みなさん、貴重なコメントありがとうございます。
私は10年以上前に創価学会が他の新興宗教とひとつも変わらない詐欺だと気づいてから、このブログを立ち上げて、たくさんの創価に関わる人たちとの対話をしていく中で、創価学会が詐欺だということに気づいてもらうきっかけになればと続けてきました。おかげさまで数え切れないほどたくさんの方のお話を通じて、創価学会という詐欺団体が、どれだけの学会員やそのご家族の方たちを不幸にしてきたかという具体的な事実を明らかにできたと思っています。
そしてこのブログに辿り着いて「やっぱり創価学会はおかしかったんだ。正しい宗教なんかじゃなかったんだ」ということに自分で気がつくことができた結果、創価とキッパリと関係を切ることができた方もたくさんおられますし、家族との人間関係の中で、なかなか簡単には脱会できないで悩んでいらっしゃる方も相当数いらっしゃることもわかりました。
私のブログに対する基本的な考えは今も変わりませんが、兄が創価脳のままで亡くなった一昨年を境にして、創価学会に対する考えがかなり変わりました。考えと言っていいのかわかりませんが、これまでの10年間のような創価に対する危機感というか、興味と言えばいいのかわかりませんが、そうしたものが消えて、ある種の諦めのような気持ちが先行するようになり、以前ほど「創価は詐欺ですよ〜早く自分で気づいてくださ〜い!」といった必死さがなくなりました。それは創価をずっと信じて生きてきた人が、人から何か言われて考えを変えるくらいなら、とっくの昔に気づいてるだろうと思うようになりました。とうとう創価の現実を実の兄に気づかせることができないまま兄が亡くなってしまったことは、私にとってかなり大きなことだったのだろうと思います。
私がこのブログでたくさんの現役学会員さんとの対話を試みてきましたが、今はもうそんな気はありません。対話を呼びかけたところで、創価は詐欺だと言われて逆上するばかりで話にならない方がほとんどでした。10年続けたのに、まともな対話ができた現役学会員さんは一人だけでしたし、その方は結局は創価に疑問をもったがために組織から相手にされなくなって活動をやめてしまわれましたし、私との対話もしなくなりました。
今、私が思うことは、今この時点で創価に疑問を感じることができないのであれば、これからも一生創価を信じて生きていくしかない人たちなのではないかということであり、多くの一般の人たちがそうであるように、学会員さんはそっとしておいてあげたほうがいいのではないかということです。この私の学会員さんに対する心境の変化は大きいです。「シニフィエはあんなに熱く語ってきながら、自分の兄貴が創価のまま死んだからって諦めたのか」と思われる方もいらっしゃるでしょう。そうかもしれません。事実、10年以上も創価のことは1日も忘れたことがなかった私が、たまにしか思い出さなくなったのです。そういう意味では私はようやく創価から卒業できたのだろうと思います。
去年、安倍首相殺害を機に統一教会の問題が一気に話題になりました。私にとって切実だった創価学会の問題が、統一教会の問題と同じような距離感に感じるようになりました。悪く言えば他人事。別の言い方をするならば、身内に創価関係者がいなくなったことで、創価のことを考えなくて済むようになったということです。もちろん創価のことで悩んでおられる方には、全力でアドバイスする気はありますが、創価を信じている人に対して、わざわざ何かを言う気はなくなりました。どうぞ思う存分、死ぬまで創価に騙されて続けていかれればいいではないですか、といった心境です。それが本人にとっての最高の幸せなのでしょうから、他人の私がとやかく言うようなことではありませからね。冷たく突き放したような言い方ですが、とはいえそれが現実なのだと思います。家族に創価脳がいらっしゃる方にとっては残酷なのかもしれません。しかしそれほど現実は厳しいのだということも事実だと思います。
