近況報告

このブログを休止して7ヶ月が経ちました。ご覧のように記事の更新もときどきしかしなくなったのですが、アクセスは少ない日は400台、多い日は600台を推移しています。とはいえある一定の方々は見てくださっているようでありがたいです。今回も前回更新した8月24日以来でこのブログを開けてみたくらいですから、私の中の創価学会という存在がどんどん希薄になっているんだなと思います。私の周りにはもう創価学会員がほとんどいません。身内にはもちろんいません。いるとしたらもう何年も会っていない数人の友人が学会員だったということぐらいで、その友人にしても今も学会員なのかすら知らないし興味もありません。今の自分からすれば、7ヶ月前までの自分さえ遠い昔の人間であるかのように思えてしまいます。創価学会について考える時間が極端に少なくなりました。というか本気で忘れている時間が圧倒的に多いです。以前は一日たりとも忘れたことはありませんし、このブログに寄せられるコメントに対しての対応を常に考える日々でした。それとは対照的に最近の数少ない更新の内容も、淡々と創価に関する事実を述べるにとどまっています。昔の読者からすれば、単にこれまでの繰り返しのような内容なので落胆されている方もいらっしゃるのではないかと思います。かと言って、無理に昔のような形に戻す気もありません。今後このブログをどうするのか自分でもわかりませんが、ともかく今はこのブログを存続させて、過去の皆さんからの貴重なコメントを読んでいただく機会だけは失くさないようにするために、こうしてときどき更新していこうと思います。それから私ごととしては仕事もプライベートもすこぶる快調すぎて怖いくらいです(笑)うつ病の症状も自分でも忘れているくらいで、生活に支障はほぼなくなりました。ここまで立ち直るのに10年という年月がかかりはしましたが、結果としては思いもよらないほどの幸運に恵まれた現在があると言えます。創価脳さんからすれば、私などさっさと地獄に堕ちなければならないようなことをしてきたのでしょうが、現実は違います。50歳過ぎてはいましたが、それでも創価が詐欺だと気づけて、創価から完全に縁が切れただけでも本当に幸運だったと思います。そりゃあもっと若いときに気づけていればもっとよかったのでしょうが、それを言ってもしょうがないですからね。

そしてこうなった今だからこそ言えるのは、とても冷静に創価学会を見れるようになったということです。これまでは創価脳だった兄のことがあったので、どうしても完全に客観視することができなくて、創価に関して感情的になってしまった部分がありました。言い換えれば、その部分がこのブログを続ける原動力にもなったのだということです。しかし、その兄が創価脳のままあっさりと亡くなったことで、私の創価に対する感情がとても希薄になり、そして宗教全般についての客観的な視点を持てるようになったような気がします。もちろん、創価学会は宗教ではありません。宗教ではない創価学会がなぜ宗教であるかのように自分も含めた多くの人々が騙されてきたのかを考察する中で、宗教そのものについてもあらためて考える機会となったからだと思います。

先日、シモーヌ・ド・ボーヴォワール作『老い』について上野千鶴子氏が語るEテレの番組を見ました。とても共感できました。まるで上野氏がボーヴォワールであるかのような錯覚さえしかねないほどの「潔さ」あるいは「身もふたもない話」に感動しました。厳しい現実であったとしても、それを真正面から受け止めること。それこそ身もふたもないほどに冷徹で客観的な視点こそが真実を見極め、これからの時代に必要なものは何かをはっきりとさせることができるし、その結果としての女性解放運動と、高齢社会に必要なものが何かという先見性だったのだと思います。その「潔さ」「身もふたもない話」は原始仏典に残されている釈迦の思想にとても通じるものがあるなと思いました。

この上野氏のボーヴォワール『老い』(NHK100分de名著)の紹介文には

老いは不意にあなたを捉える

見たくない、聞きたくない、考えたくない――。そんな「老い」の実態をあらゆる観点から論じ、従来のステレオタイプを次々と打ち砕いたボーヴォワールの主著。なぜ老いを自覚することは難しいのか。老人が社会から疎外される根本理由とは。キレイゴト抜きに「老い」の実態を暴き、「文明のスキャンダル」と捉え直した著作の真価を、現代日本の状況にも引きつけながらやさしく解説する。

とあります。「老い」とはその先の「死に向きあうこと」と言い換えてもいいのかもしれません。

創価に騙されたまま亡くなった兄は、もうこの世にいません。もちろんあの世とか来世などがあるわけもないです。もう兄は存在しないのです。もちろん私もいずれは死んでしまうし、それは誰であろうと例外はありません。死んだら生まれ変わるなんて釈迦の教えにはありません。なのに仏教の教えの中に死んだら生まれ変わるといった考えが存在するのは、釈迦の死後に厳格な仏教が廃れたことの解決策として、インドで一般的だったバラモン教の受け入れられやすい考えを取り入れた結果のことでした。釈迦滅後の仏教教団は、その存続のための手段として、釈迦が否定していたバラモン教の教義を取り入れることによって、新たな信者を獲得するようになりました。それでもインドでの仏教教団は壊滅し、その代わり東南アジアや中国に伝わったのがバラモン教を取り入れた仏教であり、それに中国の儒教などが色濃く混ざったものが日本に伝わったので、日本では生まれ変わりや魂の存在がまるで仏教の教えであるかのように定着したんですね。もちろん日蓮もそうしたバラモン的仏教しか知るすべがありませんでしたから、本来の仏教とはかけ離れた仏教観しか持つことしかできなかたわけです。「死んだら終わり」。それこそこの身もふたもない現実を直視することこそが釈迦の哲学であったと思いますし、ひいてはボーヴォワールの徹底したリアリズムだったのではないかと感じました。

「死んだら終わり」を受け入れることは、特に科学的な考え方のなかった時代には難しかったと思います。誰も経験したことのない、かつ絶対に避けることのできない死に対しての恐怖から逃れ、どうにかして何かしらの救いを求めたのでしょう。そこに「死んだら生まれ変わる」とか「魂は永遠に存続する」などといった「何の根拠のない気休め」が人々の間に広まり、そのうちに自然の脅威や生命の不思議さを説明するための神の概念が生まれ、それがやがて宗教となっていくんですね。そうした宗教がいつしか人々を差別化し、人々の心を支配するための道具となってしまいます。人類の歴史とは、こうした死の恐怖から逃れるための神の概念をもとに支配層と被支配層に分かれる中で戦いが繰り返されてきたわけです。創価が教義としている独特な日蓮仏法はもちろんですが、日本の一般的な仏教観も最初から本来の釈迦の考えとは真逆のものだったということは、学問としては一般的な史実ではあるのですが、こと仏教界ではそこはスルーされているのが現実です。つまり「死んだら終わり」を認めたら宗教が宗教として成り立たなくなるから、そこは何が何でもスルーするしかないんですね。宗教は理屈の通用しない世界です。理屈が通用しないから信じるしかないんですね。というより宗教とは理屈が通用しないことを信じ込むことよ言ったほうがいいかもしれません。一般的な宗教ですらそうなんですから、会員を騙してお金を巻き上げるために作られ、創価学会だけが唯一の正しい仏教だというめちゃくちゃな屁理屈を信じさせることで大きくなってきたのが創価学会という詐欺集団です。だからこそ仏教とは言いながらも釈迦の哲学を完全にスルーするしかないのも当然といえば当然のことだと言えます。