創価学会の現実の姿 2

このブログも、よくここまで持ちこたえられたなと思います。もちろんこれは皆さんのご協力があればこそなのですが、おかげさまでこのブログも安定期に入ってきたのかなという気がしてきました。

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これ↑がこのブログのアクセス数の月別の推移です。最初の半年間は、荒らしや魑魅魍魎(笑)の類いに振り回されて散々な目に会いましたが、その後にしばらく間を置き、承認制にしてから再スタートをしてからは次第に荒らしも少なくなり、去年の今ごろから急激にアクセス数が増え、さらに去年の9月からさらに増えてきました。先々月から一ヶ月に14万アクセスになっていて、一日のアクセス数もほぼ4000から5000といった安定した数になっています。また、このブログの主旨も、ずいぶんと浸透したようで、みなさんのコメントも、以前にも増して的確で示唆に満ちたものとなり、創価問題を具体的に示すブログとしてのクオリティが維持できていると思います。また、ときどきといいますか、まるで順番待ちしているかのように現れる現役活動家さんとの対話も、白いブランコさんによって初めて対話らしい対話ができたと思います。ただし話は平行線でしたが、それでもこれでいろんなことがわかったという意味で、たいへん意義のあるものだったと思います。そうこうしている間に、アクセス数が160万を超えまして、この分でいくと今年の夏の終わりには200万アクセス達成かなと思われます。

「創価学会の現実の姿」とうテーマは、このブログ全体のテーマでもあります。創価の現実の姿に会員さんが気がつけば、一日だって創価に留まるなんて思わないでしょう。自分がオレオレ詐欺に引っかかってたことがわかっていながら、それでもお金を暴力団の口座に振り込むような人はまずいませんよね。自分の家族がオレオレ詐欺に引っかかっているのを知って「それは信教の自由だから僕は何も言わないよ」なんて言う人はいませんよね。また「暴力団も悪いとこを改善してけばいい暴力団になれるさ」という人もいません。だいいち「いい暴力団って何さ?」ってことです。同じように、いい創価学会って何なんでしょう?折伏も新聞啓蒙も選挙活動も財務も、やりたい人だけが自分の判断でする創価学会でしょうか?ではいい会社って、働きたい人が自分の判断で働きたいときに働きたいだけ働く会社が「いい会社」なんでしょうか?そんなわけはないですね。たとえばいい警察の定義が「働きたい警察官だけが自分の判断で働きたいときに働きたいだけ働く警察」ではないのと同じです。

創価学会の活動は、上からのトップダウンでしか動けないような仕組みになっています。もともと下からの声が反映されるような組織でないことは、このブログを見ているほとんどの方はわかっていると思います。創価の幹部は上からの指示を下に伝えて、言うことを聞かない人間をチェックする役目です。言うこと聞かない会員は、すぐに上に報告があがって、幹部が家庭訪問にやってきます。そして「おかしなことを考えてないで、お題目をあげて、先生にお応えできる人材にしてくださいと、ご本尊様に本気で祈るんだ」などと思考停止の言葉でねじ伏せていきます。それが幹部の仕事です。決して会員さんの話を聞くわけではありません。聞くフリはしますけどね。とにかく会員さんの意志で独自の行動が許されるような組織ではありません。組織から言ってくることと違うことをやろうものなら、反逆者扱いです。もしくは精神異常者扱いです。おそらく白いブランコさんも組織的には要注意人物なのでしょうけど、極端に人材部不足に陥ってしまった創価にとっては、選挙活動をボイコットする人間でも地区部長にしとかなければならないのが実情なんでしょう。おそらく白いブランコさんも創価が絶対に改善できないことがわかる日がいつか来ると思います。残念ですがそれだけの話です。「いい暴力団」がありえないのと同様に「いい創価学会」もありえません。やってることはオレオレか財務かという形式の違いだけです。新聞や財務の利益がなければ創価の存在理由はありません…などといっても活動家さんには「魔に負けた愚か者のたわごと」としか聞こえないんでしょうね。

ということで、今回のテーマは前回に引き続き「創価学会の現実の姿 2」とさせていただきます。

とにかくこのブログでは、創価の現実の姿を、経験者の実体験を通じて発信していく以外にないと考えています。たとえば日蓮仏法の教義の矛盾についていくら議論したとしても、もともと創価にとって日蓮仏法なんて会員を騙すための道具にしか過ぎないですから、その時の状況に合わせて、どんなにでも変えていってます。だから議論の意味がないんです。だから議論しません。今回は本尊の解釈まであたりまえのように変えてしまいました。本尊の解釈が変わる宗教なんてあっていいんでしょうか。でも会員さんはなんとも思っていない。思わないように仕向けられています。

