こういってはなんですが、私は確たる理由で創価学会はインチキ新興宗教だと思います

仕事が忙しくて、二週連続の連休ももんな仕事だったので、このブログの更新もできないでいたら、たくさんの方からコメントをいただいていて、もういいかげん更新しなければと思い、キーボードをたたいています。

崖っぷちさんの勇気ある行動に触発されてか、第二第三の崖っぷちさんが登場されています。きっともう少しで脱会に踏み切ろうとされている方はたくさんいらっしゃるんだろうなあと思います。特に入信動機がないまま、あたりまえのように信仰を強要され、親が喜んでくれるからという理由で、ほんとうは納得いかないことにも目を閉じて、自分にウソをつきながら親子関係を維持してこられた二世三世の方たちのお気持ちはよくわかります。そして学会から抜け出ることへの得体の知れない共感というのもよくわかります。しかし、そこでもう一歩勇気を出して、いったん外の世界に触れることができれば、自分はなんてつまらないことにこだわって、自分自身を縛り上げていたのだろうと、ほんとうにバカバカしいほどにあっけらかんとした現実が見えてきます。「なんだ、これでいいんだ」と気づきます。そして心を開いて話すことのできる家族や友人への感謝の気持ちでいっぱいになります。あんなに異常なことを言ってきた自分を許してきてくれた家族や友人の心の広さに、ほんとうに申し訳ないと思います。自分が正しい、学会が正しいと言ってきた自分がほんとうに滑稽に見えます。情けないです。本当のことは何も知らされずに、組織の利益のために騙され続けている多くの学会員が今でもたくさんいらっしゃることに、ますます何かできることはないものかと思います。でも、ここで何度も言うように、本人が気づかなければ、まわりがどんなに理路整然と説明し、学会の決定的な矛盾をいくら並べてもダメなのです。新興宗教の多くはそのような構造になっているようです。私はいくつかの新興宗教のトップの方と会う機会がありましたが、学会と規模こそ違えど、ほぼおなじようなものでした。そんなときにも学会だけは違う、学会こそが本物の宗教だと思い込んでいました。今思えば五十歩百歩だったんです。いや、学会以外の新興宗教の方は、そこまで悪質ではありません。しかしどのみち宗教性はゼロです。宗教ではない宗教だからこそ新興宗教という枠組みがあるのでしょう。天候を変えたり、けがを瞬時に治してみせたり、前世の因縁で脅してみたり、書籍や記念の品を買わせたり、研修会と称して多額の寄付金を募ったりと、みんな驚くほど似たり寄ったりのものでした。そんなものをいくつも知っていながら、どうして創価学会がインチキ新興宗教だということに気がつかなかったのか、ほんとうに悔しいですね。二世三世は疑う回路をつくらせないまま育てられます。小さいころからお題目をあげると親が喜んでくれました。親が喜んでくれる姿を見て、さらに信仰にはげもうと思ってしまいます。今も親を恨んではいませんが、もし親が創価学会ではなかったら、自分の人生もずいぶん違ったものになっていたのではないかと正直考えてしまいます。親もよかれとおもってやった信仰ですが、まんまと騙され、たいへんな額のお金を吸い取られてしまいました。兄夫婦もいまだに毎年3桁を実践しています。夫婦別々に毎年3桁ですから、もし兄夫婦が創価の実態を知ったらたいへんなことになるでしょう。でも兄弟といえども、何を言っても聞く耳をもちません。兄夫婦も70歳に手が届くところまできましたから、いまさら知ったところで人生のやり直しができるとも思えません。そしてこれまで財務につぎ込んできた数千万円が戻ってくるわけもないのですから、むしろ両親と同じように何も知らないままのほうが幸せなのかもしれません。とても複雑な気持ちです。

こういってはなんですが、私は確たる理由で創価学会はインチキ新興宗教だと思います」への31件のフィードバック

  1. 今日は夜中に目が覚めてしまい、こんな時間にコメントさせていただきます。
    いつも、対話の場所を提供してくださり、感謝いたします。

    他の新興宗教も同じで、、、という話題になったので、これまた最近の話なのですが。
    ある友人とお茶をする機会があったので、「私学会辞めたから、暇なんだよね~いろんなことに興味が涌いて、資格取るために勉強初めたんだ。」と何気に話したら「えーー、すごいすごい、辞めれるんだね~」と言われ、「実は。。。」と、とある新興宗教の勧誘が親戚から激しくて困ってるという話をカミングアウト?してくれました。

    かれこれもう10年ほど勧誘されてるらしい。
    その友人はもともと他の事にも頑固で、自分の価値観にがちがちに凝り固まってるタイプなんで、その宗教について微塵も受け入れるつもりがないそうなのですが、どのように話をしても相手に全然伝わらないらしいです。それどころか最近は遠慮が無くなってきて耐えがたいと。
    その、対話にならないっていう様子が、創価と同じすぎて、大笑いしちゃいました。

    でも、笑ってばかりもいられないのが、そのことで将来離婚になるかもしれないという(他人様のことなのであまり詳しく書けませんが)深刻な状態でした。そのくらい悩んでいるというか。

    新興宗教ってほんとどこも外部の人間からすると、害しかない。迷惑なんていう甘っちょろいもんじゃないんだなって、友人の話を聞いて怖くなりました。
    彼女は私に何度も「辞められたあなたは凄い、本当にすごいと思う。勇気があるよね」と言っていました。宗教にはまっている親戚を見てると、入ったら最後抜けられないだろうと恐怖を感じるそうです。

    その新興宗教はまあ、メジャーですし、一般的にはそんなに害があるように感じない(むしろまともそうに見える)ですが、やはり内情は凄いみたいです。活動スタイルも、創価ほどハードじゃないんだけど、数少ない信仰活動が猛烈に強制であることに驚きました。子供の学校行事を休んででも絶対にやらねばならないことがあるんですって。創価はそこまで言いませんからね。まあでも全体的に見れば、活動自体は創価の方が断然大変だと思いましたね。

    話は変わって。うちの主人の話ですが、壮年だけの座談会行ってきたようです。笑えるのが、幹部に対してだけ連絡が間違っていて、違う会場に行かせてたとか(苦笑)壮年部~。わざとやろ。って思っちゃいました。主人が地区幹事に財務の申込み用紙を渡したら、「こんなのどうでもいい、やりたいなら直接地区婦に渡せ」と返されたとか。(主人はわざわざ地区婦に持って行く気にはならないのか、まだ家に用紙が放置されてます。。。このまま主人名義もやらなきゃいいって思ってます。)さらに、新聞啓蒙の目標があるのがおかしいと話題になってたそうで。
    婦人部がいないからみんな解放されて言いたい放題だったそうです。(私のことについては全く詮索されなかったらしい)でもそんな風に思っていても組織から出られない、帰属意識がそうさせるのか。責任感だけでやっているのか。苦しいだろうなあ。
    主人はそんな創価の内情を見聞きして面白がってるみたいです(汗)

