日蓮本仏論について思うこと

さて、芸術と宗教という視点をとっかかりとして、創価学会の矛盾を考えてきたわけですが、やはり自分たちの信仰が正しくて、その他は間違っているという考え方は、芸術そのものの存在を考えることによって簡単に矛盾点が露呈されてしまうということが確認されたように思います。

創価学会は他の宗教を否定することによって信者の意識の団結をはかり、信者を組織のいいなりにするために、他宗を排他的にあつかう日蓮正宗の教義を都合よく利用してきたと考えられます。表向きは庶民が平和と文化を推進するリーダシップをとることによって世界中の人々に幸せをもたらすなどと掲げてはいますが、組織がやっていることは、あくまで信者に対する強制的な労働と散財でしかありません。それを宗教を隠れ蓑にして信者を精神的にしばりあげ、一生を組織のために尽くさせるという恐ろしい団体として巨大化していきました。しかし急速なネット社会の広がりによって、これまでとは比べ物なならない情報が世界中に行き渡るようになり、創価学会の信者の中にも、組織の矛盾に気がつく者が急激に増えました。もはやその流れは止めようがありません。これまで隠しに隠していた創価学会の闇の部分がネットによって明らかになりつつあります。ささやかではありますが、このブログもその中の動きのひとつだと言えるでしょう。

芸術と宗教について考えていくなかで、私のなかに新たな疑問が出てきました。それは日蓮本仏論です。世界にあまたある仏教の宗派の中で、釈迦ではなく日蓮を本仏とする宗派は、創価学会と日蓮正宗だけのようです。ただし創価学会は単に日蓮正宗の教義を利用しただけの詐欺団体ですから、宗派とはいえません。ですから、日蓮が本仏であるとするのは世界中でも日蓮正宗だけということになります。もちろん、細かく言えば例外もあるのかもしれませんが、総じて釈迦以外の人物を人類救済の仏としている仏教は、やはり日蓮正宗だけであるということです。そう考えると日蓮本仏論は世界でも珍しいものすごくマイノリティな宗派であるということです。たまたま創価学会によって一時は信者数がふくれあがりましたが、現在は創価学会を破門することで、本来の日蓮系宗派のひとつとして存在しています。

そこで思ったのは、自分はたったひとつの、それも全体からみればそうとう特殊な宗派の教義に縛られていたのだろうということです。日蓮正宗以外の日蓮宗もみな釈迦を本仏としています。だからといって私は日蓮宗日蓮正宗がどうのということではありません。何度も言うように日蓮正宗を否定する気持ちは微塵もありません。しかし、いったんカルト団体のMCから脱却した今、少なくともこれから自分が考える宗教とは、仏教なら仏教全体を見て考えなくてはいけないのではないかと思いました。また仏教を見るのなら、少なくとも世界三大宗教であるキリスト教やイスラム教についても知る必要があるだろうと。そしてそれを知りたいと思うようになりました。創価学会の活動をしていたときは、他宗はすべて劣っており、創価思想の高みにいれば、すべての宗教が見渡せるという馬鹿げた指導を鵜呑みにしていました。そして創価の欺瞞に気がついたとき、私は仏教についてすら何も知らなかったことに驚かされました。さらに他の宗教について知ること自体に嫌悪感さえ覚えるほどMCされていたんだということに気がついたのです。

創価学会から抜け出すことができて、世界の宗教芸術をなんの偏見もなく見ることができるようになりました。素直に他の宗教の芸術を受け入れることができるようになりました。それは普通の人にとってはあたりまえのことだったのですが、生まれてこのかた、なんと50年ものあいだ、否応無しに宗教芸術をなんらかの偏見と嫌悪感をもってしか見ることのできなかった自分を恥じました。芸術に携わる職業でありながら、その人類の遺産である芸術作品にまともに接することができなかったのです。そうさせてきた創価学会のどこが正しいと言えるのでしょう。創価学会の掲げる文化も平和もまったくうわべだけの偽物です。会員を欺くためだけのフェイクでしかありません。MCのための道具でしかありません。それにはやく気づいてほしい。私のように人生の終盤にさしかかって気づいては遅すぎます。若い学会員には、はやく創価の真実に気づいて、自分の本当の人生を取り戻してほしいと思います。

日蓮本仏論について思うこと」への25件のフィードバック

  1. 創価学会を脱会した時わたしはアンチBlogの存在を知りませんでした。だからまだ、その頃は池田大作を信頼する気持ちも少しはあった。たった一人で誰に相談することもなく脱会を決意し実行したので、ある意味不安だったし孤独でした。。
    しばらくスピリチュアルのBlogを徘徊していて、あるアンチBlogに初めて出会いました。
    その頃のわたしはまだマインドコントロールも完全に解けていなかったから、今思うと、かなり場違いなコメントも多数していたような気がします。。

    わたしは、創価学会員のカルトな祈りがある時から驚異に感じたりしたので、陰陽師じゃないけれど、結界を張る意味で、パワースポットと言える神社仏閣に積極的に詣でました。
    そんな中でいまは、二極化的思考から抜け出ることができたように思います。
    つまり、善か悪かではなく、正しいか間違っているかではなく、光か闇かではなく、選ばれたか選ばれていないかでもない。。
    いまの日本の右か左かでもない。。

    そういう気持ちに至った時、創価学会憎し、という気持ちも次第に薄らいできたんです。。

    創価学会を辞めて日蓮正宗に移られた方の中には、選ばれたという選民感覚があるように思うし、創価学会憎し、という気持ちも相当あるような気がします。。悪口ではないです。感想です。

    いまのわたしは自身の偏狭な自我を失くすことから始まるような気がしています。自我って、そんなに大事でしょうか。。?

    いろいろな意味で、sinifieさんのこの場でもお勉強をさせていただいています。
    いま、創価学会に疑問を感じ孤独と闘っている人、思い切ってこの場に想いを解放させてください。。
    きっと、新たな扉が開くと思います。。

  2. 創価学会にはほとほと愛想がつきましたが、「日蓮」はなんだか気になる存在ですね。
    一体どんな人だったのか・・・?!
    そんな私の好奇心に見事に応えてくれるブログを発見!
    AMIYANさんという方の『慈悲の祈り』というブログ、まだ日蓮のとこしか読んでませんが読みごたえありますよ。

  3. 芸術と宗教のお話、皆さんのご意見、興味深く拝見いたしました。
    神話に基づいて描かれた絵画を見る時、その背景はなにもわからなくても、ただ見つめているだけで心が穏やかになったり
    心洗われるような気持になった事があります。 
    でも、創価で活動家をしていた頃の私はそれらの宗教芸術を「邪宗を背景としている」と見た事はありませんでした。
    ただ素晴らしいな、素敵だなと、テーマや背景を深く掘り下げずにただ「見た目の感想・上っ面」で終わっていたんです。
    他宗は全て劣っている・取り入れてはならないもの・世界に一つだけの正しい教えに出会っているのだから、
    低いものの歴史はわざわざ知る必要が無い、というマインドコントロールで培われた潜在意識がそうさせていたのだと、今は解ります。
    また日本古来の神社神道からなる神事についても、同じ認識でした。
    外道だからと創価では切り捨てられ、敢えて知ろうとしませんでしたが、普段当たり前に使っている言葉や習慣なども、始祖祭祀に
    はじまる事が多いと覚醒後に歴史の本を読んで知りました。
    たとえば、祭りにおける考察の中で、お祭りのとき祭壇に供えた食べ物をあとでお下がりとして皆で頂く事に絡み
    大和言葉のタベモノ(食べ物)が「賜ぶ物(タブモノ)=神々からの賜り物」からきていると知った時は、農耕民族である日本人が
    自然からの恵みで生をうけてきたこと・そこに神の存在は不可欠で、崇敬の念をもって信仰されてきたことがよく理解できました。
    宮中祭祀は国の平安と豊穣を願う神事で、それが現代にも受け継がれている事は、立派な「日本の文化」であって、
    「邪宗」や「低い教え」と切り捨て、会員にそれらから目をそむけさせ・興味を殺いで行こうとすることのどこが「文化運動」なのか
    さっぱり解りません。
    創価の教義は日本人としての矜持を殺いで行く教えばかりだったなと、覚醒した今は心底がっかりさせられています。