創価の現実の姿と、世間一般の常識を普通に比較し判断できる理性を取り戻すことができれば覚醒できると思いますが、そこを徹底してできないように仕向けているのが創価の組織です。こうして毎日同じようなことを、よく飽きもせずに書くなあと、自分でも思うのですが、やはり何かしら書かずにおれません。自分で気づかない限りは、外からいくら言っても無駄なことはよくわかっていますが、それでもちょっと前の自分のことを考えれば、こうして創価の現実の姿を教えてくれるブログの存在は、きっと意味があるのだと思っています。バリ活の人には何も言うことはありません。言っても無駄ですから。せめてちょっとだけでも創価のやってることに疑問がある方は、ぜひここの皆さんのお話を「素」で読んでみてください。ここには自分で体験してきたリアルな事実しかありません。ときどき息抜きに私が冗談を書くくらいで、あとは皆さん真剣にお話をされています。それぞれに創価の活動の中で感じたこと、そして覚醒後にわかったことを書いてくださっています。決してウソや誇張で書けるようなことではありません。また、日本全国、気味が悪いほど同じようなことをやってるのが創価の活動家さんです。完全に集金集票ロボットと化しています。個人の意志など微塵もありません。そのことに気づいて欲しいのです。

みなさん、引き続き、「創価学会の現実の姿」をどんどん書き込んでください。ひとりでも多く、一日も早く、覚醒する学会員さんが増えるために、どうかよろしくお願いします。

創価学会の現実の姿 2」への105件のフィードバック

  1. signifieさんのリクエストにお答えします。

    最初に「おかしい」と感じ始めたのは、
    「日顕宗」と蔑称を使って、これまで崇拝してきたはずの法主を個人攻撃し、『創価新報』に口汚く罵ったときからです。

    決裂するまでの間『大白蓮華』誌上で「畏れ多くも猊下の宸襟を悩まし奉り……」などと平服しきった態度で「ご意見伺い」と称する意見を載せていたことを知っていますので、そのあまりの豹変ぶりに辟易しました。

    幹部にそのことを訊ねると、
    「これでいいんだ!悪は徹底的にたたくんだ!」とのこと。

    悪をたたくのは結構。しかし理路整然と誤りを指摘すれば済むことを「悪徳坊主」「遊蕩坊主」などと、ガキのケンカまる出しで表現する必要などないし、こちらの品性が疑われます。どんな人間にも仏性があるのだから、その仏性に向かって淡々と説くのが仏法者としての議論の仕方ではありませんか。
    日蓮大聖人は『立正安国論』で法然を「あのバカヤロー」とか罵ってますか?

    もし仮に、悪を駆逐するのにその表現が最適で効果絶大だとするなら、
    なぜ堂々と『聖教新聞』の第1面に載せず『創価新報』に載せるのか。これは関係ない外部の人間もたくさん『聖教新聞』を購読しているので、その影響を無視できない、つまりは外部の評判を気にする自信のなさの表れではありませんか?

    そう幹部に質すと、その人は黙ってしまいました。

    この幼稚極まる表現と、その裏にある自信のなさ、臆病さは平成4年頃からどんどん拡大してゆき、やがて『聖教新聞』は大本営発表と化し、どんなに裁判で負けても「わが方の損害軽微なり」と、事実を一般会員から隠すようになっていきました。

    一方で“法主詐称”の日顕氏が書写したご本尊は、教理からすると血脈のないニセ本尊であり、かつて戸田第2代会長が
    「電灯にたとえて考えてみると、ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光を発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光が出ないのである(中略)したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である」(趣意)(創価学会発行『折伏教典』P339)

    と述べたこの論理で、身延系日蓮宗の本尊を、たとえ日蓮大聖人のご真筆であったとしても斬って捨てていたはずなのに、
    なぜ日顕氏書写の本尊は大謗法である、魔物である、功徳がないと断じなかったのでしょうか。ニセ法主のニセ本尊は直ちに回収して処分すべきではないのですか。