  2. 崖っぷちさん、ご主人の組織の壮年部さんたち、プチ反旗を掲げているみたいで楽しそうですね!なんか微笑ましくて笑ってしまいますよ。。

    常々想うのですが、崖っぷちさんは、オープンハートですねっ。。
    だから、周りのお友だちも心を開いてくれるのですね。。
    言っている言葉に裏表がないのが分かるから。。
    崖っぷちさんのコメント、楽しみですよ。。

    わたしは過去に、ひとの話しは聞きたがるけれど、自分のことは言わない知り合いがいました。。
    結局、この人何を考えているのか分からない〜腹黒そう、と想ってしまい疎遠になった人がいます。。

    オープンハートの人は、裏表がないので気持ちいいです。。
    ご主人とも、これから話し合いを継続されて、お互いに良きパートナーとなっていかれたら素敵です。。

  3. 流れ星さん、ありがとうございます。
    オープンハート!とは初めて言われましたが、確かに最近開放的です。学会活動してたときは、人に話せないことばかりで、友人とも気を使って話してるって感じでした。
    活動を辞めてからは、人に内緒にするようなことがなくなったので、思いっきりオープンになれてます。そして学会辞めたと話した途端、友人もオープンになってくれることが多くて、学会員でいるといくら努力しても友情は深まらないのだと痛感しています。
    友情をつなぎたい友人には、これから少しずつ、学会活動辞めたことを話していこうと思っています。

    コメント、やたら書きすぎですよね、私。もうコメントはしばらく止めようと思っても、皆様のコメントを読んでいると、書きたいことが出てきてしまう(汗)でも、楽しみって思っていただけてるのなら嬉しいです。

  4. 流れ星さん、崖っぷちさん、コメントありがとうございます。
    崖っぷちさん、これからもどんどんコメントお願いします。崖っぷちさんのコメントは、創価を辞めたいと思っている方にとって、希望の灯りだと思います。リアルタイムで脱会とその後の気持ちを聞けるのは、まだ迷っている方にとっては、とてもありがたいと思います。私も脱会を表明した友人が「これからは気をつかわないでものが言えるよ。本当によかった」と言ってくれています。自分が知らないところで友人にも気をつかわせていたんだということがはじめてわかりました。脱会してからは、私も人間関係がとても透明になったように思います。もっとはやく気づけていればとつくづく思いますね。

  5. 私はここのタイトルにあえて「インチキ新興宗教」と書きました。ひとによっては「他人の信仰をインチキよばわりするなんてどういうことだ」と思われる方がいらっしゃると思います。それをわかっていてあえて書きました。もし創価学会がほんとうに宗教であるならば、そうした批判もありでしょうが、私は50年以上も創価学会の中にいての結論がこれなのです。一般の学会員は正しい宗教だと思わされている。思わされているだけで、ほんとうは宗教ではなく会員からお金をすいあげるためのインチキでしかないというのが私が気づいたことであり、もちろん私だけではなくて、多くの元学会員が気づいていることです。学会とまったく関係のない人にとっては、学会が宗教だろうとなかろうとどうでもいいのでしょうが、たとえば私の場合は両親が完全に学会に利用されて、決して裕福な家庭ではないにもかかわらず、じゅうぶんに家一軒が建つほどの財務をしてきました。そんなお金の使いみちも公表せず、中枢幹部だけがたいへんな収入を得ている実態があるにもかかわらず、学会員は何一つ文句も言えずに「世界平和のため」だとか「人間革命のため」だとか言われてごまかされてきたのです。兄夫婦も同じように、普通の家庭から考えれば、とんでもない額の財務をしてきました。おそらく死ぬまでするでしょう。それがどんなことに使われてきたのかを知らないほうが兄夫婦は幸せなのかもしれません。もちろんお金の問題だけではありません。多くの学会員の人生まるごといいように使われています。一般の人から見れば、どうしてそんなインチキ集団に騙され続けるのか不思議だと思います。私もどうして50年以上も騙され続けてきたのかわかりません。それほど宗教に関して人は騙されやすいのだとも思います。これがビジネスなら最初からうたがってかかりますが、ほんとうにそれを信じている人がまわりにたくさんいるとしたら、そしてある意味同じ崇高な目的を掲げる仲間がいるとしたら、それを疑うことに罪悪感さえ抱くのが普通でしょう。そんな人の善良な気持ちを巧妙にあやつってお金と権力をほしいままにしているのが創価学会の中枢なのです。創価学会はほんのわずかな中枢の人間のためだけに存在します。あとはみんな犠牲者です。ですから、そんな犠牲者を一人でも少なくしたい。私のような後悔をしてほしくないという思いで「創価学会はインチキ新興宗教だ」ということをあえて書いています。

  6. 創価学会では不退の精神をことある毎に叩き込まれていますよね。また、師弟不二の精神も。。
    だから、師匠がこんなときこそ弟子は頑張るのだ、と思っている学会員は少なからずいると思います。
    また、組織という集団にいるだけで己の心にふとよぎる不信の気持ちも打ち消すのは簡単ですから。。
    脱会者は、所謂退転者、気の毒な人という括りで終わらせているのでしょう。
    わたしの身近な学会員を見て、そう想像します。。
    群れているうちは安心なのでしょうか。。

  7. 初めまして。わたしは昨年創価学会を退会した元婦人部のものです。
    学会三世として生まれ、生後まもなく入会してより半世紀もの間、広宣流布のためお金も労力も時間もすべて捧げ(た…つもりです )、ただクソ真面目に信心をしてきました。その間、みなさんと同じように幹部とぶつかったり、組織や教義に対して疑問に思うことは多々ありましたが、結局は「自分が変われば…」とか「先 生とご本尊が分かってくれればいい」と言い聞かせやってきま した。
    退会へのきっかけは、一昨年の3月11日の震災以来《常識や価値観》という、自分が生きてきて“分かったつもり” のこれまでのことを、もう一度洗いざらい勉強しなそうと思い、いろんな分野の本を読んだり調べたりしたことです。やっていくうちフッと気付いたら、《宗教》というものを随分に醒めた眼で観ている自分がおり、 同時にこれまでとは全く違う価値観ができてあがり、ああこれは自分にと ってもう必要がないモノなんだと理解納得してしまいました。…まぁそんなことになって一番驚いたのは当の本人だったのですが…(苦笑)。
    その後数週間、ありとあらゆる学会関係の書物や書類その他を、綺麗 サッパリ整理処分しました。(ちなみに数えてみたら…、本だ けでザッと400冊ちかくあり、財務と広布基金は領収書だけで 一千万以上ありました…苦笑)。
    でも不思議なことに、騙されたとか…創価学会の方を非難する気持ちや責める気持ちが、みなさんのようには湧いてこなかったんです。…なんでしょうかね? まあ自分のこととして、「馬鹿で無知で勘違いも甚だし いショウモナイ奴だったんだなぁ!」としみじみ思い、これま でのことを振り返ると、間違いばかりで心が痛く、特に子ども たちに対しては申し訳なくて…、後悔してもしきれない…謝っても謝りきれない…身悶えすることばかりですが。
    長くなってしまいましたが、今は以前よりも様々なことに対して、感謝の気持ちが自然に湧いてくるようになりましたし、ゆっくり丁寧に《身の丈》で生きようと思えるようにもなりました。それと意味のない 不安や競争心もなくなりましたね。