    話はそれますが、家の近くにキリスト教の教会があります。ある日、子供が外から戻ってきて「お友達と教会で遊んできた」というので
    ビックリしました(覚醒後の話です)。遊んできたってどういう事?と尋ねると、その教会は信者でなくてもだれでも出入りが自由で
    子供のための部屋(絵本やおもちゃや、クレヨンなどおいてあるそうです)もあり、そこで遊んできたそうです。
    無理やり礼拝をさせられたのか?牧師様のお話はあったのか?と尋ねてみたらまったくそのような事も無くて、公園が減ったり・各家庭の行き来が
    昔より難しくなって、子供の遊び場が減った事を問題に思った牧師さんの好意・慈善であったと後日お友達のお母様から聞きました。
    そこで気づきましたが、神社も出入りはだいたい自由。誰人にも門戸を広げています。
    創価の会館のように、外部の人間が来る日にカメラ&録音機材のチェックなんてしないのです。
    また、これも覚醒後ですが、神社神道を信仰する方から「他の宗教を信じている人に対して、低い教えだから捨てろと言ったり、
    自分の宗派に”入会”しろなんて、神様にそんな教えは無い」と言われた時、己の過去を振り返り心が痛みました。 
    入会なんて形式ばったものもなくて、自分の心が神様を求めた時に神社に詣でればそれでいいんだそうです。
    真に開かれた宗教とは、そういったものかもしれないと考えました。
     この教え以外のすべては間違っている・そう気づいた本人だけ「自己完結」でやってくれるならまだしも、低い教えを信じている人は
    不幸だから、その低い教え・誤った信仰を捨てさせて入会へ導け(折伏)・それが幸せなんだ、平和への連帯なのだと教え込まれた
    創価の教義がいかに異質で「信教の自由」を無視したものなのか、ちょっと一般社会に出てみればわかる事です。
    といいつつ私も40年以上わからなかったんですけどね。

  4. 追記です。
    宮中祭祀について、私がいた組織の幹部は(10-20年前です)
    「形だけの物で、宗教色はなく法味もない。単なる国の行事。知らなくてもいい」と言っていました。
    確かに宗教色は排除されていますが、「形だけの物・知らなくてもいい」という切り捨てはいかがなものか、日本文化の否定じゃ
    ないかと、私は思った次第です。
    なにぶん昔の話なので、現在の組織の指導と違っていたらごめんなさい。
    現在の組織ではどのような認識なのか、現役会員の方に教えて頂きたいです。

  5. 流れ星さん、祥蘭さん、コメントありがとうございます。
    カノンさん、AMIYANさんという方の『慈悲の祈り』というブログ、少しだけ読みました。すごく調べ上げていますね。とても参考になります。ありがとうございました。

    私が生まれ育ったまちも、古い歴史があり、さまざまな宗教がいりまざって独特の文化をつくりあげています。今はそれほどでもないのでしょうが、かつての創価学会のように他宗のなにもかもを否定すれば、まちの歴史や文化そのものを否定してしまうことになります。そこにどうして疑問をいだくことなく信じていたのか、どれだけ考えても自分で自分が理解できません。今はもちろんはっきりしているのですけどね。
    集まっては一心不乱に唱題し、軍歌同然の学会歌を歌い、他人の家に上がりこんで、法謗払いといっては仏壇や神棚を焼き払い、借金させても財務を出すように強要し、政治のこともよくわからないまま功徳ほしさに票集めに奔走する。そんな創価学会員の姿をやはりまわりは異様な集団に思わないわけがありません。
    また近頃は懐柔策をとって、日蓮正宗以外の他宗への攻撃をしないようになった創価学会ですが、逆にそこまで180度の方針転換ができるほど、創価学会の教義はどうでもいいものだったのかと思ってしまいます。

  6. 白バラ通信によれば、池田氏は手の施しようのない脳腫瘍とのこと。老齢なので手術ができないのと、若い人より腫瘍が大きくなる速度が遅いのもあるでしょうが、いずれにせよ会員には一切知らされないまま、何年も経っているわけです。86歳とのことですから、そのような病気になるのも不思議ではないし、そのような体調で巨大な組織の指揮をとったり、執筆活動をするというのも可哀相ですよね。最高幹部はなぜ池田氏の病状を会員に伝えないのか。なぜ会員は会長の病状を知ろうとしないのか。会員にとっては親以上の存在だと日頃から言ってるにもかかわらず、なぜ何年も顔すら見せないことに何の不満ももたず、疑いもせずいられるのか。ときどき聖教新聞に載ってくる洗濯してよれよれになったぬいぐるみのような写真で「先生はお元気です」となぜ言いきれるのか。それになぜ聖教新聞に載っている池田氏の写真は過去の元気に太っている頃の写真ばかりなのか。まず会員が何年も池田氏の声すら聞けない状況に、組織の上層部はなにひとつ答えていません。自分の親が突然何の連絡もなしに音信不通になったら、普通の子どもなら心配しますよね。どうしているんだろうって心配するのがあたりまえだと思います。入ってくるのは執筆文やメッセージばかり。姿も見えなければ声も聞こえない。それもひと月やふた月ではなく、もう2年半になろうとしています。最高幹部がそのように会長を表に出さないようにしているのでしょうから、私はそのことを一般の学会員に説明してほしいと言っているのではなくて、学会員がその状況をなぜ不自然に思わないのかということを学会員の口から聞きたいのです。なぜ人生の師と仰ぐ池田氏が何年もまったく姿を現わさなくて、それでも病気かもしれないなどと心配しないでいれるのかを聞きたいですね。そのことになぜ不自然さを感じないで居続けられるのかを聞きたいです。ほんとに師弟の絆で結ばれていると言うのなら、弟子は師匠のことが心配で夜も眠れないのが本当ではないのでしょうか。
    創価学会の現役活動家であるexcommunicateさん、お盆も終りましたことですし、そろそろその辺りのことを聞かせていただけると嬉しいです。
    もし、かまわなければ日蓮本仏論についても、日蓮正宗とたもとを分つ創価学会の教義についてexcommunicateさんのお考えを聞かせていただけると嬉しいです。もし荷が重いとなれば、あなたの組織の上の方に登場していただいてもかまいませんが、excommunicateさんがこの状況を話した時点でシャットアウトされるでしょうけどね。それほどexcommunicateさんは創価学会員としては珍しいスタンスにいらっしゃいます。すこしだけ世間一般の心も持ち合わせていらっしゃるのではないかと思われます。どうかここでの対話を続けていただければと思います。気長にお待ちしていますよ。(^^)

  7. どんな偉大な人であっても時代の制約を受けるのは仕方のないことです。
    日蓮は民衆救済への高い志を持ち、深い学識をそなえた尊敬すべき仏教僧だったと思うのです。
    しかし、今の仏教学や文献学の研究成果からみると、日蓮の仏教理解には誤りがあったことは認めるべきでしょう。

    日蓮は法華経仏説の立場ですが、これは当時の常識から言えば間違いではなかった。
    しかし今となっては、法華経は釈迦入滅の数百年後に成立したことは常識となっています。
    法華経には、それまで伝承されてきた釈迦の思想が反映されている部分もあるでしょうが、法華経を創作したグループ独自の主張も述べられているのでしょう。

