創価脳の彼氏(彼女)のもたらすもの

先のスレッドでの、ゆんちゃんさんからの問いかけは、とても切実な問題だと思います。この問題はあらためて皆さんからのご意見を伺うべきものだと思いましたので、別のスレッドとして作りました。ゆんちゃんさんからのコメントは以下の通りです。

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こんばんわ。
ブログが再開したときに1度コメントさせていただきました彼が創価学会のゆんと申します。
脱会された方、おめでとうございます☆

今回のタイトルと主旨が違うことをわかっていてどうしても覚醒された方、脱会された方にご相談がありコメントさせていただきます。
signifieさま、もしダメでしたらコメント削除お願い致します。

現在、創価学会3世の彼と婚約破棄手前です。もちろん創価学会が大きな壁となっております。いろいろ自分の意見を言いましたが聞く耳持たず…。『ネットの情報は嘘ばっかりやから自分で見て、やっていいか悪いか判断してほしい。ネットを信じるか俺を信じるか…わからんことがあるんやったらネットぢゃなくて俺に聞いてくれたら答えるし、答えれやんことやったら一緒に会館とかに行って一緒に学ぶから』と言われています。私は彼を(創価学会のこと以外)信じています。なので私が彼にネットで見た疑問に思うことに答えてほしいって話をしました。
実際私は疑問に思うことばかりをネット上で探そうとは思っておらず100%創価悩の彼が創価学会ってもしかしたらなんか変?と1%でも0.01%でも思ってもらえるブログ記事を探しております。
創価学会ではない私がどのブログ記事、どのコメントを読んでも説得力があり納得できるのですが創価悩となれば創価シャッターが…
この”対話を求めて”を読まれてる方は創価学会って変?と思われた学会員の方が完全に覚醒できるきっかけとされるものだということはわかっているのですが、この”対話を求めて”で覚醒された方はどのブログタイトルの記事やコメントがきっかけだったか教えていただきたいです。

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30年前の私が、ちょうどゆんちゃんさんの彼氏さんのような立場でした。とても他人事とは思えません。創価の詐欺によって人の一生が変えられてしまうんです。本当に創価の洗脳とは恐ろしいものです。ここでは「創価脳の彼氏(彼女)のもたらすもの」というテーマで皆さんからのご意見やアドバイスをいただけたらと思います。

なお、先のスレッド「創価学会の本音」は引き続きコメントを募集します。

二つのスレッドを同時進行させていただきますので、よろしくお願いします。

活動家時代の本音

第3シーズンに入ってから、とくにテーマ設定についていろいろと考えました。それは第2シーズンとまるきり同じでは失速してしまうんじゃないかとか、このブログも6年目に入ったのだから、単にシーズンが更新するだけではなくて、内容的にも変化しなくては続かないんじゃないかとか。それで皆さんからテーマについてのアイデアをお尋ねしました。皆さんからのご意見を参考にさせていただきつつ、第3シーズンの方向性を模索してきたわけですが、その結果、おかげさまで第3シーズンのカラーが見えてきた気がします。これまでと大きな変化はありませんが、まずは創価が詐欺であることの揺るがない事実を積み重ねるというこのブログの本来の立ち位置をより強化する方向で進めていきたいと思います。そしてもっと具体的にそれぞれに創価時代を振り返って、それらのことがいかに理不尽であり、反社会的であり、人間の幸せとは程遠いものなのかを浮き彫りにできたらと思います。

で、とくにこれからの展開で気をつけたいのは、私たちも気づく前までは同じような思考で同じようなことを平気でやっていたのですから、創価とは関係のない人から見れば「目くそ鼻くそ」みたいなものかもしれないということです。でも実際に現役の学会員さんの気持ちがわかるのは、実際に学会員として活動経験のある人間だ思いますので、たまたま自分が先に創価が詐欺だとわかったからといって、まだ気づかない学会員さんをボロクソに批判したところで、何の問題解決にはならないとも思います。そうした意味も込めた上で、みなさんそれぞれが学会員だった頃の本音を積み上げていければと思います。そういう意味でも前のスレッドで話題になっている「池田の顔は気持ち悪い」というのは、言いたくても言えなかった、しかしそれが本音だった。その言いたくても言えないのが創価学会だったということです。池田の顔に限らず、活動の一つひとつが正直なところ辛くてたまらなかったけども、これも人間革命や一生成仏や世界平和のためなんだと、これが自分がこの世に生まれてきた理由なんだ、使命なんだと。一生懸命自分に言い聞かせていた。いつの間にか家族がバラバラになり、近所付き合いが希薄になり、一般常識が理解できなくなり、精神的な病に陥ってしまう学会員がどんどん増えてきたんです。

かといって「自分は気づいちゃったし、気づかないやつに何言っても一緒だということは誰よりもよくわかるから、もう創価のことなんて知りませ〜ん」とならないのが創価問題の根の深いところです。創価学会がただの詐欺であれば、詐欺だと気づいて「高い授業料だった」として終われるのでしょうけど、創価の場合は創価に残っている家族がいる人にとってはいつまでも終わりはありません。また、取り返しのつかない年齢まで騙されてしまうと、もういっそのこと騙されたまま死んだほうがマシなんじゃないかという状況も出てきます。それほど創価はほんとうに恐ろしい犯罪です。

このブログにたどり着いて創価が詐欺だと気づいた方もずいぶん増えました。ただ、このブログにたどり着いたという時点で、すでに気づいていたと言っていいのではないでしょうか。あとは皆さんの体験を読んで、自分の考えや感覚は間違いではなかったということが確認できたということだと思っています。

つまりこのブログは覚醒のためのブログではなく、覚醒を確認するためのブログだと思います。例えば今の創価は間違っていると確信している例の三人組がこのブログを読んでも、もとから創価が詐欺だなんて絶対に認めないでしょう。これだけの人たちの声を全部読んだとしても、彼らにとって池田大作は永遠の師匠だと言い張るはずです。サイレントアピールや各地での座談会の開催や、告発本の出版と外国人記者クラブでの会見などの積極的な行動をしても、彼らの中での創価学会は世界平和を目指す世界一の尊い宗教団体なのです。本部職員として働く中で、どんなに理不尽なことが目の前で繰り広げられても、自分が信じた池田大作が間違っているはずはないという思考から一歩も踏み出すことはありません。彼らの外国人記者クラブでの会見をネットで見ました。彼らのブログに書いてあること以上の話はしませんでしたので退屈なものでした。ただとても面白かったのは、後半の記者からの質問と、それに対する回答がしどろもどろだったことです。外国人記者はとても簡潔に問題の本質をつく質問をしてきました。それに対して三人組はほぼ何も答えることができていませんでした。私が感じたのは、彼らは自分たちが主張することの、つまり本来の創価学会は正しいのだということの理論的な考証を行っていないということです。彼らの頭の中にあるのは自分の考えではなく、小説『人間革命』に書かれていたことがそのままの状態であるだけです。つまり「小説『人間革命』に書かれていたことと、今の創価がやっていることが違うではないか」ということを言ってるだけのことです。だから日本の社会の中での創価学会の位置付けを問われても何も答えられません。自分たち以外に現在の創価に異を唱えるものはいないのかという質問にも「いない」としか答えきれない。正確には「知らない」というのが妥当な答えでしょう。考えようとしないから知らないんです。自分たちが理想としてきた小説『人間革命』に描かれていた池田大作創価学会と、目の前の現実である創価学会がまるで違うということしか頭にないようです。ではなぜ自分たち以外に今の創価に異を唱えるものがいないのか。なぜ自分たちが理想とする創価学会と今の創価学会がまるで違ってきたのか。そのことについて考えたこともないから、ただ単に話を聞いてくれない執行部を悪者扱いにして、自分たちの正当性をデモや集会や出版という形で主張する。これでは親から叱られて自分は間違っていないと泣きじゃくる駄々っ子でしかないと思います。