  8. グレーさん、

    私ととても似た状況なので、ついコメントしたくなりました。
    私も震災後に、家の中のあちこちに散乱していた新聞、書籍、仏壇を順番に処分していったら、
    心がすっきりして、今は毎日新しい気づきや学びに喜んでいる日々です。
    きっと、多くの人が同じように覚醒されているのでしょうね。

    私の場合は、それまで「創価に入っていれば大丈夫、学会があるから日本は安泰」とか
    今考えるとどうしようもないほど、偏った価値観をもっていました。
    近所の学会の人たちもみんな良い人だったし、疑うこともなくすくすく育ってたと思って
    ましたが、覚醒後に心に耳を傾ければ、実は子供の時から理不尽に感じていたこととか
    たくさんあることに気づきました。

    お子さんのことをご心配な気持ちがあるとのことですが、グレーさんのように覚醒された
    お母様がいらっしゃるってことは、すばらしいなっと思います。
    間違えたままより、間違えに気づいて反省している方が、子供の立場だったら嬉しいものです。

    私の母にも、覚醒して欲しいです。

  9. シニフィエさん、皆さん、

    いくつか質問があるのですが、創価の信仰をやめてから、以前のように
    御本尊に向かって祈っていた事項などはどうされていますか?
    今はだいぶ題目が自然にでることはなくなったのですが、以前は朝晩の中で
    自分の祈りを題目と共に唱えていたのが、組織を離れてから心からの祈りが
    出て来たとき、どう『祈って』良いのかわからなくなっていました。
    今では、そのまま「子供が元気で一日を過ごせるように」とか直接的に心で
    唱えるようにしています。

    もう一つ、まだ事ある毎に御書の一節やら、指導で学んだことが自分の一部に
    なっていて「は〜、創価のMC、まだここにあり」と思うことが多々あります。
    活動家でいらっしゃった方が多いかと思いますので、教学がある方は、
    もっとそんな日々なのではないかと思いますがいかがですか?
    前は、それが創価由来なのがいやだったのですが、様々な書籍を読んだら、
    結局、どこも同じようなことを言っているので、私は単に創価翻訳機を通した
    ものを勉強していたのだと、生活に支障がなければそのまま流しています。

    最後に、創価がおかしいと思い始めてから確信にいたるまで、どのような
    ソースを参考にされていましたか?
    私は、インターネットが主で、自分の心で問答を続けていましたが、
    日本に住んでいたら、参考になる書籍も多く読めていたかと思います。
    いずれ日本の家族が覚醒したときに、薦められる書籍がありましたら、
    ぜひ教えて下さい。

    ありがとうございます!

  10. 創価学会をよく知らない普通の人に「学会のインチキぶり」を話すと、「人の信仰してるのを非難するのはどうかしら」と逆に反論されることがあります。

    かつて学会は、こういう普通に生きてる人のことを「根無し草の人生を送ってる」「価値のない人生を送ってる」だのボロカスに批判してきたことも知らずに、インチキ宗教を擁護する人を見ると「無知は愚か」だと思うものです。
    学会とは、そもそも他宗教には寛容ではありません。
    不幸の原因はすべて邪宗にある!とことごとく他宗教攻撃してきた過去の反省もなし。

    私は学会の古い書籍を集めるようになりました。
    特に昭和40年より前の学会の書籍は、貴重だと思ってます。その内容のあまりの過激さ異常さ。
    後世に残すべきものでしょう。

    それから、小樽問答がよく「人間革命」で武勇伝のように書かれてますが、この時の録音CDをたまたま持ってます。
    口汚く日蓮宗を罵る学会側。
    これもそのうちYoutubeでアップしようかと思います。

    こんな調子の良い典型的インチキ教団が、自民にしがみついて政権で威張っている。
    本当に世も末です。
    (でも、そんな公明党を支援した過去の自分の責任でもあります・・・)

  11. 退会された方でも
    ほとんどの方は学会員を責める気持ちは、お持ちにならないのではないでしょうか、だって会員は被害者なんですからね
    むしろ、とにかく騙されてることに早く気づいて欲しい思いのほうが強いのではないでしょうか
    昨日久しぶりにジュンク堂を覗きました
    このシニフェイさんの書き込みも今のところ女性の方の書き込みが、がんばっておられますが、また一冊ごく最近出版された
    元学会員の女性ばかりの告発本を見つけました

    さようなら、私の池田大作

    ジュンク堂は座って読める場所も多くあり、ゆっくり最後まで読破してきました
    いろんな元役職の方が池田の人間性について語っています。
    その中で池田を引責辞任に追い込んだ本幹の問題発言を命がけで録音された方が実名で、当時のことを
    また側近通訳の方が、実名で女性問題などを告発されてますね

    学会の本質を知るということは、ほかでもない池田大作その人となりを知ることに尽きるのです
    馬鹿らしくて、あほらしくて、何故こんな人間を人生の師匠だなんて・・・・・
    後悔先に立たずですね!
    声を大にして叫びたい!一度きりの青春、そして人生、ほんとに返してほしいわ!

  12. 私にもグレーさんのように感謝の気持が自然と湧いてくる日が来るのだろうかと思います。
    ゆっくり丁寧に(身の丈)で生きる。という言葉に涙が溢れました。
    私は今心療内科で治療中ですが、薬を飲んでいても頭の中は学会と母に対して怒りの気持で一杯で毎日疲れ果てています。
    誰かのせいにしている間は前に進めないだろうなと思います。50才になって、がんじがらめの人生をやり直しをしていくのは
    並大抵ではないと思いますが、少しづつ前へ進んで行きたいと思っています。

  13. ヨーさんへ
    >心からの祈りが出て来たとき、どう『祈って』良いのかわからなくなっていました。

    おそらく脱会された方の大多数がぶつかる壁かもしれませんね。
    私も、同様でした。
    そしてすぐに気がつきました。
    今までは、悩みや願いがあれば「仏壇の前に座る」と言う単純な思考だったのです。
    それは、楽なようで、実は自分自身の「考える能力」や「思索」から逃げることだと気がつきました。

