信仰のありかたについて

前のページもあっという間に40件のコメントをいただきました。ほんとうにありがとうございます。このところ仕事が忙しいのと、体調(精神的なことが主ですが)に波があって、コメントをいただいてもなかなかお返事が出来ない状態でいます。申しわけありません。コメントされるみなさま同士で対話を続けていただけるとありがたいです。おかげさまでみなさんがとても意義のあるお話をしてくださるので、私がブログを更新しなくても一日に750〜1000ほどのアクセスがあります。以前と違って、根も葉もない中傷やいわゆる荒しがほとんどないのも嬉しいです。それだけコメントされるみなさんのお話にとても説得力のあるリアリティが感じとれるからだと思います。これからもこの調子でみなさんとの対話を進められていければと思います。よろしくお願いします。

どうやったら創価学会員は創価の間違いに気づくことができるんだろうかと、いつも頭のどこかで考えています。でもそう簡単に答えが出てくるものではありません。人が何かを信じるというのは、理屈ではありませんから、理屈で説得しようとしても土台無理な話でしょう。「自分はこのために存在し、生きている。また、この人がいるから幸せに向かって挑戦することができる」と思ってしまうと、なかなかそこから抜けきれないものなのでしょうね。そしてそのために自分の人生の多くのものを賭けてきたというのであれば、それが間違いだとうすうす感じることがあったとしても、そして目の前に否定しようのない事実を突きつけられたとしても、今までの人生を否定されるくらいなら、これまでの世界の中で生きていくほうがましだと思ってしまうのかもしれません。さらにこれまで生きてきた時間が、これから生きていくであろう時間よりも決定的に長いのであれば、いっそう目の前の厳しすぎる現実を認める勇気は出てこないかもしれません。それもよくわかります。私など、さんざん疑ったあげくに、学会の間違いを、そして自分の人生の間違いを認めるに至るまでに何年もかかったのですから。そして、やっとのことで認めることができた時には、心が半分折れてしまいました。それほど創価学会の間違いを認めることは大変なことなのだと思います。それは自分ひとりの問題ではなく、家族や友人やそのほかたくさんのまわりの人にも迷惑をかけたり、気まずい人間関係になってしまったりもするからです。

それでも、そんなふうになってもいいから、自分の人生の最後になってもいいから、本当の自分の人生として終らせたい。たとえわずかな時間であっても真実にまっすぐに向き合って人生を終らせたい。そして我が子にもそうした人生を選んでほしいと思います。私は創価の幹部の子どもとして生まれ育ったばっかりに、この歳になるまで創価の間違いを認めることができませんでした。私の両親は、よかれと思って私に教えたつもりでしょうが、結果として子どもが苦しむことをしてしまったことには変わりありません。日本において、信仰は個人の自由が憲法において認められています。つまり国家権力は個人の信仰を妨げないという意味です。創価学会は日蓮の教義を楯にして信仰の自由を親子だろうが友人だろうが妨げ否定し続けてきました。その目的が会員からお金と労働力を搾取するためだったのです。そういう意味では日蓮正宗は体よく騙されていたと言っていいと思います。この信仰でなければ幸せにはなれないという他者の信仰を徹底的に否定する日蓮正宗が、人々の心を閉ざし盲目的に信仰をさせるための道具として利用されました。客観的に見れば、誰でもすぐにわかることですが、いったん信じてしまうとなかなか客観視ができなくなるのが信仰の恐ろしさと言えるでしょう。

このところ仕事の関係で日本におけるキリスト教の歴史を調べるために、その関係の重要な方と多く接する機会がもてました。学会員時代に抱いていたキリスト教のイメージとはまったく違うことがわかりましたし、キリスト教の「神」の概念の奥深さや、信仰を貫く方の真摯な態度や深い精神性にとても感動しました。学会員はキリスト教のことなど何も知らずに「気持ち悪い」とか「外道」とか「二重人格」などと罵倒します。ただ単に上からそうとしか教えられていないからです。日本での厳しい禁教令のもと、司祭も誰一人いない生活のなかで、ひたすら神を信じて子孫に語り継ぎ殉教していった日本人キリシタンと、単に教えられただけで他人の信仰を罵倒することしかできない創価学会員とでは、比較になどなりません。

他人の信仰を罵倒することが慈悲であるのか、それが人として正しいことなのか、創価学会員には自分の頭と心でしっかり考えて欲しいと思います。

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信仰のありかたについて」への33件のフィードバック

  1. シンフェニさんへ
    体調がよろしくないのに新しい記事を書いてくださってありがとうございます。
    どうか無理をなさらないでくださいね。
    このブログのアクセス数の多さに驚いてます。もう少し誤字脱字のない読みやすいコメントを書かねばと反省しております。

    私も脱会後10年で落ち着きましたが、人生の一番いい時代を創価に捧げていたので数年間は虚無感に打ちのめされてました。あの苦しさは、普通の学会員では耐えられない、耐えた私は凄い!と、今ではちょっと誇りに思ってます。

    創価学会によるキリスト教批判は、今では知る人ぞ知るという状態かもしれませんね。
    宗教批判ものの本は今でも学会会館の書籍コーナーに置いてあるのでしょうか。
    かつては、書籍などでも「教会の多い広島・長崎」に原爆が落とされたことをあげてキリスト教の無力さを主張したり、キリスト教徒は二重人格だという偏見を指導したりしたものです。
    今は今、昔とは時代が違う!と学会員さんの多くが言い訳します。
    時代が違うと言っても宗教事情は何も変わってないです。
    まずは池田大作が、過去の謝罪をしなければ格好がつかないと思います。
    そもそも池田大作自身が「教義や本尊をころころ変えるのは宗教的誠実さに欠ける!」と否定していたのです。私も子供心に「そうだなよな、先生の言うことは正しい」と思いました。それなのに創価学会の変わり様ときたら・・・

    「他人の信仰を罵倒」では、日蓮正宗への罵倒は凄まじものがありますよね。
    私も学会のその流れに乗れなかったのが、そもそも脱会の始まりでした。
    どんな人にも尊い仏性がある!と信じ抜くことが大事と思ってたのに、敵対する宗門関係者の不幸を嘲笑するような指導や記事。
    あれで「学会はおかしい」と思うのが普通でしょうが、多くの学会員さんが流されてました。
    今は何を敵視した指導をされてるのかな。

  2. 体調の悪い中、このような場を提供し続けてくださること、感謝いたします。皆さんの対話とても勉強になり、励みになっています。

    キリスト教は二重人格とか、対話が平行線だとか私の若いころも言われていました。古い婦人部は今でも信じていると思います。
    学会員こそ、二重人格ですよね。本心と建前がまる反対ではないですか!
    学会が他を批判していることって、すべて学会に当てはまっているから、滑稽すぎです。精神分析でも、声高らかに言うことは往々にして反対だと教わりましたが、全くその通りです。
    私は幸せですと言いふらす人はそうでなく、大丈夫と言う場合は大抵大丈夫じゃない(笑)

