近況報告

このブログを休止して7ヶ月が経ちました。ご覧のように記事の更新もときどきしかしなくなったのですが、アクセスは少ない日は400台、多い日は600台を推移しています。とはいえある一定の方々は見てくださっているようでありがたいです。今回も前回更新した8月24日以来でこのブログを開けてみたくらいですから、私の中の創価学会という存在がどんどん希薄になっているんだなと思います。私の周りにはもう創価学会員がほとんどいません。身内にはもちろんいません。いるとしたらもう何年も会っていない数人の友人が学会員だったということぐらいで、その友人にしても今も学会員なのかすら知らないし興味もありません。今の自分からすれば、7ヶ月前までの自分さえ遠い昔の人間であるかのように思えてしまいます。創価学会について考える時間が極端に少なくなりました。というか本気で忘れている時間が圧倒的に多いです。以前は一日たりとも忘れたことはありませんし、このブログに寄せられるコメントに対しての対応を常に考える日々でした。それとは対照的に最近の数少ない更新の内容も、淡々と創価に関する事実を述べるにとどまっています。昔の読者からすれば、単にこれまでの繰り返しのような内容なので落胆されている方もいらっしゃるのではないかと思います。かと言って、無理に昔のような形に戻す気もありません。今後このブログをどうするのか自分でもわかりませんが、ともかく今はこのブログを存続させて、過去の皆さんからの貴重なコメントを読んでいただく機会だけは失くさないようにするために、こうしてときどき更新していこうと思います。それから私ごととしては仕事もプライベートもすこぶる快調すぎて怖いくらいです(笑)うつ病の症状も自分でも忘れているくらいで、生活に支障はほぼなくなりました。ここまで立ち直るのに10年という年月がかかりはしましたが、結果としては思いもよらないほどの幸運に恵まれた現在があると言えます。創価脳さんからすれば、私などさっさと地獄に堕ちなければならないようなことをしてきたのでしょうが、現実は違います。50歳過ぎてはいましたが、それでも創価が詐欺だと気づけて、創価から完全に縁が切れただけでも本当に幸運だったと思います。そりゃあもっと若いときに気づけていればもっとよかったのでしょうが、それを言ってもしょうがないですからね。

そしてこうなった今だからこそ言えるのは、とても冷静に創価学会を見れるようになったということです。これまでは創価脳だった兄のことがあったので、どうしても完全に客観視することができなくて、創価に関して感情的になってしまった部分がありました。言い換えれば、その部分がこのブログを続ける原動力にもなったのだということです。しかし、その兄が創価脳のままあっさりと亡くなったことで、私の創価に対する感情がとても希薄になり、そして宗教全般についての客観的な視点を持てるようになったような気がします。もちろん、創価学会は宗教ではありません。宗教ではない創価学会がなぜ宗教であるかのように自分も含めた多くの人々が騙されてきたのかを考察する中で、宗教そのものについてもあらためて考える機会となったからだと思います。

先日、シモーヌ・ド・ボーヴォワール作『老い』について上野千鶴子氏が語るEテレの番組を見ました。とても共感できました。まるで上野氏がボーヴォワールであるかのような錯覚さえしかねないほどの「潔さ」あるいは「身もふたもない話」に感動しました。厳しい現実であったとしても、それを真正面から受け止めること。それこそ身もふたもないほどに冷徹で客観的な視点こそが真実を見極め、これからの時代に必要なものは何かをはっきりとさせることができるし、その結果としての女性解放運動と、高齢社会に必要なものが何かという先見性だったのだと思います。その「潔さ」「身もふたもない話」は原始仏典に残されている釈迦の思想にとても通じるものがあるなと思いました。

この上野氏のボーヴォワール『老い』(NHK100分de名著)の紹介文には

老いは不意にあなたを捉える

見たくない、聞きたくない、考えたくない――。そんな「老い」の実態をあらゆる観点から論じ、従来のステレオタイプを次々と打ち砕いたボーヴォワールの主著。なぜ老いを自覚することは難しいのか。老人が社会から疎外される根本理由とは。キレイゴト抜きに「老い」の実態を暴き、「文明のスキャンダル」と捉え直した著作の真価を、現代日本の状況にも引きつけながらやさしく解説する。

とあります。「老い」とはその先の「死に向きあうこと」と言い換えてもいいのかもしれません。

創価に騙されたまま亡くなった兄は、もうこの世にいません。もちろんあの世とか来世などがあるわけもないです。もう兄は存在しないのです。もちろん私もいずれは死んでしまうし、それは誰であろうと例外はありません。死んだら生まれ変わるなんて釈迦の教えにはありません。なのに仏教の教えの中に死んだら生まれ変わるといった考えが存在するのは、釈迦の死後に厳格な仏教が廃れたことの解決策として、インドで一般的だったバラモン教の受け入れられやすい考えを取り入れた結果のことでした。釈迦滅後の仏教教団は、その存続のための手段として、釈迦が否定していたバラモン教の教義を取り入れることによって、新たな信者を獲得するようになりました。それでもインドでの仏教教団は壊滅し、その代わり東南アジアや中国に伝わったのがバラモン教を取り入れた仏教であり、それに中国の儒教などが色濃く混ざったものが日本に伝わったので、日本では生まれ変わりや魂の存在がまるで仏教の教えであるかのように定着したんですね。もちろん日蓮もそうしたバラモン的仏教しか知るすべがありませんでしたから、本来の仏教とはかけ離れた仏教観しか持つことしかできなかたわけです。「死んだら終わり」。それこそこの身もふたもない現実を直視することこそが釈迦の哲学であったと思いますし、ひいてはボーヴォワールの徹底したリアリズムだったのではないかと感じました。

