もう一度、功徳ついて考える

さて、せっかく意義ある対話が続いていたところでちょっとつまずいた感がでてきましたので、仕切り直しということでいきたいと思います。

もちろんこのブログのコンセプトはそのままに、誰にでも対話の機会を開くというのもかわらず、ここで交わされる対話は批判のための批判や、相手を貶めるための攻撃ではなく、お互いの理解を深めることを目的として行われることを前提にコメントをいただきたいと思います。一方的な批判なら誰にでもできることだし、そのことによって意義あるもの生まれることはないと思います。

管理人である私の立場、つまり創価のまちがいに気づいた人間がつくっているブログなので、私と立場を同じくする方が多く集まることは当然ですが、先日までのように現役の創価学会活動家さんや法華講さんのコメントもぜひいただきたいと思います。

そこで、前回は「芸術と宗教」というテーマで、特定の宗教の教義によって芸術を否定してしまうと、何も残らないのではないかという素朴な疑問から、みなさんのコメントをいただき、これはこれで創価の矛盾を考えるひとつの基準になったような気がします。

芸術と宗教についてはある程度考える基準みたいなものが見えてきましたので、次のテーマに移りたいと思います。次のテーマは何がいいだろうと考えたのですが、できるだけ素朴な疑問からでてきたものが、より多くの人がわかりやすいと思います。このブログの最初の当たりにも私の疑問は書いたのですが、あらためて「功徳って何だろう?」ということについて、みなさんの考えをお聞きできればと思います。