    それはしてこなかったし、現在もしていません。

    おかしい。かなりおかしい。

    これを疑問に思わないのは、さらにおかしい。
    私はそう考えるようになりました。

    ★この続きは、仕事が一段落してから書きます。

    サラマンダラさんへ

    コメント、ありがとうございます。
    座談会の様子を楽しみに待っていてください。

    レモンさんへ

    コメント、ありがとうございます。
    私に家族はいません。独居老人です(笑)。
    かつてはパートナーがいましたが、
    信仰と関係ない理由で離婚しており、子どももありません。

    5つ上の姉は県の大幹部で、一家でバリ活です。
    この家族をどうしたものか、これからの課題です。

  2. paroleさん5月に脱会の予定だそうですね。オメデトウございます。

    私と同世代なのでお聞きしたい事があります。私は昭和45年に高校卒業と同時に非活(田舎に帰って来た時、どこで見てるのかしら?先輩から「遊びに来なさいよ{座談会に?}」位でしたが、
    paroleさんの場合、62歳までの50年以上?学会活動に専念されてたのですよね。
    私が心配しているのは創価村からの脱出の件です。
    「創価学会もうひとつのニッポン/島田裕己vs矢野絢也」2010年11月・講談社より

    p184…島田 いや、創価学会そのものが、世間といっていいほど巨大化しているわけですよ。だって、仮に創価学会のメンバーが250万人だったとしたら、人口の少ない県なんかよりはるかに大きい。一つの国としてだって考えられるスケールです。しかも、一般の地域社会と比べて、はるかに密度が濃いですからね。創価学会という世間が、完全にできあがっている。僕は「民族」と言っていますけれどね。
    矢野 日本国の中に、もう一つの創価学会という「民族」があるということですか。
    ……
    島田 そうです。有縁の集団です。そこに属している人たちは、集団の外側に出てしまったら、すべてを失ってしまう可能性があるわけですね。それに代わる別の集団に所属する可能性はないわけですから。
    (中略)
    P208
    矢野 ……、だから先だっても、学会をやめたある人とお会いする機会があったんですが、やはり学会から出ていくことが怖かったと言っていましたね。もちろん嫌がらせをされることも怖かったけれども、ピシャッと断った。まるで未知の世界に踏み出していくような気持ちがしたと言うんですよ。でも最初は怖かったが、退会したら精神の自由を感じた、と言って喜んでいましたね。
    ……
    P209 矢野 学会のいろいろな指導の影響もあるけれど、自己洗脳という面が大きいと思
    うんですよ。人に向かって功徳を説き、反対すれば罰を受けますよということを日常的にやってきているわけですから。折伏はそういうことをやるわけです。選挙のときも、公明党は日本をよくするけれど他の政党はだめという議論を何遍も繰り返していると、それが自分に返ってくる。自己洗脳になっていくと思うんですよ。
     自分のことを言うと恥ずかしいんですが、入信して功徳があるなんて、そんなことあるわけないと内心では思っていたわけです。ところが、人にそう言っているうちに、「本当に私、功徳をいただきました。ありがとうございます」なんて言われると、こっちが感激してしまうわけですよ。えっ本当、なんてね。もちろん、そうは言えませんがね。そういう現実を前にすると、功徳があるから信心しなさいと人に言っていることが、逆に自分にインプットされる。一種の自己洗脳ですよ。人に教えを説くことは、利他、他人のためですが、同時に自分のためでもあるんですな。そういうことがあると、もうその世界から抜けられなくなってくる。(以上引用終り)

    元々の教義である日蓮正宗法華講へ行くのなら、それなりの人との繋がりは出来るとは思いますが……

    私の場合、日本初の“思想家の名に値する”と思っている池田晶子著『残酷人生論』より……但し「池田晶子不滅の哲学」若松英輔著からの孫引きのため原本のページ数は不明です。(原本はどこかにあると思いますが探す時間がもったいない)
    P119
     私は、信仰はもっていないが、確信はもっている。それは、信じることなく考えるから
    である。私は考えるからである。宇宙と自分の相関について、信じてしまうことなく考え
    続けているからである。救済なんぞ問題ではない。なぜなら、救済という言い方で何が言
    われているのかを考えることのほうが、先のはずだからである。人類はそこのところをず
    ぅーっと、あべこべに考えてきたのだ。これは、驚くべき勘違いである。[中略]
     新しき宗教性は、だから、今や「宗教」という言葉で呼ばれるべきではない。それは
    「宗―教」ではない。教祖も教団も教理も要らない。それは信仰ではない。それは、最初
    から最後までひとりっきりで考え、られるし、また考える、べき性質のものなのだ。
    だからその新たなる名称は、
      垂直的弧絶性、とか
      凝縮的透明性、とか
     そんなふうな響きをもった、何を隠そうその名は、「哲学」なのである。
    (以上引用終り)
    返す返すも早逝が淋しいネ。

