日蓮本仏論について思うこと

さて、芸術と宗教という視点をとっかかりとして、創価学会の矛盾を考えてきたわけですが、やはり自分たちの信仰が正しくて、その他は間違っているという考え方は、芸術そのものの存在を考えることによって簡単に矛盾点が露呈されてしまうということが確認されたように思います。

創価学会は他の宗教を否定することによって信者の意識の団結をはかり、信者を組織のいいなりにするために、他宗を排他的にあつかう日蓮正宗の教義を都合よく利用してきたと考えられます。表向きは庶民が平和と文化を推進するリーダシップをとることによって世界中の人々に幸せをもたらすなどと掲げてはいますが、組織がやっていることは、あくまで信者に対する強制的な労働と散財でしかありません。それを宗教を隠れ蓑にして信者を精神的にしばりあげ、一生を組織のために尽くさせるという恐ろしい団体として巨大化していきました。しかし急速なネット社会の広がりによって、これまでとは比べ物なならない情報が世界中に行き渡るようになり、創価学会の信者の中にも、組織の矛盾に気がつく者が急激に増えました。もはやその流れは止めようがありません。これまで隠しに隠していた創価学会の闇の部分がネットによって明らかになりつつあります。ささやかではありますが、このブログもその中の動きのひとつだと言えるでしょう。

芸術と宗教について考えていくなかで、私のなかに新たな疑問が出てきました。それは日蓮本仏論です。世界にあまたある仏教の宗派の中で、釈迦ではなく日蓮を本仏とする宗派は、創価学会と日蓮正宗だけのようです。ただし創価学会は単に日蓮正宗の教義を利用しただけの詐欺団体ですから、宗派とはいえません。ですから、日蓮が本仏であるとするのは世界中でも日蓮正宗だけということになります。もちろん、細かく言えば例外もあるのかもしれませんが、総じて釈迦以外の人物を人類救済の仏としている仏教は、やはり日蓮正宗だけであるということです。そう考えると日蓮本仏論は世界でも珍しいものすごくマイノリティな宗派であるということです。たまたま創価学会によって一時は信者数がふくれあがりましたが、現在は創価学会を破門することで、本来の日蓮系宗派のひとつとして存在しています。

そこで思ったのは、自分はたったひとつの、それも全体からみればそうとう特殊な宗派の教義に縛られていたのだろうということです。日蓮正宗以外の日蓮宗もみな釈迦を本仏としています。だからといって私は日蓮宗日蓮正宗がどうのということではありません。何度も言うように日蓮正宗を否定する気持ちは微塵もありません。しかし、いったんカルト団体のMCから脱却した今、少なくともこれから自分が考える宗教とは、仏教なら仏教全体を見て考えなくてはいけないのではないかと思いました。また仏教を見るのなら、少なくとも世界三大宗教であるキリスト教やイスラム教についても知る必要があるだろうと。そしてそれを知りたいと思うようになりました。創価学会の活動をしていたときは、他宗はすべて劣っており、創価思想の高みにいれば、すべての宗教が見渡せるという馬鹿げた指導を鵜呑みにしていました。そして創価の欺瞞に気がついたとき、私は仏教についてすら何も知らなかったことに驚かされました。さらに他の宗教について知ること自体に嫌悪感さえ覚えるほどMCされていたんだということに気がついたのです。

創価学会から抜け出すことができて、世界の宗教芸術をなんの偏見もなく見ることができるようになりました。素直に他の宗教の芸術を受け入れることができるようになりました。それは普通の人にとってはあたりまえのことだったのですが、生まれてこのかた、なんと50年ものあいだ、否応無しに宗教芸術をなんらかの偏見と嫌悪感をもってしか見ることのできなかった自分を恥じました。芸術に携わる職業でありながら、その人類の遺産である芸術作品にまともに接することができなかったのです。そうさせてきた創価学会のどこが正しいと言えるのでしょう。創価学会の掲げる文化も平和もまったくうわべだけの偽物です。会員を欺くためだけのフェイクでしかありません。MCのための道具でしかありません。それにはやく気づいてほしい。私のように人生の終盤にさしかかって気づいては遅すぎます。若い学会員には、はやく創価の真実に気づいて、自分の本当の人生を取り戻してほしいと思います。