    人間は、何にもすがるものがなくなった時にこそ、自分の力が伸びるのだと思います。
    これは、創価学会員ではない普通の人達が、当たり前のようにやってること。

    つまり、ばりばりの学会員だった人は、普通の人がごく当たり前にやってることを、本当に1から学ばねばならないということです。

  14. そうですね。創価学会の活動をするということは、自分で考えなくなるということですよね。「財務でも、新聞啓蒙でも、選挙でも、余計なことは考えなくていいから言われたことを言われた通りにすれば功徳がいやでもやってくるんだよ」なんて言ってました。会員をあたかも正しい信仰であるかのような教義によって思考停止にもっていく。日蓮正宗の教義はそれにもってこいだったのでしょう。「何も考えずにとにかくお題目よ!」と一心不乱に唱題に励む。問題に向き合わないことで何かしら楽になったような気がするとともに、何万遍、何百万遍も唱題することでわけのわからない達成感を得る。オウムの空中浮遊の修行をする信者と同じです。水中に何分潜っていられるかみたいな修行。そこで何かいいことがあったら功徳で、悪いことがあったら転重軽受だと喜ぶ。これで過去の罪障が消滅したのだなどと勝手に解釈するんですよね。べつになんでもないことに一喜一憂して、肝心の問題は何一つ解決しないんです。そして知らないうちに都合の悪いことが目に入らなくなる。組織から言われたことだけをやるロボットになる。そうなることに快感を覚える。それが生き甲斐になる。学会員がどんな悲惨な死に方をしても、何も疑問に思わない。逆に他宗の人が不幸な目に遭っていると「それ見たことか」とむしろ喜んでいる学会員もいます。脱会した私の姉に「どうせロクな死に方はしない」と平然と言ってのけた強信な義姉(婦人部長)の言葉が今でも忘れられません。創価学会の幹部ともなると、そんな言葉を平気で言える「境涯」になるのでしょうね。なんとも恐ろしい「境涯」ですね(笑)。

    私はまだ、ちょっとした危機に面したとき、おもわずお題目が口から出そうになります。が、すんでのところで気がついて、そんな自分に苦笑したりします。「おいおい、まだクセが残ってるよ」って笑ってしまうんですけどね。それでときどき考えます。今の自分は誰に祈っているのだろうって。家族の幸せや健康を、いったい何に対して祈ればいいのだろう。愛するものへの誓いを誰にすればいいのだろう。神、仏、主、全能なるもの、超越したなにか、宇宙の法則…はたして人間にそうしたものを感じとる能力があるのかどうか…そんなことすらわからないまま日々を過ごしてきました。それは日蓮正宗の教義が正しいのだから、それ以上自分で考えることはないのだという思考停止。破門後は、日蓮正宗ではなくて池田氏に応えていくことが自分の使命なのだということだけで、何も考えずに活動に邁進することが正いことであり、成仏することだと植え付けられる。少しでも疑おうものならとたんに地獄に堕ちると自分で自分を脅している。その心の呪縛こそが創価学会の組織論です。みんな喜び勇んで全財産と労働力を組織に貢ぐ。そのためには会員を徹底的に思考停止にすること。考えてみれば、学会の教学など、いつも初歩的なものばかりで、とにかく何も考えずに組織に従っていけばいいということの理由づけでしかありませんでした。教学試験などバカみたいに簡単なものでした。幸い、私は個人的な興味で芸術を通して他の宗教や思想を自分なりに勉強したので、学会とは完全に切り離したところである程度の思想、哲学、宗教についての知識を得ることができました。だからこそこうして学会の間違いに気づいても、なんとか自暴自棄にならずにすんだのだと思っています。もう何かにすがるような自分ではありません。しかしこの世界がまったく偶発的にできた物理現象の結果だとも思っていません。人間の祈りという行動は、決して理由のないものではないと思っています。自分のこの世界における存在理由というのもきっとあるのだと信じています。それが何なのかは未だにわかりませんが、きっとわけあってこの世に生まれ、子どもに命をつないで死んでいくのだと思っています。これからほんとうの自分、ほんとうの世界ときちんと対峙しながら、自分の幸せ、家族の幸せ、それを支えてくれているまわりのすべての人や環境に感謝しながら生きていきたいと思っています。

    今の私は、あまり読書をするような時間がとれないのですが、ときどき昔読んだ本をひっぱりだして読み返しています。いま鞄の中に入れて、ちょっとした時間ができたときに少しづつ読みはじめたのが、玉城康四郎氏の「東西思想の根底にあるもの」です。玉城先生は亡くなってすでに14年になりますが、古今東西の思想哲学宗教を深く研究され、なおかつ私のようなものにでもわかりやすく解説された著書を多く残されています。学会を信じていたときに一度読んだはずですが、いま読み返してみると、水を得た魚のように内容が身体の中に入ってきます。あのころも、こんなにすごい本を読んでいるにもかかわらず、どうして内容が頭に入っていないのだろうと思いました。それはやはり創価の壁があったからだと思います。どんなにすばらしいことが書いてあっても、仏教においては「大聖人のことを書いていない」というだけで疑っていました。キリスト教に関しても同じように、どこか遠くのおとぎ話のように思えていました。何を読んでも壁をつくり、肝心なところで自分で自分を思考停止させていたのです。だからいろんなことは理屈ではわかっていても「でもそれは違う」みたいな思いが常にありました。ほんとうに愚かでした。こえから少しずつでも自分の思想哲学の支えとなるものに出会えるよう、本を読み、人と対話し、愛する家族とともに生きていきたいと思います。

  15. 本・・・といえば、まだ学会員だったころ、何気なくラジオで「遠藤周作」の「沈黙」のあらすじを聴いていた時のことを思い出します。

    「沈黙」
    キリシタン弾圧を背景にした書かれた小説で知っている方もいらっしゃるかと思いますが・・・
    信仰を選ぶか、棄教することで村人の命を救うか?!という究極の選択を迫られた主人公は、どうしたらよいのかを神に問います。
    しかし、神は沈黙したまま。
    彼は、そんな時、己の心の中の声を聞きます。
    彼は信仰よりも村人の命を救うことを選びます。

    この話をラジオで聴きながら大変なショックを覚えました。
    創価学会でしたら、命よりも大事なのが信仰です。
    熱原の三烈士という話なども小さい子供のことから聞かされ育った自分には、命よりも大事な信仰を捨てる宣教師の方が「人間として」素晴らしいことをしたことを描いた「沈黙」の前に、自分が敗北した気分になりました。

    ちなみに、熱原の三烈士は創価の漫画本で読みました。
    ここにいらっしゃる皆様も、学会の出してる漫画とか読まれたでしょうか。
    一般の人が読むと、抱腹絶倒の漫画が多数あります。でも、手に入れようとすると結構高価なんですよね。

  16. わたしは、創価学会への不信から脱会に至るまで、多くの外部の友人との交流を通して、創価学会の組織が如何に閉塞的なのかをまず実感しました。。

    創価学会の組織にありながら、創価学会以外に友人が多かったのも幸いしたのだと思います。。

    またわたしは、もともとスピリチュアル系だったみたいで、母が創価学会に入会した、わたしが小学生の時も。。この世には自分の努力だけでは解決できないような大いなる力があると想っていたので、母の入会と共に、まだ入信していなかったわたしも素直に南無妙法蓮華経を唱えたくらいです。。

