思い込まされた幸せ

本当は不幸な人生なのに幸せな人生だと思い込まされる。それが創価学会のマインドコントロールです。本人に自覚がないため、喜んで財産や労働を貢ぎます。それが創価学会の手口でありすべてだとわかりました。それに気づいた人は大勢いますが、私の両親のように気づかないまま一生を終わる人が桁外れに多いのです。このブログの対話を読むことで、一人でもいいからそのことに気づく創価学会の被害者がいてくれたらと思います。自分で気づくしかない。つくづくそう思います。とにかく創価学会からは一日もはやく縁を切ることが、幸せをつかむ第一歩です。

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思い込まされた幸せ」への10件のフィードバック

  1. おはようございます。

    うーん、質問や疑問を批判と捉えているうちは、対話は成り立たないと思いますが、
    確かに、何らかの価値観に傾倒している人は、無自覚でそういう傾向がありますから仕方ないのかな。(経験上)

    たった一つの価値観の中に生きると言うことは、本来人として違和感を憶えるものかもしれないと思います。
    生まれてすぐから一人では生きて行けない性質を持っているのにも関わらず、それでもあえて違う考えを排除したり、同じ価値観の者同士だけでコミュニティを作って、さらに他人を懐柔しようとやっきになって価値観を押付けたり。
    とてつもなく不自然だと思いませんか。他人と折衝しつつ生活すると言う「人と生きる」というやり方に反しています。
    だからこそ、何とも言えない罪悪感を感じてしまうのではないでしょうか。これはいわば理性でしょう。

    私は、この罪悪感が無ければ気付けなかった。
    きっと、この後ろめたさを全く感じない人が、一生気付きもせず死んでいくのかなと思います。

    と書いていても、本当に文言だけで伝えるって難しいと思いつつ。

    何度も書いては消して書いては消しての繰り返しですよ(笑)
    自分の中では、押し問答して対話しまくっていますが。

  2. 創価学会を離れた人のほとんどは、もう、組織は懲り懲りと思っている人が多いと思うのですね。
    別に宗門を批判するとかじゃなくて、わたしの場合は、宗門へもし移ったとしたら、違う意味で創価学会と縁が切れないような気がして、もうそれは選択肢にもなかったです。。

    わたしのなかで、法華講も創価学会員もどっちもどっちと言ったのは、一部の法華講員の不適切な書き込みで思ったからであって、そのことは謝ったと思うのに。。

    創価学会を辞めて、宗教全般を批判する気持ちは全くなく、却って宗教すべてに興味が出てきたくらいです。
    創価学会は宗教だとは思っていないので論外ですけどね。

    今日のBS4チャンネルでやる『日本100巡礼』という番組は、いつも録画して見ているのですが、福島のあるお寺のご住職でもある芥川賞作家の僧侶が案内人になって、毎回ゲストが日本のあちこちの神社仏閣に詣でるのですが、その案内人のご僧侶は宗派に関係なく、それぞれの神社仏閣の良さを知り尽くしているみたいで。。

    決して創価学会のように我が宗教がすべてであるとは語っていないのですね。こういうご僧侶のことを創価学会は邪宗の坊主と蔑むのだろうな。。と思うと、宗教を知った気になっている創価学会員のほうが滑稽で憐れですらあるような〜。。
    まあ、そんなことを言うわたしも無知であると蔑むのでしょうけれど。。

  3. 願いとして叶わざるはなし
    なんて文句、誰が言ったのでしょうかね。 この文句を信じて幸せ求め夢を抱き、希望に燃えて信心に励んだあなた
    あなたの願いはすべてかなえられたの、悩みは解決したの、よくよく考えてみたら?
    お題目もたくさん唱えたね、書籍もたくさん買ったね、新聞もたくさん取ったね、選挙も死に物狂いでがんばったね、折伏もたくさんしたね、広布基金も財務もたくさんしたね、それで全部願いはかなったの

    それで一番幸せになったのは結局のところ誰なの

    自分の願いも叶ってないのに、こんな文句並べ立てて、確信だ確信だと折伏や部員に指導してた自分がいまとなっては情けなく恥ずかしいよ
    申し訳ない気持ちで一杯ですね