    この土日、以前住んでいたところで仲良くなった友人に会いに行きました。学会の活動やめたことを話しました。
    聖教新聞について「ぶっちゃけどう思ってた?」と聞くと「悪いけど、きもいよね。」だって~(苦笑)
    「今だから言うけど、はっきり言って詐欺だし、学会の人って頭おかしいなって思う」と。
    そして私の事を「随分変わったね、選挙頼まれたことあったけど、あの時は公明党の事すごく褒めてたのに。」と言われ心が痛かったです。
    でも、「無宗教でいいんだよ、自由に好きなように生きていいの、時間もお金も家族や自分のために使うのが普通だよ。」とも言ってくれ活動を止めたことを喜んでくれました。そして「私みたいに適当人間だって、立派に生きてるわ~大丈夫よ~」と励ましてくれました。

    この友人と会って話をして、感じたのは、やはり世間の人は学会員は変だと思っているということ。聖教はキモイ新聞だと言うこと。また学会員は詐欺られて不憫だけど、同情でお付き合いしてくれているということ。
    学会員は外部の人を憐れんでる場合じゃない。結構な勢いで憐れまれてますよ!ってことです(汗)

    恥ずかしながらですが、私はその友人より5才も年上で、私が彼女に色々アドバイスをしていたような立場でした。でもそれって、今思うと、穴があれば入りたい!彼女は私の事を、(新興宗教に詐欺られて洗脳されてる、可哀そうな年上の世間知らずのお友達)と思いながらも、付き合ってくれてたのかな?と。
    彼女は私が活動家だった間はずっと「頑張ってるんだね、偉いよね。人がやらないことやって頭が下がるよ」なんて言ってた。でも、それはお世辞?というか半分嫌味?とりあえず本心ではなかったんだなと。彼女が学会理解者だと思っていたから、付き合っていたところもありましたが、色々自分の中で崩れていきました。途中泣きそうになってしまいました。

    この日の対話で彼女との関係がリセットされ、新しく生まれ変わった私で、また友情を結べたように感じました。子供同士も意気投合して喧嘩もせず仲良く遊んでいました。
    「遠いところ来てくれて本当にうれしかったよ。また電話してね。」と言ってお土産までくれて暖かく見送ってくれました。
    彼女に見送られながら、もう彼女に学会の話や選挙をお願いしなくて済むんだと、普通の友情を育めるのだと嬉しく思いました。
    覚醒して良かったです。

    だけど一方で、活動家時代に自分の言ってきたことの恥ずかしさにいたたまれない気持ちです。
    これから友人に会うたびに、こんな気持ちを味わうのかと思うと、非活になったことを話すのも結構疲れるもんだなと思いました。

  3. そうそう、それと友人が
    「生まれた時からずっと創価にいたんだから、影響が残ってもしょうがないし、別に無理に全部捨てきらなくてもいいと思うよ。」
    「例えば、フェイスブックとかさ、登録だけして全然やってない見てもいない人いるでしょ?あれと一緒でいいんだよ。登録しててもやってない人と、もともと登録してない人の違いなんてないでしょ?学会もそれでいい、そんな程度の組織だよ。無理しないで。」と。
    世間の人は本当に思いやりがあって優しい。人をほっとさせる言葉を知っていますね。とても気が楽になりました。

  4. ご友人の言葉、ひとつひとつに、私は深いおもいやりを感じました。
    名言めかした、飾り立てた、教訓じみた……そんな安っぽいものはいらない。
    そう感じました。
    「言葉」は、強固な「壁」を崩す、あるいはやわらかくする、ひとつの「やさしい武器」となりうるでしょうか。

    学会員のみなさんにとって、心動かされる「言葉」とは、組織から与えられるものだけですか?

    長崎県の外海という地区に、遠藤周作文学館があります。
    小さくてシンプルな建物です。よく知られている作品ですが、小説「沈黙」の舞台となった場所で、ひかえめな照明の館内には、かくれキリシタンにより歌い継がれた聖歌Gloriosa(訛って、ぐるりよざ、といいます)が静かに、厳かに、流れています。

    キリシタン迫害の時代の史実に基づいて書かれたこの小説には、布教のために命がけで渡ってきた司教ロドリゴ、ガルペ、その師であり、弾圧のためにすでに棄教したフェレイラと、密告をくりかえすキチジローという日本人が登場します。
    幕府に処刑される日本の信者に思わず駆け寄るガルペは命をおとし、ロドリゴは奇跡を祈りますが神は「沈黙」をとおすのみ。
    やがて、ロドリゴも捕らえられ、奉行所で師のフェレイラと再会します。過酷な拷問を繰り返される信者は、ロドリゴが棄教しない限り許されないこと、フェレイラが棄教した理由もそこにあったことを知らされます。
    自分の信仰を、布教という信念をつらぬくのか、苦しむ信者を救うのか……。
    ロドリゴは踏絵を受け入れます。
    「私は沈黙していたのではない。ともに苦しんでいたのだ」
    「この世に生まれ、お前達の痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」

    文学館の下には、言葉を失うほどの、うつくしい海、角力灘が広がっていて、思わず「なにか」に感謝をし「なにか」を祈りながら、目の前の世界をみつめます。
    地区の一角に、遠藤の碑文があります。
    「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

    創価の教義では、(私から見ると)背筋が凍るような「言葉」が、「平和」や「人間主義」と同じ紙面で平然と語られています。
    「日顕宗を破す」
    同じ日蓮を本仏とする教団を「邪教」としてつるしあげ、「仏を金儲けの道具にしている」「法主絶対論」「仏敵をせめずして、得道ありがたし」……
    あのー。さっき「日蓮仏法の目的は、万人の幸福です」って、書いてあったばかりなんですけど……、そして、そのまんま、それはあなたがたの映し鏡ではありませんか?……と、(私は)混乱します。
    これが「教学」の試験に出題されるのかぁと「驚愕」。
    以前、心地よくゆれる昼下がりの電車の中で見かけた、「大白蓮華」を一生懸命読んでいた若い人のことをおもいだしました。
    彼は、こういった日本語を読んで、救われるような気持ちになっていたのでしょうか、世界の平和や社会全体の幸福を願う気持ちになっていたのかな、そしてどんな「今」を過ごしているのか、と考えてしまいます。

  5. ぱこさんへ
    電車の中で、大白蓮華や聖教新聞を読んでいた元若い人の私です。
    学会にいた頃、一般の人の求める幸福は「相対的なもの」「一時的なもの」と教わりましたよね。
    創価学会にいれば、崇高な使命を抱き素晴らしい絶対的幸福を得られる!・・・な〜んて何度も指導されたものです。

    今もネットなどで、「普通の人は流された人生、我々は世界平和のために崇高な人生を送っている」なんて言う学会員を見かけます。
    本当に人類愛があれば、一般の人の人生を見下したりしないのではないかと今になって気づいた私です。

    それはそうと、あまりに激しいニッケン宗攻撃指導の賜物のおかげで、日常生活的に宗門批判をする学会員がいます。
    今も印象に残ってるのは、テレビの心霊番組で、とある廃墟にテレビカメラが入った時のこと。
    壁に書かれた落書きに「宗門ばかやろー」というのが映し出されてました。
    普通の人なら何のことやら?でしょうが、そんなことを書くのは創価学会員しかいない・・・。
    学会員ならではの罵倒ボキャブラリーも、世間一般にさらされると非常に痛いものになるのだなと思った1件でした。