    脱会した今も、日蓮はこのお題目を庶民に示したことは偉大だと思っているし、この南無妙法蓮華経の力はいまも信じる気持ちはあります。。
    (ただ、創価学会の人の唱えるお題目は、どこか違うと思いますが。。)

    でも、いまのわたしは、ピンチの時は、心の中で、この宇宙の大いなるものへ〜と祈りますね。。
    祈り、そのものは人間に与えられた崇高なものだと想いますから。。

    ただ、おおかたが取越し苦労で、自分自身を信じることに尽きるかな、といまは想っています。。

    みなさんも、何かあったときに。。
    大丈夫、大丈夫だよ。。
    と繰り返し心の中で言いきかせてください。。
    そしてまた、強く信じ切る。。
    大抵は、なんてことなかったとあとで分かります。。

    わたしが脱会に至る時、あるスピリチュアルな方とのネットを通じての交流がありました。。

    その方とのやり取りで、自分が抱いている”価値観”そのものが、如何に自分自身をがんじがらめにしているか理解しました。。

    そして、執着のその心が如何に自分自身を不幸せにしているかと理解しました。。

    そして、いま自分が心から喜べること、わくわくすること、心地よいと想えることを選択していけばいいのだ、と想うに至りました。

    創価学会の組織で納得がいかないこと、イヤだと思うことは素直に拒否していいのだと思います。
    自分の心に正直にわくわくすること心地よいと想えることを選択していけばいいのです。。

    脱会に際して、その手の本や雑誌を読んだことは今もなく。。
    脱会して、しばらくして、あるアンチブログに出会い、その時初めて、創価学会の闇の部分を多々知ったのが初めてでした。。

    そして、何故かそこに書き込みしている自分がいるわけで。。

    グレーさんの言われること実感があります。。
    わたしも息子たちに与えた影響は後悔してもしきれません。。
    でも、わたしの代で、それがカットできるわけですから、ヨシとします。。

    ヨーさんのお尋ねは、こんなことでよろしいでしょうか。。

  17. おはぎさん、熱原の三烈士の漫画本、私も持っていました。
    小学生の時に親からもらったかして、かなりの愛読書で何度も読んで涙しました。
    なので今でも鮮明に覚えています。
    正直消してしまいたい記憶です・・・涙

    命を賭して信仰を貫く。そういう人もいるでしょう。
    自らの信念で自らの命を犠牲にするのは100歩譲って他人がとやかく言うものではないかもしれませんが
    学会の場合、周囲の人も巻き込んでいくのがほんとにやっかいですね。

    命といえば、学園時代、先輩との対話で「池田先生が命を狙われて、例えば撃たれたときに自分はとっさに盾になれるか」
    というテーマで話し合った記憶があります。
    犠牲の対象が信仰そのものならまだしも、信者の一代表者に命を捧げるって・・・おそるべし「師弟不二」
    しかもそんなことを高校生が話し合うってとんでもない世界にいたなと痛感します。

  18. 質問にお答え頂きありがとうございます。

    コメントをした後に、『祈り』について質問した自分が、まだ依存してしまって
    いることに気づきました。『祈り』だとか『想念』だとか
    いろいろ言い方はあるかと思いますが、それは本来自由であるものなのですよね。
    それを義務的、形式的にしてしまったのが、一部の宗教なのかもしれませんね。

    おはぎさん、

    >今までは、悩みや願いがあれば「仏壇の前に座る」と言う単純な思考だったのです。

    それこそ、私が幼少時から母に言われていた解決策でした。
    何を相談しても、全て「御本尊にぶつけなさい」と言われ、親としての助言がありません。
    話もろくに聞きもせず、仏間に送られていました。
    そんな「考えない親」に育てられ、すっかり「考えない子供」になってました。

    >人間は、何にもすがるものがなくなった時にこそ、自分の力が伸びるのだと思います。

    創価を信じていた自分が間違っていた(敢えて、「創価が間違っていた」というより、
    「創価を信じていたことが間違いだった」と今は思います。)ことに
    気づいたとき、世間で信仰に頼ってない人たちは、なんて強いのだろうかと感心していました。

    「沈黙」の話で思い出したのですが、2年前の原発事故直後に、幼児がいる兄弟に
    一時だけでも避難するように電話をしたら、「子供よりも、先生を避難させなければ」
    と言われて「異常だ」と思ったのが間違えに気づくきっかけの一つでした。

    シニフィエさん、

    >家族の幸せや健康を、いったい何に対して祈ればいいのだろう。

    私はそれがあって、組織から離れられても御本尊から離れられませんでした。
    でも、それが既に『依存』だったのですね。

    >その心の呪縛こそが創価学会の組織論です。

    その通りですね。私の生活環境では、日常で創価学会に触れることがないため、
    だいぶ良くなったと思っていましたが、心の呪縛を解くにはしばらくかかりそうです。

    シニフィエさんのブログは思慮深く、それが明確で丁寧に描かれていて、頭の整理に
    とても役立っています。コメントされる方の言葉にも共感することばかりです。

    ご紹介頂いた書籍、探してぜひ参考にさせていただきます。

    ありがとうございました。

  19. ココアさんへ
    熱原の三烈士の愛読者でしたかー。仲間がいて嬉しいです。
    ちなみに、我が家の漫画はほとんどが創価関連でした。会合のついでに会館の書籍コーナーで親が買ってくるんです。
    「ばりばり君」「泣くな!ケン」「牧口先生」「仏法おじさん」「鮫と藤エ門」「四条金吾」・・・・・
    このうち「泣くな!ケン」「鮫と藤エ門」は最近になってアマゾンで買いました(笑)。
    消したい過去を、今は大いに笑い飛ばす過去にしている作業中です。

    池田先生を守る為に盾になれるかどうか・・・なんて、当事の私でしたら当たり前のように「盾になる」と答えたでしょう。

    ヨーさんへ
    「子供よりも、先生を避難させなければ」
    子供よりも先生・・・
    バリバリ学会員の親は、知らないうちにそんな思考を持つようになるのだと思います。
    うちの親も、小児麻痺でまともに歩けない子供を柱に縛り付けて学会活動してました。
    子供より学会でした。

  20. こんにちは。
    幾つかこちらの記事やみなさんのコメントを読ませて頂きました。
    こころの病いで通院されていらっしゃる方や、カウンセリングを受けていらっしゃる方がおられるようで…、老婆心ながら以下が参考になればと思い再度コメントさせて頂きます。よろしくお願いします。

    ●精神科医の泉谷閑示さんの本(図書館にあると思います)及びダイモンド・オンラインの泉谷さんの記事(検索すれば出てきます)

    わたしも経験しましたが、確たる宗教を持ち創価学会の教えのなかでこの病いと向き合うのはとてつもなく大変なことでしたね…(でもその分収穫も多かったです)。治りかけのときや治ってからも、様々な本を読んだりサイトを見たりと勉強もしてみましたが、わたしの場合はこの方の言わんとすることが一番納得できましたので。