    kickeyさん、脱会おめでとう。新しい世界が開けると思いますよ

    元プロレスラーの高田延彦さんが自身のツイッター上で安倍政権の政策を強く批判してい
    ます。高田氏は公式ツイッターに「集団的自衛権行使容認、姑息(こそく)でインチキな
    やり口ですね。時の政権が勝手に解釈変更など憲法の冒涜(ぼうとく)です」と投稿し、
    集団的自衛権や解釈改憲等の政策に疑問を投げ掛けました。…最新ニュースより
    ※引き続き、『池□∞策出てコイヤー!!』と吠えて貰いたいですね。(笑)

  3. カガテツさんへ

    カガテツさんのお聞きになりたいことは、
    「集団の外へ出る恐怖はないのか?」ということでよろしいでしょうか。

    実際に脱会してそのあとどんなことになるのか、
    これはやってみないとわかりません。

    しかし現段階で、集団の外へ出る恐怖、不安といったものは全くありません。
    仕事が一段落したら、まとめて書くつもりでいますが、
    私は数年前パニック障害にかかり、うつを併発しました。
    その体験から、人間関係、集団への依存度が低くなっており、
    集団の外に出ること自体には、不安を感じなくなったようです。

    いずれにしろ、退会したあとで、ご報告いたしますので、よろしくお願いします。

  4. サラマンダラさん
    創価学会を離れて自分の頭で行動できる自由は何事にも代えがたいものがあります。
    未来部在籍時代、創価学会なかんずく池田先生をこよなく敬愛してきた私は創価学会あったればこそのいい意味での人生のレールが敷かれた部分も大きいです。でも、創価学会の原点とも教えていただいた一人の人を大切にとの視点は違っていると思うようになり、私の中に創価学会があるとの思いが活動しながらも徐々になくなってきました。9年前創価学会アンチ掲示板で県幹部だった、幹部だったという経歴を持つ人たちと実に生き生きと創価学会をテーマに自分の思いを語り、チャットをし、オフ会に参加し、楽しく交流ができたお陰で創価学会についていけない自分を責めていた私も自分の思いは間違っていなかったと自信を持つことができました。
    このようなブログで生の体験が一番迷っている学会員のエールになると思うこの頃です。
    ちなみに今の私は池田先生を池田さんとすんなり切り替えることができないけど軽蔑の対象になってしまいました。

  5. くまもんさんご丁寧なコメントありがとうございます
    >創価学会を離れて自分の頭で行動できる自由は何事にも代えがたいものがあります
    当に脱会して感じた最初の喜びはこれに尽きると思います
    狭い世界から飛び出して突き抜けた大空を感じたときに本当に身も心も軽くなったのを今もはっきりと覚えています。学会のすべての縛りから解放され、今まで何も知らなかった自分の無知さ加減に恥ずかしさを覚えました
    あの大幹部が続々と造反していく時代に幹部に質問したところ煮え切らない回答ばかり
    私は腹を決めて造反幹部と言われた方の話を逆に直接聞きに行きました
    そこで聞いたのは全く別人の池田の行動振る舞いでした。目から鱗とはこのこと
    一度に尊敬の気持ちから軽蔑の念に変わりました
    日頃聖教新聞やグラフ、映像や幹部の話とはかけ離れていたからです
    造反者と言われた方々はあまりにも裸の池田を見過ぎたのでしょうね。そしていたたまれなくなった。信心の指導者でもなく人生の師匠でもないと見破ったのでしょう
    私もずっと思っていました
    名聞名利は一番恥ずかしい行為と言ってた人間が勲章や名誉何某というものをもらい漁ってる
    って あんたが一番恥ずかしい人間じゃないのかと
    自語相違も甚だしいお人 だから私は駄作、贋作と呼ばせていただいております
    先生なんて、とても言えません
    くまもんさんこれからもお話聞かせてくださいどうかよろしくお願いします

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