  4. おはようございます。

    日蓮大聖人の教えが破折精神なだけに、こと信仰になると優劣、勝敗をつけることに躍起になってしまうのかなと
    思います。
    自分たちの存在意義は「これが一番正しい」んだと証明する事にあるので。
    客観的事実を述べられても、攻撃・自分たちの教えを揺るがす魔の動きとしか捉えられないんでしょう。
    私も昔はそうでした。

    正しいものが他にもあるのかもしれない、その可能性は否定しない、という姿勢があれば対話が成り立つのかな。

    対話って本当に難しいですね。

    どんな組織にも依らないと決めた人達からの問いかけを「否定」「破折」と捉えず「知的好奇心」と捉えてくれれば、
    もっと折伏が進むと思うんですけどねww(皮肉です)

  5. みなさん、いつもコメントありがとうございます。
    ちょっと学会さんと法華講さんを集中的に責めるようなかたちになってしまったせいか、コメントをいただけないようになったようです。なかなかスリリングな展開だったので、アクセス数も一日1000を越す勢いになりました。できればこのままもう少し突っ込んだ話ができるとよかったのですが、テーマがテーマですのでどうしても感情的になって嫌になるのもわかります。また違った方がおいでになることもあるでしょうから、地道に対話を呼びかけていきたいと思います。よろしくお願いします。

  6. sinifieさん、それは違いますよ。
    集中的に攻めていたのではなく、それぞれが疑問や事実を述べていただけだと思います。

    もし誰かが責められたと感じたのならば、その原因は、そのご本人にあるのだと思うのですが。。違うかなあ。。?
    違う意味で、わたしのコメント、キツイですかね?
    わたしは、相手を責める気持ちはないです。。ただ、感じたことを率直に言っているだけで。。

    ただ、言いたい。
    創価学会を辞めたひとも創価学会員と同じ思考と言うのならば、かつて創価学会員で宗門に行った人も同じと思うのですね。みんな同じ穴の狢。。大差ないですよね。。^_−☆

  7. 流れ星さん、もちろんです。
    私は創価の最高幹部以外の方を責める気はありません。ましてやこれまで法華講の方と話をしたことがありませんでしたので、いろんなことを教えてもらえればありがたいなとも思っていました。ですから自分の素朴な疑問としての答えを求めていたのですが、それでも責められた、もしくは自分たちのことを否定された、または何が何でも否定する方向一辺倒で攻撃されたと思われているようなので、その時点で対話が成り立たなかったということだと思います。そんなつもりはなくとも伝わらないというだけで、やはりそこには感情的に受け付けないものが生まれているのだと思います。お互いに、こんな簡単なことがどうしてわからないのだろうと思ってしまっているんですよね。
    創価学会は池田氏を信じている。法華講の方は日蓮仏法を信じている。私は創価が信じられなくなった。かといって宗教を否定しているわけではないどころか、宗教の重要性は芸術文化を通じて感じてきた。やはりそれぞれの立場をもっと理解しようとしていることを伝えなければならなかったと思います。創価の間違いに気づいた人にとって、創価を信じている人へは「はやく気づいてほしい」と思うあまりに、創価の矛盾について問いつめるかたちになってしまうのだと思います。決して批判や攻撃をしているのではないのですけどね。でもそう受け取られてしまっては何にもなりませんよね。
    私がまだ創価を信じている時に、知り合いから露骨に嫌な顔をされて「創価学会って葬式の香典をみんな持っていくんだろ」とか「あいつのどこが一家和楽の人生なんだよ」と「オレはオヤジの遺言で絶対に創価学会の人間と関わるなって言われてるんだよ」などと言われたとき、はやり悔しかった。いつか実証を示してやるぞって泣きながら夜通し唱目をあげたこともあります。でもそんなこんなもすべてがインチキだったことがわかったのですから、まだ気づかないで創価を純粋に信じきって活動されている人を見ると、やはり「自分でもう一度しっかり考えてごらんよ」って言いたくなります。でもそんな思いもMCされている人にはそう簡単には通じないということも、自分の体験からよくわかります。しかしたいへん難しいとはわかっていても、私は対話の可能性を信じていきたいです。というか対話でしか理解は生まれないと思います。

  8. 皆さんのご意見に一々頷いております。学会は常に「勝負」だの「勝ちまくれ!」だのといつでも戦闘体勢です。また、日蓮の教えそのものが排他的、攻撃的とも言えましょう。そう考えるとご本人の性格にもよると思いますが、学会員も法華講員も似た者同士と言えると思います。少なくとも、傍から見たら醜い内輪揉めくらいにしか映らないでしょう。私も覚醒直後は信仰という視点から悩みました。しかし、偏った考えから解放され組織はこりごりという結論に達しました。