例え話が長くなってしまいました(笑)

要は、学会員はたとえ創価に疑問を抱いたとしても、必ずしも覚醒までたどり着くとは限らないということですね。ここを恐る恐る読んでいる学会員の皆さん。もうすでに創価への疑問はぬぐえない状況ではありませんか?でもまだ創価が宗教だと思い込んでいるので、疑ったら罰が当たって何かしら悪いことでも起きるんじゃないかと半信半疑という方もいるでしょう。べつに無理に気づいてくださいとは言いません。ただ自分の人生について自分で考えることを放棄しているという現実には、きちんと向き合ってはいかがですか?とまでは言いたいのです。それでどうするかは自分次第です。創価の罰が怖くて、やっぱり自分では今までと同じように何も考えずに組織の言う通りの人生を送りますというのであれば、それはそれであなたの人生です。いずれにせよ、答えは自分で出す以外にないということまでをも創価に委ねてしまうのは如何なものかと思いますけど、余計なお世話かな。

ということで、今回のテーマは「活動家時代の本音」ということで、活動家の時に言いたくても言えなかったこと。たとえば「池田の顔が気持ち悪かった」でもいいです。本当は何部も聖教新聞とりたくなかった。配達したくなかった。家庭訪問したくなかった。幹部に文句の一つも言いたかったけど罰が当たると思って言えなかった。などなど、とにかく自分の本音が一切出せなかった学会活動の現実を、かたっぱしから思い出して語ってください。そしてそんな創価の現実から抜け出すことができた今現在の心境を語ってください。もしかしたらこれを読んでいる学会員さんが「ああ、それ確かにあるよなあ。自分のことだよなあ」と思ってくれるかもしれません。また、脱会した人でも「なるほど自分では気づかなかったけど、そうとう我慢したり、自分の心を自分で押し殺してきたよなあ」と今になって気づくかもしれません。

創価がじつは一切本音の言えない組織であることに気づくこと。いや、一切本音を言わせないような組織であることに気づけば、組織がなぜ会員を罰の恐怖で縛りあげてきたかの理由にも気がつくのではないでしょうか。

罰なんかなかったよ 2

今回の『罰なんかなかったよ』のテーマに怒涛のコメントありがとうございます。
創価が宗教ではなく詐欺だという覚醒にあたり、「功徳はない」と気づくことよりも、この「罰はない」という気づきの方が大きいとあらためて思いました。創価が宗教だろうが詐欺だろうが、功徳がないのは当たり前のことです。そもそも功徳欲しさで何でもしてしまうというのは、宗教以前に人として最低の行いであることに気づかないのがおかしいのですが、それよりも「罰が当たる」「不幸になる」という恐怖心によって操られていることに気づかない、気づこうとすることさえ恐怖心によってできなくなっているということの恐ろしさがあるということですよね。学会員は知らないうちに「創価に逆らうと不幸になる」と徹底的に刷り込まれていますから、どんなに創価がやっていることがおかしいと疑問に思っても、「不幸になる」「何か不吉なことが起こる」「一生幸せになれない」という恐怖心がもれなくついてくるので、「創価がおかしいわけがない」と自分に言い聞かせるか「凡夫の自分が考えたところでどうにもならないんだから考えないようにしよう」となってしまいます。思えば私もそれで10年は覚醒が遅れた気がします。
みなさんの実体験として、「罰なんかなかった」と声を上げることは、創価がおかしいと気づき始めた学会員にとっては、いちばん救いのある言葉ではないかと思います。実際に創価をやめてみてどうなったか。罰が当たったと思えるようなことがあったのかどうか、みなさんの実体験をどんどんここに披露して下さい。

今回のテーマは引き続き『罰なんかなかったよ 2』とさせていただきます。

罰なんかなかったよ

みなさん、たくさんのコメントありがとうございます。
とくに第3ステージになってから、コメントの内容がますます深くなっているように思われます。あのような形で休止になって、今後どうやって再開したらいいのか、またどのような形で継続できるものなのか、正直わかりませんでした。テーマ設定にしても、これまで通りでいいのかもわかりませんでしたので、手さぐりの再開でした。幸い皆さんからのコメントが以前と同じくらいの数になりましたし、以前よりも増して内容が深くつきささるようになっていると感謝しています。
皆さんから次々と寄せられる創価の恐ろしい実態は、少し読んだだけでも、創価学会がまともな宗教ではないことなどすぐにわかることなのですが、皆さんが一様におっしゃるように、創価に騙されている間は、そのことにどうしても気づけない。そしてその原因が気づくことに対する異様なまでの恐怖心がそうさせているということもはっきりしました。もともとありもしない功徳と罰に翻弄され、自ら人生を狂わせている学会員さんが、1人でも多く皆さんの渾身の訴えを目にすることで、なんとか自分で自分の人生を考えるきっかけになってくださればいいと、ますます願わずにはおれません。
学会員さんに「創価の活動をいくらやっても功徳なんかないよ」といくら伝えても、それはその人の人生を頭ごなしに否定するだけのことになってしまうし、創価はそうしたときの都合のいい言い訳もちゃんと用意しているので、学会員さんは自分にとっての都合のいい言い訳として、ますます創価の殻に閉じこもってしまいます。
それよりも「創価を疑っても罰なんかないよ」と伝えるほうが、いくらかは届くのではないかと思うようになりました。学会員さんは創価を一途に信じようとすることで、罰への恐怖心を無理やり消し去ろうとします。一心不乱にカラーコピーの曼荼羅に題目を唱え続けるのは、仏教が一神教的な他力本願のおねだり信仰と勘違いした上での「功徳が欲しい」というのもあるでしょうが、同時にどうしても心の底から湧き上がってくる創価への不信感、あるいはどうしても不信を抱いてしまう自分の心を否定しなければ恐ろしくてしかたがないといった恐怖心を、思考停止によってごまかそうとしているように思えて仕方ありません。日々の勤行唱題は、真面目な信者でいることの安堵感というよりも、現実の問題を勤行唱題によって逃避し、そんな自分の心の底から湧き上がる不信感と恐怖心を、さらに勤行唱題によって封じ込めてしまう日々なのだと思います。現実の問題が解決されないばかりか、自分の心を否定し続けることの日々がいつか精神のバランスを崩してしまうのは当然のことだと思います。勤行唱題というのは、アドレナリン分泌によるその場限りの高揚感と現実逃避をもたらすだけであって、何一つ問題の解決にはなりません。
「今の自分を疑っても罰なんかないんだよ」と言ってあげるのは、じつは学会員さんが心のそこに封じ込めているいちばん望んでいる言葉なのではないかと思いました。それを他人が言ってもなかなか通じるものではありません。要は最終的に自分が自分に対して「疑っても罰なんかないんだよ」「自分の心に正直でいいんだよ」と言ってあげられる。つまり何よりも自分を信じることが大切なんだと気づくことで、初めて自分が何をしてきたのかが理解できるのだと思います。
このブログにある20000近くのコメントは、そんな「創価によって自分を見失っていた人たちの赤裸々な記録」です。これから30000、50000、100000と積み重ねていきたいと思います。これこそが創価学会の実態であるという動かし難い実証を、これからも皆さんとともに残していきたいと思っています。どうかこれからもよろしくお願いします。
ということで、今回のテーマは「罰なんかなかったよ」とさせていただきます。「創価を疑うことは死ぬほど怖かったけど、思いきって自分の心に正直になったら、まったく恐れることはないし、もちろん罰なんかあるわけないこともすぐにわかったよ」という皆さんの体験のお話しをお願いします。