  21. 祈りについて皆様いろんな意見があり、色々な方法をとられているのですね。
    私は題目が口について出ることが今のところなく、もしかしたらもともと信仰心は無かったのかな?とさえ感じています。
    日蓮の教えについては学会バージョンでしか知らないので、もっとほかの解釈があればそのうち勉強してもいいかなくらいには思っています。
    学会バージョンの日蓮さんの教えはちょっと実践できません。。。法華経についても、普通に佛教大学とかで教えられてるような内容を学ぶのもいいかなとたまに思いますが、今はその余裕もないし、気持ちもないですね。。。

    さて、カウンセリング終了しました。当初の目的、母子分離と宗教との決別は解決したとみなされました。私の気持ちも大きく変わり、依然より明るく楽しい毎日を送っています。
    価値観の転換と言う部分では、今は精神分析を勉強しています。新しい世界を学ぶことで、残っている創価の思想を排除して行こうと思っています。

    創価の思想でも、一般に通じるものもありますし、新聞もただの記事として読めば、良いこと書いてることもあるので、全部を否定する必要はないと思っています。でも、もうあの活動と、信仰のあり方はこりごりです。

  22. サラマンダラさんのお話された書籍は、側近だった方が書かれているようで、
    大半の学会員が知らないその実体を知る為に良さそうですね。
    ただ、(まだMC下ですね)まだ心の準備が出来ないのです。
    「恐い。知りたくない。擁護してしまうのではないか。創価に時間を費やしたくない。」
    そう思っているうちは、まだなのかも知れないですね。

    私は10代のバリ高等部時代に鬱病を発症して、20代前半まで抗鬱剤を服用してました。
    それ以降は、不定期でカウンセリングに通っていました。
    それが、2年前に初めて「創価」の悩みを口にして、それまでのほぼ全ての原因がここにあった
    ことに気づきました。それ以来、外部からの助言も批判もしばらく受け入れられず、
    カウンセリングもストップし、ただひたすら自分から調べ、自分で考える作業をしていました。
    こちらの図書館にも少し日本語の本があって、心理学、歴史、宇宙、食、環境、政治、宗教など、
    目に入った興味ある事の本を読みあさり、シニフィエさんのおっしゃってた「創価の壁」無しで
    読んだとき、いろんなことがもっと見えてきました。
    創価以外にも嘘がはびこっている世の中に、絶望的になりそうでしたが・・・。

    夏に数日日本に一時帰国したのですが、選挙期間だったために、バリ活家族に触れ、
    少し不安定になって戻ってきました。まだブレやすい自分を感じた旅行でした。

    流れ星 さん、

    友人に話せるって大きな一歩ですよね。私も、しばらく夫以外誰にも話せなかったのですが、
    友人に(ドキドキしながら)話せた時、相談にのってもらえて、思ったよりも軽く
    流せてもらえて、気楽になりました。
    私は心理学を勉強していたのですが、去年から精神世界に関する本も気兼ねなく読める
    ようになり、そのつながりを楽しんでいます。

    >自分が抱いている”価値観”そのものが、如何に自分自身をがんじがらめにしている

    そもそも自分の抱いている「価値観」さえも信用できてないのに、自身を束縛してしまう
    時があります。「自分を信じる」=「今の課題」です。

    「大丈夫だよ」って、安心できる言葉ですね。
    子供向けですが「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という本があるのです。
    それを息子に読み聞かせしてあげて、最後には私が泣いてしまう一冊なのですが、
    心がふと軽くなります。

    おはぎさん、

    うちも「ざくろの花」とか「明日に向かって打て」だとか、子供の頃、漫画読んでいました。
    あと、童話も(創価産)仏教ものがずっしりで、学校の読書感想文に持って行ってたりして
    今考えれば、恥ずかしくて仕方ない!

    グレーさん、

    ダイモンド・オンラインの泉谷さんの記事、これからゆっくり読ませて頂きます。

    私が今、読んでいるのは「神との対話」です。
    どうも、宗教色たっぷりのタイトルですが、さっと読むと面白いです。
    ひっかかるのが、あちこちにどこかの本幹や創価書籍で読んだようなフレーズが出て
    くるのですが、池田氏のスピーチや書籍は、おそらく本人が作ったものでは
    ないのでしょうね。有名大学でのスピーチなんかも棒読みで感情がこもってないなと
    感じてましたが、どなたかがいろんなソースをつなぎ合わせて、作っているのかも知れないですね。

    皆さん、ありがとうございます。また、少しずつ進めそうです。
    まだ、もうちょっとかかりそうですが、自分にゆとりを与えて、いずれは心から全てに感謝して
    気楽に生きて行けるように、呪縛が解けて行く工程も楽しんでいきます!

  23. わたし、思うのですけれど、創価学会では(あるいは法華講でも。。)この日連の法が唯一最高のものである、とか仏教の中で法華経が最高の教えであるとか、そもそもその洗脳を自身の心の呪縛から解き放さなければ、苦しいと思うし、どこまでも同じところを堂々巡りするような気がします。
    いちどすべてを空っぽにしてみることも大切かも。。