    また、法華経を漢訳した鳩摩羅什の独自の考えも反映されているようです。
    たとえば、有名な「諸法実相」はサンスクリット語の原本には記述がなく、鳩摩羅什が付け加えたもののようです。
    このようなことを考えると、法華経に説かれたことは絶対である、とは言えないと思うのです。

    日蓮は文証至上主義者だったと私は思っています。
    「私の言葉にはあらず」と言って、さまざまな経・釈・論を引用しながら、それを根拠に自説を展開しています。
    これは、きわめて理性的、科学的な態度ではないでしょうか。

    であるならば、日蓮門下を名乗る人たちも、日蓮のこのような態度を見習うべきでしょう。
    たとえ日蓮の所説であってもそれを絶対視するのではなく、いまの仏教学や文献学の成果をふまえて見直すべき点は再検討する。
    これが、理性的、科学的な態度だとおもうのです。

    もし日蓮が今の時代に生まれていたら、法華経をはじめとした多くの仏典について、最新の文献学や仏教学の知見にもとずいて再評価したうえで自説を述べるのではないかと思います。

    日蓮は法華経を誹謗すると地獄に堕ちると言っていますが、これは法華経の譬喩品に書かれている「若人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん、其の人命終して阿鼻獄に入らん」を根拠にしています。
    しかしながら、今となってはこれは釈尊の思想とはほど遠いものであろうと思います。
    私が勉強した範囲では、釈尊は人を脅すような「罰論」や「地獄論」のようなことは言っていないようです。

    ごく大雑把に言ってしまえば、釈尊の説いたものが仏教だとすると、今の日本で仏教と呼ばれているものの多くは仏教ではない。
    このようなことが言えるようです。

    中途半端な書き込みで申し訳ありませんが、長くなってしまったのでこれで終わります。

    なお、日蓮本仏論については以下のサイトが参考になるかと思います。

    http://senmon.fateback.com/soukagakkai/shukyou/dpj_honhutsu.html

  8. シニフィエさん、連投をお許しください。

    こちらでコメントをされている法華講の方や学会の活動家の方は、自分たちの信仰が唯一絶対だとの確信をお持ちのようですね。
    以前にも投稿させていただきましたが、日蓮系の教団は分派を繰り返し、多くの門流に分かれています。
    その中で、法華講や学会は日興門流の中の大石寺圏にあるのですが、大石寺流の日蓮信仰が絶対だとの根拠を、ここで示して頂きたいと希望します。

    ある法華講の方は、大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張します。
    本当にそのように言えるのでしょうか?

    たとえば、日蓮がどのように題目をあげていたのか。
    「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか、それとも「なむみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか。
    それすら伝わっていないのが実状でしょう。

    ある人からうかがった話ですが、さまざまな門流に「相伝書」と呼ばれるものが存在するそうです。
    この「相伝書」が伝わっていく過程で、さまざまな人たちがいろんなことを書き加えてしまい、どこまでがオリジナルの「相伝書」なのか良くわからないようです。

    けっきょく、日蓮の所説が伝承されていく中で、伝言ゲームのようなことも起こっているでしょう。
    このようなことを考えると、日蓮の教えがどの程度の正確さで今に伝わっているのかは、はなはだ疑問ですね。

  9. 家族と共に、夏季休暇を満喫していました。実際は19日から出勤なので後2日の休暇がありますが、田舎へ帰り、マイナスイオンに癒されながら、清流で子供たちと水遊びし、親戚が釣った鮎の塩焼きに舌鼓をしつつ、その他の田舎料理を満喫しながら、多くの親族と酒を交わしました。ある日は麻雀にふけるなどしていました。ちなみに麻雀の腕はそこそこ自身がある方なので、全局勝利したのは言うまでもありません(笑)。

    14日は親族が35人も一同に集まりました。ちなみにほとんど学会員ではありません。が、私の結婚式は学会の会館でやりましたので、たくさんの親戚が来てくれました。披露宴は有名な平安閣で行いました。当日、池田先生からの祝福の御伝言も頂き、夫婦箸の激励も頂きました。あれから15年の歳月が流れます。

    親戚のご自宅へも伺う機会があり、浄土真宗の家ですが、仏壇にお供え物をさせて頂きました。また盆ですので、その親戚のお墓詣りもさせて頂きまして、懇ろに読経唱題をさせて頂きました。ちなみにそのお墓も浄土真宗のお墓です。

    様々なコメントを一気に拝読させて頂きました。私へのご質問もあり、どれからご回答申し上げたほうがいいか、大変悩んでおりますが、順不同で大変申し訳ございませんけれども、愚見を申し上げたいと思います。

    まず、裁判についてですが、聖教新聞や創価新聞に連戦連勝などという記載は見た記憶がありませんが(随分昔に、選挙絡みの記載ではあったかもしれませんが)、そう吹聴しているのが宗門側なのではないでしょうか。

    確かに勝訴の記事は創価新報で見たことがありますし、ご指摘の芸者写真裁判の一審敗訴の件は聖教新聞にも記載されていましたので記憶は鮮明です。結果、この訴訟は学会勝訴というか、原告(宗門)側の控訴棄却で終わっているはずですが、私の記憶は間違っていますでしょうか。リンク先のWikipediaでもそう記載されているようですが。

    あと、その他リンク先の「百禍繚乱」というおどおどしいサイトですが、これは宗門関係者がよく引用する有名なサイトですので存知あげていますし、私が気になる学会攻撃と感じるサイトのひとつでもありますので、特段、コメントするものではありません。

    但し、その裁判記録についてですが、ひとつひとつの裁判の中身を知る労力と時間はありませんので、可能でしたら訴状内容と判決文を全展開して頂ければ助かります。

    私の主観論を申し上げますと、学会が敗訴したという裁判は、大概は寺の所有権や代表権、遺骨の管理責任などが争点になっていると思いますし、どちらかが裁判を起こしたかわかりませんが、学会側から起した裁判の多くは、その学会員の義憤、つまりやむに已まれぬ裁判だったりするのではないでしょうか。それは、例えば学会が寄進した寺に居座り、学会攻撃をする坊主を見て、「我々の御供養で寄進した寺だから、寺から出ていけ」という裁判だったりします。逆に宗門側勝訴の裁判も、学会側についた住職に対して、寺から出ていけという内容であったり。

    いずれにしても、学会が寄進した寺といえども、所有権は宗門側に移行しているワケなので、勝訴するのは難しいでしょうね。

    正本堂に関わる裁判は特にその典型例と思います。当時、学会が供養した額は355億円、法華講の供養額は3億182万円、僧侶及び寺族は1億5787万円ということからしますと、ほとんどが学会の供養で建てられた建物でありました。しかも、高度経済成長期といえども、学会は昔から貧乏人と病人の集まりと揶揄されるような、その恩恵に薄い層の集まりです。その学会員が爪に火をともす思いで日蓮正宗に捧げた空前の御供養で建設された建物が、たかだか20年で取り壊されたという現実。

    当時の新卒の初任給は約5万円くらいなので、現在の貨幣価値にしますと、1000億以上の御供養です。

    私も両親から聞いていましたし、祖父母からも当時の御供養の闘いを聞きました。祖父母も両親もお山のためなら、ということで、財産のほとんどを御供養に回したそうです。

    この正本堂はかかった額もさることながら、建築家・横山公男氏の設計で、その大客殿は日本の建築学会賞を受賞していました。池田先生のご案内で、小林秀雄氏や井上靖氏、松下幸之助氏などの識者や著名人が数多く訪れ、誉める人は多かった。それを50億円もかけて解体しました。反対したのは学会員だけではありません。横山公男氏をはじめとする多くの著名な建築家も「そんなばかなことはやめなさい」と声をあげました。しかし、宗門はそれを無視して、学会憎しのあてつけに解体しました。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を地でいった話です。もっともやったのは坊主自身なんでしょうけれど・・・