これだけ多くの創価経験者が創価学会の現実をこれだけあからさまに述べても、創価脳にはひとつも入っていかないどころか、中には創価スイッチが入って殴り込みをかけてくる愚かな学会員が一部にいらっしゃるくらいです。でもほとんどの学会員さんは人を疑うことを知らない純粋な人たちだということもよくわかっています。すぐに信じてしまう人のよさに創価は目をつけてお金を騙しとり、多くの人生を崩壊させてきました。私の両親や兄もそうやって騙されて一生を終わりました。私も50歳まで騙されましたが、やっと自分で気づくことができて今に至ります。創価が詐欺だと気づくのは、誰かに言われてからではなく、自分で現実を見て、自分で考えることでしかありえないと今でははっきり言えます。だからこそ、両親も兄も気づかせることができなかったのだし、私が何を言ったところでどうなるものでもなかったのだと思います。それが今の正直な気持ちだし、諦めとも言えます。
このブログには、創価に疑問を持つ学会員さんが創価が詐欺だと気づける創価の現実の記述が山ほどあります。そういう意味ではとても貴重な記録になっていると思います。昔ほど頻繁な更新はないだろうし、昔ほど多くの方のコメントもありませんが、学会員さんが創価のことを考えるための貴重で確かな記述であると思われます。少しでも創価に疑問を持っている現役の学会員さんならば、このブログはその後の自分の人生が変わってしまうほどの内容になると思います。どこから読まれてもかまいません。自分が少しでも興味のあるタイトルがあれば、そこから読んでみることをおすすめします。ここには少なくとも数百人以上の創価経験者が語る現実の創価学会の姿があります。決して恐れることはありません。人間の幸せは目の前の現実に真摯に向き合うところから始まると私は信じています。そして創価学会は人に現実と向き合わせないようにして騙す手口で学会員さんを騙し続けてきたのです。自分で考えるという当たり前のように思えることが、じつは意外にもできずにいたという自分の現実に気づくという瞬間があると思います。
Mです。管理人さん、いつもありがとうございます。
私が長年疑問に思っていたことが、今回のテーマですね。
私の長年の疑問は「なんで創価学会(というか新興宗教)の会員は自分の頭で考えることをしないのか。なぜ考えぬいて自分の人生に責任を持たないのか。」ということでした。
結論としては「考えないことが楽だから。人生何かに依存していた方が楽だから」ですよね。でも考えることを放棄したその責任はだれも取ってくれないですよ。人生費やして、財務してすっからかんになっても誰も責任取ってくれません。せいぜい子供や身内に迷惑かけるのが関の山でしょう。
信心さえしていれば幸せになるなんて嘘です。自分の頭で考えぬいて、行動に移してこその人生なのではないでしょうか。
実際身内が何も考えずに疑問を持たずに長年純粋に信心をしてきて、そのあっけない最後を見ているので、一層虚しさがあります。日頃毎日あっている人でさえ、その人の考えが分からないことが多いのに、ほぼ会ったことのない方を新聞や一方的な記事で信じてしまうことほど怖いものはないなと思ってます。
Mさん、コメントありがとうございます。
「自分で考えるということ」とは、言い換えると「哲学」だと私は思っています。宗教と哲学は似たようなもののように思われがちですが、私は対局にあるものだと、それこそ自分で考えます。ざっくりとした話で申し訳ないですが、宗教は「信じること」であるとも思います。宗教とは、たとえそれが何であれ、それを信じることが宗教であり、その言い方をするならば、哲学とは「疑うこと」であると思うのです。目の前にある現実を疑うことで、物事の本質を理解しようとすることです。そういう意味で、宗教と哲学は似て非なるものというより、全く異なるものではないかと思っています。宗教は自分で考えることはいけないことであり、「これはこういうものだ」という教え(神のお告げなど)をひたすら信じることが重要であると。それを自分で考えて疑ったりしたら恐ろしいことになるぞという戒めというよりも脅しですね。
だからMさんが「なんで創価学会(というか新興宗教)の会員は自分の頭で考えることをしないのか。なぜ考えぬいて自分の人生に責任を持たないのか。」と疑問に思うのも当然で、学会員さんも、ひたすら「自分で考えたりしたらとんでもなく恐ろしい目に遭うぞ」と常に脅されているから自分で考えようとはしないんですね。
ちなみにキリスト教やイスラム教のような一神教では「この世の全てを司る神が存在することを本気で信じること」が信仰であり、なかなか信じることができない現実の人間の行動を戒める立場としての権力者という権力者に都合のいい構造が生まれます。