「死んだら終わり」を受け入れることは、特に科学的な考え方のなかった時代には難しかったと思います。誰も経験したことのない、かつ絶対に避けることのできない死に対しての恐怖から逃れ、どうにかして何かしらの救いを求めたのでしょう。そこに「死んだら生まれ変わる」とか「魂は永遠に存続する」などといった「何の根拠のない気休め」が人々の間に広まり、そのうちに自然の脅威や生命の不思議さを説明するための神の概念が生まれ、それがやがて宗教となっていくんですね。そうした宗教がいつしか人々を差別化し、人々の心を支配するための道具となってしまいます。人類の歴史とは、こうした死の恐怖から逃れるための神の概念をもとに支配層と被支配層に分かれる中で戦いが繰り返されてきたわけです。創価が教義としている独特な日蓮仏法はもちろんですが、日本の一般的な仏教観も最初から本来の釈迦の考えとは真逆のものだったということは、学問としては一般的な史実ではあるのですが、こと仏教界ではそこはスルーされているのが現実です。つまり「死んだら終わり」を認めたら宗教が宗教として成り立たなくなるから、そこは何が何でもスルーするしかないんですね。宗教は理屈の通用しない世界です。理屈が通用しないから信じるしかないんですね。というより宗教とは理屈が通用しないことを信じ込むことよ言ったほうがいいかもしれません。一般的な宗教ですらそうなんですから、会員を騙してお金を巻き上げるために作られ、創価学会だけが唯一の正しい仏教だというめちゃくちゃな屁理屈を信じさせることで大きくなってきたのが創価学会という詐欺集団です。だからこそ仏教とは言いながらも釈迦の哲学を完全にスルーするしかないのも当然といえば当然のことだと言えます。

創価学会は世界に広まっているという思い込み

ご無沙汰してます。

創価学会に疑問を持っている学会員さんに対して、考えるヒントとなればいいなと思うことをときどき書いていきます。

コロナ感染によって会合などもできなくなった学会員さんは、この機会にぜひ自分が信じている創価学会について考える機会にして欲しいと思います。

創価学会公式HPの中に創価学会インターナショナルを紹介しているページがあります。

かつて創価学会インターナショナルは、創価学会とは独立した組織だったようですが、今は創価学会の下部組織になっているようです。

この創価学会インターナショナルという組織の存在によって、日本の学会員さんは「創価は世界中に広まっている」と思い込んでいるというか、そう言い聞かされてきたので、具体的な人数や実態を知らないまま「創価学会は世界中に学会員がいて、どんどん数が増えている」と思い込んでいます。かつての私もそうでした笑。

ではSGIメンバーは何人ぐらいいるのかというと、実際のところはわかりません。ただ、創価学会公式HPには、「海外メンバー数 220万人」との記載があります。日本の創価学会員を相変わらず827万世帯、つまりこれは日本の6人に一人が創価学会員だと記載しているくらいですから、この220万人という数字も全く信用できません。それでも実際に220万人が本当の数字だとしても、世界人口78億7500万人から日本の人口を差し引いた77億5500万人の中の220万人ですから、これで世界に創価学会が広まっていると言えるかどうかということです。

各地域のメンバー数の内訳も載っているので、それぞれに全人口を併記してみます。

地 域       メンバー数   人 口

北米        35.2万人   3億6806万人

中南米       25.8万人   6億3581万人

アジア・オセアニア 142万人   41億2554万人(日本除く)

欧州        13万人    7億4640万人

中近東・アフリカ   4万人    16億7568万人

合計        220万人   75億5149万人 

これを見ればわかるように、SGIメンバーというのは75億5149万人の中での220万人です。

ピンとこないかもしれませんが、例えば日本で約35,000人が学会員だということです。日本で信者数が35,000人の宗教団体など掃いて捨てるほどあります。でも学会員さんは「創価学会は世界に広まっている」と思い込んでいるんですね。

日本の学会員がここ数十年ずっと827万世帯(現在の世帯人口から割り出すと1870万人以上)と発表している創価学会の言う220万人ですから、どこまで信用できるかはおおよそ想像できますね。

それに、SGIの人数は発表するのに、日本国内の学会員の数は決して発表しないんです。決して人数は言わない。827万世帯としか言わないんです。

私が思うに、実際の人数を発表すると、創価学会の衰退が数としてはっきりするからだと思います。827万世帯はおそらく創価学会が発足してから会員に下付したご本尊の数だと思われます。いつも言うことですが、今の日本に本当に827万世帯もの学会員がいるとしたら、1870万人以上の学会員がいなくてはなりません。それが事実なら公明党はとっくの昔に政権を掌握しているでしょう。なのに公明党の得票数は自民党と選挙協力しても600万票台しかとれません。しかもその数は選挙のたびにどんどん減っています。

このような事実があってもなお、創価学会は会員数を827万世帯としか言えないのは、今さら会員数が減っていると言うわけにはいかないからでしょう。会員数が減っていることを認めたら、創価学会が日蓮仏法を広めるために出現した地涌の菩薩の集団であることにならないからです。創価学会の衰退の実態は、熱心な活動家であればあるほどその現実を目の当たりにしているはずです。

「創価学会は衰退しているのではないですか?会員は確実に減っているし、残っている会員も老人がほとんどですよね」という質問には「確かに減っていることは間違いない。しかし減っているから衰退とは言えない」とわけのわからないことしか言えないのが創価脳です。でも彼らは本気でそう思ってるのかもしれません。そう思わなければ自分の人生を自分で否定しなければならなくなるかもしれないと思うからではないかと思います。だから何が何でも「創価学会は正しい。そうかを信じてきた自分の人生に間違いはない」と思うしかないのでしょう。だから827万世帯というおかしな数字を言われても、それ以上のことは考えないようになるんです。これが創価脳特有の、いや、創価に限らず、カルト宗教にはまってしまう人間特有の思考停止なのです。

話は変わりますが、このところ東京地検特捜部がいい動きをしているようですね。

管政権が弱体化して、強気で動いているのでしょうか。遠山議員が銀座通いで直ちに議員辞職した理由も合点がいくし、小池都知事の入院のタイミングや二階幹事長との密談も、相当追い込まれている結果のように思います。小池都知事はコロナ対策よりもそっちの方で頭がいっぱいなんじゃないでしょうか。いずれにせよ創価学会もかなり追い込まれててんやわんやになっているのは間違いないようです。東京地検特捜部がどこまで手を伸ばすことができるのか、今後の動きに期待したいです。

