みなさま、あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
年があらたまりましたので、このブログも新たな気持ちで更新していきたいと思います。
基本的にこのブログで言いたいことが「学会員さん、創価学会は詐欺ですから早く気づいてください」であるということに変わりません。しかし学会員さんにそんなことを言ったところで見向きもしないでしょうから、何をもって創価学会を詐欺だと断じるのかを、あらためて誰が読んでも分かりやすく述べていきたいと思っています。そして全ての学会員さんに向けてではなく、学会員さんの中でも、少しでも「創価学会はおかしいんじゃないか?」と自分で疑問に思っている方や、自分は信じてないし辞めたいのはやまやまだが、家族に強信者がいて辞めるに辞められないでいる創価2世・3世の方にとっても、創価が詐欺であることの確証が掴めるならば、思い切って辞めるという行動に出られるのではないかと思います。したがって、何がなんでも「創価学会は世界で唯一の正しい宗教であり、創価学会以外の宗教を信じるものは一人残らず不幸になる」と信じている信心強情な学会員さんには声がけしませんし、対話をするつもりはありません。
とはいえ、もう創価学会はかつての勢いは全くありません。日蓮正宗から破門されてからのここ30数年間は衰退する一方で、活動家が激減を続けるとともに、残っている活動家も高齢化が進み、かつてのように4者別に会合を開けるような組織の規模ではありませんし、活動家の多くが60歳以上の、ある意味社会をリタイアした方が中心でやるしかなくなってしまいましたので、これから先に創価学会がいくら世界平和などと言ったとしても、社会に及ぼす影響はほとんどなくなるものと思われます。創価学会の座談会が老人会のようだと言われても何も言い返すことができないほど創価学会は衰退と高齢化が顕著です。どんな言い訳をしようがそれが創価学会の現実です。この現実すら認めようとしない人との対話が成り立つわけがないということを、このブログを10年間続けてみて、はっきりと検証できたものと思っています。
そこで今年最初のテーマは「創価学会の歴史」ということにします。あらためて創価学会がどのような経緯でつくられ、どのように大きくなり、そしてどのように衰退してしまったのかということを大まかに確認することで「何を持って創価学会を詐欺だと断ずるのか」に対する答えの一つとしたいと思います。
みなさんご存知の通り、創価学会は当初「創価教育学会」という名称で、1930年に当時小学校の校長職であった牧口常三郎氏が戸田城聖氏と共につくったということになっている団体です。その名が示すように教職員ばかりの団体でした。日蓮正宗の信仰を中心にした教育者の育成を目的とした団体でした。この1930年に設立とありますが、この年に牧口常三郎氏が自書『創価教育学体系』の第1巻を刊行した年を創価教育学会発足の日にしようと後から決めたものであって、この年に発足したというわけではありません。その後、創価教育学会は1937年に日蓮正宗の信徒集団である法華講の一つとして認められたので、ここではじめて宗教的な色合いがはっきりしたと考えられ、実質的にはこれが創価学会の前身である創価教育学会が発足したといえると思われます。今でも創価学会は1930年創立としていますが、実際と異なることははっきりした事実です。
牧口常三郎氏は1927年に日蓮正宗に入信し、その3年後から『創価教育学体系』の書籍化を開始し、7年後に創価教育学会を設立します。その時、創価教育学会は日蓮正宗の信徒団体ではなく、牧口の価値論を実践する団体として、宗教団体という位置付けではないようです。それまで牧口常三郎は八紘一宇(国会で三原じゅん子参義院議員がドヤ顔で右翼思想の発言をしたことで話題になりましたね)で有名な田中智學に出会い、彼の右翼思想と日蓮の立正安国論の融合する考えに傾倒していたようです。牧口の日蓮正宗への傾倒は、それ以前の田中智學の影響が大きく、その後も軍人会館(現九段会館)で総会を開くなど右翼的な思想に日蓮正宗の教義を合体させたような思想集団であったことが伺われます。つまり、この創価教育学会時代は、詐欺集団ではなく、あくまで思想集団であったと思われます。