それと、おかげさまでこのブログの500万アクセスが、どうやら来年の1月末に達成できそうです。そのときはまた皆さんでお祝いしましょう!これまで100万アクセス達成ごとにお祝いしてきましたが、今度はなにしろ5000000アクセスなんですから(笑)いつもよりもっと派手にお祝いしたいですね(^ω^)

考えると恐ろしくなる自分

今回は「創価がなんかおかしいんだけどな」とちょっとだけ疑問を抱いている学会員の皆さんにお話しします。

一度全ての自分の先入観を捨て去って、シンプルに考えてみて欲しいんです。と言われてもそう簡単にできることではありません。私たちは先入観によって多くのことを判断して生きているからです。でもそこで一度でいいからあえて先入観を捨てることを頑張ってみてください。いいですか。決めつけなくたっていいんですが、仮に「創価学会が宗教ではなく詐欺だとしたら」と仮定して創価が言ったりやったりしていることを冷静に眺めてみてください。仮にだから無理しなくていいんです。あくまで仮定の上で、まずはぼんやりと自分がイメージしている創価学会のことを思い浮かべてみてください。そうした中で、いつも教えられている「創価は世界で唯一の正しい宗教団体だ」という前提で見たときと、このブログで一貫して訴えている「創価は会員をことば巧みに騙してお金を巻き上げる詐欺団体だ」という前提で見たときに、創価学会が実際に言ったりやったりしていることとは、どちらの前提がしっくりくるかということを、いちど先入観を捨てて考えてみてください。先入観を捨てシンプルに自分の気持ちを見つめてみることは、決して悪いことではないのですが、その考えて見るという中で、なんとなく「自分は創価を疑おうとしているのではないか?」といった気持ちになると思います。と同時に、言い知れないようなわけのわからない恐怖感が湧いてきませんか?

このように自分の気持ちについてあらためて考えてみること自体は、決して悪いことではありません。ところが創価を疑ったら不幸になると脅され続けていると、恐ろしくてそんな仮定の想像すらできなくなります。私が言いたいのはそこです。その疑うことに異常なほどの恐怖感を感じてしまう自分がいるという、まさにその事実について「自分は創価を疑うことになんでこんなに恐怖を感じているのだろう?」と考えてみて欲しいのです。
もう一度訊きます。自分のことについて自分で考えるということは悪いことでしょうか。「自分が何かを考えただけで不幸になってしまうと恐怖感を覚えてしまう自分ってなんか変なんじゃないか?」って思いませんか?

何かしら恐ろしい状況を想像する。例えばストーカーにつけまわされるとか、高速道路での走行中に他の車が突っ込んでくるとか、そんな状況を仮定して恐怖を感じるのなら話はわかります。誰だってそうですし、恐ろしいと思うのは当然だし、人間も含めた動物にとっての恐怖感は、生きていく上での危機管理としてなくてはならないものです。逆にそうしたことに恐怖を感じなければ安全な生活できません。何かに恐怖を感じるというのは、とても自然なことだということです。でも、自分が正しいと信じている創価学会のことを、ちょっと「変だな 」と考える自分に恐怖を感じてしまうということ自体は、決して自然なことではありませんよね。でも実際に創価を疑おうとするだけで恐怖感に襲われるという現実がここにある。一体これはどういうことでしょうか?
結論から言えば、知らないうちそのように思い込まされているということではないでしょうか。こんなことに自然と恐怖を感じるなんてそれこそ不自然です。ということは自分が知らないうちに、さもそれが当然のことように感じるよう意図的に教えられたということではないでしょうか。

本来は恐怖感を抱くようなことではないはずのことに、異様に恐怖感を感じてしまう自分がいる。このわけのわからない恐怖心が嫌でたまらないから、考えることそのものを放棄してしまう。いつしかそうしたことを考えることを最初から放棄してしまう。これが学会員さんに共通して見られる思考停止というものです。このブログでは「創価シャッター」と名付けています。

大切なのは、まさにこうした自分の現実。知らない間に思考停止してしまっている自分がいるという現実から目をそらさないことです。本当なら決して難しいことではありません。これが普通に物事を考えるということだからです。もしここまで読んできて「あれ?そういえばそうだよな」と思えることができたら、話は早いと思います。要するに、学会員さんは何かにつけて「疑ったりすると恐ろしいことになますよ」と脅され続けていますから、普通の人が普通に考えることが、学会員さんはできなくなっているということだからです。今の時点で創価がいいのか悪いのかそれはわからない。いや、おそらく創価悪いはずがないと信じているでしょう。でもあらためてそのことを考えようとしたときに、その考えることそのものに恐怖を覚える自分がいることは決して否定できないはずです。

はたから見ればそれは異常なことなんです。でもあることを考えた瞬間に思考をストップしてしまう自分がいるとすれば、逆に自分のことを自分で考えることを自分で許すことができたなら、創価が詐欺であることぐらい、誰にだって理解できるということです。

このブログでコメントしてくれている多くの皆さんが同じように言われるのは「なんでこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう」ということです。つまり創価を疑う、あるいは創価について自分で考えることと条件反射的に恐怖心とをくっつけて、それ以上怖くて考えきれないようにさせられているということです。だから、あえて自分で考えることを頑張ってやったら、創価が詐欺だなんて当たり前のことはすぐ合点がいきます。ただすでに無意識に植えつけられている恐怖心のメカニズムですから、そう簡単に消えてなくなるものではありません。だから頭でわかっていても、その恐怖心が何かのきっかけで襲ってくるのは、むしろ当然とも言えます。来る日も来る日も「創価は正しい宗教団体だ」「これを疑うと恐ろしいことになる」と教え込まれてきたわけですから、その恐怖心が消えるのは、人によっては教え込まれてきた時間と同じぐらいかかるのかもしれません。

まずは自分で考えることに恐怖感や違和感を覚えないことが大切です。変な話ですよね。自分で何かを考えるだけで恐ろしくなって震え上がるような自分って。そんな変な自分から抜け出す努力をしてもいいんじゃないかと私は思います。

いかがですか?今はまだ創価を疑うなんてこと自体がおかしいと信じているでしょう。その気持ちはよくわかります。私やここにいらっしゃる皆さんのほとんどがそうでした。でも、創価を疑うこと自体に、自分でもわけがわからないほど恐怖を感じている自分がいるということまでは否定できないのではないですか?だったら、そんな恐怖を感じている自分という現実にまっすぐに目を向けることは、決して悪いことではないと思いますが、いかがでしょうか。

ここの皆さんは、こうして現実に向き合ってきました。その結果、今まで正しいと信じて疑わなかった創価学会が普通に考えて詐欺だということが理解できる自分になったんです。これをこのブログでは覚醒と呼んでいます。でも、覚醒って言ってもそんなに大げさなことじゃないんです。最初から言ってるように、「自分のことを自分で普通に考えることができるようになる」ということです。これって本来普通のことなんですよ。これができないようになっている学会員さんが異常なんです。いや、異常な状態にさせられているということです。