学会員さんもこのような目の前の現実をよく見て、創価学会が何をしてきたのかを自分の頭で考えて欲しいと思います。

女子部が消滅した次は当然男子部消滅

非活になって20年、脱会して10年も経つと、今の創価学会がどうなっているのか知るすべがありません。ただこのブログを続けてきたおかげで、現役の学会員さんや、ついこの間まで活動家だった学会員さんから今の創価学会の現状を聞くことができたので、とてもありがたかったです。ただ今年2月のはじめからコメント欄を閉じていますので、今の創価の様子を知る機会がなくなりました。それで最近知ったのが、5月3日に婦人部が女性部になったということ。そして11月8日には女子部が消滅して女性部に吸収されるんだそうですね。もうずいぶん前から女子部の活動家が激減して、女子部の活動家が一人もいない地区ばかりになったということは皆さんからお聞きしていたのですが、いよいよ全国的に女子部の組織活動が不可能になったのですから、女子部の消滅は自然な流れだと思います。次は男子部が壮年部に吸収されて「男性部」になる日もそう遠くないのではないでしょうか。女子部ほどではないにしろ、男子部も活動家は激減しているようで、創価班と牙城会が男子部で機能しなくなって昔の男子部がやってるそうですし(笑)、「牙城会大学校」と「創価班大学校」をひとつにまとめて「男子部大学校」になったんですね。どう考えても「活動家がいなくなった」ことの証拠でしかありません。でも学会員さんは女子部が消滅したり牙城会や創価班が消滅したことも「新たな出発」などとごまかされているようですが、いくら学会員さんでもほとんどはそこまでバカではありませんから「創価は衰退してるんだなあ」と実感していることでしょう。前スレでも触れましたが、聖教新聞の配達集金を一般の新聞社に委託したり、公明党の得票数が減り続けている事実を見ても「創価学会は躍進している!」と言うような学会員さんがいるとしたら、ごく一部の頭のイカれた創価脳だけだと思います。

では、聖教新聞を配る無冠の友がいなくなり、女子部がいなくなり、牙城会、創価班をやる男子部がいなくなり、公明党の得票数も減り続けている創価学会に未来があるのかというと、あるわけないと思っている学会員さんが多いと思います。創価学会に未来があるなんて心の底から信じている学会員さんは、このブログに殴り込んできたいわゆるコッテコテの創価脳さんたちだけだと思います。

私は今どきの創価の会合を実際に見る機会がないので、なんとも言えませんが、きっと昔男子部や女子部だった活動家が同じ顔ぶれで続けているんだろうなと想像します。私が中学高校時代に一緒に活動していた同級生2人は、今も地元の副会長をしているようです。もし私がこんなブログを続けていることを知ったら腰を抜かすでしょうか(笑)。いや、そんなことはないでしょう。「やっぱりお前もか」って言うと思います。副会長は騙される側ではなく騙す側ですからね。現実の創価学会がどういうものかはわかっているでしょう。わかっていないのは騙され続けている末端の学会員さんたちです。前スレでも書いたように、単純に「日本人の8人に1人は創価学会員だ」という大ウソを聞いても疑問に思わないように飼いならされている末端の学会員さんたちが創価の被害者であるということを、被害者自身に気がついて欲しいと思います。本当に日本の創価学会員が827万世帯あるとしたら、どうして女子部が消滅したり、牙城会や創価班をやる男子部がいなくなったり、聖教新聞が自力で配れなくなったり、公明党の得票数が700万票も取れなくなるんだろう?っってことすら考えきれなくなっているという自分の「無思考、完全服従」という現実に気がついて欲しいと思います。

創価学会の人ってどれくらいいるの?

日蓮が末法の本仏だとする宗教は日蓮正宗と、そこから派生したいくつかの新興宗教団体だけです。創価学会の教義は日蓮正宗のそれとほぼ同じですが、創価学会が日蓮正宗から破門されてからの30年間は互いに罵り合うだけの関係でしかありません。日蓮正宗から派生したいくつかの新興宗教団体も、同じように口汚く罵り合いを続けています。つまり、日蓮本仏論を信じている宗教団体は、みんな互いに何十年も罵り合っているわけです。

創価学会は会員数すら発表しないので、当の学会員でさえ自分が信じている団体が何人いるのかすら知りません。知らないというのも不思議なんですが、学会員さん自身が学会員数を知らないことに何の疑問も感じないことがもっと不思議ですよね。創価学会が発表している数は、日蓮正宗から破門された30年前から「日本では827万世帯、世界では192カ国200万人以上のメンバーがいる」と言い続けているだけです。なぜか世帯数は言えても会員数は決して言いません。下の創価学会公式動画でもはっきり言い切ってますよね。このように創価学会は「創価学会は世界中に広がっているんだよ〜」って平気で嘘を言う団体です。

なぜ嘘かというと、総務省自治行政局住民制度課発表の2020年1月1日現在の日本の世帯数は5,907万1,519世帯なので、この827万世帯という数字が本当だとしたら、日本の7軒に1軒は創価学会の家だということです。また、これまでに何度も書きましたが日本で827万世帯ということは人口にすると1,600万人以上の日本人が創価学会員であるということを意味しています。つまり日本人の8人に1人が創価学会員だという計算になります。そんなことを誰が信じるでしょうか。でも学会員さんはこれを否定することができません。否定したら「創価学会は嘘つきで、その嘘つく宗教を自分は信じている」と認めることになるからです。

今となっては2世、3世といった生まれながらに強制的に会員にさせられて実際の活動は何もしない名簿上だけの学会員の割合が増え続けてきたので、実際に創価学会員として活動しているのは、多く見積もったにしてもせいぜい100万人程度だと言われています。でも実際はそんなにいないと思います。私が活動していた20年前は、まだ男女青年部の活動家はいましたが、今はもうほとんどいないような報告をこのブログにもしてもらいました。創価班や牙城会が男子部だけではできなくなったし、女子部に至っては婦人部に統合されてしまったそうです。聖教新聞の配達集金もやる学会員さんがいなくなって読売新聞社などに委託を始めました。これからこの動きは全国に広がるでしょう。こんな現実がありながらも、創価学会は日本人の8人に1人が創価学会員で、さらに世界にどんどん広まっていると正式に発表しているのです。