以下は去年の1月12日にこのブログに書いた「功徳って何だろう?」という文章です。

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創価学会員のみなさん。「功徳」って何だろうって、もう一度あらためて考えてみませんか。
私は学会のおかしさに気づいてから、功徳ということばがどれだけ滑稽なものかを感じます。多くの学会員は「功徳」につられて信心を始め、「地獄に落ちる」という言葉で学会から抜けられなくなります。信心したおかげで病意が治った。信心のおかげで貧乏から抜け出した。私も子どもの頃からそんな話をさんざん聞かされて育ちました。信心すれば、もっといえばお題目を唱えるだけでどんな夢も叶う。「法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」などと御書の中のいろんな箇所を引っぱり出しては、とにかく何も考えなくていいから信じていきなさいという。信心してもしなくても、人生にはいいこともあれば悪いこともあります。なのになぜか学会では入信した途端いいことは信心による功徳であり、悪いことは信心が足りないことになる。どんなときもです。幹部は会員のそうした一喜一憂を功徳と信心が足りないのどちらかで済ませてしまいます。つまり「余計なことは考えなくていいから、学会活動に励みなさい」結局幹部が言うのはこれだけです。会員はそれを真に受けます。さらに近頃は功徳は「信心のおかげ」ではなく「先生のおかげ」になっています。いいことすべては「先生のおかげ」であり、することすべては「先生のために」が合い言葉です。どこかの将軍様とひとつも変わらないですよね。
昔、私が若い頃勤めていた仕事場の同僚がネットワークビジネスにはまったことがありました。「ちょっと話があるんだけど家に行っていいかな」から始まりました。私も別に断る理由はなかったので、軽い気持ちで彼が来るのを待っていました。結局簡単に言うと「一生遊んで暮らせるビジネスをしないか?」ということでした。「これだけのことをやるだけで、孫の代まで遊んで暮らせるんだ」ということです。「今度そんな暮らしを実現している凄い人が来るから、話だけでも聞きに来ないか」と言うんです。どこかで聞いたような話でしょ(笑)。「僕はね、君の幸せを思って誘っているんだ」「ここでほんの少し頑張れば、あとは素晴らしい人生が待っている」「ほら、こんなにたくさんの人が入っていて、みんなで楽しくやってるよ」「僕もね、最初はそんなうまい話があるわけないだろと思ってたんだけど、実際にこれをやってる人たちは、ものすごい財産を築いてる。それも最初に数人の友だちを誘うだけで、あとは何にもしなくてもその友だちがまたその友だちを誘って、その人たちが稼いだ利益が全部自分のものになる仕組みなんだよ。これは驚いたね。友だちに健康にいい食品や素晴らしいキッチン用品を勧めるだけで、あとは何もしなくてもどんどんお金が舞い込んでくる。夢のビジネスが目の前にあるんだ。その利益はたとえ自分が死んだとしても、自分の子どもたちに入って来るんだよ、ありがたいよね、凄いだろ。」やはりどっかで聞いた話です(笑)。そのとき私は友人として止めるべきだったのかもしれません。しかし彼はまさに欲に目が眩んでしまって「僕はこの夢のようなビジネスに人生をかけてみるよ」という始末。結果は案の定でした。もちろん私はそんな口車には乗りませんでしたが、つきあいでいろんな健康食品やキッチン用品を買いました。商品はどれも粗悪なものでした。トマトすら切れない包丁やバカ高いフィルターをしょっちゅう交換しなければならない浄水器。ほんとに効果があるのか分からないサプリメント…彼ばかりではなく、それまで会ったこともなかった彼の家族までがどかどかと自宅に乗り込んで来ては商品を売りつけに来ます。30万円ほどは買ったでしょう。そのうち彼はそのビジネスを辞めました。私に何も言わなくなりました。辞めたことすら言いませんでした。まあ、それはそれでよかったのだと思います。
それから10数年後に、別の友人が彼とは別のネットワークビジネスにハマりました。私は以前の友人のことがあったので、「君とは今まで通り友人としてつきあっていきたいから、僕の前ではネットワークビジネスの話をしないでくれ」と言いました。彼は約束を守ってくれました。そのうち彼もネットワークビジネスから足を洗いました。以前の友人と同じで、そうとう損をした結果のようでした。
ネットワークビジネスがあれだけ社会問題として世間を騒がしていたにもかかわらず、なぜ彼らはハマっていったのか。それはまさに欲に目が眩んでまわりが見えなくなるんですね。「一生遊んで暮らせる方法」を目の前にちらつかせる。実際に億万長者になったほんの一部の人の体験談のパンフレットを読ませる。話を聞かせる。自分もこんなふうになりたいと思ってしまう。それはそっくりそのまま創価学会の折伏にあてはまります。学会はそれこそ「功徳」ということばの魔力によって多くの会員を獲得しました。「これをやれば夢のような人生を送ることができる」「これをやれば不治の病も必ず治る」といった甘い言葉で会員を増やしていく手法はネットワークビジネスとひとつも変わりません。