    さて、私が気になる他のサイト、つまり宗門側が学会攻撃に躍起になっているものですが、一部ですが以下のものがあります。

    http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/p-deta/sokagakkai/soka_2j.htm
    http://emyo.jp/
    toyoda.tv

    補足ですが、私は、内部のメンバーに対して、ネットのアンチ記事を見ないようにという話をしたことがありませんし、上の幹部からそういった打ち出しも聞いたこともありません。仮に誰かが言った話であっても、見るなと言われても逆に見たくなるというのが人間の性ではないでしょうか。つまり、見るなと言われてもなんら強制力なんてありっこないです。

    また、古くは藤原弘達著の『創価学会を斬る』から始まり、山崎正友・原島崇著の「懺悔滅罪」、最近であれば矢野氏の『乱脈経理』など、学会のダークサイド(?)ともいうべきネタ本が数限りなく出版され、熟読いたしました。

    かれこれ20年前になると思いますが、当時の週刊誌に、福島源次郎という元副会長が脱会した理由を長文にわたって掲載していました。父が購入して、仏間に置いてあったのを読んだ記憶が今でも鮮明です。特に記憶に残っているのが、当時、福島氏が便秘で苦しんでいた時に、御本尊に「池田大作と闘います!」と祈ったら、一気に詰まっていたものが排便され、功徳を頂いたという記載と、青年部当時に池田先生と銭湯に入り、先生に背中を流してもらった際に、「福島君、君が頼りだよ」と激励されて感動したという記載でしょうか。

    つまり、何十年も前から古くから週刊誌などで学会に対するネガティブキャンペーンが展開されていて、今は、ネットにその舞台が移動しただけと思うのが、私の率直な感想です。

    「乱脈経理」の内容も、前述した藤原弘達著の内容や「懺悔滅罪」よりも、さらに迫真の記載があるだけです。また、ここまでハッキリ脱税の告発をしておきながら、日本で一番冷徹で、優秀な官僚が集まる国税局の査察が入らないワケがありませんし、こんな違法集団が支援する政党が政権にいるならば、国会でも野党が厳しく問いただすのではないでしょうか。それが無いのは、関係者から見ると明らかに詭弁であり、まともに取り合うような程度の内容ではないからです。

    さて、このブログに登場される元学会員の方のご意見に対してですが、今に始まったことではありませんけれども、私がいつも気になることは、脱会の理由が、「池田先生の指導のここがおかしい」という角度がさっぱりなくて、大抵が組織内の軋轢に端を発して、その裏付けを取るかのように、前述した脱会者の告発本や、ネットのアンチ記事にすがり、結末として、学会はオカシイという理屈になっているということです。

    創価学会は、血もつながっていない、仕事も違う、年齢も性別も、趣味も感じ方も考え方も、育った家庭環境も違う人たちの巨大な集まりです。それが、日蓮仏法を根本とした代々会長、特に池田先生の卓越した指導によって繋がっています。だから師弟不二を説いているわけで、その日蓮仏法を行ずるにあたっての先生の指導の「ここが間違っているから脱会する」ということなら諦めもつきますが、私が知る限りでは、それが理由となっていない。

    「組織内にこういう嫌な経験をした、だから学会が嫌いになった、その裏付けにしたのがネットのこの記事だ」という理由が多いのではないでしょうか。

    学会には光と闇があると言われるならば、その闇の部分が、組織内の人間関係のもつれでしょう。財務にしたって、選挙活動にしたって、聖教啓蒙にしたって、それを打ち出す幹部の素質が問題です。みんなが納得して活動しているのか、嫌々やらされていないか、どこに不満があり、どうしたらみんなが嬉々として活動に参加して頂けるのか、一人で悩んでいる会員さんはいないか、悶々としている方はいないか等々、しっかりアンテナを張って取り組んでいかないといけません。

    学会とは関係のない一般例でも、血がつながっている家族の間ですら、言葉の使い方や意見の相違で平気で争ったり、事件になったりする時代です。

    いわんや、赤の他人同士の集まりが創価学会です。そこの丁寧さを欠いた打ち出しや、指導をする幹部がいたら、それが問題だと思います。池田先生ならどのようにされるのか、常に師匠と呼吸を合わすことが大事であるはずが、そうせずして、我流で身勝手に進めようとする幹部がると、そこに所属している会員は大変な苦痛を味わうでしょう。それが、学会への不信となり、脱会に繋がっていきます。

    私は、会社でも上司と部下の関係で、とても苦労します。管理職でもありますから、多くの部下を持っています。通り一辺倒に結果を出すことを強制すれば、部下の心は離れていきます。なぜ、これを目標とするのか、そして、それを達成するためには、どうしたらいいのか、皆の意見を吸い上げつつ、全員野球で心をひとつにすることを心がけています。利害関係がある会社でもそうですから、何もない学会では、更なる丁寧さが求められるのは論を待ちません。

    繰り返しますが、脱会される方は、先生が残された膨大な指導にはほとんど触れず、それについての意見もほとんどない。あるとしたら、よく宗門側が取り上げる「御法主上人を批判した」という盗聴された不鮮明なテープの内容くらいで、過去から現在に至るまで残されている、会員に対する莫大な指導について、何故、直視しないのか不思議でなりません。

    そうではなくて、先生の指導は正しいが、他のオカシイところが一番肝心と思っているのでしょうか。そのオカシイところを先生が発信されたということでしょうか。それは、真ん中の幹部の発信(元学会の告発など含む)ではないのでしょうか。一度、御教示頂きたいものです。

    だから、私は、古くから現在まで発刊され続ける告発本や、ネットのアンチ記事の内容については、御書にある三類の強敵「俗衆増上慢」程度にしか感じないし、以下の御書と池田先生の指導の方がはるかに説得力があります。

    「兄弟抄」(御書P1087)

    【本文】
     されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事一代聖教の肝心ぞかし(中略)其の上摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし、此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る乃至随う可らず畏る可らず之に随えば将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ。

    【通解】
     さて、天台大師の摩訶止観という書は、天台の生涯における大事であり、釈尊一代の教えの肝要を述べたものである。(中略)摩訶止観の第五巻に説かれる一念三千の法門は、もう一重深く立ち入った法門である。この法門を説く時には、必ず魔が現れるのである。魔が競い起こらないならば、正法であると知ることができない。
     摩訶止観の第五巻には「仏法の修行が進み、その理解が深まれば、三障四魔が入り乱れて競い起こってくる。・・・だが、この三障四魔に、決して随ってはならない。畏れてはならない。これに随うならば、必ず人を悪道に向かわせる。これを畏れるならば、正法を修行することを妨げる」とある。この摩訶止観の釈は、日蓮の身に当てはまるばかりではなく、わが一門の明鏡である。謹んで習い伝え、未来にわたる糧とすべきである。