そういう意味では、ブッダが広めようとしたのは宗教とは言えません。というより、ブッダは人々に自分で考えることで自分の苦しみから脱することができることを広めようとしたのではないかと思います。つまり、ブッダが広めようとしたのは宗教ではなく哲学だったのだと考えます。ブッダが生きていた社会はバラモン教の絶対的な権威が人々を苦しめていた。人々はそれに逆らうこともできずにいましたし、それ以前にバラモン教の神と、神の声を聞くことができる神官に逆らうなんて考えもしないといった社会だったと思われます。人々はカースト制度を疑うことすらできない権威主義の社会で生きていくしかなかったし、神が決めたことに逆らうなんて恐ろしくてできなかったでしょう。
つまり宗教とは、押し並べて「自分で考えないこと」なんですね。一神教は「神ありき」の宗教ですから、神の存在を疑うなんてとんでもないことになるわけです。じゃあブッダの思想が自分で考えることが基本となる哲学であるとしたら、仏教は素晴らしいじゃないか、となるところですが、現実はそうじゃない。ブッダが死んでから、教団は対立と分裂を繰り返します。要するに権力闘争です。そして500年後にいわゆる大乗仏教の勢力が大きく幅を効かせることになりますが、それは本来のブッダの思想とはかけ離れた、どっちかというとブッダが否定していたバラモン教や迷信としか言いようのない土着信仰の考え方を取り入れて、当時の人々にとってはわかりやすく、そして都合のいいものに変えてしまったからこそ広まったと考えられます。そうやって仏教は哲学から遠く離れた「ご利益」の宗教になって中国に伝わり、さらに中国の儒教や土着信仰が混ざり混ざったものが日本に伝わってしまったので、日本の仏教は哲学ではなくブッダを神格化してしまった「ご利益信仰」に変わり果ててしまったんですね。こうした「ご利益」を餌にして人心を掌握しようとして、日本では権力者が仏教を奨励したり、日本独自の神道を作り出して、やはり同じような「ご利益信仰」によって人々を支配してきたのが日本の歴史であったと言えます。つまり、宗教は権力者が人心掌握するための道具として機能してきたと言えます。
ご利益を餌にして人の心を動かす。残念ながらこれが日本に伝わった仏教の変わり果てた現実なんですね。ただ仏教の全てがそうではありませんでした。この辺りは話が長くなるので省きますが、仏教の全てを否定するつもりはありません。ありませんが、日本の仏教が御利益信仰に落ちぶれて、人々が迷信に振り回されたという事実は否定できないでしょう。そしていわゆる新興宗教と呼ばれるものも、このご利益信仰で人を騙せると知った悪い奴が後を絶たないというのも悲しい現実であり、それが統一教会や幸福の科学や創価学会であり、その他の有象無象のオカルト教団でもあります。
「この御本尊にお題目を唱えればどんな願いでも叶う。どんな病気でも治る。いくらでも金持ちになれる」創価学会は学会員さんをこうして騙してきました。現実には「どんな願いでも叶う」の代わりにお金を要求します。願いが叶わなかったら「それはあなたの信心が足りないから」と言われるだけです。たまたま病気が治ったら「信心のおかげです」となり、さらに多くのお金を要求されます。要求されるのはお金だけではありません。布教活動、選挙活動、各人材グループ活動、聖教新聞配達、聖教新聞啓蒙、書籍や民音のチケット販売…。学会員さんは知らず知らずのうちに、こうした無料奉仕をやらされます。言われたらなかなか断れません。「信心で受け止めなさい」と言われます。つまり「何がなんでも創価の言うことを聞きなさい」という意味です。「創価に逆らうと恐ろしいことになるぞ」という意味です。宗教的な人間関係ではこれが通用してしまうんですね。これは創価学会だけではなく、他の新興宗教もほぼ同じ形で信者の恐怖心をつつきながら言うことを聞かせるようにしています。
統一教会の信者が家族の制止を振り切って教団側の言いなりになってしまうのも、学会員が借金してでも財務を振り込むのも全く同じような騙され方、脅され方をされているからです。それがわからないのは騙されている会員や信者だけです。