  6. 遠藤周作の本は高校生の時にはまって、読みました。
    キリシタンが受けた拷問を思い、怖くなって眠れなくなった覚えがあります。私はこんな風にされても信仰を捨てずにいられるだろうか、信仰ってここまでして守らなければならないものなのだろうか?と
    色々な疑問や恐怖が襲ってきたのです。
    遠い過去の記憶で、内容がうっすらですが、人は信じすぎてしまえば、命も捧げることができるし、命を奪うこともできる動物なんだと、また、信仰のあり方は千差万別で、言い換えれば、どのようにでも表現できる。

    読み返すにも、なかなかドーンとくる内容だから、今は読めそうにないかも。。。

  7. わたしは、sinifieさんのように親が大幹部であったわけでもなく、母もB担くらいでしたし、父は創価学会が嫌いで信心をやっていなかったし、わたしの旦那も創価学会員ではなかったので、脱会も難なく、また、精神的なダメージも少なかったのかもしれません。
    つまり、純血な学会員ではなかったというか、外部の人との関わりも多く一般人の思考と大差なかったというか。。
    いまになると、そう思ったりします。。

    わたしの脱会への背中を押してくれた人は、感謝を持って終わらせるようにとアドバイスをくれました。
    また、つい最近もある方から、信仰をしてきたこと、何かに手を合わせる気持ちを持てたことは感謝すべき、というメッセージをいただきました。

    少しづつ、創価学会にいたことが過去になりつつあるなあ、という感じです。日常でも、学会員との接触は皆無なので、心煩わされることもありません。。
    きっと、組織に居続けたら、縁に触れる度に、心がモヤモヤしていたことでしょう。。

    創価学会で頑張ってきたことに後悔はありません。。その時の自分は輝いていたし。。
    ただもう、いまのわたしには創価学会はEND。。卒業したという感じです。

    でも、本当の卒業は、アンチBlogに書き込む気持ちすらなくなった時かなあ。。

  8. 一般の人の求める幸福は「相対的なもの」「一時的なもの」
    創価学会にいれば、崇高な使命を抱き素晴らしい絶対的幸福を得られる。

    おはぎさん、なんだかうれしいのです。
    気づいて、抜け出された方がいる。
    「おかしい」と気づかれた創価内の「生の」言葉を、ここに寄せてくださる。
    気づかれた後、ご苦労を越えて、対話してくださるその事実が、私にとって救いです。
    ありがとうございます。
    創価内でくりかえされているという言葉の数々も、文字にしてみると、少し客観的に見つめてくれる方もいるのではないでしょうか。
    整合性がないことも、慈悲がないことも。
    私もシニフィエさんのように、いつも、頭のどこかで、どうしたらひとりでも多くのひとが気づいてくれるのか、考えています。
    そのなかに、私の大切なひとも入ってくれたならどんなにいいかと思います。

    ごめんなさい。
    頭のどこか、ではありません。
    頭のどまんなかで、絶え間なく、考えています。
    私は、文学も美術も音楽も、映画や文化(大衆的なものも含め)も、覚醒への糸口となりうるのではないかと思えました。
    崖っぷちさんが、遠藤の世界に触れてこられたように、シニフィエさんの美術史の考察のように。
    創価の中だけで生きてきたとしても、そういった外の世界へつながるツールを持てたか否かは、大きな意味をもつように感じます。

    「普通の人」である私は、絶対的幸福の意味もよくわかりません。
    人の「生」は、どかんとした塊ではなくて、日々、もしくは一瞬一瞬の積み重なったものです。
    小さなカケラを大事に積み重ねたもの、あるいは積み重ねる過程そのものを、「しあわせ」と感じられたらいいな、と願います。

    そのために「普通の人」は、時間や労力やお金を、計画したり、節約したりしながら、自分と愛するひとのために使います。
    私には、信仰がありませんが、賛同や応援できるもの・団体のために使うこともあります。
    もちろん「身の丈に」あったほんの少しの金額です。あたりまえですが、使途不明なところには絶対にだしません。
    貧困は嫌いですが、「搾取」でなりたつ巨万の富を抱えた集団はもっと嫌いです。
    創価の身近な話を見聞きしていると、個人の時間やお金を「一時的」「崇高でないもの」と位置づけられているように感じることがあります。
    「崇高な」方には、卑しい思考ととらえられるのでしょうか。
    家賃を何ヶ月も滞納して借金しなくてはならない状況ができても、「なぜそのような状況になったかは重要でない。過去のことはしかたない。これからがんっていくことを考えるのみ」という言葉をききました。
    大人の男が口にするには、危険で幼なすぎる前向きさ。
    ローンがあっても、財務や新聞、書籍の購入にはお金をだす、よくない意味での寛容さ。
    現実をみたくないのでしょう。
    生きていくうえで大事な「お金」にまつわる「よくないこと」が、創価に起因するなんて、認められないから。
    小さなカケラを大切にする、現実的な技術、方法は、どうやら創価では教えてくれないようです。
    蓋をするかのように。
    そういう、個人的で、自由なしあわせのつくり方を、考えてもらっては困るからでしょうか。

    学会員にとって「現世利益」とは、なんなのか。
    考えています。

  9. 流れ星さんへ
    私も創価学会にいた頃は輝いてました。
    文化祭も2〜3度参加し、号泣しながら「いけだせんせーーーい!!」なんてやってました。
    思い出すたびに激しい後悔です。
    うちは両親は下っぱの幹部でしたが、夫婦そろってガチガチ。
    「お前たちは創価学会の看板を背負ってるんだ!」と母親に叱咤されながら育ったという最悪な家庭でしたよ・・。とほほ。
    私自身は卒業というのはないかと思います。日本は戦争で敗北しましたが、こんな宗教が蔓延したのはある意味第2の敗北だと思っています。間違いなく、後の日本史の教科書に載るものかと思います。
    いろいろな社会問題が存在する中、私たちはそのうちの一つ、創価学会問題に詳しい当事者になるかと思います。
    そこらの創価学会専門家より詳しいかも?!

    ぱこさんへ
    私こそ、同じような方がいらして感謝しています。
    本当に創価学会では、普通ではおかしいことを「おかしい」と言える人が少ないですよね。
    価値的な人生を教えるのですが、広宣流布のために使うお金は尊い。
    そうではないことに使うのはだめとか。
    家族はボロボロな服を着て、粗末な食事で我慢し、書籍や財務、学会活動の交通費には思う存分使う。
    私の兄弟たちは、そんな親をみて早々と学会はおかしいと気づきました。

    >学会員にとって「現世利益」とは、なんなのか。

    学会の信心に打ち込むのは「パチンコに通う」のと似てる気がします。
    ちょっと玉が出れば大喜び。
    一生懸命お金をつぎ込んで、いろいろ疑問に思うことが出てくるけれど、それでも出ると信じてがんばり続ける。
    宗教チキンレースとでも言いましょうか。

  10. 流れ星さんの言う、卒業という言葉、私の中にもあります。
    非活になる際に「もう、私には必要じゃなくなったんです」、と、幹部にも告げました。

    以前にも書きましたが、私の実家は父はアル中、母は仕事で家にいないという家庭で、アル中の父が暴れ暴言を吐き
    家の中はぐちゃぐちゃ、まさに地獄でした。
    カウンセラーさんの言われた、まさに「よく生きてこられました」って、本当にそうだと自分でも思います。
    命の危険を感じながらも、逃げる場所もなく仕方なく家におらざるを得ない子供時代。
    唯一の安全地帯だったのが、創価の庭でした。
    「創価の庭で育てば大丈夫」というのは、こうした悲惨な家庭の子どもには当てはまるかなと、(昔の話ですが)思います。
    昭和の時代は、ご近所さんとして、まだ思いやりを持ってお互いに助け合えた時代でした。
    ご飯を食べさせてもらったり、父が暴れてどうしようもない時は、婦人部長宅に避難させてもらったりしました。
    受験の時も毎日のように女子部のお姉さんが励ましてくれました。
    それが無ければ私は、家出をしていたか、父に殺されていたかもしれません。
    そのことについては当時の婦人部の方には感謝の思いでいっぱいでした。