    【先生の指導】
     まず、「行解既に勤めぬれば」とあります。これは、経典に対する理解が深まり、その理解に基づいての修行が整った時、という意味です。すなわち、いよいよ生命変革のための本格的な修行に入る時だからこそ、三障四魔が競い起こる。私たちの信仰で言えば、「行学の二道」に励み、「いざ前進」の時に必ず三障四魔が競い起こる、という意味になります。
    大聖人は、凡夫から仏への境目の時に三障四魔が起こると言われています。
    次に、三障四魔は「紛然として競い起こる」とあります。「紛然」とは、入り乱れているさま、ごたごたしているという意味です。まさしく「紛然として競い起こる」とは、三障四魔が、入り交じって争うように出てくるさまであるといえましょう。三障四魔は、不意を突き、こわがらせ、誘惑し、嫌気を誘い、疲れさせ、油断させる等、紛然たる策動を働かせてくる。
    この三障四魔に立ち向かう信心の要諦を、天台大師は明快に2点、挙げています。
    それが「随う可らず」、そして「畏る可らず」です。魔に随えば、その人は悪道に引き落とされてしまう。魔を畏れれば、正法を修行する妨げとなってしまう。
    結論を言えば、「智慧」と「勇気」が勝利への根幹です。魔に従わず、魔を魔と見破る「智慧」。魔を恐れず、魔に断固立ち向っていく「勇気」。要するに、南無妙法蓮華経の唱題行が、魔を破る「智慧」と「勇気」の源泉となるのです。妙法の力用が、「無明」を即「仏性」へ転じ、「難来るを以って安楽」(750㌻)という境涯を開いていくからです。

    以上です。

    大変、長くなりました。もし、ここまでお読み頂けたのでしたら、貴重なお時間をこんな拙文をお読み頂いたことに心から感謝申し上げます。
    皆様におかれましては、酷暑が続いておりますので、健康には十分御留意されまして、充実した日々をお過ごしください。
    ありがとうございます。

  10. excommunicateさん、とても丁寧なコメントありがとうございます。
    ここのブログのコメント欄は、ときどき長いコメントがアップできない場合がありますので、そのようなときには、何回かにわけて送信してください。今回は幸い一度でアップできたようなのでよかったです。

    さて、excommunicateさんにはこれからも対話に加わってもらえそうなので嬉しいです。よろしくお願いします。

    excommunicateさんのお話を簡単にしますと、学会が受ける攻撃や誹謗中傷は、学会が正法を実践している証拠であり、「俗衆増上慢」にとりあってなどおれないといったところでしょうか。

    上に挙げられている御書の一説は、私が中学1年のときに受けた任用試験の勉強時に暗唱させられたものです。ちょっと懐かしいです(笑)。40年以上も前に覚えた文を今でも暗唱できるのですから不思議なものです。「三つ子の魂百まで」ではありませんが、12歳の子どもにこんなことを覚えさせて外部からの情報をシャットアウトさせていたのですから恐ろしいですね。

    >だから、私は、古くから現在まで発刊され続ける告発本や、ネットのアンチ記事の内容については、御書にある三類の強敵「俗衆増上慢」程度にしか感じないし、以下の御書と池田先生の指導の方がはるかに説得力があります。

    excommunicateさんが「御書にある三類の強敵『俗衆増上慢』程度にしか感じないし」というのは、私が子どものころから受けてきたMCと同じように、組織ぐるみで外部からの情報を受け付けないようにされているからだと思います。問題は「…程度にしか感じないし」というその一点にそれがMC以外の何者でもないという気がします。そこには理屈も何もなく直接感情をコントロールされているこことの証明ではないでしょうか。
    excommunicateさんは自分の考えをどうしてそのようにしか受け取ってもらえないのだろうかと思うかもしれません。しかし、私やここを訪れている元学会員さんたちも、かつてはexcommunicateさんと同じようにしか思えなかったのです。しかしいったん気がつけば、それがとても単純なMCであったことに気づきます。気づく前まではexcommunicateさんがおっしゃるような判で押したように同じことを言っていました。
    excommunicateさんには申し訳ないのですが、excommunicateさんがここに書いていらっしゃることは、ステレオタイプそのものであり、多くの元学会員が身を以て経験してきたことです。それがとんでもないMCであったことに気づいてそれぞれに傷ついておられます。
    自分の考えていることが、ほんとうに自分で考えたことなのか、それともそう考えるように仕向けられたことなのかの判断がついていないのだと思います。もちろん私だって以前はそうでした。どれだけ一般社会の常識から逸脱していようとも、どれだけ外部から批判を浴びようとも、それが正法を広めようとする地湧の菩薩であるが故の試練であり乗り越えなければいけない宿命なのだと。そしてその宿命転換をして世に実証を示すことが池田先生にお応えすることであり、それこそが自分の使命なのだ、と私から見ればexcommunicateさんは思い込まされているように見えてしまいます。あくまで私の考えですから、ちがうと言われればそれまでですし、おそらくexcommunicateさんは違うと言われるでしょう。それもよくわかります。かつての自分を見るような思いですからね。

    こういっては身もふたもないのかもしれませんが、あえて言いますと、excommunicateさんのおっしゃることは創価学会が会員におこなってきたMCそのものであり、まったくその範疇から出るものではないことに、むしろ驚きさえあります。ここまで絵に描いたように単純にMCされている人がいるのかという思いです。それもこうして気づいたからこそ思えるのであって、気づく前はexcommunicateさんと同じように創価学会のすべてを正当化する方向に自分の考えを自分で誘導していました。まあ、お互いにそれはそれとして、もうしばらくは平行線なのかもしれませんが、決してここでの対話は無駄ではないと思います。いつか対話を通じてどこかに共通の思いが見出せることを願いながら進めていきたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

  11. excommunicatさんへ

    元バリ活で、今は創価のおかしさに気がついて、非活になった者です。今は無宗教で、宗門にも否定的な立場です。
    世に出回っているアンチ創価本は、かなり目を通しています。大物幹部が書いた告発本は、ほぼ100%所有しています。
    もちろん、活動家時代は人間革命・新人間革命は何度も読破し、アンチ・シンパ、両方の意見を聞いた上で、
    また、数十年、実際に活動した結果から、明らかに学会はおかしいことを悟りました。

    よって、いくつか指摘させていただきたいと思い、投稿させて頂きました。

    指摘①
    >内部のメンバーに対して、ネットのアンチ記事を見ないようにという話をしたことがありませんし、上の幹部からそういった打ち出しも聞いたこともありません

    この件は、何度も幹部が、会合でこのように言っているのを聞いたことがあります。
    今になって、ネットで言われている学会の悪い噂は多くが事実だということがわかりましたが、
    ネットを見るなと述べている幹部は、本当にネットはデマだと信じているようです。

    ベンジャミン・フルフォードという、元「フォーブス」アジア太平支局長であった人物が、
    「イケダ先生の世界」という本を出版しています。創価学会に興味を持ち、取材していたようです。
    この本のまえがきに、以下の記載があります。

    「私は取材前、創価学会について先入観を持たないようにしていた。一部の週刊誌に書かれている
    創価学会の姿はウソで、そのメディアにいじめられているかわいそうな宗教団体ではないか。
    たくさんの信者を惹きつける、何か素晴らしい教義があるのではないか。むしろ週刊誌報道のファッションを
    疑ってかかりつつ、調査に入ったのである」

    しかし、その結果は以下のとおりであった。

    「ところが、少し取材を進めただけで、これまで聞かされていた創価学会の悪評は、かなり当たっているということが
    わかってきた。そして、執拗に取材者に対して、組織を上げてプレッシャーをかける姿勢も、日本で創価学会を
    批判する人から聞かされていた話どおりだった」

    まさにこのとおりなのです。

    指摘②
    >「乱脈経理」の内容も、前述した藤原弘達著の内容や「懺悔滅罪」よりも、さらに迫真の記載があるだけです。また、ここまでハッキリ脱税の告発をしておきながら、日本で一番冷徹で、優秀な官僚が集まる国税局の査察が入らないワケがありませんし、こんな違法集団が支援する政党が政権にいるならば、国会でも野党が厳しく問いただすのではないでしょうか。それが無いのは、関係者から見ると明らかに詭弁であり、まともに取り合うような程度の内容ではないからです。