活動しいている学会員さん自身が創価学会員が激減している現実を一番よくわかっているにも関わらず、創価学会の衰退の現実を認めようとはしません。認めてしまうと創価の何もかもが嘘だと認めてしまうことになるからでしょう。それだけでなく、自分の人生も嘘だったと認めてしまうことになるから、現実に向き合うこと自体が恐ろしくて仕方がないのだと思います。だから創価学会に関するどんな現実を突きつけられても、とんでもない屁理屈を言い出したり、それでもダメな時は聞こえないふりをしてスルーするんですね。だって「日本人の7軒に1軒は創価学会員です」って平気であからさまな嘘をつく新興宗教団体を信じるしかないんですから、そんなおかしなことにまともに向き合っては生きていけませんよね。

そこで、あらためて学会員さんに考えてほしんです。「創価学会は公式に日本で7軒に1軒は創価学会員です」と発表していますが、信じられますか?創価学会はなんでこんなあからさまな嘘をわざわざ公式発表する必要があるのでしょう?例えば「現在の学会員は200万人で、中でも活動家は50万人程度です」と発表したらダメだったのでしょうか?しかしこうなったら創価学会は嘘をつき続けるしかないんですよね。いまさら「あれは嘘でした」とは言えませんよね。でも日本の7軒に1軒が創価学会というのはあまりに現実離れしているにも関わらず、その矛盾に対して考えようとはしない。現実に素直に向き合っていない自分についても考えようとはしない。つまり創価学会についても、自分についても考えようとはしていない現実から逃げ回っていることを一度でいいから考えて欲しいと思います。

例えば、ある日、親しい友人から

「自分は今度日蓮正宗に入ったんだ。日本人の10人に1人は日蓮正宗の信者なんだぜ。すごいだろ。日蓮正宗は世界に広まってるんだ。こんなにたくさんの人が信じてるってことは、日蓮正宗が本当に正しい宗教だっていう証拠じゃん」

と言われたとして、学会員のあなたは

「そりゃお前が騙されてるんだ。考えてもみろ、日本人の10人に1人が日蓮正宗なわけないじゃんか。でもな、創価学会では日本人の8人に1人は創価学会員なんだぜ。創価学会の公式HPや公式動画でもはっきり言ってるからな。創価学会こそ正しい宗教だという証拠だろ」

と堂々と言えますか?って話です。

「いやいや、騙されてるのはお前のほうだろ」

って普通なら言われますが、他の宗教のおかしなところは理解できても、創価の嘘を考えきれないのが創価学会活動家の方々です。だからそんな人の話をまともに聞かないような活動家さんには何もいうことはありません。言っても無駄ですからね。

ただ、学会員さんの中でも、自分で考えて「どうも創価学会の言うことはおかしいんじゃないか」と思える人は、このブログのどこからでもいいですから読んで欲しいです。まずは気になるタイトルを見つけて読んでみてください。それからコメント欄もぜひ読んで欲しいのです。どれだけたくさんの創価経験者が「創価は詐欺だ」と気づいたかをその目で確かめて、自分の疑問に思う気持ちは間違いなかったんだと気がついて欲しいと思います。

聖教新聞の発行部数に見る創価学会の現実

1951年 5,000部
1960年 1,000,000部
1962年 2,000,000部
1965年 3,000,000部
1969年 4,100,000部
1978年 4,450,000部
1991年 5,500,000部
2010年 5,500,000部

この数字からもわかるように、創価学会が日蓮正宗から破門された1991年から、聖教新聞の発行部数はつい先日まで550万部とされてきました。私も聖教新聞公式HPに550万部という数字が載っているのを何度も確認してこのブログに紹介したのでよく覚えています。

ところがです。先ほど聖教新聞公式HPを覗いたら、聖教新聞の発行部数がどこにも書いていないのです。なんと広告掲載の資料にも発行部数の記載がありません。広告掲載を募集するメディアが何部発行しているのかを記載しない広告募集っておかしいですよね。一般の新聞広告の募集は、どれだけの宣伝効果があるのかを説明するために、まずは発行部数を一番先に持ってくるものです。これまでは公式HPの「ご挨拶」のページの文章に、確かに550万部という数字が掲載されていました。ところが「ご挨拶」はおろか、「概要」にも「沿革」にも発行部数については全く触れられていません。創刊第1号が5,000部で始まったこと以外、そして現在の発行部数が何部なのか、公式HPであるにもかかわらず消え去っているのです。

私は以前から聖教新聞の発行部数の550万部が30年間も変わらないことはあまりに不自然だということを何度も指摘しました。550万部というのは一般紙では読売新聞770万部の次に多い部数です。聖教新聞は朝日新聞510万部や毎日新聞200万部より多い部数を30年間も続けてきたということになっています。それもこれまで一度も減ったことがないことになっています。そのことがあまりにも不自然だと、私はこのブログに何度も書いてきました。

それから聖教新聞の配達は「無冠の友」と呼ばれる学会員さんがタダ同然で行ってきましたが、去年から茨城県と兵庫県で読売新聞社をはじめとした一般紙が配達することになったことは皆さんご存知のことと思います。

https://www.dailyshincho.jp/article/2020/04280557/?all=1

↑この記事にもあるように古参の学会員さんが言う通り

「池田名誉会長のお姿に直に接して入会した世代は、もうほとんど高齢者。身体の具合も悪く、亡くなっていく人も多い。他方、若い世代は『親が学会員だったから』というだけで入会した2世、3世が少なくなく、学会の活動にもそう熱心ではありません。こうした状況は近年、公明党の得票数がどんどん落ちていることなどにもつながっています。『無冠の友』ももう、なり手がないわけです。今回の茨城県で始められる読売への販売委託は、状況を見ながら今後、全国に広がっていくのではないでしょうか」

まさにこの通りだと思います。現役の活動家であれば、聖教新聞の購読者数が目に見えて減っていることは身にしみてわかっていると思います。なのにこの30年間、創価学会は聖教新聞が550万部から減ることなく学会員さんに読まれていると公式に発表し続けてきたのです。そして突然の公式HPからの発行部数の削除。