ご存知のようにネットワークビジネスで実際に利益を上げるのは、上層部のほんの一部だけです。上にお話しした友人のようにほとんどの人が犠牲となります。つまりもともとこの犠牲を目的としています。会員は多くの自分の顧客(会員)を獲得することで組織の上部に昇進することが出来ます。逆に昇進しなければいつまでも自分で商品を仕入れて売り続けなければなりません。会員の多くは昇進を目指してビジネスを続けますが、結局とんでもない量の在庫を抱え込んで破綻します。一定期間に販売実績を確保しなければ上には上がれない。だから売れもしない商品を自腹を切ってでも仕入れて数字をあわせることで現状をキープするのです。来月もその次の月も同じように…ということで、いつのまにかビジネスではなく自分自身がネットワークビジネスの餌食になっていることに気づかない。それは欲に目が眩んでいるから現実が見えなくなってしまっているんですね。ほんの一部の億万長者を掲げることで、そこにたどり着けるよう一心不乱にビジネスに駆け回る。あの遠慮のない異様な姿はほんとうに創価学会員によく似ています。こうした何も知らされずに狂ったように働く末端会員の犠牲をほんの一部の上層部が吸い上げて巨万の冨を独占するシステムがネットワークビジネスであり、それはそのまま創価学会の「功徳」による集金システムでもあります。
もうひとつ創価学会によく似たことをやる集団がいます。「あなたは先祖を粗末にした罰で病気になった。このままではあなたの子どもまで長くは生きられない。でもこの印鑑を買えばすばらしい先祖供養ができて、家族共々幸せがやってきます。はい30万円」「どうやらあなたの曾祖母がとてもひどい死に方をして成仏できないでこの家に災いをもたらしています。でも安心してください。この壷を買って玄関に飾っておけば、すべての災いを跳ね返してくれます。はい200万円」こうした霊感商法に引っかかる人が今でも絶えません。わけのわからない不安を煽って恐怖心を植え付け、そこにつけ込んで法外な高額商品を売りつける。この手口もどこかで聞いたことがありますよね(笑)。創価学会員がみんな口にすることば「地獄に落ちる」。会員さんの多くはほんとうにそれを信じています。私もそうでした。毎日行なっている朝晩の勤行を何かの理由でできなかった日に、ちょっと悪いことが起こると「あ、勤行さぼったからかもしれない」と思ってしまう(笑)。それくらいならまだ可愛いものですが、子どもが大きな病気にかかってしまったとか、連帯保証人になって他人の莫大な借金をかぶってしまったとか、そんなこともみんな自分の信心が足りなかったからなんだと思い込まされて、ますます学会活動に励みます。それでいくら折伏や新聞啓蒙をやり、全財産を財務に貢いでも何も事態は変わらない。当然です。たとえ疑問を抱いたとしても幹部は「仏法は道理だ。仏法に背けば地獄に落ちるのはあたりまえ」そんな言葉で脅しに脅してなんとか学会に留まらせる。こうした精神的な脅しは完全に暴力です。いまどき他人にそんなことを言えば普通に訴えられます。ここにコメントしてくださる方も、この精神の暴力に耐えられなくて脱会できないでいた場合が多いようです。創価学会は精神の暴力をつかって巨万の冨を集める集団です。その莫大な利益はすべて「先生」に集まってきます。
このように創価学会はネットワークビジネスと同様の「功徳」と、霊感商法と同様の「精神の暴力」によって末端会員からお金をすいあげてきました。こんなわかりやすいシステムが内部にいるとわからなくなるんですね。これがMCの恐ろしいところです。要は人間の心の弱さにつけ込んで、どこまでもお金をしぼりだしていく。それだけの集団です。創価学会は世界の平和や文化とは無縁の非合法な営利集団なのです。
53年間、創価学会員であるこの私がはっきりと言います。
創価学会の信心による功徳なんかありません。
功徳欲しさに信仰にすがりつく姿は、欲に目が眩んでネットワークビジネスに明け暮れる人と同じです。
学会活動をやめても地獄へ落ちません。
私はこの2ヶ月間、勤行唱題目を全くしていません。でも悪いことは何一つないばかりか、以前より仕事も順調で家庭も円満です。
創価学会員のみなさん。ここに寄せられる多くの学会員の体験や思いを、この「功徳」と「精神の暴力」といった観点から、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。自分が日々行なっている信仰は、単に「功徳」と呼ばれる甘い汁欲しさのためではなかったろうか。そして信仰に背くことに対して異常なまでに恐怖心を抱いてはいないか。はたしてそれが信仰と呼べるものなのかどうか。もしかしたらとんでもないネットワークビジネスと霊感商法の餌食になっているんじゃないか。一度でいいですからそうした視点でここに寄せられる多くのコメントを読んでみてください。きっと自分のやってきたことの本当の姿が見えてくるかもしれませんよ。