その後、日本が真珠湾攻撃を機に太平洋戦争を始め、日本国内でも軍部による思想統制が激しくなる中で、創価教育学会、特に牧口と戸田は独自の思想を曲げなかったことにより投獄されます。彼らの根底には右翼思想がありましたが、日蓮に傾倒していたために、神道を中心とした思想統制を進める軍の方針を受け入れることができませんでした。ここで勘違いしていけないのは、牧口や戸田を中心とした創価教育学会は、平和思想などではなかったということです。日蓮と右翼思想の合体を目指していた彼らにとって、日本が戦争に勝つためには神道ではなく日蓮正宗を国教としなければならないと言い張ったために、治安維持法違反と不敬罪で投獄されたのです。こうした事実を歪曲して、牧口や戸田があたかも平和主義を命をかけて貫いたかのように今の会員に広めている今の創価学会は本当にあざといですよね。
牧口は獄中で栄養失調と老衰で亡くなり、戸田は1945年に出獄してから翌年、創価教育学会を創価学会に名称を変えます。戦前に日本正学館という出版会社を立ち上げ、当時ベストセラーとなる算術の本を出版していましたが、戦後の教育指導要領にそぐわない内容だったこともあり経営が急激に悪化し倒産します。ちなみに日本正学館は学習参考書ばかりではなく、少年雑誌や、『ルビー』というタイトルのカストリ雑誌(エロ本)なども出版し、そのほか金融や証券業においても一定の実績を上げるようになり、創価教育学会の財政面も支援していたようです。
戦争が終結し、戸田が出獄してから出版事業を再開するもうまくいかず、さらに東京建設信用組合を立ち上げるも多額の負債を抱えたまま破綻します。戸田は経済的にかなり厳しい状況に陥ったようです。その時に戸田は創価教育学会を創価学会と改名し、5年後の1951年には創価学会2代会長に就任し、翌年の1952年に創価学会を宗教法人化します。つまり右翼思想と日蓮思想を合体させようとした思想集団である創価教育学会は、経済的に困窮した戸田の手によって宗教団体となったのです。
これはとても重要なところです。牧口は創価教育学会を宗教法人にするつもりはなかったのではないかと思います。戸田は牧口亡きあと、創価教育学会を創価学会と改名し、一般の人たちを日蓮正宗に入信させることで、大白蓮華や聖教新聞を購入させるという事業を展開します。聖教新聞や各種出版物を半ば強制的に会員に買わせる手法は、この時から今に至ります。また同時に大蔵商事といういわゆるサラ金の事業も展開し、そこに現れたのが若き池田大作であり、池田はサングラスに黒いコートという暴力団まがいの格好で高利貸しの冷徹な取り立て屋として頭角を現していきます。
まずは創価教育学会から創価学会に変わり、池田が登場するところまでの簡単な経緯を述べました。
ここでのポイントは、牧口は田中智學の右翼思想と日蓮の立正安国論の融合を目指す思想団体を目指していたのに対し、戸田は経済的な困窮の打開策として思想集団である創価教育学会を創価学会という宗教団体に衣替えをしたというところです。そして持ち前の出版事業のノウハウによって、創価学会の会員を増やすことが出版事業でも安定した莫大な収益を上げられると踏んだのだと思います。また戸田は創価学会2代会長として振る舞う中で、一般受けのする世界平和思想を取り込みました。もちろん戦前の牧口の思想とは全く異なりますし、日蓮の思想とも違います。それはいかに会員を増やして事業収益を上げていくかという戸田独特の手腕であったと思われます。
今回は以上です。学会員さんは小説人間革命に書かれていることが創価学会の真実の歴史だと信じているようですが、実際はそんなことはありません。今でも知ることのできる資料をもとに事実関係を確認すれば誰にでもわかることです。これだけを見ても、創価学会がいかに会員を都合よく誘導しているかが伺えますよね。