    現在においては、このような助け合いさえ創価にはありません。
    逸脱した家庭環境については、関わらないというのがポリシー?みたいになってます。
    問題を抱えてる人は避け、裕福で不自由ない人を抱え込み、組織の歯車にするのが、今の学会のスタンスです。
    だから、創価って今は社会的に必要なくなったと思います。ただの宗教ビジネス部分だけしか残っていません。

    話は戻り
    錯乱した父をみて、婦人部のひとは「ご本尊を御不敬したから、頭が七つに割れたのよ、このお父さんを救えるのはあなたの信心しかない」と、何度も言いました。
    私は怖くて怖くて、言われるがまま、一生懸命信心をしました。

    でも、父は今も生きてはいますが、廃人です。母はたぶん精神分裂です(カウンセラーからの診断)。

    婦人部も壮年の人も一生懸命両親に関わってくれました。それは頭が下がる思いです。
    でも、それでも、父も母も微塵も変わりませんでした。それどころか精神はますます病んでしまいました。

    結局、親であっても別の人間・人生なのです。子や他人が干渉してどうこうなるものではなく、本人が気づき行動しないかぎり
    どうにもならないのです。

    アルコール依存症のため病院に通わせることになり、その時初めてカウンセラーとの出会いがあり、心理学の世界を知りました。
    心理学を自分なりに学ぶ中で、創価でやってきたことは全部問題を深くする共依存の行動であると気づきました。
    結婚する直前でした。
    それでも、創価の人間関係にしがみつき、創価を捨てれずに来ました。
    間違いだと気づいても、私も共依存者であるために、捨てることができなかったのです。自分を変えようと、さまざまな本を読み漁りました。

    現在は、ひょんなことから精神分析と出会い、自律の道をさぐっています。
    少しずつだけど、確実に人生が進んでる感じが毎日してます。生きてる実感があるのです。

    私、平原綾香さんが好きなのですが、彼女の歌に「今なら愛せる、どんな過去も」という歌詞があります。この歌を聞くたびに、いつかそうなりたいと涙がでます。
    みんないろんなことで傷ついていると思います。創価に限らず、震災などの災害で苦しむ方もおられると思います。でもそこにいつまでも留まっていられない、恨んでばかりでは生きていけない。
    少しでも明るい希望を持ちながら、未来を感じて生きていきたいです。

  11. みなさんのとても深いお話をいただき、感動しています。私も頑張らなければと勇気をいただきました。私の書き込みはともかく、みなさんのコメントの質の高さは感謝にするばかりです。今まで気づかないことや、思い至らなかった自分を多いに反省しています。ほんとうにありがとうございます。このブログを立ち上げてよかったなと心から思います。これからも素晴らしい対話が続くことを楽しみにしています。創価学会員であることに少しでも疑問をもたれている方のコメントもお待ちしています。

  12. 皆さんの感銘深いコメントに寄せるのは、ほんとに恐縮なのですが、
    キリスト教の話題に触れているようなので、
    少し私にも場を御借りしたく、御邪魔します。

    私は結婚を機に学会から離れ、今年20年を迎えました。
    主人の転勤について違う土地に住み、慣れないながらもなんとか生活してきました。
    上の子が公立高校の受験に不合格となり、英語を特に学びたいということで、
    私立のキリスト系の高校に進み、そこからこちらでは有名な女子大に進むことができました。
    英語を学ぶにあたって、キリスト文化は切り離しがたい環境であると思います。
    さわりとして、キリスト教義についての紹介も子どもを通して知る機会があり、
    それはそれで人生の闇を照らす有意義なもののように、率直に感じました。
    現代社会の女性にとって、特に等身大な語り口は、支えになると思います。

    高校のみならず大学までもキリスト系になったことについて、
    母は「またかねえ」と全く承知しかねるといった感じで、
    経済的には主人が全面的にバックアップしていることもあり、
    もう20年でもあり、これを機に距離をおいて関係を改めていきたい
    と考えさせられるものがありました。
    強烈な嵐が心の底からわき上がってきて、しんどい時もありますが、
    主人や子どもたちとの生活を支えに、無事卒業させてやりたいと思っています。

    皆さんの静かな力強いコメント
    大事に貴重に守る立場に立てたら、ありがたく思います。

  13. はじめまして。ハナ子と申します。
    学会2世で、50代の婦人部です。婦人部と言っても結婚したことがないので独身なんですが。

    このブログをつい最近知りました。まったく違うことを検索しているときに、本当に偶然見つけて驚きました。

    亡くなった両親は末端の信者でしたが、純粋に信仰していて、
    私も自分で言うのも何ですが、皆さんと同じように子供の頃から素直に疑うことなく信心してきました。
    そんな私も3年前から一度も会合に出ていません。財務も昨年から止めました。新聞はまだとっています。

    学会から遠ざかるようになったきっかけは、やはり新聞啓蒙と選挙です。どう考えても必死に数合わせをする姿は信仰者と思えません。新聞啓蒙と選挙のお願いをするために信仰しているんじゃないと強く思いました。

    会合に出なくなっても、私が会合に出なくなった理由を尋ねるわけでもなく、新聞啓蒙の目標数やFの目標数を聞いてくるのには閉口しました。明らかにおかしい。明らかに間違っているでしょう。
    まずは会合に出ない理由を聞くのが先では???

    そして、皆さん気づいていらっしゃらないと思いますが、一生を独身で過ごす者に対する指導は皆無です。
    娘として~、妻として~、母として~
    私はどれにも当てはまりません。一家和楽も関係ありません。
    婦人部の会合に出てもつらいだけです。

    実は今まで一度も新聞啓蒙したことないし、選挙も気が向いたときにしか頼みませんでした。
    おかげで友人とはずっと良好な関係を保てています。
    「新聞や選挙を頼んで離れていく人は真の友ではない」と言われましたがそんなバカな話はありますか。
    人間関係を大事にしなくて何を大事にするのでしょうか。

    でも退会する気持ちはありません。
    皆さんは結婚されてご自身の家庭をお持ちですが、私は両親も亡くなって独身でひとりぼっち。
    いざとなったら少年部時代から一緒に活動してきた同級生が頼りなんです。
    最後は学会を頼ることになると思います。

  14. 長くなって申し訳ありませんが、もう少し言わせてください。

    父が早くに亡くなり、母は純粋に一生懸命に信心に励みました。
    新聞配達も30年やって、晩年はいろんな賞をいただきました。
    最後は難病にかかって闘病生活が大変でしたが、ICUで自分が生きるか死ぬかっていうときに、隣のベッドの人に向かってお題目をあげていたんです。
    「祈りは必ず通じるから」って、知らない人の命を助けようとしていました。その姿を尊敬しています。立派に宿命転換して亡くなったと思っています。