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「あらためて功徳って何だろう?」という素朴な疑問をもとに、誰もが理解できるような事実関係を披露しあうことで、少しずつお互いの理解が深まるのではないかと思います。ひきつづき皆様からの活発なご意見をお待ちしています。

もう一度、功徳ついて考える」への12件のフィードバック

  1. 先日は好き勝手なことをコメントしてしまい、申し訳ありませんでした。
    いまだに活動家のころの思考が抜けないようです。
    正か邪かを峻別しないと気が済まない・・・創価のMCは根深いです。

    活動家のときは、功徳・福運・宿命転換を刷り込まれていましたので、御利益信仰にどっぷりと浸かっていました。
    その後、学会から距離を置いてさまざまな人に会いお話を聞くなかで、信仰とは御利益をもらうものではなく、人間として真っ当に生きていくためのものだと思うようになりました。

    日蓮も「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ・・・」と「崇峻天皇御書」に書いています。
    釈尊は、人間としていかに生きていくかを説いたのでしょう。
    絵像や木像のたぐいに祈って御利益をたくさんもらいましょう、とは言っていないようです(笑)

    功徳とは「積功累徳(しゃっくるいとく)」のことで、功を積んで徳をかさねるという意味があるそうですね。
    自分が良き行為をかさねていくことが功徳の意味であって、御利益をもらうことは本来の功徳の意味とは違うのではないかと、最近は感じています。

    今にして思えば、「罰で脅して功徳で誘う」という学会のやりかたは、あまりにもエゲツナイですね。

  2. ウトロさん、お気持ちよくわかります。功徳・福運・宿命転換、そして使命。そんな言葉で会員の心を縛り上げていく手口。これは仏教とは真逆のファシズムですよね。ハイルイケダ!を徹底的に植え付けています。百歩譲って宗教に例えても一神教的スタンスです。これを仏教だと信じているほうがおかしいです。

    >自分が良き行為をかさねていくことが功徳の意味であって、
    >御利益をもらうことは本来の功徳の意味とは違うのではないか

    ほんとにそう思います。
    釈迦の生き方を考えてみても功徳に執着すること自体が煩悩であり、その煩悩を乗り越えるために、すべては仮のすがたであることを悟りなさい。そして一切の執着を捨てなさいというのが本来の仏教であると思います。功徳を餌に人の心をあやつる創価学会は、仏教とはまったく逆のことを会員に押し付けているように思います。

    財務にしても「自分のありったけのお金を貢げば、あとで何倍にもなって返ってくる」という、架空物件の出資を煽る悪徳商法となんら変わりない言葉で会員の財産をまきあげています。そこにはやはりありもしない「功徳」欲しさに目がくらむ卑しい心を巧みに利用する学会の手口があります。まさにネットワークビジネスにはまる人たちの心理と同じですが、ネットワークビジネスではそのうち本人が儲からないということに気がついて離れていきますが、創価学会の場合は「地獄に堕ちる」という言葉でがんじがらめにしてしまいます。悪徳ビジネスと創価学会の違いはそこですね。創価学会に入った時点で地獄に堕ちていることを知らなければ、なかなか抜け出せませんよね。

  3. 功徳、ってしばし考えてみたのですが、何故かあまり思い浮かばないのですね。。

    創価学会を脱会して7年めに入りますが、冷静に思い起こしてみると、功徳の体験よりも罰?の体験のほうが明らかに多いような気がします。

    ここで功徳と罰と言ってみましたが、平たく言えば、得をした体験と損をした体験とを冷静に考えあぐねてみて、創価学会にいて損をした体験のほうが多いと今更ながら気づいてしまいました。。!(◎_◎;)

    みなさんは、どうでしょうか。。?