    乱脈経理をご覧になられたとのことですが、国税庁の調査が入って、学会本部は大騒ぎになっていた様子が
    記載されていましたよね。査察が入らないわけがないとのことですが、入ったのですよ。それとも、今、入らないのは
    おかしいということでしょうか。現在は政権与党にいて自民党とべったりですからそれができないのでしょう(これは
    私の個人的な推測です。乱脈経理を読めば想像できますよね)。

    また、野党が激しく追及しないのはおかしいとのことですが、これまで散々追求していますよ。あなたが
    ご存じないだけです。4月会くらいはご存知でしょうが、それ以外にも追求してきた政治家はたくさんいます。
    ニュースにはならないだけです。学会の報道は、タブーなのです。

    学会の悪を追及するとどうなるか。東村山市の市議が、学会の悪を追及していたら、不審死となりましたね。
    「白バラ通信」というブログにそのことが詳しく載っていますので、ご確認ください。政治家もあまりかかわりたくないという
    気持ちもあるでしょう。

    指摘③
    >繰り返しますが、脱会される方は、先生が残された膨大な指導にはほとんど触れず、それについての意見もほとんどない。
    あるとしたら、よく宗門側が取り上げる「御法主上人を批判した」という盗聴された不鮮明なテープの内容くらいで

    池田大作の指導なんて、ほとんど、側近幹部に原稿を書かせて、本人はそれを読み上げるだけですよ。
    彼は教学がないのです。元側近大幹部はそのような池田の姿に失望して(他にも女性問題とか色々ありますが)、
    離れていくのです。それを学会側は裏切りだの何だの言っているのは、筋違いもいいところです。
    彼の名前で出版されている本も、全てゴーストライターが書いたものですしね。池田大作から離れるのは
    池田大作にその原因があるのです。しかし、バリ活さんにそう言っても信じないでしょうね。

    テープについては脱会者が言っているのではなく、学会の幹部が言っているのでしょう。私も会合で何度も
    このテープのことを聞きました。学会側は、「宗門が学会の批判をしているが、根拠のない批判だ」
    と言いたいのでしょうね。テープのことなどは、創価の悪の本質とは関係ないしどうでもいいのですが、
    宗門VS学会の対立で、言い分が食い違っている部分は、宗門が正しいです。

    長年、学会の活動家を見てきましたが、フリーターやニート、無職、派遣の割合が高く、
    社会の底辺のままで、いくら活動・勤行しても全く改善されていません。功徳なんてないと思います。

  12. ウトロさん、私の思いをドンピシャリに表現していただいて、ほんとうに感謝です。このごろ釈迦はどんな人だったんだろうと考えることがあります。結局釈迦は徹底したリアリストだったんじゃないかという気がしています。カースト制度が普遍の社会構造として受けいられていた時代に、釈迦の考えはそれこそとんでもない邪教だったんだろうと思います。しかしそれまでの宗教が持っていた権威や神秘性やまやかしの部分や土着的な伝承などを、徹底したリアリストの視点で見つめ、考え、人間の幸福について、また目の前にある不幸についての考え抜き、この世の法理法則を見極めていった。今でこそ原始仏教という呼び方をしますが、釈迦の思想が人類に与えた影響はやはり史上最高のものだと思います。私もそんなリアリスト・ゴータマが地獄に堕ちるなどの罰論を展開したとは思えません。自ら死を迫らせるほどの苦行を経験した結果、それが何にもならないと悟り、真に人としての幸福とは何かということに行き着いた彼の思想に懲罰で人を戒める発想はなかったと思います。その点は一神教との大きな違いなのかもしれません。その後、いろんな変遷の中で彼の思想がインドから中国、あるいは東南アジアを経由して伝えられ伝承される中で、その土地土地によって様々に変わっていった。玄奘三蔵や鳩摩羅什などの使命に燃えた超人的な名僧を経て、日本に来る頃にはすでに相当な変化や修正や付加があっただろうし、それから時代や社会構造が変わり、鎌倉時代にも多種多様な考え方に別れました。そして日蓮が登場し、さらに独自の仏教の考えかたを広め、なんと本仏が釈迦ではなく自分自身こそが未来永劫の救世主であるとの宣言をしたわけです。その考えの唯一の伝承宗派が750年続いている日蓮正宗であり、現代になってその教義の排他的な部分をことさら利用して多くの人を騙し続けてきたのが新興宗教創価学会なのだというふうに考えるようになりました。創価学会の真実に気がついてまだ日が浅く、宗教そのものについて学ぶ時間がありませんので、勝手にこのように解釈しているだけかもしれませんが、みなさんのお知恵をここに紹介してくださることで、みんなで考えていける場所にできればと思っています。よろしくお願いします。

  13. 初めて投稿します。学会2世のユキといいます。

    地区婦人部長を13年余り、その間も含め、新聞配達を18年してきました。

    込み入った事情があり、退会はしておりませんが、心はすっかり醒めきっています。

    役職は、10年前から支部副婦人部長(笑)のままです。

    理想の「21世紀の広布の山を登れ!」を合言葉に、学生部、女子部時代は奔走しました。

    友人、知人にFを頼み、折伏をし、それなりに?!充実感を覚え、「あのころは楽しかったなぁ」とは思います。

    学生運動は頓挫し、世の中は何も変わらなかった。それ故、学会正義に何の不信も抱かなかった…。

    夫を入会に導き、子供たちも広布の人材にと…。

    今では笑い話です。

    そして待望の21世紀を迎え、現実は如何なっていったか?!

    弱者の味方、反権力のはずだった公明党が、与党となり、はや十年余り。

    絶対平和のはずだった創価学会が、SGI提言ではどういう提言をしたのか?

    生涯勲章はもらわないと言っていたあの方が、何百もの叙勲を受け…

    はたまた巨額の財務を募ったり、聖教新聞は拡張員よろしく、各組織・地域にノルマを課したりして。

    挙句に、観念文に存命中の方を永遠の指導者と…。

    もう、支離滅裂でわけわかんない。

    と、感じるのは私だけでしょうか?

  14. コメントは控えようと思ったのですが、ひとこと言わせて下さい。
    元学会員の方が法華講をどう思おうが勝手なのですが(個人的はいろいろ思う事はありますが・・・)、学会は破門されているので、日興門流の中の大石寺圏にはないこと。
    そして「大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張」と仰っている方がいますが「寸分」なんて一言も言ってないのに、「寸分」という言葉が入って話が微妙にすり替わっていることを不快に思います。
    日蓮正宗・法華講批判をして痛快なのかもしれませんが批判すればいいってものではないと思います。
    日蓮正宗は間違っているという元学会員さん達だって、結局自分の考えが正しいと主張しています。
    人は自分が信じていることが正しいと思うわけです。
    それが本当に正しいかどうかはわからないだけということですよね。