最初は大変だと思います。創価のことをちょっとネガティブに考えてだけで、わけのわからない恐怖が襲ってくるんですからね。でもそこでひるんでは今までと同じ思考停止人間でしかありません。そのわけのわからない恐怖心と戦うんです。何を持って戦うのか。それは目の前の現実をしっかりと受け入れるということだと私は思います。逆に言えば、学会員さんはどんなおかしな現実を目の当たりして反射的にガラガラと創価シャッターを下ろすことによって見えなくなる。現実を見なければ恐怖心がなくなるからです。だから自分で考えることと恐怖心を切り離すこと。これを目指して創価学会にまつわる目の前の現実を徹底的に考えてみてください。きっとある日、ポンッとわかるときがきますよ。「今までなんでこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう〜っ!!」ってびっくり仰天するとともに、人によっては今までやってきたことにとんでもなく後悔するのも事実です。これでここの多くの皆さんが苦しんでいるんです。そんな方たちの話なんだということを頭に入れてからここの皆さんの話を読んでほしいです。

ということで、思いがけず長くなりましたが、今回のテーマは「考えると恐ろしくなる自分」とさせていただきます。皆さんはもう覚醒されているので、上に話したことはよく理解できると思います。今回はこうした自分の過去(創価脳時代←悲しい時代ですね)にあった恐怖体験を具体的にお話ししていただければと思います。その時はそこまで思わなかったけれども、考えてみたらあれは恐怖に心を縛られていたから、あんなふうになっていたんだろうということでもかまいません。気がつけば何のことはないのですが、気がつかないうちは本当に不思議なくらい「創価は正しい」ととんでもなく思い込んでるんですよね。これはもうとんでもない暴力です。だって創価を悪く考えたら恐ろしい目に合うどころか、末代まで地獄をさまようことになるぞと脅されるんですから。そしてその恐怖から逃れるには創価にありったけのお金を貢ぐしかないと信じてしまうんですからね。その挙句、晩年になっても一つも幸せにはならなかったことに気がついて、一生を絶望感のなかで閉じることになる。あるいは死ぬまで自分の不幸に気がつかないまま終わってしまう。創価はこうやって人を不幸にし続けている団体だということを、ちょっとでも創価のことや自分のことを考え始めた学会員さんに向けてお話しをしていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

創価脳の家族にほんとうに言いたい事

前スレのコメント欄で、常連のラザリスさんが懐かしい話を振ってくださいました。

2年前の秋に書いた「おじいさんとおばあさんと薬のお話」です。近頃このブログにたどり着いた方はご存知ないと思いますので、ここに再掲させていただきます。

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『おじいさんとおばあさんと薬のお話』

昔むかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。二人とも歳はとっていましたが、飲むだけで元気になるという噂の薬を毎日飲んでいました。おじいさんはそれを薬だと思っている。もちろんおばあさんも同じようにずっと薬だと思って飲んでいたのだけども、なかなかこれといった効き目がないものだから、なんかおかしいなと思い始めました。そして同じようにその薬を飲んでいた近所の人に訊いてみたら「あれは薬じゃない。何にも効かないよ。まだ飲んでたの」と言われました。

おばあさんはビックリして、他の多くの人にも訊いて回ったのですが、みんな「あれは薬なんかじゃないよ。みんなそれがわかったから、あの薬屋には行かないようになった。行ってるのは何も知らずに薬だと信じている年寄りだけだよ」と言っていました。それでおばあさんはよくよく考えてみることにしました。自分のこれまでの体験にも照らし合わせてみたところ、それが薬じゃないと仮定したら、みんなつじつまが合うのでした。そこでおばあさんはおじいさんのことを思って「それはじつは薬じゃななかったんだよ」と言いました。

おじいさんは思ってもみないことを言われたのでビックリすると同時に、おばあさんは頭がどうかしたんじゃないかと心配になりました。ついこのあいだまで一緒にこの薬を飲んでいたのに、なんで今さらそんなことを言うのかわかりませんでした。おじいさんは薬屋から「これは絶対よく効く薬です。でも元気になると信じて飲まなければ効きません。効き目を疑ったりしてはいけませんよ」とくりかえし言われてきたことを思い出して、薬をやめようとはしませんでした。おばあさんはそんなおじいさんの姿を見て、なんとか薬をやめさせなければと思い、客観的な証拠をたくさん集めておじいさんを説得しようとしました。しかしその薬を疑うことで効き目がなくなることを恐れたおじいさんは、おばあさんの話を聞こうとはしません。かえってそこまで言うおばあさんは自分のことを嫌ってるんじゃないかなどと疑心暗鬼に陥ってしまいました。

そんな態度のおじいさんを見て、おばあさんはとても悲しくなりました。「おじいさんはどうして私の言うことを信じてくれないんだろう」とさらに考えました。そしておばあさんはこう思ったのです。「おじいさんは薬を信じているのではなくて、薬をくれている薬屋のことを信じているんだわ。だから薬が効いてなくても効いているような気になってるのよ」。おばあさんはその薬局のことを調べました。するとその薬局では、お客さんに「これはよく効きます。でも信じなかったら効きません。それに効かないと文句を言ったりしたら、今まで飲んだ薬の効き目もなくなってしまいますよ。そして薬を飲むのをやめたりでもしたら、病気になってしまいます。初めから飲まない人よりも悪くなるんです。ですから絶対この薬はやめないでくださいね。はい、今月のお薬代1万円」。

おばあさんはビックリしました。「薬を飲まない人よりも具合が悪くなるだなんてどういうことでしょう」おばあさんはますますこの薬局は怪しいと思って、さらにいろいろと調べてみました。するとこの薬局はときどき薬の内容を変えていたのです。つまり仕入れ先ともめて、いままでの薬が仕入れられなくなったものだから、その薬の成分表を仕入れ先から盗んで、自分たちで勝手に薬をつくって売るようになりました。お客さんには「こんどお薬の中身が変わりました。今度の薬はもっと効きますよ。じつは今までの薬にはちょっと問題があったので、私たちでもっといい薬を開発したんです。今までよりちょっと高いんですけど、安心して飲んでくださいね。私たちがいい薬を作ったものだから、いままで作っていた仕入れ先が私たちのことを妬んで、あることないこと言ってますけど気にしないでくださいね。それから、飲んだことのない人にも紹介してくれたら、この薬はもっと効きますよ。これはそんなとってもありがたい薬なんです。でも効き目を疑ったりしたら毒になってとっても苦しみますから注意してくださいね。はい2万円」。

もうおばあさんはビックリ仰天です。ただの薬屋が、勝手に薬までつくって売ってるのですから、それは驚きます。これでその薬屋が完全に怪しいことがわかりました。「やっぱりこの薬屋は効きもしない薬を客に騙して売りさばいて金儲けをしているんだ」おばあさんはやっと気がつきましたが、おじいさんにそのことをいくら話しても聞こうとはしません。おじいさんはそんな話を聞いたら、今まで飲んできた薬が効かなくなるどころか、病気になると思って怖がっているからです。そしておじいさんは、あろうことかおばあさんが自分を病気にしようとしていると思い始めました。「こんなばあさんの話なんか聞いてられるか」と、あんなに仲の良かったおじいさんはおばあさんを憎むようになってしまいました。おばあさんは途方に暮れます。「おじいさんのためを思ってここまで言ってあげているのに、どうしてわからないんだろう。いままで何十年もいっしょに暮らしてきた私をさしおいて、あんな薬屋の言うことを信じるなんてあんまりだわ」おばあさんも、いいかげんおじいさんを嫌いになり始めました。