    自分がいただいたご本尊や自分のお金で購入した書籍なら、何の躊躇もなく捨てることはできます。
    でも、純粋な信仰を貫いた母が大事に守ってきたご本尊(家にあるのは日達猊下のものです)や、貧しいながらも費用を捻出して購入してきた書籍は、母の思いがこもっていると思うと簡単に捨てることはできません。

    この文章を書きながら、今さらながらに気づきました。
    昔、先祖代々の仏壇を破壊させた学会の行動はいかに異常だったか。
    心情を無視して、先祖が大事にしてきたものを破壊するなんて、当時の人はどんなに辛かったでしょう。
    創価学会が危険視されたのも当然ですね。暴力組織と言われたのも当然です。

    こちらのコメント欄を読んで、法華講とも教義が違うことがわかりました。
    「日蓮大聖人の教義を守り、正しく実践しているのは創価学会だけ」なんてウソだったんですね。
    創価学会は宗教ではなかった。悲しくて辛い結論です。

  15. ハナ子さん、はじめまして。心のこもった貴重なお話をありがとうございます。
    こうしてお一人ずつ、それぞれの学会との関わりの中で真実に気づかれていくんですね。
    気づくことは喜ばしいけども、同時にとても辛いことでもあるし、たいへんな勇気の必要なことでもあると思います。
    人の幸せを心から祈ることのできる人は、学会のどんな幹部よりも尊い方だと思います。
    私は人間にとっての信仰とは何かをゼロから考え直さなくちゃいけないなと思っていますが、学会以外の人間関係や体験や知識は無駄ではないと思っています。学会の間違いに気づくことによって、他の宗教(本来の宗教といったほうが正しいでしょう)にかぶせていたおかしな色のフィルターが一気に取り除かれたので、多少とまどっているのだと思います。かといってどこかの宗教の信者になるつもりはありません。といって無宗教というわけでもありません。人間が推し量ることのできないこの宇宙の法則は確かにあるのだろうし、そのなかの一部として自分と言う存在があるのだと思います。この目の前にある物理的な時間でさえ相対的なものごとの有り様であると思えば、釈迦のいう一切の現象は無常であるというのもうなずけます。それを「タオ」と呼ぶのか」「神」と呼ぶのか「仏性」と呼ぶのか人間の英知は様々ですが、日々の生活の中で、そうしたものを感じながら、みんなが幸せになる道を模索していければと思っています。今後ともよろしくお願いします。

  16. ハナ子さん、初めまして。。流れ星と申します。。

    ハナ子さんとsinifieさんのコメントを読んでいて、何故か涙がぽろぽろとこぼれて止まらなくなりました。。
    ごめんなさい、いい迷惑ですよね。。見ず知らずのネットでの人が。。
    ほんとうにごめんなさい。。
    何故か泣けて仕方ないです。。

    ほんとうに純粋な方だなあって分かるから。。
    お母さま、素敵です。。。・゜・(ノД`)・゜・。

    涙が止まらない流れ星ですが、これは決して同情とかの涙ではありません!キッパリ。。( ̄^ ̄)ゞ

    ハナ子さん、少しづつ。。創価学会と自分とのケリを付けて行ってください。。少しづつ、ご自身の人生のために後ろを振り返ることなく。。

  17. 宝星さん、流れ星と申します。。
    わたしは、創価学会を脱会してから他の宗教のことは何も知らない、無知であると思い知りました。。

    それで、積極的に他の宗教を知ろうと想いました。。
    その中に、NHKEテレの日曜日の早朝の番組を録画して見るようになりました。
    何回かキリスト教の方が出られて、キリスト教の純粋な実践や生活など知る機会がありました。。

    わたしは、ご存知かどうか分かりませんが(娘さんに聞かれたら分かるかしら?)東北の青森、岩木山の麓で、森のイスキアという場所で、奉仕活動をされている。。佐藤初女さんが大好きで、心から尊敬しています。。

    昨年、念願叶って、森のイスキアを訪れ、マリアさまのような観音さまのような佐藤初女さんにもお逢いすることができました。。
    佐藤初女さんは、敬虔なキリスト教信者さんです。。
    彼女の本は図書館にも置いてありますが、まごころを込めた食を通して人を癒し元気にされてきた方なのですね。。

    ご自分の娘さんが、キリスト教の学校に行かれたことは、心から誇りに思っていいと思います。。
    創価大学より、どれだけマシかしれません。。
    お嬢さまが、素敵な女性になることをわたしは確信しますよ。。

    わたしは、身近なキリスト教信者さんを見て、そう思います。。

  18. ハナ子さんへ
    初めまして。脱会する必要はないと思います。
    学会によるデメリットは避けて、上手に利用することは悪いことではありません。
    学会にいながら、冷静な目で学会を見れる人の存在は大事です。
    それから古い書籍は資料的価値があると思います。私ですら、今になって40年代前後の学会の書籍を買い漁ってるくらいです。

    私の母も最後まで信じきっていれば良かったかなあと思います。
    最後の最後になって気がついてしまって・・。
    思い出すたびに辛いです。

    キリスト教の話題で思い出す事。
    「森が崎海岸」という学会歌の歌詞に「キリストの道われゆくと・・」というのがありますよね。
    中学の頃私が歌っていると、その歌を知らない母が
    「邪宗の歌なんか歌うな!!」と怒鳴ってきました。
    キリスト教アレルギーには参りました。
    ところが、宗門から破門された途端、ベートーヴェンの第九の歌を全国的に歌うようになりましたよね。
    あの曲も一応キリスト教関連なはずなのに。
    学会員の変わり身の早さはこの頃から顕著になった気がします。

  19. ハナ子さん、初めまして
    あなたのお話読んでいてなぜかしら胸の詰まる思いがしました
    頑なに、池田の指導を信じ、守り組織の中にはほんとに多くの独り身の方がいますよね、昔から男女青年部の結婚に対する指導は、いつもきまって結婚は焦らなくても晩婚でもよいという指導でしたね

     一生を独身で過ごすものに対する指導は皆無です

    今から思えば所詮は無責任なその場限りの幻想を抱かせるような指導だったんですよ

     やめる気持ちはありません・・・・・・・最後は学会に頼ることになると思います
    あなたのお立場を察すれば、おはぎさんの言われているように上手に利用すればよいような気もします
    これは先のコメントにも出ましたがまさしく学会が村としての役目を担うのでしょうね。悲しくてつらい結論が出たとしても頼らざるを得ない。難しいですね。本当に胸が詰まります
    学会にいながら、冷静な目で見ていくというのも退会される大方の人が考えるのですが相当強靭な精神力がいると思いますよ
    ハナ子さんと同じような立場におられる方のコメント欲しいですね

  20. signifieさんへ

    現実を受け入れるのは辛い作業です。
    昨日コメントを書き込んでから涙が止まりません。
    今でも創価学会のすべてが「悪」だったとは思えません。
    学会の「真実」「闇」については、正直どうでもいいです。
    ただ、やりたくない活動をやらなくても地獄に落ちることはないんだ、
    残りの人生は自分優先でいいのだとわかってほっとしています。
    こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。