  15. わたしが創価学会にハテナ?と思い始めたのは、2001.9.11のあのビン・ラディン率いるアルカイダのあのテロからでした。
    自らの信ずることで、こんなこともやってのけてしまうアルカイダと創価学会が、わたしの中でハッキリと同質なモノと思えた瞬間でした。。
    きっと、それまでに創価学会に対するいくつものハテナ?が伏線になっていたのだと思います。。
    そして、その後、アメリカはイラク攻撃を正義の名の下で行った。この正義の名の下。。というところにも、わたしは創価学会と同じ臭いを感じました。
    確かに、創価学会は、そこまでのことはしないでしょう。でも、それと似たようなことは多々してる。わたしの動物的嗅覚からでした。
    その後、公明党はイラクへ人道復興支援と銘打ちイラクへの自衛隊派遣を受け入れた。
    これに対し、わたしは、とても疑問に思ったので、組織の会う人、会う人に疑問をぶつけました。
    誰もまともに、わたしに納得のいく答えを出してくれる幹部はいませんでした。みんな不勉強すぎて驚きました。ただ、組織の言われるままオウムのように選挙活動している人ばかりだった、結構な幹部でさえ。。
    そのうちわたしは、組織の中で困ったさんと思われるようになっていったのですね。。
    そこで、リアルに創価学会のおかしさを体験できたわけです。組織の違う意見を持つ者を排除しようとする創価学会。。組織の人間関係が元で脱会に至ったと言われれば、そうかもしれない。
    でも、つい最近旦那にその話しをしたら、「そのことがあって創価学会を脱会できて良かったじゃないか。感謝しなくちゃな」。。ほんとうに腑に落ちる旦那の言葉でした。。(笑)

    書籍などでの池田氏の指導は文句がつけようがないかもしれないが、彼のリアルな言動で不信を抱いたことは多々ある。はじめは自分に信心がないから、そう感じてしまうのだと自分を責めてばかりいて、同時中継からの帰り道は精神的にグッタリしたのも、いま思い起こすと懐かしい。。わたしって、純粋だったんだなと想う。。

    いま創価学会は、池田氏亡きあとを彼の残した書籍などの『言葉』で彼を宣揚しさらにカリスマ性を与えようとしているように思える。テレビで流れる聖教新聞のCMを見ていて、ふと想った。

    創価学会も最近、方針を変えたのかな?と思ったりする。アンチBlogとの関わり方が変わったのかな?嫌がらせというサイド攻撃ではなく、こう来たか。。って思うわたしは考えすぎでしょうか。。

  16. 追記
    ちなみに裁判についてですが、文字としては残していないかもしれませんが、その頃の同時中継では、連戦連勝というようなことを男子大幹部は声高に叫んでいましたよ。
    何回も聞いた覚えがあるから忘れない。。

  17. excommunicateさんの熱いコメントに頭がクラクラしてきました。
    創価学会の組織で散々嫌な思いをして脱会した、あるいは組織を離れた。後でネットなどでなるほどなと思う情報に出会った。
    ・・・それでいいのではないですか?

    そういう理由で創価学会から離れる人が後を絶たないというのに、どうして何でもご存じのはずの池田名誉会長が何も手を打たれないのでしょうか。

    「全部わかっています!」とご本人が胸を叩きながら仰ってましたし、メッセージでも度々この言葉を聞きました。

    「私が全部やって来ました。私ひとりでやったのです。」創価学会の歴史を語られる時、必ず仰いますよね。
    孤軍奮闘の連続だったという事だとしても、こういうことは、自分で言うものではないと思います。
    壮年の幹部を公衆の面前で一人立たせて叱ったりからかったり、そうかと思えば唐突にピアノを弾かれたり。
    かたはら痛いとしか感じませんでした。

    主人が亡くなったあと、学会員の人達が池田氏の指導のコピーだの書籍だのを持って来られました。山のように。

    でも全く心に響きませんでした。
    悲しみのどん底で、一言も。
    創価学会の生命論では主人の死を乗り越えられないと痛感しました。

    反対に創価学会のお陰で嘆きを乗り越えた、という方もいるでしょう。
    創価学会の雰囲気が好きで好きでたまらないという方もいるでしょう。

    私は二十数年間、頑張ったけれども、池田氏も創価学会の組織も学会員の雰囲気も、やればやるほど嫌いになってしまいました。
    たとえどんなに教えが素晴らしいとしても、こんなにたくさんの人が嫌ってやめていくのは、やはり揺るがぬ結論なのではないでしょうか。
    どのように教学的に説明しようとも、多すぎますよね。

    私の場合、もの作りに本気で取り組もうとした時に『創価学会』は煩わしく、邪魔でしかありませんでした。
    自分が『醜い』と感じるものは遠ざけようと思いました。

  18. 創価学会が日蓮正宗を創価新報紙上でいつも口汚く罵り続けているのは、学会青年部へ向けてのプロパガンダではないのでしょうか。宗門へ向けて発しているのではなく、内部の会員へ向けて日蓮正宗がどれだけ害悪かということと、日蓮正宗を仏敵と刷り込むことによって、会員が宗門へ寝返らないための、恥も外聞も捨てた人としてとてもみっともない行為だと思います。それもとても見え透いた低俗で卑しい行いだと思います。いまどきそんな見え透いたネガティブ広告は暴力団でさえしません。しかしMCが行き届いた創価学会員には効果的なのでしょう。私も日蓮正宗を目の敵にしてなんの根拠もないことを吹聴してまわる婦人部の方などをよく見かけました。身内ですが(笑)。創価学会が正しい信仰者であることを主張するのであれば、なぜここまで他人を公然と罵倒することができるのか、その理由を聞かせていただきたいと思います。それが仏教の教えなのか、池田氏の指導する人間主義なのかを聞かせていただきたいと思います。

  19. 木花さんへ

    私のコメントへの感想を述べておられるのだと思いますので、私の考えを少し書いてみます。

    まず、学会は破門されているので大石寺圏にないと言われていますが、学会の教義と本尊はいまだに大石寺に依拠しています。
    これは顕正会についてもほぼ同じようです。大石寺の教学(日寛教学)をベースに置いているので、学会は教義の上では大石寺圏にあるという意味で、破門されているかどうかという組織的なことではありません。

    つぎに「大石寺の信仰は750年間、日蓮の時代と寸分違わず続いていると主張」・・・ということについては、7月24日のコメントで「日蓮正宗は20年前も750年前も同じ。何も変わってません。」と木花さんが発言されていたので、このように書いてしまいました。
    いま考えてみると、「寸分違わず」という文言は適切ではありませんね。これについては訂正のうえお詫びいたします。

    それと、私は宗門だけを批判しているのではなく、学会も同様に批判しています。
    また、批判することによって痛快だなどとは思っておりません。
    8月17日の私のコメントを読むと、宗門批判とうけとれるような書き方になってしまいましたが・・・。
    学会も宗門も、日蓮の正しい信仰は自分たちのところにある、と主張しているように私は受け取っています。
    しかし、日蓮の教えというものが現代まで正しく続くことは考えにくいでしょう、また、日蓮の教えが正しいという保証はどこにもないでしょう。ということを言いたかったのです。

    私は8月17日のコメントで、「法華講や学会は日興門流の中の大石寺圏にあるのですが、大石寺流の日蓮信仰が絶対だとの根拠を、ここで示して頂きたいと希望します。」と書きました。
    法華講だけではなく、学会の活動家にも質問を投げかけました。このことについては、それぞれのお考えをお聞きしたいと思っています。

    以上が私の考えていることです。

    雑ぱくな書き方になってしまいましたが、疑問がありましたら、またコメントをおねがいします。

  20. ご無沙汰しております。先日は早速のご返事ありがとうございました。シニフィエさんの的を射たご指摘、同感です。また、カノンさんのご発言、正にその通りだと思います。私自身、覚醒前から聖教紙上や創価新報で執拗に語られる宗門批判、脱会者に対する誹謗中傷にうんざりしていました。どちらが良いとか悪いとかは別にして一つ言えることは、純粋に「信仰者」として生きてきた多くの人々を「信仰」から遠ざけてしまったことは宗教団体また指導者として最低だと思います。常に敵をつくって内部を引き締めるやり方も異常だし、限界でしょう。こにコメントしておられる方をはじめネット上、また身近なところでも覚醒されている方が増えていると感じます。私もその一人ですが、諸事情から正式脱会はしていないものの心はすっかり離れている方が多数いらっしゃるように思います。

  21. excommunicateさんへの質問です

    はじめまして、いちおう籍は学会にありますが非活のウトロと申します。

    excommunicateさんへ2点の質問をいたします。
    お時間のある時でけっこうですので、excommunicateさんのお考えをお聞きできれば有り難いです。

    ①創価学会の理念は「反戦平和」だと思いますが、2003年におきたイラク戦争(アメリカによる理不尽なイラクへの侵略戦争)では、学会はこれを容認しましたね。
    過去には、ベトナム戦争や湾岸戦争に明確に反対のスタンスをとっていましたが、イラク戦争になぜ反対しなかったのでしょうか?