  9. 偏っていると言えば、折伏や破折の時に御書を引用するじゃないですか。
    あれも、そもそも日蓮仏法を信じていない人にとっては、ポカーン対象ですよね。
    さも「証拠を出してやったよほらほらどうよ」と言わんばかりの顔でいわゆるドヤ顔ですが、こちらが呆れて黙ってしまうと
    「何にも言い返せない!論破した!」ってぱああああって明るい顔になるんですよね。嬉しそうに。

    そもそも万人に御書が証拠や根拠になり得ない、通用しないと理解させることからでしょうが、
    学会発信のアンフェアにはとても寛容です。攻撃されることにはひどく敏感なのに。
    このダブルスタンダードが、内部で人々を混乱させる原因のひとつだと思います。

    では、御書が間違っていない根拠は?となりますが、これは私にも御書が間違っていると証明できないので言えません。
    私にとって御書が根拠にならない理由は「信じていない、疑わしいから」なんですけどね。
    先方は「信じているから」根拠にできているんですね。
    所詮、宗教は感情や感覚からスタートするものらしいので、互いにそれはそれで間違いじゃないと思うんですが、
    理解を得るには時間と労力が必要でしょう。あの水掛け論とループの嵐を想像すると、私の精神が持ちそうにありません。

    どっしり腰をすえてじっくり対話しなければ意味が無いでしょうし、端から信頼関係の無い者同士なので難しいですよね。
    親兄弟であってもおいそれと振れる話題でもないのに、赤の他人ですし本当難しいですよ。

  10. そうですね。御書といっても一般の人からすれば、日蓮が書き残したものの記録なわけだから、それがほんとのことかどうかは別の問題です。たとえばキリスト教の聖書はすでに印刷技術の発達とともに2479の言語に翻訳され、すでに何百億冊と発行されていて、日本語版だけでも6億冊以上が国内に出回っているそうです。ホテルの部屋の引き出しには必ず聖書が置いてありますよね。決して法華経は置いてない。まあ、普通の人は読んでもわかりませんけど。つうか読めもしない(笑)。「聖書にはこんな話があってね」と話をすれば、その背景がたいていの人はわかるからついていけるんですが、「大聖人の御書にはこう記してあって……」って、会員はそれが真実であること前提で話をしますから、言われているほうは「この人はいったい何の話をしてるんだろう?」って思うんですが、学会員は相手に自分の話が理解されていないことに気づかないんですよね。
    私は今回の対話を通じて、創価学会が信仰の対象としてきた日蓮仏法が、世界の宗教のなかでもほんとうに特異な存在なんだということにあらためて気がつきました。学会員のときは世界中に会員がいる日本最大の教団であるかのように教え込まれていましたから、素直にそれを信じていましたが、それは池田氏が会長になってから、みなさんご存知のようにでたらめに会員を増やした結果であって、世界の宗教界に影響を与えているわけではありません。また、創価学会が破門されてからの日蓮正宗が特別世界的な宗教として発展しているわけでもありません。他の多くの宗派と同じように、いわゆる日本のお寺さんです。まあ、それは私にとってはそれほど関係のないことなのでこれ以上はつっこみません。誤解を生むだけですので。
    つまり、創価学会は今や仏教でもなんでもない、ただの怪しい新興宗教です。かたちだけ日蓮正宗の本尊のコピーを会員に配って拝ましているだけで、その教義も組織の活動も、みんな会員から財務を集めるだけのためのインチキ信仰でしかありません。宗教法人だからどんなにお金をかきあつめても申告しなくてすむし、会員にも一切会計報告はしません。いったいいくら集まって、何にいくら使っているのかまったくわからないまま、会館が建つからとか、広布のお役に立つんだとか、功徳が倍返しどころか何百何千倍にもなって返ってくるなどと、いまだに多くの会員が騙くらかされています。そのへんの小さなお寺でさえ、檀家さんにはきちんと会計報告をしているのに、日本一会員数の多い創価学会がいっさいお金の使い道を明かしていないことと、そのことに何の疑問も持たずに、毎年何十万、何百万も財務として貢ぐ会員は、やはり心底騙されているとしか思えません。
    長くなりそうなので、今日はこのへんで(笑)

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