おばあさんは、その薬を何十年も飲んできました。その薬を飲んで来たからこそ、たいした病気もせずに、おじいさんと仲良く暮らして来れたと、その薬に感謝もしていました。でもよく考えてみると、この薬のおかげで元気だった証拠なんてどこにもありません。それにこの薬をやめてずいぶんとたちますが、体調の変化もありません。ただおじいさんのことが心配で、不眠症になったぐらいです。そこでおじいさんが飲んでいる薬の成分が何なのか調べてみました。そしたらなんとただの小麦粉だったではありませんか。おばあさんは愕然としました。「私とおじいさんは何十年も何千万円も出して小麦粉を飲んでいたんだ」おばあさんは気が遠くなりそうでした。

そこでおばあさんは気を取り直して、もう一度よく考えてみました。「おじいさんはどうしたら気がついてくれるだろう?」「もし自分がおじいさんの立場だったら?」「みんなどうしてあんな薬屋の言うことを信じてしまうんだろう?」いろんな疑問が次々に湧いてきました。そしてこう思いました。「みんな何かを信じている。何かを信じるには、それなりの理由があるのだけど、それは科学的な根拠だとか、目の前の事実だとか、そんなものは理由にならないんだ。どんなことであっても、いったんその人がそれが正しいと信じれば、その人にとっての真実になってしまう。たまたまこの薬を飲んだときと、病気が治ったことが重なって、この薬のおかげだと信じきってしまうのも当然だわ。だってそう信じたいんだから。信じるって、信じたい気持ちが、ものごとをそんなふうに見せるのね。でも、この世の中に何があっても動かない絶対的な真実なんてありはしないとお釈迦さまも言ってた。あるのはその人にとって都合のいいことを真実だと思い込んでしまうこと。それこそが人間の不幸の原因であり、不幸の始まりなんだと、2500年も前に教えてくれてる。だからまわりからどんなにあからさまな間違いを指摘されても、それが何を意味するものかがわからなくなるんだわ。おじいさんの都合では、あの薬屋の言うことが真実だから、それと違うこととなると、私がどんなに間違いである事実を言っても聞かない、聞こうともしないのは当然なのよ」おばあさんはそう納得してはみたものの、それではおじいさんを救えない。原因がわかったところで、このままじゃおじいさんはただの小麦粉に大金を払い続けることになる。それよりも何よりも、このままでは私とおじいさんの仲が壊れてしまう。私は優しかったおじいさんと一緒にいつまでも暮らしたい。なんとかしておじいさんの優しい心を取り戻さなければ…」。

おばあさんはおじいさんを説得する材料がないか、さらに調べました。その薬局のことも。そしたら、その薬局の社長がどうもそうとうな悪人らしいのです。その社長は自分のところの薬が効くことを客に信用させるために、ただの小麦粉を薬だと騙して売ったお金を使って世界中の著名人と会ったりしているところを写真に撮らせて、それらを載せた会報を有料でお客さんに売っていました。ただの小麦粉に高い値段をつけて売っているというのに、さらにそのお客さんの家族や友人知人にもその会報を購入させているのです。お客さんを自社の商品の販売員としてタダ働きさせているのでした。お客さんは、自分が飲んでいる薬が効くようにと、その薬を売ってまわります。どこまで欲深い社長でしょう。ところがなぜ会報を売ったら薬が効くのか、なぜかお客さんは何の疑問も持ちません。それはそういうものだと信じているからです。お客さんは薬が効きさえすれば何だってする気持ちになってしまっています。お客さんにとってはもはや理屈などどうでもよくなっていることに、おばあさんは恐ろしいものを感じました。

それからその薬を飲んでいる人同士を集めて、その薬や会報をたくさん購入するにはどうしたらいいかを相談する会合を開くようになりました。たくさん薬を売ったお客さんが体験発表をして、まだあまり売れてない人を激励するようになりました。そのうち、あちこちにそんな集まりができて、お互いに競争するようになり、それがだんだんエスカレートしていくと、あろうことか売れなかった会報をひとりで何冊も買う人が出てきました。もうおばあさんは開いた口が塞がりません。薬が効くようにと会報を何冊も買う人の気持ちは普通の人には理解できません。でも、そんなことを言っても、お客さんたちは何の疑問も持ちません。それで自分が飲んでいる薬がいっそう効くのだと本気で信じているからです。おばあさんは思いました。「人間、信じるものを間違えると大変なことになる。もしかしたらおじいさんも一生このまま小麦粉を飲み続けて死んでしまうかもしれない」。おばあさんは寒気がしました。

さらにその薬局の社長が今何をしているのか気になりました。なにしろ自分の大切なおじいさんに、バカ高いただの小麦粉を飲ませ続けているのですから。すると、どうもその社長は近頃人前に姿を見せないのだそうです。もうかれこれ4年半も。おばあさんはおかしいと思いました。「会社の社長が4年半も社員の前にすら顔を出さないなんてあるかしら。でも病気じゃないと言うし、あいかわらず会報には大量の執筆をしているし。でももっとおかしいのは、そんな社長のことを社員もお客さんも誰一人として心配していないことよ」おばあさんは、何かあると思いました。「社長がいなくても、この薬屋はどんどん小麦粉を売りさばいているし、社員も何一つ文句も言わずに働いている。会報には薬を飲んで幸せになったお客さんたちの満面の笑顔がびっしり載っているし、社長の文字だけのメッセージには、なぜか大昔の社長の写真が載っている」おばあさんは思いました「あまりにも不自然だわ」。

ある日のこと、おばあさんは結論を出しました。「おじいさんに正気に戻ってもらうには、この私を信じてもらうしかない。はじめから理屈なんかじゃどうにもならなかったのよ。私はおじいさんに元気になってもらいたい。以前の優しかったおじいさんに戻って欲しい。おじいさんは自分が信じているものを私が否定したから私を嫌って、ますます私のことを信じられなくなっているんだわ。だから私は何があってもおじいさんを信じなくちゃいけないの。私までその小麦粉にふりまわされてなんかいられない。私が大事なおじいさんを信じていけば、きっといつかおじいさんもわかってくれる日が来る」

それからおばあさんは、その薬の話はいっさいしなくなりました。おじいさんの言うことにいちいち反論したり、冷たくしなくなりました。そしたら次第に優しいおじいさんに戻ってきました。おじいさんは優しくなったおばあさんの変化に少し気がつきましたが、薬をやめようとはしません。おじいさんにとって、おばあさんと薬はなんの関係もないからです。

おばあさんは何事もなかったように、優しくおじいさんに接しました。おじいさんも何事もなかったように、仲良く暮らしました。それからさらに20年の月日が流れ、いよいよおじいさんの寿命が尽きようとしています。もう動けなくなったおじいさんに、いつもかいがいしく面倒を見てきたおばあさんも、別れの覚悟を決めるときが来ました。

「ばあさんや、わしもいよいよお迎えが来たようじゃよ。いままで本当にありがとう。いろいろ世話になったな。贅沢はさせてあげられなかったけど、こうして今までたいした病気もせずに、事故にもあわずに生きてこれたのは、ばあさんのおかげだよ。感謝してるよ。ありがとう」