  4. 創価学会員はよいことがあったら、みんな功徳だと言ってまわります。じゃあ、創価学会員じゃない人にいいことがあっても功徳じゃないとしたら、創価学会員であることの意味があるのでしょうか。
    たとえば東日本大震災で亡くなった方の中にも、創価学会員がたくさんいらっしゃいます。原発事故でふるさとを追われた方も、創価学会員だとかそうじゃないとか関係なく被害に遭われています。そんな方の功徳っていったい何んだったのでしょう。
    創価学会員は、この信心をすれば功徳があると思い込まされていて、何でもないようなことさえ功徳だと思いたいのでしょうね。実際にその信心をしていたからこそ、幸せになったのだと言う確証は何もありませんよね。
    そこで何のために信仰をしているのですか?ということを創価学会の方に聞きたいですね。
    功徳が欲しいからでしょうか?幸せになりたいからでしょうか?世界平和のためでしょうか?そしてこの信心をすることによってそれが少しでも近づいてきましたか?ということをお聞きしたいですね。

  5. 初めまして。最近、ブログを見さして頂いております。
    学会員です。色々な考察が本当に興味深いですね。功徳に関してもですが私は功徳を得る為に会員として活動してる訳ではないです。
    この仏法を自分だけではなく、人にも伝えていく事で自他共に幸せになれる。幸せとは地位や名誉を取得するのではなく、どんな事があっても乗り越えていける強い自分になる事。私は功徳の見返りを求めて活動してるわけではありませんが様々な会員さんがいるので幸福の求め方が日蓮仏法からズレてる人もいるのが現実だと思います。
    学会も教学の見直し、組織の見直しをしなければいけない時代に入ってるのは間違いないと思う一人です。
    また、コメントさして頂きます。

  6. アスランさん、コメントありがとうございます。よろしくお願いします。
    ここに学会員さんからコメントをいただくのは珍しいので、アスランさんへの質問が集中する可能性もあると思いますし、かなり厳しい指摘もあると思います。しかし決して会員さんを攻撃しようというのではなくて、素朴な質問としてとらえていただきたいと思います。学会の表向きの理念はここにおいでになる方はよく知っておられますので、そうした優等生的な学会の指導をなぞるのではなくて、ご自分の意見を伝えていただけると嬉しいです。

    そこで、アスランさんにいくつか質問させてください。

    >この仏法を自分だけではなく、人にも伝えていく事で自他共に幸せになれる。

    創価学会でいう仏法とは、日蓮大聖人の仏法ですよね。いわゆる日蓮こそが末法のご本仏であるということがベースになっています。仏教のなかでもほぼ日蓮正宗と創価学会だけが主張している仏法といえます。アスランさんは、学会と日蓮正宗以外の仏法をどのように捉えていらっしゃいますか?また、創価学会と唯一同じベースである日蓮正宗を徹底的に批判していることについてはどのように思われますか?

    >幸せとは地位や名誉を取得するのではなく、どんな事があっても乗り越えていける強い自分になる事。

    そうですね。あなたが師とあおぐ池田氏はびっくりするほどたくさんの名誉教授とか勲章を集めて聖教新聞紙上で会員に向けて報じています。そしてそれらの称号はお金を出せばもらえるものばかりです。池田氏は学会員から集めた財務のお金をつかってそうした称号をもらっては新聞紙上に掲載させています。そのことについてはどのように思われますか?しかもお金では買えないような実質的な名誉教授や称号はほとんどもらったことはないようです。会員も師匠を見習ってお金で地位や名誉を得るべきだと思いますか?それとも師匠だけは別だと考えますか?池田氏以外の学会幹部が名誉教授とか勲章をもらわないのはなぜだと思いますか?

    いきなりの質問で驚かないでくださいね。ここは対話の場でありたいということは、最初から何度も掲げていますので、私の質問の意味も理解していただけるものと思います。よかったらアスランさん自身のお考えをきかせていただければと思います。
    どうかよろしくお願いします。

  7. 理屈多すぎてそこまで言うなら別に宗教ということにこだわらないで生きていけばいいだけのこと。あれこれいうのが仏法で言う愚痴三昧です。それは自分の運を消してしまいます。なんかやらせのような。今はサラリーマン風の姿でやくざな人もいるから文面から見ると身近にこういう人います。警察によるとやくざ予備軍でやくざと趣旨は同じです。