学会員さんはこの事実をどのように考えるのでしょうね。

それでも創価学会は広まっていると言うのでしょうか?言うのは勝手ですが、何の説得力もありません。言えば言うほど信用されなくなります。

配達する学会員すらいなくなっているというのに、550万部が事実なわけがありません。でも550万部と言われたら学会員は信じるしかないんですよね。それと同じで「創価は世界に非tろまっている」「この創価学会の信仰だけが人間を幸せにできる力がある」などと言われれば学会員さんは信じるしかないんです。「財務をたくさんすればするほど幸せになれる」「公明党の票を取れば取るほど幸せになれる」「創価を少しでも疑ったら地獄に落ちる」学会員さんはそんな創価の言うことを信じるしかないんです。どんなにおかしいと思うようなことでも信じるしかないんです。疑ったら恐ろしい目にあうといつも脅されているからです。でも学会員さんは自分が創価から脅されて、おかしなことでも信じるしかないという地獄のような生活が「幸せ」だと信じていたり、そこまで思えなくても「今は不幸でもいつかきっと幸せになれる」と信じて、創価が言うことだけを信じたまま年老いて死んでいくんです。私の両親や兄夫婦のように。そして私が知っているたくさんの学会員さんのようにです。

都議選に見る公明党創価学会の現実

都議会議員選挙が終わり、学会員さんは公明党が8回連続で全員当選の大勝利だ!と喜んでいるようですが、実際のところ、これが大勝利かというと世間はそう見ていません。例えばこの数字をどう見るかということです。

年度  当選者数  得票数

1977年  25名  748,327

1981年  27名  862,847

1985年  29名  950,165

1989年  26名  799,111

1993年  25名  603,121

1997年  24名  705,816

2001年  23名  722,464

2005年  23名  786,292

2009年  23名  743,427

2013年  23名  639,160

2017年  23名  734,697

2021年  23名  630,810

公明党の得票数が950,165票だった1985年は、創価学会はまだ日蓮正宗の外護団体でした。1989年も学会員はかろうじて日蓮正宗の信徒でした。1991年に創価学会は日蓮正宗から正式に破門され、日蓮正宗とは何の関係もない新興宗教としてスタートしたんですね。当然、多くの学会員が創価学会を脱会し、日蓮正宗の信徒になりました。そしてその2年後の1993年の都議会議員選挙での公明党の得票数は603,121となりました。破門される前の1985年には29人が当選していたのが、破門された後の1993年には4人も減り、得票数は347,044票も減ったのです。それから公明党は確実に当選できる候補者を立候補させ、2001年からは23名しか立候補しないことで「全員当選=大勝利」というイメージを学会員に植えつけていったんですね。しかし実際の得票数を見てわかるように、今回の選挙の得票数は自民党との選挙協力をしながらでも63万票しか取れていない。かろうじて当選はしたけれども7人の候補が当落ギリギリのところだったんですね。前回の2017年に得票数を持ち直したのは、都民ファーストとの選挙協力をしたからです。今回は都民ファーストと組んでも票は取れないと判断して自民党と協力した変わり身の早さでなんとか留まったのだと思われます。その前にも公明とは新進党に合流したり別れたりといった国政のゴタゴタの後、小泉内閣とベッタリになって、その後、本格的に公明党は自民党の補完勢力の位置を確保するに至りました。細かいことを言い出すときりがないのでやめますが、要するに、今回の都議選でも公明党は大勝利なんかしていないということです。学会員さんはこのような現実から目をそらされているか、あえて自分から現実をみようとしないでいるので、平気で「今回も公明党は大勝利!」などとすっとぼけたことを言えるのだと思います。

ちなみに国政選挙での公明党の得票数の推移はよく知られている通りです。

この公明党の得票数の推移が何を意味しているのか、普通に考えれば誰にもわかります。これでも「大勝利!」と浮かれているのは、自分で考えていないという証拠ではないでしょうか。

兄を見送って思うこと

このブログを中断したのは、もちろんきっかけとしては読者の方同士のゴタゴタでした。しかしそれだけだったらおそらく今頃はもう再開して、以前のように毎日みなさんからいただくコメントを公開して、更新していたと思います。しかし今もなおコメント欄を閉じて、更新もあまりしなくなったのは、前スレでも書いたように、やはり身内で唯一の学会員だった兄の突然の病死があったからだと思います。今思えば、私は何とかして実の兄を創価から救いたかったのだということです。しかし実際に兄と創価について話をすることさえできないまま、兄は旅立ってしまいました。そこで私はこのブログを続ける理由とモチベーションの多くを失ったのだろうと思います。ときどき、何か書かなければと思う時もありますが、何を書けばいいんだろう?とわからなくなるんです。これまでは「一人でも多くの学会員さんに創価が詐欺であることに自分で気がついて欲しい」という思いでこのブログを続けてきたことは間違いありません。しかし、個人的にいちばん気づいて欲しかった兄が亡くなってしまったことで、私のこのブログ運営に対するモチベーションがグンと下がってしまったのだと思うのです。こんなことを言うと「なんだ、シニフィエはそんな個人的なことだけでやってたのか」とがっかりされる方も多いと思います。でも正直に言います。私は見ず知らずの不特定多数の人たちのために、これだけの時間と労力を使ってきたなどと、偉そうなことを言うつもりはありません。それは私がたくさんの人を創価から救ってあげたなどと思ってもいないからです。皆さんは自分の考えで創価学会や自分の歩んできた人生に真剣に向き合うことで、創価は詐欺だということに気づいて行動を起こしたのです。私は単に自分で思っていることを書き連ねたことで、それに共感してくれた人が、それぞれの意思で創価の実体に気がついて、創価から離れるという選択をしたんだと思っています。私が何かをしたというのでは決してないということはわかってほしいと思います。生まれた時から創価に染められて育てられ、それに気づいた時には50歳を過ぎてめちゃくちゃ後悔して、その取り返しのつかない人生を送ってしまったことに対するやるせない気持ちを言葉にしてブログに上げることぐらいしかできなかったのです。それから思いがけずたくさんの人が同じように創価に騙された経験をコメントしてくれたことから、思ったりよりたくさんの人が創価が詐欺だということに気づいてくれる人が増えるようになったということです。それ以上でも以下でもないと思っています。