昔、池上彰さんがMCの選挙特番で「あなたはなぜ公明党を応援しているのですか?」といった質問に対して「公明党の票を増やすと功徳があると言われているから」とテレビのインタビューで堂々と答える創価学会婦人部の姿がありました。まさに創価学会が御利益信仰で会員を騙している事実が浮き彫りになった映像でした。質問に答えた婦人部の方は正直に答えただけなのでしょうが、これがいかに民主主義の根幹を揺るがす恐ろしいことなのか、学会員さんは理解できないでしょう。
話が長くなってしまいました。すみません。
創価学会が一番恐れていることは、学会員さんが自分の頭で考えることです。自分の頭で考えれば、創価学会が単なる宗教詐欺であることがすぐにわかってしまうからです。そして実際に、自分の頭で考えることができた学会員さんは、次々に脱会して今に至ります。もう若い人は創価学会に騙されないでしょう。いまだに騙されているのは、ずっと自分で考える機会がなかった昔からの学会員さんだけです。そんな学会員さんばかりの組織が今後どうなるのか、火を見るよりも明らかであることは言うまでもありません。もう創価学会がたくさんの人を騙せる時代はとっくの昔に終わりました。あとは今後も騙され続ける会員さんが年老いていなくなるだけです。創価学会はそう遠くないうちに崩壊する、もしくは弱小カルト集団の一つになるでしょうから、昔のように声高に「創価学会は詐欺ですから気づいてください」などと言うのをやめました。でももし聞かれたら「あ、そうです、創価は詐欺ですけど何か?」ぐらいで片付けます。
ケイ2です。
自分で考えるということ。
今になって思うことは、会員時代、創価の指導をもとに考え行動しているのに、自分で考えて行動しているつもりでした。
私の場合は、2世で物心ついた頃から創価中心に50代半ばまで生きてきたので、こちらのブログに辿り着いて、シニフィエさんや皆さんが自分の頭で考える!とおっしゃっていることについて、えっ?私は前から自分の頭で考えているけどなぁと思っていました。
こちらのブログのおかげで、脱会するまでは早かったのですが、脱会してから徐々に自分の頭で考え方行動できるようになったと思います。スパッと切り替えられる方もいらっしゃるので性格にもよると思います。
まずは「あれ?創価っておかしい?」と疑問を持って、ネットで検索してこちらのブログに辿り着く人が増えれば良いなぁと思っています。脱会した5年半前は1日も早く創価崩壊を願いましたが、今はシニフィエさんがおっしゃいますように、衰退は時間の問題と私も思いますので、落ち着いた気持ちです(笑)
始めまして 毎回 説得力ある長分 お疲れさまです 現在 非活今後復活する気持ちはありません 強信家族の中にあって圏幹部を降りました。信心そのものも そして公明党(特に自公政権なって)に嫌気がさしました。最新の「宗教はなにも考えない 言われたことを実行するのみ-哲学は疑問そして深く考える」は非常に感銘しました。学生部の頃先輩が「宗教は哲学の実践である!」との発言に関心してましたが 創価学会をはじめとして今の宗教団体はそれが感じられません 書きたいことはたくさん有りますが:このコ一ナが末永く開く事を切願します。
4月8日 05:56にコメントしていただいた方、初めまして。
コメントありがとうございます。
すみませんが、お名前(もちろんハンドルネーム)だけでも決めていただけるとありがたいです。
他人を意のままに動かすには、自分で考えさせないようにするのが一番手っ取り早い方法だと思います。だから昔から権力者は宗教を支配の道具として使ってきたわけです。宗教そのものに善悪があるというよりも、それをどう使うのかによって良くも悪くもなるのだと私は考えています。そして伝統宗教は、そうした意味でも良くも悪くも存在してきました。ところがいわゆる新興宗教というのは、ほとんどが基本的に他人の心を支配してお金を巻き上げることを目的として作られてきましたので、一般的な宗教と同列に考えること自体がおかしいと思います。伝統宗教は功罪あっても宗教であるということですし、新興宗教はほぼ犯罪者とその被害者の集団ということです。そこはきっちりと理解しておかなければいけないと思います。
私は創価学会を批判していますが、批判の対象は創価学会を運営している上部組織であり、会員はあくまで被害者であるということです。しかしその被害者は草加批判に対して自分が批判されているものとしか受け取ることができないために、このブログにもときどき血相変えて殴り込んでくる現役学会員さんがいたわけです。真面目に騙されている学会員さんは、創価批判のブログに殴り込んできたり、日蓮正宗の信者とネット上で口喧嘩をするような余裕などあるわけないんです。さほど活動もしない中途半端な活動家が自己満足のためにやってるのだと思うようになりました。