    池田大作全集に収録されている「立正安国論講義」の中に「生命尊厳を説く大聖人の仏法を学んだ者として、あらゆる戦争に反対するのは当然である」という意味の記述があります。
    また、「戦争は人間の行う最大の蛮行である。学会はあらゆる戦争に反対する」との明確な池田氏の発言がありますが、イラク戦争の時の池田氏は、イラク戦争について公の場で一切の言及をしていません。
    これは平和を理念とする学会の指導者として、あまりにも狡いのではありませんか?

    ②仏教の基本的な原則のひとつに「依法不依人」があります。
    日蓮も御書のなかでたびたび言及しているように、どんな立派な人師・論師であっても人を根本にしてはいけない、ということですね。
    ところが、いまの学会では「師弟不二」を強調しています。
    師匠である池田氏の指導どおりに実践するのが弟子である、という意味ではありませんか?

    私がまだ本幹の衛星放送に参加していた時、池田氏は「師弟不二が仏法の究極」と言っていました。
    原田さんが会長に就任した時の本幹では、「師弟不二の血脈は(池田)先生にしかない」という意味不明なトンデモ発言をしたことを、いまでも鮮明に覚えています。

    釈尊も日蓮も「師弟不二」を言っていませんし、牧口初代会長も戸田第二代会長も言及したことがありません。
    ましてや「師弟不二の血脈」とは???ですね。
    これは仏教と言えるのでしょうか。

    わたしは、仏法用語としての「依法不依人」と学会用語としての「師弟不二」は対立する考え方だと思いますが・・・。
    この点については、いかがでしょうか。

    以上よろしくお願い致します。

  22. ウトロ様へ

    日達上人は「日蓮正宗の教義でないものが一閻浮提に広がっても、それは広宣流布とは言えないのであります。」と申し、これは学会のこと言っています。
    ですので学会も顕正会も日蓮正宗の教義を歪めているので、大石寺とは関係ありません。
    浄土宗もそうですが、自分の宗教が正しいといってますが、それはどの宗教もそうではないでしょうか。
    別に日蓮正宗だけが特別だとは思いません。
    ただ他宗に害があるとは言ってませんね。

    >日蓮の教えというものが現代まで正しく続くことは考えにくいでしょう、また、日蓮の教えが正しいという保証はどこにもないでしょう。
    それはウトロ様の考え・願望ですよね。
    日蓮正宗を批判している方に日蓮正宗の信仰が絶対だという根拠を話しても、学会員の対応と同じように一蹴するだけではありませんか?
    極論ばかり話されるので、非常に話にくいのですが、法華講みんなが絶対だと思って信仰しているわけではないと思います。
    それぞれ温度差もあるし、信仰心がまだそれほどでない方もいます。
    一方的に決め付けた話し方(日蓮正宗の信仰が絶対だ・・・という言い方など)は学会員には有効かもしれませんが、法華講さんは引くと思います。

    学会員時代は宗門だけを批判し、今は学会も批判の対象に入っただけで20年以上も宗門批判していることに変わりはありません。
    それでその批判は正しかったのでしょうか。
    信仰は自分が選ぶものですので、宗門を否定されてもいいのですが、20年以上も批判する必要があるでしょうか。
    日蓮正宗や大聖人の教えを批判・否定しなければ、自分が正しいという証明ができないのでしょうか?
    それなら学会員と変わらないと思うのですが・・・。

  23. ウトロ様

    追記です。

    >たとえば、日蓮がどのように題目をあげていたのか。
    「なんみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか、それとも「なむみょうほうれんげきょう」と唱えていたのか。
    それすら伝わっていないのが実状でしょう。

    日蓮正宗及び日蓮宗には大聖人の直筆のお手紙が保管されているので、ウトロ様が心配されているようなことはないと思います。
    御書の松野殿御返事にも載っていたと思いますが・・・。
    学会員だから知らないことがたくさんあるのではないでしょうか。

  24. 木花さんへ

    コメントありがとうございます。

    >日蓮正宗を批判している方に日蓮正宗の信仰が絶対だという根拠を話しても、学会員の対応と同じように一蹴するだけではありませんか?

    木花さんの示していただける根拠が納得のいくものであれば、私の日蓮正宗についての考えは変わると思っています。
    私が知っている宗門は学会のフィルターをとおして見たものですから、私の認識が改まる可能性はあります。

    >日蓮正宗や大聖人の教えを批判・否定しなければ、自分が正しいという証明ができないのでしょうか?

    私は自分の正しさを証明するために、日蓮正宗や大聖人の教えを批判や否定をしているのでは無いのですが・・・。

    私はいまの学会のあり方は否定します。シニフィエさんと同じように、ようやく学会の誤りに気づいたということですね。
    さまざまな文献を漁り、いろんな人に会い、勉強をしていく過程で、日蓮の教えが正しく現代まで伝わることはあり得ないだろうし、日蓮の教えだけが正しいこともない、との結論にいたりました。

    学会員でも法華講の方でも、日蓮の教えだけが正しくて自分たちがそれを実践しているとの自負があおりならば、その根拠を示していただきたいとの動機で、8月17日のコメントを書きました。

    もし木花さんが、信仰はそれぞれであり、日蓮だけではなく日蓮正宗だけではなく、他の信仰にも良い点があるだろうとのお考えなら、これ以上なにも書くことはありません。

  25. ウトロ様

    日蓮正宗は法華経を信仰しています。
    法華経はお釈迦様の教えじゃないと否定されている方が多いですが、お釈迦様がいなければ仏教も法華経も存在しません。
    私はお寺に戻るとき、自分なりにいろいろ調べましたが、概ね間違っていない(まだ日蓮正宗をよくわかっていないので)ことがわかったことと、法華経の教えが自分にはしっくりいくのでお寺に戻りました。
    理由は他にもあります。

    世の中には正しい行いをしている人がいるので、個人的には大聖人の教えだけが正しいとは思っていませんが、間違っているとも思っていません。
    根拠を示していただきたいとのことですが、たぶんそれは無理だと思います。
    私はウトロさんが納得いくような根拠を示せませんし、そんな必要はないと思っています。
    知りたければ、お寺に行って御住職様に聞けばいいだけのことですから・・・。
    学会での話ですべてを判断されていますが、お寺に行って確かめればいいのにそれをされないのはどうしてなのかな?・・・と思ってしまいます。

    excommunicateさんへ

    学会は嘘が多いですが、嘘が真実に勝つ事はありません。
    いずれ真実を知る日が来ると思います。
    宗門が間違っているというのなら、池田さんが猊下様と法論されて証明してほしいですね。
    そう思いませんか?
    あとですね、法華講さんに聖教新聞社の元職員が何人かいます。
    元職員さんが池田さんの姿を側で見ていて信仰心がないと判断されて、学会を辞めています。
    人間革命は篠原さんという方が書いていたとのことです。
    それと、学会の墓苑から宗門の墓苑に移る時に、宗門に戻ったことは絶対に学会員に言わないことと学会側から強く言われた方がいますよ。
    どう思われますか?

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