池田大作の死亡報道があったせいなのかわかりませんが、このブログのアクセス数やみなさんからのコメントも増えてきました。また初めてコメントしてくださる方もいらっしゃって、私としてもお一人お一人にお返事をしたいところなのですが、なかなかできないでいます。申し訳ありません。この場でお礼を述べさせていただきます。本当にありがとうございます。
学会員さんにとって、池田大作の死はそんなに悲しいことなのでしょうか?すでに13年以上も「先生はお元気です」と言われ続けながら、会員の前についぞその姿を現すことなく死亡が報じられた池田大作。彼が人前に出なくなったときに生まれた子どもは、もう中学生です(笑)。
先日、私の姉のところにときどき訪ねてくる婦人部長、今は女性部長というのでしょうか。彼女は私が男子部時代から婦人部長でしたから、もう相当な歳だと思われます。で、若いときに脱会している姉にいまだに選挙のお願いに来たり、もう何年も前に認知症で施設にいる母に財務をさせるように話をしに来るそうです。姉はそのたびに呆れ返ったと私に話をするのですが、先日は「池田先生からこのようなメッセージをいただいたので読み上げますね」と言って玄関先で読み始めたところを、姉は呆れて「読まなくていいです」とキッパリ断ったそうです。そうしたら一緒についてきた婦人部(女性部)と顔を見合わせて苦笑いしてたそうです。もうこの時点で学会員がいかに非常識かというには十分なのですが、私も姉も彼女らを責めたりする気はありません。というより彼女らは創価によって自分の非常識さもわからなくなった被害者だからです。もうとっくの昔に学会員ですらない姉に、13年以上も姿も声もない90歳超えた老人のメッセージだと言われている文章を、わざわざ家に押しかけてまで声に出して読んで聞かせようとする人を、普通の人がどう思うのかが想像できなくなってしまっている彼ら彼女らは、やはりかわいそうとしか思えません。しかも彼ら彼女らは、そんな精神状態にさせられているだけではなく、何かにつけてお金を搾取され続けているのです。その結果、家庭が崩壊したり、近所付き合いができなくなったり、職場を追われたりしています。決して幸せになんかなっていないし、幸せになれないのは創価のせいじゃなくて自分の信心がたりないからと言いくるめられて、ますます不幸になっています。このあたりは統一教会や幸福の科学の信者とよく似ていますね。
池田大作のメッセージを一方的に読んで聞かされそうになった姉は、さすがにあまりの非常識さにムッとして「その池田先生って何年も姿を見せませんよね?生きてるんですか?」と聞いたそうです。そしたらまた2人の婦人部は顔を見合わせて半笑いで「もちろん池田先生はお元気で執筆活動をバリバリされていますよ」と答えたそうです。
学会員さんはどこまで「先生はお元気です」を信じきれていたのでしょう。そして92歳で老衰で亡くなったとどこまで信じているのでしょう。ただ、学会員さんにしてみれば、創価を信じなければ自分の人生を自分で否定することになりますから、どんなにおかしなことでも信じないわけにはいかないということなんだと思います。私も創価が詐欺だと気づく前まではそうでした。おかしいなと思うことはたくさんあっても、もうそれ以上は考えないようにしようとしていました。考えないようにと必死で唱題したりしてたんですね。そうすると物理的に脳内にアドレナリンとかドーパミンのような脳内物質が分泌されて、何かしら高揚感や達成感が出てくる。そんな一時的な快感が疑問や不安をかきけして自ら思考停止してしまっていたんです。
このブログに寄せられる体験談として必ずと言っていいほど出てくるのが「罰への恐怖」です。創価はおかしいと気づいても、心の底に「バチが当たったらどうしよう」というわけのわからない恐怖心に悩まされた方がたくさんいらっしゃいます。私も最初はそうでした。これはもう理屈ではなく、長年、子どもの頃から言い聞かされ植えつけられてきた問答無用の恐怖心のなせる技なんですね。これは時間が解決するしかないと思います。おかげさまで私はもうまったくそんな恐怖心はありません。心に植えつけられた「バチがあたる」「地獄に堕ちる」といった恐怖心は理屈抜きに襲いかかってくるんですよね。今思えば本当にバカバカしい限りなんですが、当時の本人にしてみれば、それが世界の真実なんですね。これはちょうどハードディスクに刻まれた電気信号のようなものですから、上書きするしかないようです。忘れるというより上書きといった感覚が近いと思います。