そしてこのブログを10年続けて感じたのは、始めた10年前よりも確実に創価学会の衰退は進んでいるということです。では10年前までは創価学会は広まっていたのかというとそうではありません。やはり創価学会が日蓮正宗から破門されて、多くの学会員が日蓮正宗側についた1990年の時から創価学会の衰退は始まり、それ以降一度も盛り返すことなく衰退の一途を辿っています。創価学会はもう30年間減り続けているというのが現実です。これが創価でいうところの実証と言えるでしょう。この現実はいくら創価脳といえども決して否定はできない事実です。いまどきで言う「ファクト」ですね(笑)。現在の創価学会を成り立たせているのは、もうかなり年老いた婦人部と壮年部です。彼らがまだ若い時から頑張って、今の創価をなんとか維持しているという感じですよね。まさに私の兄夫婦がその典型でした。40年間、ずっと変わらず支部長、副本部長として組織運営に自分の時間を割いて生きてきました。今、もし60代、70代の壮年婦人部の方々がいなくなったら、創価学会はすぐに機能不全を起こしてしまうでしょう。今の創価学会の男女青年部に何ができるでしょう。というか、どれだけの男女青年部が活動しているでしょう。おそらく100万人いると言われる創価学会活動家の中で、男女青年部の活動家など1割ぐらいじゃないでしょうか。言い方を変えれば、今の壮年婦人部が年老いていなくなれば消滅するということです。

活動家が信じている創価学会の教えは「創価学会だけが人間を幸せにできる唯一の宗教だ」ということです。それが本当であれば、人類は二度と幸せになれないということでもあります。こんなバカな話を真剣に信じているのが創価学会の壮年婦人部活動家のみなさんなんですね。こうしたことはこのブログでも10年間、ずっと同じように書いてきました。しかし活動家さんたちには全く通じないということがよくわかりました。というかわかっていましたが、それでも言わずにおれなかったんですね。でももう兄の死によって、それもなくなりました。何とかして兄に伝えたかった。しかしダメだった。創価を信じて、創価に一生を捧げた兄は、少しも幸せだとは思えないような形で突然末期がんを宣告された、半年であっさり亡くなりました。あと半年でも早く癌が見つかっていたら、もう少し違う人生があったのかもしれないと思ったりしますが、後の祭りです。

例えば、今現在60歳から70歳ぐらいで、夫婦で何十年も地区部長や支部長として地域の組織を任されてきた活動家の方がたくさんいらっしゃると思います。地区部長さんはそれなりに部員さんに慕われて、婦人部長さんは新聞啓蒙や書籍や民音のノルマに悩まされてきたと思います。それも広宣流布のお役に立つためだとか、これで罪障消滅ができて、誰よりも幸せになれるんだと自分に言い聞かせて頑張ってきたのかもしれません。でもそれは単なる思い込みなんです。兄夫婦が身を以て実証してくれました。創価学会で幸せになることはありません。単なる詐欺なんですから。オレオレ詐欺で騙されたお年寄りと一つも変わらないんです。「お金を出せば幸せになれる」「創価の言うことを聞けば幸せになれる」そんなことを少しも疑うことなく信じて生きてきたのが兄夫婦であり、多くの創価学会壮年婦人部の人たちでした。そんなことで騙される若い人はいません。だから創価学会の男女青年部はものすごく減ったんです。30年間減り続けた結果、創価学会は自分で考えることができないほぼ年寄りだけの被害者集団となりました。もう長くはないでしょう。今の60代、70代の壮年婦人部の活動家が動けなくなったら終わりですから、おそらく2030年頃には活動家は今の半分ぐらいになっているでしょう。聖教新聞だって毎日発行できない状況になっているかもしれません。財務も半減するでしょうね。創価は会員からお金を集めることが目的の詐欺集団ですから、会員からお金が集められなくなったら、即刻解散するでしょう。それが10年後に来るかなあと私は考えています。2030年。衰退を続ける老人ばかりの新興宗教団体は、ある日突然あっさり消滅するかもしれませんね。しかし、今の創価の活動の中心となっている60代、70代の壮年婦人部の方たちは、10年後に「創価は詐欺だった」と知らされてももう遅いです。私の兄夫婦のように、自分のそれまでの人生を否定することも肯定することもできないまま死ぬことになるのではないでしょうか。私の兄はそうやって死んでしまったことが悔やまれてなりません。今、60代の想念婦人部の活動家の皆さん。創価が詐欺だなんて恐ろしくて考えることもできないでしょうが、目の前の現実の全てが創価が詐欺だということを語っているという「ファクト」に目を向ければ、自分の人生をやり直すことに間に合うと思いますよ。70代だと厳しいかもしれません。80代の方に何も言うことはありません。いろいろ考えない方が幸せかもしれません。なまじ気がついたらそれこそ地獄かもしれませんから。いずれにせよ、自分の人生については自分で考えて決めて行動することが大切ではないかと、兄の人生を見送った今、あらためて思うところです。

また久しぶりに書きます。

前回の更新が4月30日でしたので、7週間ぶりですね。前回も書きましたが、このブログのコメント欄を停止してから、あまり書く気になれませんでした。以前は、毎日送られてくるたくさんの方のコメントを読むだけでも大変でしたが、それでも意欲的に更新していました。このブログを始めてから、常にこのブログのことが頭から離れませんでした。しかし今はそんなことはありません。これも前に書きましたが、私が言いたいことはこの10年間に数えきれないほど書きましたし、これから書くにしてもほぼ同じことしか書かないというか、そうしかできないだろうと思います。つまり「創価学会は宗教ではなく詐欺です。学会員さんはそのことに気づいて、一日も早く創価学会から離れて欲しい。少なくとも創価学会から理不尽に搾取され続けるだけの人生に終止符を打ってほしい」ということです。このことを10年以上も言い続けてきました。そしてそれに賛同してくださる創価経験者の方たちの数え切れないほどの賛同のコメントを発信することができました。もうこれ以上同じことを繰り返すことにどんな意味があるんだろう?と考えるようにもなりました。これだけ言っても創価を信じきっている人たちには一切通じないというのが現実です。

私がこのブログを休止したのは、ブログ内での思わぬゴタゴタがあったことが原因なのはもちろんなのですが、それに加えて創価脳の兄に末期癌が見つかって急死したことも大きかったのです。ブログのゴタゴタだけであれば、おそらく4月ごろには再開していたと思います。しかしどうも再開する気になれないでいるのは、兄の死があったからだと思います。

