓮が予言した蒙古の二度目の来襲があるのかどうかが大きな気掛かりだったそうです。つまり、それがないと自分の予言が外れれた事になるわけです。すなわち、法華経にキズが付くのです。

    人師、論師を通じて時代とともに本主釈迦の教えから乖離したのではないでしょうか。
    私はそのような視点から、仏教の流れを一度自分なりに見つめなおしたいと考えています
    それではまた、お元気で。

  3. 流れ星さん、北斗七星さん、コメントありがとうございます。
    私は創価学会の間違いに気づいて以降は、特定の宗教的な行為に近づくことはあえて避けています。もちろん、一般の人たちが神社仏閣や教会に観光として行ったりするのと同様なことは、以前の後ろめたさが無くなった分だけ、さわやかな気持ちで行くことができるようになりました。
    私は若いとき新婚旅行でローマに行きました。とにかくミケランジェロの絵画をこの目で見たいと願っていたので、それはもう一生忘れられないシスティナ礼拝堂の「最後の審判」との出会いでした。そのとき自分がカトリックの総本山バチカンにすすんで出向き、サンピエトロ大聖堂のカテドラルの美しさに驚き、これ以上ないというほど決定的なミケランジェロ渾身のキリスト教絵画を前に感動の涙を流したのをおぼえています。そのときはあまりの感動に、日蓮のいう外道の中心中の中心にいることを完璧に忘れ去り、至福の感動の渦中に身を置いていました。まだ私が20代のときのことです。いま思えば、その芸術作品との出会いによって、自分の中にそれまでとは違った人生の核のようなものが誕生したように思います。それまで福子と呼ばれ学会の価値観一辺倒だったのが、芸術による人生観、つまり別のアイデンティティをつくることができたからこそ、その20数年後にこうして気づくことができたのかもしれません。そういう意味で芸術が自分を救ってくれたと思います。それにしても気づくのに長くかかりすぎたとは思いますが(笑)

  4. シニフェイさんおはようございます
    いゃ~朝からシニフェイさんのコメント読んで感動です。まったく同じような経験されている方がいるのだなと
    私は芸術家でも何でもありませんがその昔初めて約1ヶ月欧州旅行したのが30歳そこそこのころです
    ミケランジェロやダビンチの絵画、彫刻の実物を目の前にしたとき訳もわからずあまりのすごさに興奮して体が打ち震えたことを昨日のように覚えています。そしてこの場から離れたくない何日も見ていたい、帰りたくないと心底思いました。
    また教会の内外ともにその荘厳さに圧倒され、いかにキリスト教また教会に自分が思っていた以上に力があったのかを心の中で想い知り、日本では経験できない感動をしました
    でもその後、頭の中をよぎったのは、広宣流布したらこれらはすべてどうなるんだろうと思いましたね。私は早い時期からそう思ってました、嫌ですねどこに行ってもこの思いがついて回るんですから
    本当に心のそこから人に感動を呼び起こさせる芸術、こんなものを否定していたら世界は持ちませんよね
    今日は朝からシニフェイさんのコメント読んでとっても気持ちいいです

  5. わたしは、創価学会を辞めても学会の人は気の毒だな、とは思うけれど、敵対視するような気持ちはなくて、早く気がついてほしいな、という気持ちはあるけれど。。(信濃町界隈は嫌いですが)

    でも、創価から法華講に移った人の中には、創価学会員を敵対視する気持ちが強いように想う。。
    自分も辞めたのに、創価学会を脱会した人のことまで、憎しみ。。というか。。

    結局、創価学会を憎むあまりに自分の気持ちの持って行き場がなくて法華講に移ったのかな、とか思ったりします。。
    1円さんとか見ていても。。

    わたし、過去に彼から。。創価学会の工作員と非難されたのですよね。。
    全然違うのに。。その挙句にそのあとに、もう1名加わり散々な目に遭いました。。
    いまもきっと、彼らのおかげで、わたしのことに疑心暗鬼の人も多いと思うけれど、わたしの中では、そんなことから、創価も法華講もアンチと名乗る人も(sinifieさんと運ちゃんは違うと想う。。)わたしのなかでは一直線上にいます。。

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