「いいえ、おじいさん。私こそ、いままでほんとうにありがとうね。私はおじいさんと生きてこれて幸せでしたよ。途中でいろんなことはありましたけど、おじいさんを信じて生きてこれた私は幸せでした。ほんとうにありがとう」

「それとわしがこうして元気で来れたのも、若い時からずっと飲み続けてきたこの薬のおかげじゃよ。この薬にも感謝しないとな。まあ、ずいぶん高い薬ではあったが、命には換えられんものな」

「そうね、感謝しなくちゃね。ほんとにいい人生だった。私もすぐあとから追いつきますからね。また一緒にくらしましょう」

そうやって、ふたりは最後まで心を重ねたまま幸せに生涯を全うしたのでした。

ただひとつ、おばあさんはおじいさんに言わなかったことがありました。それはおばあさんが薬の正体に気がついた20年前から、あの薬を別の小麦粉にすり替えてきたことでした。

チャンチャン(^^)

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以上です。

あらためて読むと、ちょっと切ないですね。(笑)

結局のところ、おじいさんは真実を知らないまま亡くなりました。それはおばあさんの愛情だとも言えます。創価が詐欺だと知らないまま死んでいく学会員。知らないままの方が幸せなんじゃないかと思うときもあります。真実を知って訪ずれる地獄のような後悔の日々。取り返しのつかない時間を失い、社会悪に加担してしまった事の後悔。片や真実を知らないまま幸せだと思い込んで死んでいく家族。どっちがいいんだろう。そんな問いかけの話です。おばあさんはおじいさんと昔のように仲良く暮らしたい。そのために真実を封印したんです。でもそんなおばあさんを誰も責めることはできません。おじいさんは幸せな気持ちで一生を終えることができました。幸せと幸せな気持ちは別なんだなと思いました。

皆さんはどう思いますか?

実はあの頃、私自身の鬱の症状がひどい頃で、仕事への集中力がなくなって困っている頃だったんです。自分が感じている創価のおかしさをなんとかして伝えたいという思いと、なかなかできない現実の狭間で苦しんでいたように思います。あからさまな現実をいくら叫んだところで、自分で気づけない人にとっては現実が現実ではなく、自分の都合の良い妄想が真実なんですね。まさにそれが創価脳だと思いました。そんな人に何を言っても無駄という焦燥感もありました。ここにコメントされる方の多くは、愛する家族がどう考えてもおかしな創価を正しいと信じていることに心を痛めていらっしゃいます。本人にとっては良かれと思って大切な家族よりも創価を優先する創価脳が本当に多いです。ではどうやったら家族の絆を取り戻せるのか。このことで多くの方が悩んでおられます。

ということで、今回のテーマは「創価脳の家族にほんとうに言いたい事」」ということにします。

創価が詐欺だと気づいたのに、何を言っても家族はいっこうに気づかない。真実を話せば話すほど信頼関係がなくなっていく。もうどうしていいのやらと、家族のことを思うたびにいつも暗い気持ちになってしまう。とてもよくわかります。言ったところで喧嘩になるだけ。「創価と私とどっちが大切なのよ」と喉まで出ている言葉を無理やり飲み込む日々。そんなやり場のない思いを、ここで思い切り吐き出してください。創価脳の家族にほんとうに言いたい事。いくら真実だと言っても創価脳は聞く耳を持ちません。創価脳にとっての真実は、創価から言われた事のみですから、人によっては離婚だ勘当だという話にもなります。せめてこの場で言えない創価脳の家族への気持ちを言葉にして消化できれば、気づかない家族への苛立ちも薄れて、優しく接してあげられるのではないでしょうか。そうすれば何かのきっかけで気づいてくれる時が来るかもしれません。上の話ではおじいさんは気づきませんでしたが、もしかしたらおじいさんはおばあさんの「ほんとう」の気持ちをわかってくれる日が来るかもしれません。

自分は気づいたのだから、家族が気づかないはずがない。そう思いたいです。まだ間に合うなら、衝突してでも気がついて欲しい。そうも思っています。ただそれには自分がどこまで持ちこたえ切れるのかがわかりません。自分が死ぬまでになんとか創価の詐欺が社会に認知されるようになればと思っています。

私の加害者としての学会員時代

皆さんそれぞれに大変な思いで創価から去ったり去ろうと努力されていらっしゃいます。創価を知らない人にはとうてい理解できないだろうし、おいそれと他人に相談できることでもない。ましてや創価脳の人に言ったら最後、危険人物あつかいを受けるのが関の山です。そんな方がこのブログにたどり着いて「自分だけじゃなかった」という驚きと「やっぱりそう(詐欺)だったんだ」と納得される方がほとんどではないでしょうか。

自分は完全に騙されていたという現実を目の前にしたときに、そしてこれからどうするのかとなったとき、やはり人によってやることが違います。ここにコメントしてくださる皆さんのように、創価学会が詐欺だという現実をきちんと受け止めながら、自分にできることを少しずつでも実行して結果を出していらっしゃる方。逆に現実を受け止めることができずに、なんとかして創価を正当化しょうとしたり、創価の正当化は無理でも、自分が信じてきた部分だけでも正当化しょうとして、おかしな理屈をこねたり、あるいは今の創価だけが悪いのであって、本来の創価も、それを信じて生きてきた自分も間違ってはいないと頑なに主張する人もいます。あの三人組のように、創価悪の根源である池田は正義であり、今の最高幹部が悪の根源であるとすることによって自分を正当化するためにまわりを間違った方向に巻き込んでしまうという悲しい人たちもいます。彼らほど極端ではないにせよ、安保法案に反対して国会前でデモをしていた学会員さんなどはそうした方たちのようです。どちらもいまだに創価から騙されていることに変わりはありません。

確かに自分の人生の根幹にしていたものが完全に間違いだったなんて、そうかんたんに認められるようなものではないことぐらい、誰にだってわかります。だからこそこ創価問題は深刻であり「詐欺だと気づいたから、さっさとやめてハイおしまい」というわけにはいかないのです。学会員の多くは被害者であると同時に加害者でもあります。騙された自分のことはまだ自分の責任として受け止められても、自分の家族や友人の人生までも狂わせてしまったというあまりの「とりかえしのつかなさ」に、心が折れてしまったり、立ち直るすべを見つけられないでいたりするのだと思います。でもそれでもどうにか生きていかなければならない。そんなギリギリの精神状態のなかで「自分だけじゃなかった」ということがわかるだけでも、また、自分と同じ境遇や気持ちの人と対話ができるだけでも、これから生きていくための大きな支えになっていると思います。対話によって気持ちを分かち合う。これは単に互いの傷を舐め合うだけのその場しのぎの自己満足ではありません。こうした対話を通じて生きる希望へとつなぎ、さらに創価に少しでも疑問を持てた方が、自分をとりまく厳しい現実をしっかりと受け止めることができるようになるための心のリハビリの場になってもらえればと思います。

皆さんからの貴重な体験談はもちろん、楽しい替え歌や川柳なども、とてもありがたいです。管理人の私は、そんな皆さんの気持ちを受けとめられる器のような場所を継続していくことが、せめてもの自分にできることであり、それが自分の人生を取り戻すための方法だと思っています。これからもよろしくお願いします。