これまでも創価脳の兄夫婦については何度となくここでお話してきました。そしてその兄に突然末期癌が見つかり、半年経たないうちにあっさり亡くなりました。兄は親に紹介された女子部との結婚を機に活動家となり、それから夫婦で支部長を何十年もやりながら、毎年ありったけのお金を財務に投じていました。典型的な活動家であり典型的な創価脳でした。なのでいつも生活はつつましく「いったい何が楽しみで生きているんだろう」と思われるくらいでした。これだけ真面目に学会活動に励み、子どももできなかったので、稼いだお金はみんな財務に消えて行きました。そんな兄は仕事中に大変な事故にあい、かろうじて命はとりとめたものの障害者となりました。兄嫁も学会活動に専念するあまり家事はおろそかになり、学会員以外の人間関係を作ることができない人生でした。あげく兄嫁も病気になり障害者となりました。創価では「この信心で実証を示す」と指導されますが、少なくとも兄は創価の信心の実証を示すことができないままあっさり、しかも癌による痛みの中で亡くなってしまいました。夫婦で身も心も学会活動第一に生きてきたのに、最後は癌の進行に気づくことなく、コロナ禍で親しい人にも会うことができないまま、葬式も最少の参列者で済まさざるを得ませんでしたし、私たち兄弟とその数人の子どもたちのみで火葬しました。兄の火葬で創価の数珠を持っていたのは兄嫁ただ一人でした。兄嫁は兄の遺骨を一人で遠方の創価の墓苑に埋葬するのだそうです。いつ埋葬するのか連絡すらありません。おそらく父の時と同じく、兄の墓には納骨の時以降は誰も行くことはないと思います。

一生を創価に捧げてきた人間の最期がこれだということを目の当たりにして、私はやはり「創価は宗教などではないのはもちろん、人間の幸せとは無縁の生涯を送ることになる」と思い知りました。兄がこのような最期になったことで、私がこのブログを続けることの意味をあらためて考える機会となったのです。というか書く気力を無くしたというのが正直な気持ちです。

もちろん、創価を信じきっている人に何を言っても無駄だということはわかっていました。だからせめて自分で考えることができる人のために、創価が何であるのかを考える機会を促すことができるのではないかという気持ちでブログを続けてきたのは間違いありません。しかしここにきて、一番身近な存在である兄の理不尽な死を目の当たりにして、自分の無力さを思い知らされたのだと思います。私が言いたいのは、兄は創価だから理不尽な最期になったと言うのでは決してありません。癌に気づかないで亡くなることは創価であるかないかなど関係ありません。癌で亡くなる可能性は誰にでもあることです。ただ兄の場合、兄自身が「自分は創価の信心を真面目にしてきたから、必ず幸せになれる」と信じていたであろうと思うからです。「これが真面目に信心してきた人間の最後なのか?」もし兄がひとり病室で弱っていく自分の身体を見ながら考えていたとしたら、もうそれだけでも幸せではなかったのではないかと思うのです。

このブログを休止したことで、時間ができました。今思えば、自分でもびっくりするほどこのブログ運営に時間を割いていたんだと思います。それでブログを休止してからは創価に関することではなく、宗教や哲学についての本を読む機会が増えました。コメント欄を閉じてから、しばらく一般的な宗教についての話を書いているうちに、これまでよりも一般的な宗教、哲学、科学、芸術の関係について知りたいという気持ちが大きくなったからです。創価についてあれこれ考えるよりも、私自身がこの世界についてまだまだ知らないことばかりだと思います。むしろ創価のことに時間を使うよりも、もっと自分自身が学ぶべきもの、学びたいと思うことが山ほどあると思いました。学ぶだけではなく、もっと創造的なことに自分の人生を使ったほうがいいのではないか。そう思いました。

兄は最期まで創価を信じていたのだろうか。自分の死と否が応でも向き合わなければならなくなったとき、兄は創価を信じ続けてきた自分の人生の最後に何を思ったのだろうか。創価ではない人がいくらでも癌を克服しているいまの時代に、早期発見すれば完治できたはずの癌に気づかなかった自分は、一体何の為にこの信心を貫いてきたのか。なぜ信心の実証を示すことができないまま、親しい人と会うこともできないまま、ホスピスの病室でひとり死ななければならないのか。

私がニーチェに興味があることは時々このブログでも書いたことがありますが、ニーチェ以外にもあらためてドストエフスキーは読んでおくべき作品だと思うようになりました。100年も200年も昔の時代に生きた人なのに、こんなにも現代に通じる切実な問題を提起していることに今更ながら驚かされます。ニーチェの思考が驚くほど仏教的なのは、若い頃から親しい友人に仏教研究者がいたからのようです。ドストエフスキーに関しては、彼の生きていた時代や、ロシアという国のわかりづらさで、最初はあまりピンときませんでしたが、実際のところすこぶる現代的な、いやむしろ普遍的といえる問題の本質を極めてパーソナルな状況設定の中に描き出しているという点で、やはりドストエフスキーは人類史に残る天才と言えるのだと思います。こんなことならもっと若い頃からニーチェやドストエフスキーに挑むべきだったとは思いますが、逆に今だからこそ、今でなければ理解できなかったのではないかとも思います。それに創価脳のままニーチェやドストエフスキーを読んだところで「どうせ仏法を知らない西洋人の書いたレベルの低い書き物」とどこか見下したと思います。たとえ見下さないまでも、「それとこれとは別。真実は日蓮仏法にしか存在しない」と簡単に片付けていたと思います。

創価が単なる詐欺で、創価の示す日蓮仏法も、会員からお金を巻き上げるためのご都合主義のおすがり信仰でしかないことがわかった今だからこそ、人類の残してきた偉大な芸術文化というものに真正面から向き合うことができるようになりました。私も還暦を過ぎた今となっては残された時間は限られていますが、これからは自分が自分の考えで本当に価値があると思えることを学び、自分の手で作り上げる創作活動に励んで行きたいと思っています。

ということで、このブログはこんな感じで無理をせずに、ときどき思いつくことを書けるときに書こうかと思っています。コメント欄を開放すると、また以前のようになる可能性もあると思いますので、少なくとも今はそのままにするつもりです。もしかしたら兄のことの気持ちの整理がついたり気持ちが変わったりして、以前のように創価で悩む方の相談の場になったり、創価が詐欺だと気づけるようなファクトが集まる場にしたいと思うかもしれませんが、それは今ではありません。今は仕事や家庭のことはもちろん、これまで自分自身が学べなかったこと、創ることができなかったことをできるだけやりたいという意欲が強いです。