ケイ2さん、いつもコメントをありがとうございます。
そうですね。創価学会はこれから衰退していくだけの新興宗教団体です。創価学会だけでなく、そのほかの新興宗教も大きくなることはないのではないかと思います。ほかの新興宗教はともかく、少なくとも創価学会はここ数十年の間に明らかに衰退しているという事実は誰の目にも明らかですし、そのことについてはこのブログでも何度も何度も具体的な事実を挙げて説明してきました。実際に座談会やその他の会合に参加したり運営した入りしている現役学会員さんが、その事実をいちばん目の当たりにしているでしょうから、分かりそうなものなんですが、目の前の事実を見ても認めようとはしないんですよね。それはいつも言うように自分で考えることを拒否しているからですよね。拒否しているというより、拒否するしかできない思考回路にさせられてしまっていると言った方がいいのかもしれません。学会員さんに敵はいません。なぜかというと周りが相手にしなくなったからです。でも学会員さんはいろんな敵がいると刷り込まれているので、仮想敵と戦うために、本当に大切なものを見失っているんですよね。それは統一教会の信者さんたちと同じです。なんでこんな単純なことが理解できないのだろう?と周りの人たちは思うから相手にしないで、選挙を頼まれても笑顔で適当に返事をしてその場をしのいでいるんですね。今は統一地方選挙の中盤ですが、相変わらず学会員さんは公明党支援に走り回っています。ただ公明党の得票数はもうずっと減る一方です。学会員さんが公明党の票をお願いしても「はいはい、わかりました」と返事だけして実際には公明党には入れていない人が圧倒的に増えたというのが現実でしょう。かつては900万票を獲得していた公明党ですが、今は600万票台となりました。もう時期500万票代になるんじゃないでしょうか。今回の選挙ではさらに減っているのであれば、もう学会員さんがどんなに頑張ろうと公明党が今より票を伸ばすことはないでしょうね。もうなんだかんだしなくても創価学会は自滅していくだけですから、創価に対してそれほど危機感を感じることもないと思います。あとは、現役学会員さんたちが生きているうちに自分で考えて、自分で気がついて、自分で創価から離れていってくれればいいのではないかと思っています。自分で考えない人と論争したところで、文字通り話にならないですからね。
久しぶりにサイトを検索したら再開されていて驚きとともに嬉しさがこみ上げてきました。
私は学会員の妻です。主人は名簿に名前があるだけの学会員で、私も子どもも入信していません。
問題は義父母がかなり熱心に活動している事です。
70歳を過ぎても自転車で新聞配達しており、お金がないので保険にすら入っていません。
危ないからやめるように言っても聞きません。
もちろん老後の貯金などもなく、帰省してもこちらのお金を頼ってきます。
数年前に貸したお金も1円も帰ってこなかったので私は絶縁しました。主人は最低限の連絡は取っているようです。
私は学会の教義や活動内容に全く興味はないので深い事は何も言えない身です。それでも学会員の方に言いたいのは、せめて自分の人生にもう少し向き合い、現実を知って欲しいという事です。
義父母の親類縁者、みな似たり寄ったりで他力本願な人間ばかりです。
こちらのサイトを長年見て最近思うことは、信者も被害者かもしれないという事。それでも迷惑を被った身としては穏やかにはいられない。
なるべく被害を被らないように、関わらないように生きていくしかないですよね。
同じ日本人なのに会話も成り立たないなんて悲しすぎますね。
パステルカラーです
シニフィエさん お忙しい中の新スレ立て
そして私へ毎回お返事を頂き
ありがとうございます
シニフィエさんが今回のスレに宛てた
文章を読みながらダンナは
創価が間違いだと気づくことなく
もし気づいたととしてもそこから
目を背けるのだろうと思うと何とも
複雑な気持ちになりました
先日までの選挙関連で公明聖教に載ったものを
幾つか羅列するだけにします
「わしが信頼する候補や!頼むよ!