ということで、今回のテーマはちょっとシビアなんですが「私の加害者としての学会員時代」とさせていただきます。つまり創価が詐欺だと気づいて「チックショー騙された〜っ!」と地団駄を踏むと同時に、自分もそうとは知らずに家族や友人を結果的に騙してきたことの後悔や、また覚醒してから自分はこうして家族や友人に謝罪し赦してもらうことで、逆に救われましたといった経験のある方のお話をしていただけるとありがたいです。よろしくお願いします。

財務という名のカツアゲ 2

おかげさまで、再開してから2週間たらずで休止前の勢いを取り戻すことができました。下のグラフにあるように、まるまる4ヶ月休止していたにもかかわらず、12月1日の時点で昨年の総アクセス数を上回ることができました。今年は7ヶ月で去年のアクセス数を超えた計算になります。現在、1日の平均アクセス数が約7000です。この調子でいくと500万アクセスまで、ほぼ2ヶ月。2月の初めには500万アクセス達成のお祝いが皆さんとともにできそうです。

 

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上のグラフの下の数字は今年のビュー、訪問者、コメント数です。今年の1月から11月末までに、 1739467のアクセスと、のべ493978人の訪問者と、7ヶ月で5300ものコメントをいただいたということです。7ヶ月で5300の「創価は詐欺だと気付きました」というコメントが集まっているということです。これ、誰が否定できるでしょう。このコメントを前にして「いや、創価は正しい宗教団体だ」と証明できる人がいるんでしょうか。できるという人の言うことにどれだけの説得力があるでしょう。あるわけないですね。

何度も言いますが、こんなにアクセス数やコメント数での勢いをアピールするのは、自分で考えることを避けている学会員さんに、少しでも目の前の現実に目を向けて欲しいからです。創価の中で言われていることと、現実の社会とのギャップについて、自分は見ようとしていないのではないか。それが果たして正しいことなのかどうかを、自分の頭で考えて欲しいからです。さらに財務というお金のについて考えると、とてもわかりやすいのではないかと思います。例えば「創価のお金の集め方は、宗教法人として正しいのか」という問いを自分に投げかけてください。そこで少しでも考えようとしている自分があったとしたら、それはまだ覚醒する可能性があると思われます。もし「なにをバカなことを言ってるんだ。創価が間違ったことをするはずがないじゃないか。そんなこと考えるなんてどうかしてる」と全く考えようとしないのであれば、残念ながらほとんど望みはないですね。そんな人はこのブログをどれだけ読もうと何の価値もありません。っていうか、そもそもそんな人は読まないですけどね(笑)

とにかくこのグラフにも現れている事実。つまり「創価は詐欺だと気付いた人たちがこんなにいる」という事実とその証言。これは学会員だろうが元学会員だろうが、創価と全く関わりのない人だろうが、誰も否定のしようがないということです。ところが学会員だけは、この否定のしようのないことを否定するんです。つまり創価学会は否定しようのない事実を否定するしかない集団ということです。そんな集団が世界平和を実現できるのでしょうか?と言いますか、そんなこと誰がしようとしているんでしょう。たくさん財務をすればするだけ幸せになれるという教えの教団が世界平和を目指しているなんて誰が思えるんでしょう。会員から集めた莫大なお金の使い道を全く公表しない教団が、いつ世界を平和にしてくれるというのでしょう。そんなことすら考えようとしないのが創価学会員です。とにかく考えない。考えようとしない。考えることを悪だと思い込まされている。自分で何も考えずに組織の言うことを聞いてありったけのお金を貢げば幸せになれると思い込まされている。これ絵に描いたような詐欺の手口ですよ、学会員さん。だからそれに気付いた学会員さんや元学会員さんが、こうやって7ヶ月で5300もの証言をしてくれているんです。このブログが始まってまる5年間で19514の証言です。これだけの証言を無視できること自体が不自然ですよね。

もう創価は衰退・激減の一途をたどっていることは、活動している人の方が身にしみてわかることです。ブロックが消滅し、地区が統合され、幹部の兼務が当然のこととなり、残された会員の新聞啓蒙のノルマが増え、新聞配達員もいなくなって、高齢の会員が身体を酷使して配っている。座談会は何十年経ってもただ年をとっているだけの同じ顔ぶれ。こんな組織に未来があると本気で思っているのでしょうか。思っていなくても思っていることにしなければならないのが現実でしょう。そこまで無理して創価が正しいと思いたい、自分の人生は間違っていないと思いたい。きっとこれが本音だと思います。しかし口が裂けても言えない。言うどころか、自分が思っただけでも怖くてたまらない。そうやって怯えることもしたくないから、とにかく考えないようにする。思考停止に安住の地を求める。それこそ創価の思う壺です。自分で考えましょう。自分で自分の人生のことを考えましょう。自分の子どもに今の自分のような生き方を強制していいものかどうかを考えましょう。それが未来のある子どもに対する正しい人生の選択なのかを自分で考えて欲しいと思います。

私は自分の考えが正しいかどうかはわかりません。なにしろ生まれて50年過ぎてから、自分の人生観、価値観は完全に間違っていたことに気づかされたんです。今さら何が正しくて、何が正しくないかなんて他人に言えた義理ではありません。ただ、自分のこれまでの残念な人生の中で、一つだけわかったことは「創価学会は詐欺だ」ということです。そしてこれはこのブログにコメントをしてくれているほとんどの方と共通の認識だということです。この事実を受け止めるか受け止めないかは読む人次第です。その人が何を信じるのか、何を信じないのか誰も何者からも強制することはできません。何を信じ、何を信じないかは、自分で考えて自分で決めることだと思うからです。

ということで、今回のテーマも引き続き「財務という名のカツアゲ 2」でいきます。財務に関して、これまでの経験や思うことなど、思う存分お話しください。よろしくお願いします。

財務という名のカツアゲ

皆さん、さっそくお返事いただきありがとうございます。
テーマについては、皆さんのご意見を参考にさせていただきつつ、基本的にはこれまでと同じように、私の方で決めさせていただきます。
要は、このブログの趣旨に賛同された皆さんが、積極的にお話をしていただければ、多少の脱線も含めて多いに結構なことだと思うわけです。いちばん避けたいのは変な雰囲気になったり、妙な気を使わなければならなくなるような事態ですね。挨拶だとか自己紹介だとか管理者として色々言ってきましたが、普通に人と話をする感じで書いてもらえば何の問題もないんです。
私は管理人として、これからの方向性を色々と模索していきたいと思います。皆さんはこれまでどおり、思うところを書き綴っていただければ嬉しいです。

ということで、今回のテーマは、何人かの方が提案されていましたように、また時期的も今が真っ盛りであろう「財務」にしたいと思います。皆さんがこれまでどんな風にして財務を行ってきたか。どれだけのお金が集まって、いったい何に使われていたのかも一切明かさない財務について、なぜ何の疑問も抱かなかったのかなど、これだけとっても話は尽きないし、思い出すだけでも悔しい思いをされる方がたくさんいらっしゃると思います。創価の収入源として、おそらく財務の占める割合が多いと思われます。もちろん、聖教新聞の購読費や、掲載広告による収入や、会員にノルマとして買わせる書籍や、ペット霊園みたいな貧弱な墓を一人で軟区画も買わせたり、ご本尊が変わったからといってただのカラーコピーに買い替えさせたりと、ありとあらゆるいろんな手を使って会員からお金をふんだくっています。職員の給与や会館の維持費にこんなにもお金がかかるわけがありません。本来お金がかかるはずの会館の警備やメンテナンスも会員の無料奉仕です。聖教新聞の配達や集金業務もほぼ無料奉仕。ではいったいそのお金はどこに流れているのか。宗教法人故の非課税。非課税というメリットもさることながら、どれだけのお金が集まっているのかを公表しなくていいという、創価にとっては最大のメリットがあります。パナマ文書にも創価の名前がありましたが、実際はそんな生易しいものではないでしょう。どれだけのお金が集まっていて、何に使われているかも大変な問題ではありますが、そんなことに少しも疑問を感じないまま、言われるがままに毎年毎年組織単位で競争しながらお金を出している一般会員の洗脳ぶりが最大の問題だと私は思います。