ではどうやって上書きをすればいいのかという話になります。それは疑うということに尽きると私は考えます。疑うというと、何かしら後ろめたいイメージを持つ方もいると思いますが、人間はこの疑うという高度な知的作業によって真実を見極め、科学を発展させ、文明をつくりあげてきたのです。逆に信じるというのは、パッと見は素晴らしく尊い精神性のように思えますし、もちろんそのような側面もあるにはありますが、それ以上に恐ろしい面があることを認識しなくてはいけません。特に信じることを利用してどれだけの人間が騙されてきたことかを、しっかりと認識すべきだと思います。いつの時代のどの国にも蔓延り続けるいろんな詐欺行為は、この人間の「つい信じてしまう」という性質を悪用した犯罪ですし、新興宗教はもちろん、一般的な宗教もこうした人間の弱みにつけこむような欲望と恐怖心を煽ることで巨大な集金組織を作ってきたのが人間ですし、そんな中で起こるイデオロギーの対立による戦争の歴史が、いわば人間の歴史そのものだと言えます。信じることが尊くて疑うことは悪だと思っているとすれば、それは何の根拠もない思い込みというものです。いまどきの言葉を使うならバイアスです。人間はものすごい種類のバイアスの中で生きています。まずはそんな自分が知らないうちに囚われているバイアスを避けることが大切だと思います。じゃあどうやったらバイアスを回避することができるのか。それこそこの「疑う」ことが大切になってくるわけです。先ほど言ったように、人間は疑うことで文明を作り上げてきました。哲学は疑うことから始まりました。科学も疑うことから始まりました。「はたしてこれは本当か?」人間の人間たる所以は、この疑うという高度な精神であると言ってもいいと私は思っています。
疑うこととは考えることです。信じることとは考えないことです。人を騙そうとするなら、相手に考えさせないことです。つまり信じさせること。これが詐欺の極意です。創価学会は会員さんたちをどうしてきましたか?ひたすら「自分で考えるな。このご本尊を信じなさい。創価を信じて創価の言うことを聞けば必ず幸せになれるが、もし創価やご本尊を疑ったりしたら永遠に地獄で苦しむことになる」こればっかりですよね。子どもの頃からずっとこう言い聞かされてきた人間が今の学会員さんたちです。創価がおかしいと感じても、ちっとも幸せになれないと思っても、それは自分がご本尊や創価を信じきれていない自分のせいにしてしまっているんです。そう思わされているんです。だから堂々と疑っていいんです。疑わなくちゃダメなんです。疑えないなら人間じゃなくなるんです。そう、創価は会員を人間ではなくしているんです。とんでもない人権侵害が会員のお金と幸せを奪い続けてきたんです。
まだ創価学会を信じたいと思っている学会員さん。よく考えてみてはいかがでしょう。もし創価学会が正しい宗教なら、なぜ自分のまわりの学会員さんたちは幸せそうに見えないんだろう?なぜ学会員ではない人のほうが幸せそうな人が圧倒的に多いんだろう。なぜ学会員は減り続けているんだろう?なぜ創価学会に若い人がいないんだろう?と、この目の前にある疑いようのない創価学会の現実について、自分の頭で考えてみてほしいんです。目の前の現実を現実として受け止めることができれば、今までありもしないバチや地獄を怖い怖いと闇雲に怖がっていた自分が滑稽に思えてくると思います。
今回のテーマ「創価学会のこれから」は、池田大作亡きあとの創価学会がどうなるのか、学会員さんに冷静になって考えてほしいという思いであげました。これまで創価は会員に対してずっと池田大作の存在で心を縛りあげてきました。裏を返せば池田大作の存在なくしては組織を維持することができないということです。だからこそ13年以上もどこで何をしているのかすら知らされないまま「老衰で亡くなりました」で終わるしかなかったのです。会員にとっての精神的支柱を失った創価学会に、いよいよ未来はないと言っていいでしょう。
これまでこのブログでもずっと指摘してきたように、創価学会はすでにその組織活動ができなくなるほど会員の高齢化が進んでいます。女子部が婦人部に統合され女性部となり、聖教新聞の配達を会員にさせられなくなったこともそのひとつの現実です。もはや創価学会は老人会の様相で、これから若い人たちが増えることなど考えられないでしょう。これまで創価学会の組織活動の中心は、いわゆる団塊の世代でした。そしてその団塊の世代がこれから急速に減っていくのですから、もう何がどうなろうと創価学会衰退の勢いは止まらないでしょうし、この現実を現実として受け止めきれない会員だけが最後まで創価の餌食になるしかないのだと思います。
このブログにコメントをくださるみなさんのほとんどが、自分の頭で考えることができたからこそ創価のおかしさに気づいた方です。このブログはその考えるきっかけにはなりますが、あくまでも自分で考えることができたからこそだと思います。何の根拠もないことを信じていた自分を客観的に見ることができたからこそだと思います。信じること。疑うこと。何を信じて、何を疑うべきなのか。それは疑いようのない現実をもとに自分の頭で考えてこそのものだと思います。
これからの創価学会。それはこのまま、あるいはこれまで以上に衰退の一途を辿るしかないでしょう。現在の創価がすべてを物語っていますし、そこに池田大作という唯一の求心力を失ったのですから、創価学会消滅は時間の問題でしかないのです。
そんな現実の創価学会をどこまで信じていくのか、はたして信じていいものなのかどうか。学会員さんには今一度自分で考えてほしいと思います。そしてその考えるきっかけになっていただけるように、このブログはこれからも地道に続けていきたいと思います。