    流れ星さんへ

    母のことを「素敵」と言ってくださってありがとうございます。
    ちょっと天然なところがあったので、きっと天国で小躍りして喜んでいると思います。
    はい、少しずつケリを付けていきたいと思います。
    本当に私たち他の宗教のことを何も知らされずにきてしまいましたね。
    そういえば、日蓮宗のことを「御本尊だけでなく、狐やへびやいろんなものを拝んでいるから頭がおかしくなる」って言ってました。
    よく考えたら日蓮の時代に現在の日蓮宗はないのだから、この話は学会のでっちあげ?
    母のような純真な人間に支えられてきた創価学会は、どうやってケリを付けてくれるのでしょうか。

    おはぎさんへ

    おはぎさんのお母さまは最後に気づいてしまわれたんですね。
    苦しかったでしょうね。
    どうかご自分を責めないでください。
    うちの母は何も知らずに亡くなって良かったです。
    知らないほうが幸せってことありますよね。

    「森ケ崎海岸」私も好きでしたよ~(苦笑)
    「星は光りて」とか。はぁ~(ため息)

    脱会する勇気はないので、おっしゃるとおり、上手に利用していきたいと思います。

  21. サラマンダラさんへ

    男子部とのお見合いの話は何回かあったのです。
    でも、仕事に夢中だったのと、母子家庭だから母ひとりを残してお嫁にはいけないと後回しにしているうちに、
    母が病気になって、私自身も病気になってしまって、結婚どころではなくなってしまいました。

    病気を治したいと10時間唱題しました。
    お題目の力で治ったと感謝していたんですが・・・
    幻想だったんでしょうか。

    母も死にかけてから驚異の回復をして、
    医者に「この状態から生還した人は見たことがない」と驚かれ、
    看護師さんたちには「看護のしがいがある」と言われました。

    お題目の力でなかったら何だったのでしょう。
    すみません、またわからなくなってきました。

  22. 流れ星さんへ
    ありがとうございます、目頭が熱くなってしまいました。
    私は自ら研鑽してキリスト教にふれたのではないので、ほんとつたない知識にすぎないのですが、
    公立高校に落ちてしまって、やっぱり英語をじっくり勉強したいと思ったとき、
    彼女の気持ちにどんなに支えになってくれたでしょう。
    人生の多感な時期に、宗教を含め色んな思想に触れるのは貴重なことと思います。
    いまの大学を無事卒業して、母と向き合える日がくればいいなと……
    いまは少し距離をおかないと、自分が保てない心境です。

    ハナ子さんへ
    私には、お母様の様子が目に浮かぶようです……
    私の母も、元々は自分の親に自分自身で供養できたらという気持ちで入信をしたと聞きました。
    会館で先生万歳と叫んだり、大掛かりな文化祭をするうちに見失ったものがあるのでは。
    そんなに形にこだわるものではなかったはずです。
    あたらしく家族に恵まれても、死んでいくときはみな孤独
    結婚していても、老いは逃れられなく辛いものですね。

    学会がいまの社会に即した無理のないあり方に変わっていけたら、ありがたく思います。

     

  23. 森が岬海岸私も好きでした。唯一歌うと涙が出る歌でした。キリスト教の友人と道を分かれて、それでも人々の幸福のためにという使命は同じなのだと思いながら歌ってました。
    また、センセーは親友と道を分かつ苦しみを背負ってまで、この信心を選んで闘っておられるのだ、と洗脳を深めた曲です(汗)
    今好んで歌われるのは、センセーsongと威風堂々の歌ですよね。この数年はこの曲しか歌ったことありません。
    御本尊を破いた父は、21世紀のマーチの英語版だけ好きだったようです(笑)
    「青年よ広布の山を登れ」も、青年部時代合唱で特訓させられました。全くの洗脳songでした。

    歌は、感情に深く入ってきます。学会活動してる間は、頭の中をぐるぐる学会歌が流れていました。どうしても活動がおっくうなときは、朝から学会歌を聞いてテンション上げてました。
    私は音楽がとても好きなので、正直題目あげるより、音楽の方が効果がありました(笑)

    少年部の歌の中には、なかなか良い歌もありますけれども(青い海と少年とかは素晴らしい歌だなと思います)、「少年部歌」となると、洗脳songでしたね。
    現在の少年部歌は「ビーブレイブ」という歌で振り付けもあり、少年部の会合では振りつきで歌わせています。
    私の時代は「平和の翼」でした。「北風吹いても朗らかに、正義の道を走ろうよ」です。どんな理不尽で辛いことがあっても、正義のために創価活動やらないと!と、洗脳され切りました。白か黒しかない考え方が身についてしまい、友人の言動をジャッジするような子供でした。学校の先生にはとっても好かれる優等生でしたけどね(苦笑)

    話は変わり、この三連休に座談会をやるようで、主人あてにお知らせがきました。「慶祝!総本部完成記念座談会」だそうで、最新dvdの「世界に広がる歓喜の輪 zadankai」を見るようです。
    どうせそのあとは、新聞の話ばっかりするくせにね~。もう年末だから目標達成してないと、滝汗ものなんでしょう。
    主人は行かない旨伝えたようです。
    新聞も今月から予定通り入っていません。そのことについて誰も突っ込んできません。
    思ったよりあっさりしていて拍子抜けするくらいです。今まで何を怖がっていたのか、、、仮想敵を作る癖が抜けてないのかな。

  24. ハナ子さんへ
    >お題目の力で治ったと感謝していたんですが

    題目では病気は治りませんよ。残念ながら、ただの思い込みです。
    つまり、題目ではなくご自身の体の力です。
    創価学会だけでなく多くの宗教でありがちな考えかたですが、良い事が起こると信心のおかげにしがちです。
    そして、治らないと信心が足らないとか言う。
    因果の法則とか「原因と結果」論に縛られる日本人は多いです。

    崖っぷちさんへ
    今もで「威風堂々のうた」が歌われるんですか!邪宗撲滅の気合いが入った一番激しい歌ですよね。
    若い頃は進んで前で指揮を振りましたよ。学会歌イントロクイズでもあったら、私、自信あるかも。
    いろんな学会歌、今も耳にこびりついてます。
    ヤングミセスの歌で恥ずかしい歌がありました。
    歌詞の合間にかけ声というか台詞を言わなきゃいけないんです。
    「さんさんと昇る〜太陽をうけて、さあ起きて早くして〜車には気をつけていてらっしゃ〜い」
    「いってらっしゃい!」←これ。
    20年前まで歌ってました。部員が少ない会合でこれを歌えと言われた日にゃ・・・。
    元気がないと幹部に何か言われそうなので、無理して声を出したもんです。

  25. おはぎさん
    威風堂々の歌は、同中でセンセーが過去のお姿しか見せなくなってからも、過去のセンセーの指揮に合わせて歌っています。
    ちょっとゆっくり目の威風堂々の歌が、さらに怖さ倍増なんです。
    ヤングのその歌は初めて聞きました。掛け声は、、、恥ずかしいですね。私の時代は勇気のトップランナーという歌です。

    私、色々思い出すと、創価の活動で楽しかったのは、やっぱり御書の研鑽なんですよね。
    私の思考趣味っていうか、新しい価値観に触れることがとても楽しいんですね。だから仏教の世界にロマンを感じたりして
    単純に面白いなあ~そういう切り口でくるか~とか。
    でも青年教学も一級まで受けると、学ぶ機会が全くなくなり、ひたすら、無意味な活動ばかり。
    婦人部になってから学ぶ御書は、一行読んで、名誉会長指導読んで、さあ新聞啓蒙よ!さあ選挙頼むわよ!という
    活動のためのお飾り、景気づけ?みたいになってて、くそ面白くなかった。
    そういうのが十年も続いて、創価に魅力を感じなくなっていきました。単純に飽きた、と言うのもあるのかなと思います。
    最近では仏教自体というか宗教自体にも興味が無くなってきました。