皆さんにとっては嫌なことを思い出させることになるとは思いますが、何も考えずに創価にお金を貢ぐような人が一人でも減るように、皆さんの財務にまつわるお話を中心に聞かせていただければと思います。

テーマは「財務という名のカツアゲ」。ちょっと刺激が強いですか?まだ創価を少しでも宗教だと信じている人にとっては「なんてことを言うんだ(怒)」となりそうですが、創価の財務がカツアゲでなくて何なのかと逆に訊きたいくらいです。創価の目的はお金です。何の見返りも与えることなく、ただひたすら会員からお金を巻き上げること。そのための日蓮の教えであり、組織であり、会合であり、聖教新聞であり、創価学会仏であり、池田大作大先生です(笑)。何も疑わずに持っているお金を効率的に差し出させるには、インチキ宗教がいちばん手っ取り早い。創価以外にも怪しい新興宗教が山ほどあるのはこのためです。サラ金やエロ雑誌の販売で小銭を稼いだり失敗したりしていた戸田・池田の悪徳コンビは、もっともっと確実に金儲けをするにはどうしたらいいかという悪知恵を働かせた結果「よし、いっちょインチキ宗教でドカンと儲けてやれ」そう考えたわけです。金儲けのためのインチキ宗教だからこそ、教義の内容なんてどう変わろうが、会則が180度変わろうが、会員が信じてしまえばOK。きっと彼らは自分にこう言い聞かせてきたでしょう。「騙される方が悪い」。そう、騙される方が悪い。それだけです。だからもう騙されないようにしましょうよ。今までは騙されてきたかもしれない。なぜか?それは自分で考えることをやめてしまったから。なぜか?自分で考えると不幸になると言われたから。それが恐ろしくて自分で考えることをやめて、言われたとおりのことをやれば必ず幸せになれる。それが宇宙の法則なんだと。こうして多くの人が幸せになりたいがあまりに自分で考えることをやめて、「お金を出せば出すだけ幸せになれる」と言われたとおりに、お金を出し続けてきたわけです。こうして創価学会は会員が出すお金でどんどん大きくなりました。大きくなりましたが会員は幸せになどなってません。自分で考えないから、幸せになっていないことにも疑問を持てなくなってしまった。たとえ疑問を持っても、疑問を持つと福運が消えるとか、魔が競ってきたとか、適当な脅し文句で黙らされる。日本全国この繰り返しで、創価学会はいまだにお金をいくら持っているのか会員は誰一人知りません。そしてそのことに何の疑問も持ちません。一般のカツアゲはお金を取られた被害者は被害意識がありますが、創価のカツアゲは被害者意識を持てなくしてますので犯罪として立件できません。それも計算ずくです。計算ずくのカツアゲに変わりはありません。

最近まで創価を信じていた人にとって、また、これまで数百万、数千万円の財務をしてきた人にとっては相当なショックでしょうけど、これが現実です。こんなひどい話ってないでしょ。でもこれが現実です。創価が詐欺だと気づいたなら、この残酷な現実をしっかりと受け止めるしかないんです。きちんと受け止めた上で、これから先どう生きていくかを考えなければ、あの3人組のように、苦し紛れの自己正当化行動に走るしかなくなります。白いブランコさんのように、八方塞がりになってしまいます。あるいは精神的に参って、現実逃避の世界に逃げ込んだまま帰らぬ人となってしまいます。辛いけれども辛い現実を辛い現実としてきちんと受け止める。そのためにこのブログで多くの人が気持ちを共有しようと頑張っていらっしゃいます。このブログはそのために存在します。自分が創価にどんな気持ちでどれだけお金を貢いできたか。その現実を受け止めるためにここの皆さんのお話に耳を傾けてみてください。

ご意見拝借お願いいたします。

今回このブログを再開するにあたって、皆さんにあらためてお断りしなければなりません。皆さんのお言葉に甘えて、これからは以前よりもゆっくりとマイペースでやっていきたいと思います。基本的に言いたいことはこれまで繰り返してきましたので、これまで以上に皆さん同士の対話の場にしていただければと思います。コメントをいただいた皆さんへのお返事は、お一人お一人にできないのはこれまでどおりですが、今後はこれまで以上にお返事できる機会が減ると思います。「思い切って初めてコメントしたのに何にも返事がない」とがっかりしないでくださいね。それよりもこれまで以上に皆さん同士の対話場になっていけば嬉しいです。もちろん私もできるだけ対話に加わるつもりでいますが、しょっちゅうブログを覗いているわけではありませんので、そこは勘弁してください。

で、再開後のテーマですが、とりあえず創価で話題になっている「創価学会仏」と「池田大作先生」というお笑いネタで軽くスタートしました。まあ、皆さんの対話のきっかけになればテーマは何だってよかったのでこれにしたわけです。でもいつまでもこんなおチャラケテーマでは話したいことも話せなくなるかもと思い、これからのテーマ設定や方向性について、この間から考えていましたが、なかなかいい案が浮かびませありません。そこで、皆さんにお知恵を拝借したいのです。もう5年もやってきたので、テーマ的には出つくした感があるし、かといって「なんでもいいから話をどうぞ」なんて管理人として無責任だなとも思うし、このテーマの内容によってたどり着く方も少なくないと思うのです。

創価の何が問題なのかははっきりしてます。そのはっきりしたことをどうやったらはっきりしない人にも理解してもらえるのか。あるいは、問題ははっきりしているけれども、この先どうしたらいいかわからない。という方もたくさんおられます。本当に難しい問題なので、これ!といった解決策を明示できないのですが、それでも問題意識を共有するということだけでも、気持ちを整理して前向きに物事を考えることができると思います。私は5年前に創価が詐欺だったということに気がついても、このブログを書かなかったら気持ちの整理がついていたかどうかわかりません。鬱の症状からねけだせないままだったかもしれません。とりあえず今の自分に何が起こっているのか、これを文字にして整理してみる。また、そうした自分の気持ちを理解してくれる人と対話ができる。これほど当時の自分を救ってくれましたのはありません。だから自分のためにも、また創価問題で悩んでおられる方のためにもこのブログは続けたほうがいいなと思いました。ただ、数ヶ月前のような展開になると如何にこうにもならなくなるということも勉強させていただきました。テーマの闇の深さを思えば、それはある意味仕方のないことなのかもしれません。何もかもうまくいくわけがないし、むしろそんなことを乗り越えながら続けていくことの方が、よりリアルな対話が展開されるのではないかとも思います。それなりに辛いですけどね(笑)

いうことで、ブログの方向性はもちろん管理人の私が決めますが、毎回のテーマに関しては、これまで以上に皆さんのアイデアをお聞きしたいと思います。そんなことも含めて、今回のテーマは第3シーズンの「対話を求めて」に関するご意見を皆さんにお伺いしたいです。

よろしくお願いします。