  24. 流れ星さんそうですね。この話になると、どうしても法華講の方たちのことにもふれることになりますので、なかなか難しいのですが、以前ここにも法華講の方がコメントされていて、なかなか話がかみ合わないことがありました。おそらく創価学会も法華講の方も「この日連の法が唯一最高のものである、とか仏教の中で法華経が最高の教えである」というところから離れられないからだと思います。私としては日蓮正宗についてどうのこうの言うつもりはなかったのですが、法華講の方のようなかなり偏った物言いをされると、「へえ〜法華講ってそういう人たちの集まりなんだ」と思わざるをえなくなりました。さらに創価学会を朝鮮系の反日勢力だと決めつけてヘイトスピーチを繰り返している方がいることにも驚きました。学会中枢部はともかく、全国の多くの学会員さんたちは何も知らずに活動をしているだけであって、自分がそんな反日勢力の片棒を担がされているなんて思ってもみないでしょうからね。法華講の方は創価学会の方を慈悲によって折伏していると断言されていますが、あれが信仰者の慈悲による行動なのかはとても疑問です。
    もともと日蓮正宗の方(創価学会とは関わりなく日蓮正宗の信徒である方)はともかく、昔は創価学会員であって、その後脱会して法華講に入られた方の多くは、破門前の学会は正しかったと言われます。つまり自分が活動をしていたころの学会は正しかったのだと。破門されてからおかしくなったのだと。そこで思ったんですが、そんな方は自分のそれまでの学会員としての人生を否定することができなくて、あくまで自分の信仰は正しかったのだと思いたいのではないでしょうか。だから自分が信じているのは途中でまちがった創価学会ではなくて、あくまで日蓮正宗だったのだと。自分は最初から間違っていないし、今も一貫して日蓮正宗の信徒として正しい信仰を貫いているのだという理屈なのかなと思ったんです。
    創価学会のまちがいに気づいて脱会する人は、ここにコメントされる多くの方のように、自分のこれまでの間違いを素直に認めて、精神的に不安定になりながらも、これからの人生に前向きに進もうとしていらっしゃいます。できるだけ宗教というものをニュートラルに、フェアに捉えようと努力していらっしゃいます。私もできるかぎりそうしようとしています。それとは対照的に学会を脱会すると同時に宗門に入る方は、それまでの人生を否定できないで、なんとかこれまでの自分の人生を正当化するために法華講員としての信仰をはじめ、学会員や宗門に入らない脱会者のことを悪くいいながら、自分たちこそが正しいのだと主張しているように思えます。そのあたりは創価学会員と立場は真逆でありながら、同じようなもののように思えるんです。だからあんなふうにいつまでも子どもの喧嘩と言われるようなことを続けているのだと思います。
    私は今でも日蓮正宗に関しては何とも思っていません。おそらくこれから関わることもないでしょう。でも元学会員で今は法華講の方のこうした言動にはなんだかなあという気はしています。あえて意地悪ないい方をすればご都合主義ですね。日蓮正宗は創価学会に利用された。これはまぎれもない事実です。かつてはものすごい数の信徒をかかえ、莫大なご供養が入り、全国にお寺を寄進され、あの正本堂まで建てたわけですし、そのときまでは宗門も学会を認めていたわけです。そういう意味では、学会の存在自体は宗門にも責任があるのではと思います。つまり法華講の方は、一方的に学会を攻撃する資格があるのかどうかということです。そして何も知らずに利用されている末端の学会員のことまで口汚く言う資格はないのではないでしょうか。しかもそれが慈悲だとまで言う。
    「人の不幸の原因は間違った宗教にある。そして日蓮が初めて唱える南無妙法蓮華経だけが人類を救うことのできる唯一の法だ」という教義が、世の中にまかりとおると考えるほうがおかしいし、それを今になって世情と合わないからという理由でトーンダウンすることもまたおかしいと思います。2500年もの昔、釈迦はインドの地で瞑想によって悟りを得ました。その後何百年も経ってから法華経がつくられました。日蓮は釈迦をさしおいて天台の教義をもとにその法華経を独自解釈をし、自分こそ末法万年にわたる唯一の正しい法を人類に残すことが自分の役割なのだと断言しました。日蓮正宗はその独断的な教義を一番継承している日蓮系の宗派と言っていいでしょう。ここで私が何度も言いましたように、日本の仏教界の中でもとても特異でマイノリティな宗派です。たまたま創価学会に利用されて大きくなったわけです。
    日蓮正宗が正統な仏教であるならば、インチキ教団創価学会と子どもの喧嘩をするのではなく、何を言われようと完全に無視して、本来の仏教としての立場を全うされるのがよいのではないかと思うのですがね。

  25. シニフィエさんの以下の発言に激しく同意させていただきます。

    >宗門に入らない脱会者のことを悪くいいながら、自分たちこそが正しいのだと主張しているように思えます。

    私からすれば、「祈りのかなわないことがない」という教え自体がカルトであると思っています。
    宗門は学会みたいな違法なことはしていないと思いますが、思想自体はカルトと言われても
    仕方がない部分を持っていると思います。そのことを指摘して、宗門を批判するつもりは全くないのですが
    学会をやめて宗門に入らない人のことを罵るのであれば、こちらも「あんたの宗教、カルトだよ」
    と言いたくなるでしょう。

  26. ヨーさんへ
    私の家にも「仏法説話」の童謡絵本がずら〜っと本棚に並んでました。
    どれも、尊い生き方のためには命を捨てとか、正しい教えを信じないとひどい目に遭うとか、そんな教訓の内容でしたよね。
    子供に読ませるべきものじゃないと、大人になってからつくづく思います。

    私がカウンセリングに通ったのは数回程度です。でも、特に心に残った言葉があります。
    「これからは、自分なりの理想の家族を実現させていきたいです」とカウンセラーの先生に私が話すと
    「理想を求めるとか、そういうのもやめてみてはどうだろうか。」と言われました。
    え?と思いました。
    つまり、そのまんまの自分でいいんだと言うのです。
    学会が長いと、「常に前進」「理想」「大勝利」「自分に勝つ」みたいな思考になって、自分を追いつめてしまうようです。
    生真面目すぎるヨーさんや私(?)のような人間は、なるべく「テキトー」に生きるくらいが丁度良いかもしれません。

    シンフィニさんへ
    日蓮正宗の教えも学会の教えも、日蓮の御書の偽書とか真偽未決のものを用いているので、学術的にも正しいわけじゃないです。
    それを知ったのは数年前ですが、本当にがっかりしました。

  27. 熱原の三烈士といえば、中等部時代に大石寺の夏期講習会で劇をしたような記憶があります。もっといえばお国のために命を捧げる神風特攻隊です。何も知らないこどもに命よりも大切なものがあるという価値観を植え付けていたんですね。恐ろしいですね。学生部の時も似たような劇をしました。その時は私が脚本を書き、私も悪者役人の役を演じました。思えば全国から集まった数千人の高校生の前で、よくそんなことができたものだと思います。
    話は変わりますが、私の父は大の映画ファンで、今生きていれば95歳ですが、70歳で突然亡くなりました。生前、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」をスクリーンで見て、あの中に出てくるモノリスを本気でご本尊だと思ったそうです。私は「そりゃ違うだろ」と子供心に思いましたが、とくに否定もしませんでしたけどね(笑)。

  28. たいせつなひとが、学会員(二世)であることに気がつきました。創価の実態は、噂やネットだけでなく、末端の会員家族の実情や書籍(批判本ではなく社会学、宗教学としての)にて情報を得てきました。30代の一般女性としては、日本社会の暗い部分のひとつととしてみつめてきたと思っています。
    そのひとの部屋で聖〇新聞を目にし、ふるえる手でそれを持ちました。「学会員なの?」と、声をふりしぼるようにだすと、そのひとはうなづきました。
    私が叫ぶように泣く理由を、理解できなかったようです。
    対話は無理なのだと、思いました。あのような集団で活動している、先生を尊敬し疑ってもいない、ある意味、無垢な笑顔で「人間主義、平和、個性の尊重」を口にするひと。
    生まれてから絶え間なく続けられた洗脳はとけない。私は今のうちに逃げなければ。もう離れるしか道はない。
    大切なものをすべて捨ててでも、共に歩きたいと、決めたばかりの出来事でした。こんなにすてきなひとなのに、なぜ創価なのか。そればかり考え、精神の安定を保つには薬の助けがいりました。

    苦しさを紛らわすために、改めて創価関連の情報を検索する中で、この「対話を求めて」に出会いました。
    右翼、対立宗派、単なるアンチ学会の汚い言葉は、まったく必要としていなかった。
    ここで皆さんのお話に触れる中で、少し心が軽くなるのを感じました。
    大切なひとを守れるか、洗脳から助け出せるのではないか……安直にそんなことを考えついたからではありません。
    私自身が、まだ「対話」というアプローチをまだ何もとっていないことに気づいたからです。