    ストレングスファインダーというテストをしたことがありますが、どうも私は新しいものに次々興味が涌く性質のようで、また、一人ひとりが持つユニークな個性に魅力を感じるタイプのようです。
    そう思うと、一つの組織にいると言うこと自体が私には合わないようです。
    ましてや創価のように、万年同じことを言って行動し、みな同じ顔して同じ反応しかしない人の集まりなんて、苦痛でしかないのです。

    そういえば、センセーが戸田さんとは随分違う指導をし次々と教義を変えたのは、今はおかしいと思うけど、変化好きの私は当時は、(センセー画期的!時代の先取り!)とか言って面白がってました。
    馬鹿でしたね~(笑)

  26. はじめまして。
    私は学会三世です。
    もう一年くらい勤行もしていませんが
    何にも変わりはありません。
    学会のおかしさにやっと気が付きました。
    居留守を使っても、会合の連絡がメールで届いて、参加しなかったら、またメールが届き…
    仕事が休みの日には、狙ったかのように家庭訪問にくるので落ち着きません。嫌だなと思い始めてからは、連絡がくることに恐怖感さえあります。
    病気になった人に、信心が足りないからと平気で言い放ち心配もしない…
    やっぱり人としておかしいです。
    学会の中にいると、人としての思いやりや優しさがなくなっていくように思います。
    最終的には脱会したいのですが、毎日届く聖教新聞をどうにかしてやめ繋がりを絶ちたいです。

  27. はじめまして。
    葉子と申します。いつも拝見させていただいております。いいブログですね。
    3歳で母と入信し、結婚するまで活動していました。私には「大きな功徳」の体験がありませんので、
    わりと早くから創価学会の矛盾に気が付いていましたが、両親が熱心でしたから、言われるまま信心(自行だけ)していました。
    夫・子が未入信なのでその後徐々に信仰心が薄れ(信心しなくても生きられることがわかった)、今は完全非活動で、脱会できる日を待っています。

    私の父は自身の結核に悩み日蓮正宗創価学会に先ずひとりで入信しました。勤行唱題を欠かさず、折伏もし、水の流れるような(昔風?)信心を癌になるまでしていました。
    肺結核は一年ほどで治ったそうですが、私が10歳のころ再び腎臓結核になり、治療に数年かかりました。
    その後も父は虚弱で、毎年健康診断を受けていたにもかかわらず、20年前に末期の肺がんがわかり告知後一年もせずに亡くなってしまいました。
    本人が入院中私に辛いと打ち明けました。初めて父の弱音を聞きました。

    母は父の肺結核治癒を見て一年遅れて入信、その後創価学会にのめり込み、生活苦なのに働かず信心三昧、幹部になり地域では有名な活動家です。
    自営の父が死んだあと、年金が少ない母を数年前から私が援助していますが、それを功徳と思っているようです。
    その母も10年前から骨の病気に悩んでいます。
    椎間板ヘルニアで入院をしたあと、次々に背骨の5か所を圧迫骨折、大腿骨頚部骨折をし、今はほとんど歩けなくなっています。

    私は介護で母にかかわり続けています。「葉子さんの宿命よ・信心しかない」と脳梗塞で言語障害が残っている知人から言われました。
    バリ活の人はこういうことを簡単に言いますよね、腹立たしいです。
    私がこれまで見てきた限り、信心で(プラシーボ効果だと思う)大きな病気が治った人もいましたが、そうじゃないひとのほうがたくさんいました。
    非学会員と学会員の間に病気、経済、家族関係等、差は全然ないと思います。

    私は創価学会に騙されたと思っています。

    組織の人は、父に関しては霊鷲山に旅立って成仏したと言い、母のことは『やっぱりお題目の力やね』と言っています。

    母は今あるのは信心・題目のおかげと思っているので仕方ありませんが、私はそうは思えません、「運命のままやん」と。
    母の最後の儀式で創価学会にお世話になるはずなので、
    「この信心には良くも悪くもなんでも都合の良い答えが用意されているんですね」と言い返したいのを我慢しています。
    あとどのくらい今の状態が続くでしょうか?  
    そのあと宗教なしで別の人生を生きていきたいと思っています。

  28. チョコさんへ
    新聞の(他の出版物も。。)購読をやめるのは、気持ちさえ定まれば簡単ですよ。
    地域の聖教新聞の店主に直接電話をすればいいのです。住所と所属部署を言って、来月から一切入れないようにお願いします。。これでいいのです。
    そのあと、組織の人が、なんやかんや言ってきても無視、スルーするだけで完了ですよ。

    組織の煩わしさは、役職とか持っていると、もうそれは鬱になりかけるくらいにうざったいですよね。
    どこかで、キッパリ、キリリと一線を自分から引く以外にないかも。。
    どこか腹が決まらないと、いつまでも、どこまでも追いかけてきますよね。。学会員って。。

    どうせなら、心地よく爽やかに生きていきたいですもんね。。モヤモヤ、ドロドロからは、もうそろそろ卒業してもいいかもしれませんよね。。(#^.^#)

    葉子さんへ
    ただでさえ、娘と母親の確執はよくあるのに、それに創価学会が入り込むと、それは一致も察知もいかないような気持ちになりますよね。。
    それに介護が加わったら。。。・°°・(>_<)・°°・。葉子さんの心中をお察しします。。

    わたしの母も学会しか生きる道はないと思い込み、いま一人暮らしですが、唯一の娘であるわたしに何かと重たいものが降りかかりつつある状況です。。

    でもわたし、何故親孝行はすべきなの?と、そのこだわりを捨てました。
    良い娘になろうと努力してきましたが、いまはさっぱり、そういう思い込みを手放しました。
    だって、自分が苦しくて苦しくて。。

    葉子さんも、なにもかもお母さまに捧げるのではなく、プロの手になるべく任せて、そのことで自分を責めることなどなく、お母さまには少しシビアな気持ちを持たれてみるといいと思いますよ。。

    そんな。。娘であるあなたが支えているから、いまのお母さまがあるのに、それを創価学会の功徳だなんって。。他人のわたしでも腹立たしいです。。

    すみません。。わたしも母との確執が尋常でなくあるので、もしかしたらキツイ言葉になっているかもしれません。。

    創価学会だけをやってきたような人は依存心の塊で、少々腹が立ちまする。。

  29. ハナ子さん。
    シニフィエさんのブログに来てくださり、本当にありがとうございます。

    私自身、医療者でもあり多くの生死に関わってきました。
    またここ数年のあいだに、大きな病気を自分も体験するはめになりました。
    お母様のお話も涙して、読みました。
    ぱこと申します。
    今は元気です!というつもりが、「一緒に生きよう」と覚悟?を決めたひとが学会員だと気づいて悶絶している、根っからのアンチ創価人です。