役に立たんかったらわしの首をやる」
「歴史的凱歌へ押し上げを」
「大逆転へ正義の大連帯で勝ち進め」
「民衆の底力で栄冠つかめ」
「総力で押し上げ!断固と逆転勝利を」
先月ファミレスに家族で晩御飯に行ったのですが
私達が案内された席の後ろのオッちゃん2人が
店内中に響き渡る声で話していました
いやでも聞こえてくるので
聞くとはなく聞いていたら
「小さな声を聞く」とか「公明の議員は全国に
何千人」とか言ってました
2人かどちらかは壮年部だったんですね
まあさん、コメントありがとうございます。
学会員である義父母さんたちに心を痛められているんですね。
創価を信じて真面目に活動をしている学会員さんほど創価にお金を巻き上げられますから、いつまで経ってもお金に苦労します。私の両親もそうでした。父は公明党の議員でしたが、家が何軒か建つほどの金額の財務をしていたので、二人の姉が結婚する時も1円も出さなかったそうです。両親にしてみれば、創価にお金を出した方が二人の娘が幸せになれると本気で信じていたのでしょうね。こうした思考は統一教会と全く同じですよね。兄もかなりのお金が財務に消えてしまいましたので、びっくりするほど質素な生活を強いられていましたが、そんな現実に少しも疑問を抱かないまま癌が見つかって半年てあっさり死んでしまいました。創価にお金を出せば幸せになれると信じたまま、末期症状になるまで自分が癌に侵されていることもわからなかったというのが現実です。悲しい現実ですよね。
パステルカラーさん、いつもコメントをくださり感謝しています。
同居する家族が学会員であることのご苦労は察して余りあるものだと思います。パステルカラーさんにとって、私がここに書くことは辛くなるものだろうと思います。パステルカラーさんのご主人が勤行唱題をするかしないかで一喜一憂されているのも、家族の幸せを願ってのことだということもよくわかります。私の母も元気な時には、家族に何か心配事があると、毎日毎日何時間も仏壇の前に座って唱題を繰り返していました。それも母なりの家族に対する深い愛情の現れだと思っています。私の母は今はもう認知症で創価どころか、我が子の顔すらわからなくなりましたし、もう私の血のつながった身内に創価関係者は一人もいなくなりました。
私の場合は同居していなくとも、創価脳の兄夫婦の存在は本当に悩ましいものでしたが、その兄もなくなり、兄嫁ともほぼ会うこともなくなったので、気持ち的にも創価学会がとても遠い存在になりました。
3年前に創価脳のまま兄が亡くなり、同じ創価脳の兄嫁は創価の墓地に兄を納骨しました。私は高速で3時間近くかかる縁もゆかりもない創価の墓地に行くことも嫌だったのですが、兄がかわいそうなので納骨には参加しました。ただ、おそらく兄嫁もここに来ることはなく、来るとしたら本人が遺骨になった時だろうなあなどと思いました。ただ、兄嫁は学会員の身寄りがいないので、誰がここに兄嫁の納骨に来るのだろうとも思いました。私が兄嫁が亡くなったら、その墓地にある父と兄の遺骨を、私の地元の宗派を問わない墓苑に埋葬するつもりですし、私自身もいずれはその墓苑に埋葬されることを望んでいます。今そのことを兄嫁に言うわけにはいきませんが、実の父と兄の遺骨が創価の墓地にあること自体が嫌でなりません。だから、次に私が創価の墓地に来るのは、兄嫁がいなくなってから父と兄の遺骨を引き取るときが最後になると思います。
全国の創価学会員が高齢者となり、その数が減る一方ななかで、創価学会はこれからも衰退していくしかないというのが現実です。誰がどう見てもこれが現実でしかないのですから、現役活動家さんが何を言おうが、創価学会は何もしなくても統一教会や幸福の科学と同じように社会から孤立して、組織を維持できなくなったとき、つまり信者からお金を集めきれなくなった時に終了するのだと思います。学会員さんには、そのあからさまな現実に自分で考えて向き合ってほしいと思っています。