  8. 匿名さん、コメントありがとうございます。
    匿名さんは創価学会の方ですか?
    このブログがやらせだとしたら、そうとう綿密で手の込んだことですね。私はそんな暇人ではありませんよ(笑)
    私は宗教にこだわっているのではなく、創価学会の悪の実態にこだわっているのです。
    何度も言うように、創価学会は宗教を道具に使っているだけで、本来の宗教ではないということです。
    そのことを体験者どうしが対話を通じて確認できればというブログです。
    さらにその対話を通じて、創価学会の真実に気づいてくれる学会員の方がひとりでもいらっしゃればというブログです。
    匿名さんのおっしゃる「運を消す」という発想こそ、創価の摺り込みだと思いますがいかがでしょうか。
    功徳欲しさに信仰にすがりつく多くの学会員の発想です。
    もし匿名さんが、ここで本気で対話をする気があるのであれば、
    ちゃんとした日本語でそれなりのコメントをお願いします。
    単なる推測だけの非難や断定であればコメントはご遠慮ください。
    よろしくお願いします。

  9. 功徳について……

    うちの地区婦人部長が来てこう言いました。
    「モニカちゃんは、今までたくさん功徳もらったじゃない!それは忘れちゃったの?その時の感謝よ。それがあるかどうか、もうなくなっちゃったのかどうか、それが聞きたいわ!」
    ものすごく優しくて、何があっても駆けつけてくれた優しい婦人部長です。いつもニコニコしていて声を荒げることなど見たこともない人が、叫ぶようにそう詰めよりました。
    「私はね、生きるか死ぬかの体験したのよ。学会がなかったら今生きていたかわからない。だから、どんなことがあってもその恩は返そうって決めたのよ…」

    私は、信仰によって、何かよいことなり救われたことがあった時、これが功徳だと感謝すること自体は、すばらしいと思います。恩に報いようと感じる精神も尊敬ます。これこそが信仰の意義だとも思います。何かにつけて感謝できるなんて最高の生き方ですよ。

    ただ、その「何かよいことがあったこと」が、「信仰の功徳によるものである」とイコールでつなげるものは、本人の確信でしかない。
    教科書に載るような法則ではないし、因果関係を明確に証明できるものではない。あくまでも、本人が信じることです。
    それは自由だけれど、これを他人に強要するのは違うと思います。

    ご本尊様からの功徳なのに忘れちゃったの?
    功徳もらったのに感謝は忘れたの?

    この結果はこの信仰からの功徳である…とういうことが、私が〇〇さんから昨日リンゴを頂きました、というような立証される事実であるように話す。強要する。自分とは心が別の他人に対しても。

    こういう教え方を見ても、創価の本質が見えてきますね…

  10. 私も以前から産業になっていると思ってました。

  11. 私は学会2世で、子供の頃から池田先生を尊敬してきました。先生からのスピードを励ましを力にしてきました。
    しかし、学会の常識のない行動も同時に感じていました。財務と選挙の闘いのときしか、幹部も来ません。(私も女子部部長経験者ですが)
    日蓮の仏法事態が正邪を厳しく解いているので、仏の生命を根本とすること(生命の根本、宇宙の法則に従う事)、その法則に逆らうと、罰をうける。いわゆるバチ論があります。
    学会の教え事態が日蓮のバチ論なのです。
    日夜朝夕に、怠らず磨くべき。とか、魔便りをうべし。とか、油断すると自身を魔が食い潰す。というような教えです。
    この世には修行しにきているようなそんな教えなので、自分の業が不幸の原因だとか、罪人のような意識が生まれてしまいます。
    日蓮の教え事態苦しいのです。でも、題目で生命力が沸き上がることも否定できない。
    私は学会活動から数年離れています。約束せしことを(信心を貫き通すこと)いざというとき忘れるな。とか、御書の一説が浮かんだり、亡くなる時に全てが出るという、臨終の相がやはり、信心をしてる人は違うのです。
    この信心は難心難懈なのでしょうね。
    今、自分がどうしたらいいのか迷っています。

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