    お話をきいていて、やはり創価は今でも相互扶助組織(助け合い、ムラ)としての役割をもっているのだと感じています。
    私の身近でも、金銭や精神的なことで困難に直面している友人を助けたり、組織(おそらくブロックくらいの範囲で)見守ったり
    という話を聞きます。古くからある団地(おそらく高齢者の方や低所得層が多いかも)の中でも、密なお付き合いが続いているようです。
    景気、経済第一!とノリノリでいけばなんとかなると、一部の人間の富だけが重要視される(傾向にある)社会で、創価の組織は、ハナ子さんがよりどころとされているように、ひととのつながりを提供してくれる、数少ない場となっているのかもしれません。
    戦後の歴史から見ても、まちがいを覚悟でいうと「担ってくれた」結果になっているのかも。
    都市部では特に。
    統計的にはわかりかねますが、非正規雇用や下請け業者さん、小売店、主婦の方など、企業や労働団体などにも学生運動なんかにも属さず、連帯感をもてない、守ってくれる後ろ盾のない「孤立しかねない」立場にあった人たちの、そこはかとない不安を食べて大きくなった組織のように思います。
    高層マンションや外車が停まる邸宅を横目に、古くからある団地や小さな家屋(昔からの信徒さんや2世さんが多いようです)を通ると、妙な憤りとかなしさがこみあげるんです。

    私は、洗脳新聞代を糧にし、大口だろうが小額だろうが集めまくった財務で肥え、一般会員が一生行けないであろう遠い国に豪華な建築や寄付をし、信濃町を買い占め、墓を売りつける組織を、絶対に許しません。
    幹部だけが潤い、病や経済苦に苦しむ会員に「題目と新聞啓蒙をがんばれば、大丈夫」なんて嘘は、許しません。
    本部会館より先に、会員のためのケアハウスでも建てたらいい。
    そんな金があるなら「見える」形で「現世利益」とやらを形にしてみせてあげたらいい。

    ハナ子さん。
    題目で、病気は治りませんし、信心が足りないから悪化することもありません。
    ですが、お母様が奇跡的ながんばりをみせられたことには、なにかを「信じる力」が作用したのかもしれません。
    私は信仰を持ちませんが、お母様やハナ子さんが病気でくるしいとき、信じるものがそこにあったことで、救われる思いがあったことは事実だ思えるからです。
    ハナ子さんが、ひとりで不安になったり、「題目があったから、やっぱり……」とか、気持ちがぐるぐるされることも、とても自然なことだと思えます。
    でも、ハナ子さんは、創価の活動ことを「おかしいよね。嫌だよね」と気づかれました。
    もちろん脱会しなくてもいいから、一歩離れた場所に立って見て、直視なんてしなくてもいから、ぼんやりでもいいから、創価のことを眺めてみていただけないでしょうか。
    過去にだされた創価関連の本でもいいし(できれば、スキャンダルっぽく扱ってないもの。冷静なもの)、まったく別のひとのもの(ちゃんとした!?平和主義者、宗教学ではどんなこといってるのか)、ふと心にとまった物語や詩、映画でもよいと思います。
    創価以外の、考え方やセンスに、触れていってもらえたらいいなぁ、と思うのです。
    お友達は、創価の方しかもういないってことでしたが、そのお友達とのおつきあいを大事にしながらも……
    人生「ご縁!!」(←コレ、創価で多用されてるってききましたがほんと?)
    社会は、世界は、広くって、ロクでもないこともたくさんありますが、すてきなひともたくさんいますし、おもしろいこともあります。
    宗教やってなくても、助け合ってるひとはいっぱいいいるわけで。
    いろんな意味で、これからハナ子さんに「よき出会い」があることを、お祈りしています。
    無理されぬよう、心身ともにご自愛くださいませ。

    チョコさん、はじめまして。
    「気づいた」後、あるいは途中の、学会員さんのしんどさや、2世3世の方が抱えるものの大きさを、このブログにこさせていただくようになってから、知りました。
    脱会にまつわるアレコレも、こちらにはたくさん声がよせられているようなので、チョコさんの助けとなればいいなと思います。
    かくいう私は、今ココの助けがなくては、生きていけないかも。

    葉子さん。
    貴重なお話、ありがとうございます。
    葉子さんが援助と介護をされていることが「巧徳」!?「宿命」!?などとされていることに、驚愕しています。

    「この信心には良くも悪くもなんでも都合の良い答えが用意されている」
    その言葉を飲み込んで、お母様のお世話にあたられている心情はいかばかりかとおもいます。
    お近くに、創価の方以外で、介護の悩みやちょっとした息抜きに寄り添ってくださる方はいらっしゃいますか?
    気がかりです。

  30. シニフィエさま。
    みなさま。

    いつも長々ととりとめのない文章を寄せさせていただき……創価の情報もあまりないのに、すみません。
    やり場のない気持ち、行き場のない私に、このような場を提供してくださること、感謝しております。

  31. 流れ星さん
    ぱこさん

    ありがとうございます。
    介護のことわかっていただけて、嬉しいです。

    父は穏やかでマイペースなひとだったので、嫌いだとおもったことはなかったのですが、
    父親としては淡泊?物足りないひとでした。 信心のことで私が母とヒドイ言い合いになっても
    私の肩を持つことはなかったかと思います。
    ただ、「あんたには世話になったなあ」と言ってくれたことと、入院中、雑誌の余白に「葉子の来るのを待つ」と書いてあるのを
    見たとき、わだかまりは消えました。

    母にたいしては、もう言いたいことがいっぱいです。
    信心がらみで酷いこと言われ続け、縁を切りたいと思ったこともありました。
    その母が自分の言ったことを忘れたかのように頼ってきます。
    もう世話が介護が大変で本当に嫌だけど、私は一人娘なので、、、

    幸い私のことを知ってくれている学会ではない友人がいますので、なんとかやって来ました。

    創価学会に老人介護施設があれば、母も喜んでお世話になると思いますが、
    学会には病院もなにもありませんね。。。

  32. 結局、一家和楽のための信心だったはずが、親子の間をおかしくさせるものになっていたんだなと思います。
    聖教新聞の記事に、友人や家族の絆よりも宗教の絆は強いというような事が書かれていました。
    私の両親も、常々「子供はたよりにならん。組織の人の方がたよりになる」と言っていました。
    母は末期癌の病床で、「もっとこうして普通の話をしたかったなあ」と言いました。
    創価学会が奪ったのは、親子の大事な時間です。

  33. 流れ星さんへ

    ありがとうございます。
    洗脳ってこわいですね。絶対に正しい、そう思い込まされていただけだったことにようやく気が付きました。新聞は、販売店に連絡したらいいですね。書籍も、購読の意思を確認せず、当たり前のように集金しにくるので、ずっと疑問でした。私は中途半端に活動家になってしまったので、退転したと騒ぎになりそうでとても不安ですが、どこかで、一線を引かない限り、この悩みからは解放されませんよね。

    ぱこさんへ

    ありがとうございます。
    創価の家に生まれてきたので、神社にも行ったことありませんし、創価以外を気持ち悪い感覚でいました。父も母も一日中題目を唱え、活動に出掛けていたので
    、家族としての思い出はあまりなく、悩み相談をしても、ご本尊様に祈ってごらんとしか言われませんでした。
    生まれ育った環境や植え付けらた価値観が、こんなに大きな影響を及ぼすなんて、今になってやっと分かり、それが、目に見えないけどとても大きいものだと感じています。
    信仰を広めるなんてどうでもよく、夫婦が支えあい、毎日心穏やかに過ごせることが自分にとっての幸せだと思ってます。

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