    内田樹さんの「コミュニケーション能力」についての記述を、胸に刻んでいます。
    「私は私の立場(=アンチ学会)をいったん離れる。ついてはあなたも、あなたの立場(=学会員)を離れてはくれないか」

    「学会について誤解があると思う。おこらないし、すべて答えられないかもしれないけど、何でもきいて。一緒に話していきたい」と、そのひとはいいます。先生の偉大さを、やわらかく語る口調に、「全否定」できる材料や創価の思想・活動の矛盾をはっきりぶつけたい思いに、ブレーキをかけながら、話をききます。そして、少しずつ私の見てきた創価や疑問を話しています。

    攻撃も、拒絶も、簡単かもしれません。別離の選択もあります。
    でもくやしかった。私の生き方や、その選択や、愛が、もはや宗教ともいいがたい集団や先生と呼ばれる人物に平伏すことになるようで。本心は、助けたいと思っています。それは簡単ではないし、そのひとのしあわせが、インチキ混じりの世界の中にあるならば、私はただのおせっかいなのかもしれません。
    それでも、私は真実をみつめていきたい。
    なぜ、多くの人々が簡単な矛盾に気づこうとしないのか。
    個人崇拝や各界著名人?の言葉を引用しまくる本、煽動的なだけの稚拙な文章の並んだ新聞(はじめてよんでます 笑。相手に求めるからには、私も知ろうとしなければ)……をありがたがり、一生寄付を続けて、べったりした笑顔の仮面をはって、「しあわせ」と口にする人々が増え続けるのは、なぜなのか。
    リテラシーを大事に、勉強しながら、ここでの議論をみつめさせていただければと思います。
    今回、感謝の気持ちでコメントをさせていただきました。

  29. ぱこさん、はじめまして。コメントありがとうございます。
    ある意味衝撃的でした。もしかしたら、いつかこのブログに、ぱこさんのような状況の方が現れても不思議ではないと思っていましたが、こんなにも早くその時期が来るとは思いませんでした。
    それはぱこさんのおっしゃる彼のことが、およそ30年前の私とよく似ているからです。なので思い切って私の30年前のことについてお話しします。私の話が参考になるかどうかははなはだ疑問です。もしかしたら聞かなきゃよかったと思われるかもしれません。でも世の中にはこんなこともあるんだという意味では、聞いてもらうほうがいいかもしれませんし、ほかにもこのような状況の方はいらっしゃると思います。また、私の場合は30年前のことですから、今となってはいろんな意味で違うのかもしれません。それでもいつかこの話はここに書こうと思っていましたので、ちょうどいい機会だと思います。そして私の今のうつ状態を乗り越えるために、通らなければならないことだと思っています。初めてコメントをくださったぱこさんにとっては驚きのレスだと思います。申し訳ありません。でもぱこさんのコメントを読んで、書かずにはおれませんでした。どうか30年前にあなたの彼によく似た状況のシニフィエというとんでもなくバカな男がいたということを知ってもらえればと思います。それは彼をこれからお話しする私のようなあわれな男にしないで欲しいという思いです。それほど二世の呪縛は生半可なものではありません。恐ろしいです。ぱこさん、勇気をもって愛する二世の彼と是非しかるべき対話を進めてください。そしてできれば彼を創価地獄から救い出してあげてください。私の場合は学会二世にありがちな悪い例として捉えてください。
    それで、私はしばらくこの話題を書くことにしますので、この先は何回かにわけて「私がうつになったわけ」という新しい項目で書くことにします。
    ぱこさん、この機会を与えていただいて感謝します。
    これからもよろしくお願いします。

  30. おはぎさん、

    私も自分のコメントを読み返して、まるで「決意発表」の様に終わってる文体に
    笑ってしまいました。
    文章だけで、本当「生真面目」って伝わってしまうのですね。
    「テキト〜」合い言葉にしようっと。

    グレーさん、

    ご紹介下さった記事、とても興味深く読んでいます。
    夫に「君は鬱状態だよ」と言われていましたが、これ読んで改めて
    「あぁ、まだ鬱だ〜」と思いました。

    崖っぷちさん、

    「カウンセリング終了」おめでとうございます!
    私は、以前カウンセリングへ行ってましたが、通い続けても良くならず、
    結局、途中でやめてしまうことが多かったのです。
    あの頃「御本尊は24時間対応カウンセラー」とアメリカ人幹部に言われ、
    鵜呑みにしていたので「何かあったら御本尊」でした。
    またちょうど行き直そうと思っていた所です。
    終了した人がいるというのは希望が持てます。

    シニフィエさん、

    キューブリックの「2001年宇宙の旅」の映画、私は見たことありませんが、
    その「御本尊と思った」という話を、子供の時に幹部指導でお話されている方が
    いたのを記憶しています。同じように思っていた方がいたのですね〜。

  31. こんにちは。
    僕も新興宗教に強い嫌悪感を抱く者です。新興宗教に本物はない、と断言できます。
    当初はホンモノであったキリスト教や仏教でさえ、時の流れとともに堕落していきました。
    本物は絶対に組織化できないと思います。本物は単独者でやっていくしかないのです(悟りも同じ)。
    新興宗教はどれもこれも教祖をトップとする組織なので、この時点でアウト。
    イエスもブッダも御自分がトップにたち、信仰を組織化しようなんて、毛頭お考えにならなかった。
    ホンモノとはこういうものです。インチキ宗教に限って群れたがる、組織を大きくしたがる。
    組織の規模が大きくなればなるほど、そのインチキ度も増すというものです。
    それにしても新興宗教の幹部、特に教祖の醜さよ!俗人以上に俗物です。少し頭がおかしくなければできないのでは
    とさえ思ってしまします。ハッキリ宗教はビジネスだ、と言ってしまえばかえって気持ちがいいものですが。
    営利目的の企業のほうが余程清潔感がある。「人類救済」だの「世界平和」だのと美名をかぶせて、
    自分たちを正当化し、自己欺瞞を強化する(人によっては本気で自分たちの方が精神的に優れている
    エリートだと思い込んでいる)。哀れです。そんな大それたことを本気で考えられる人なんて地球上にはめったに存在しません。
    彼らにそうした実感はありません。自分たちで自分をごまかしているだけです。
    大げさな言葉ほどウソくさいものはありません。事実、信者を見ていると「人類」どころか信者同士で喧嘩をしている、
    影口をきく、脚を引っ張り合う、貶める、他人と比較して自分の優越性を誇るなんてことも珍しくありません。
    内部は俗世間以上に醜悪です。偽物は必ず人を自分たちの方にひきずりこもうとします。悪魔と同じです。

    それにしても、脱会できてほんとうに良かったですね。親が熱心な信者で、幼い頃から無条件に「洗脳」
    されてしまう子供はほんとうに不幸だと思います。選択肢がなく強制なのですから。
    インチキ宗教は人生全体を破壊する威力を持つから恐ろしい....

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