このブログでお知り合いになれた方が数えきれないほどいらっしゃいます。と言ってもリアルにはほとんど知りません。でも本当に気持ちを通わせていただいた多くの方に、どれだけ感謝しても足りないくらいです。もうすぐコメント欄も再開しますと書いておきながら、それがあるのかどうかすらわからないようになって申し訳ありません。でももうこれからは創価に関して無理をしたりすることはやめて、自分自身や家族のために時間を使おうと思います。

これまでも幾度となく言ってきましたが、創価学会はどのみち崩壊します。創価は会員からお金を巻き上げることが目的の詐欺集団ですから、会員からお金を取れなくなれば解散するでしょう。そう、崩壊というよりも解散という方が正しいかもしれません。私はその解散の時期が10年後に来るのではなかと言ってきました。ずっと10年後では意味がありませんので、具体的に2030年と言い直しました。でも今となってはそれが5年後でも20年後でも大した意味はないなと思います。すでに組織の高齢化と弱体化が進んで、特に日蓮正宗から破門されてからのここ30年間の創価学会は衰退する一方です。誰かが必死にならなくても、今の段階で熱心な会員さんもほとんどが10年後にはいなくなるか、生きていても組織活動などできる身体能力はないでしょう。ましてや今の男女青年部が10年後にどれくらい活動しているのか、今の創価の現実を目の当たりにしている現役の学会員さんがいちばんわかるだろうと思います。創価脳さんがどれだけ「日蓮仏法は絶対に正しい」とか「創価学会だけが世界に誇る宗教だ」などと言ったところで、創価以外の人は誰も相手にしていないのが現実です。つまり、現役の活動家さんがどの時点で自分で「創価は詐欺だ」と気づくかというだけの話になっているんですね。創価崩壊は、あるいは創価解散は、会員が減ってお金が取れなくなった時点だということです。創価脳さんとしては、遅かれ早かれそんな時が来るなんて思いたくないでしょうが、これが創価の現実でしかないのです。創価脳さんだけが創価の現実を見ていない。見ようとしない。まさにそれが創価の現実です。

だから、自分の現実を見ようとしない人にいくら言っても通じません。このブログには、おそらく何百人もの創価経験者が、自分の経験をもとに「創価は詐欺だった」という実体験を語っておられます。これを読んでもなお創価の現実に気づけないのであれば、私の兄夫婦と同じような人生の最期を迎えるしかないのかもしれません。自分の死が目前に押し迫ってきたときに「ああ、あのとき人の話を真面目に聞いておくべきだった」と兄は後悔したのかもしれません。あるいは最後の最後まで「自分は正しかった」と自分をごまかし続けたのかもしれません。それはもう誰にもわかりません。

私たちができることは、最後の最後まで自分の考えで思い切り生きることだと思います。創価はそれさえ奪い取ります。創価脳さんは自分の考えで生きていない自分の現実に気づけないように操作されてしまうんですね。創価が会員から奪い取るのはお金だけではありません。そうやって人生そのものを奪い取ります。私の父も母も兄も創価によって人生を奪い取られました。同じようにこれまで真面目に活動してきた創価学会の会員さんの全ての人生が奪い取られたのです。しかし人生を奪い取られたことにすら気づかないで、多くの学会員さんが死んでいきました。こんな恐ろしいことが現実の日本で起きてきたのです。こうしたことを考えると、どうしても「なんとかしなければ」と思ってしまいますし、実際にそうした思いを原動力にしてこのブログを10年も続けてきたわけです。そしてたどり着いた結論が「自分で気づくしかない」という、言ってみれば身もふたもない結論でした。だから「自分の頭で考えて、自分で気づいてください」と言い続けてはみたものの、冷たく言うなら「自分で気づけないならしょうがないね」ということです。もうこれ以上のことは他人には限界があると思います。

話し始めるとどこまでも際限ないのでやめますね。とりあえず、このブログはこの状態で、ときどき思いつきで書くぐらいの感じになると思います。

一人でも多くの学会員さんが、自分で考えて、創価から奪われた自分の人生を取り戻すことができることを願いつつ、今日はこれで終わりにします。それではまた。

創価が宗教ではないことの証拠は、現実の学会員さんの人生そのものです。

久しぶりに更新します。

いろいろと思うところがあって、更新しないでいました。というより、このところこのブログを書く気持ちが薄れていたように思います。コメント欄を停止している代わりに、しばらく宗教についての常識的なことを書いていました。創価に疑問を抱く学会員さんに、宗教についての常識を知ってもらったら、創価がまともな宗教ではないことぐらいは気づいてもらえるかもしれないと思ったからです。

創価脳さんに一般的な宗教についての常識を話しても「創価以外は間違った宗教だ」としか思えないのですから、どんなに事細かに宗教についての話をしても無駄ですが、創価に少しでも疑問を持てるようになった学会員さんであれば、ここで一般的な宗教についてどれだけ知らなかったのかということに気がついてもらえるかもしれないと思ったのです。

ただ、そんな普通の話を書いているうちに、べつに自分がわざわざこんな話を書く必要もないんじゃないかと思うようになって、なんとなく更新できないでいました。

つまり、学会員さんであっても、常識を常識として受け入れることができれば、自ずと創価が宗教ではないことに自分で気づくはずだと思います。「創価以外の宗教は間違いだ」などとメチャクチャなことを信じている間は、箸にも棒にもかかりませんが、「創価ってちょっとおかしいんじゃない?」と思えるまで自分を取り戻すことができれば気づけるようなことだと思います。要するに、宗教についての常識的な知識を知ることでも、その常識を常識だと受け止めることができるメンタルがあれば、学会員さんであっても創価がおかしいことに気づけると思います。

実際に、このブログにたどり着いて「創価はやっぱりおかしかったんだ。宗教なんかじゃなかったんだ」と気づいて活動をやめたり脱会できた方がたくさんおられます。このブログでなくても、他のアンチ創価ブログを読んで覚醒した学会員さんがどんどん増え続けているのも事実です。要は「学会員さんが普通のメンタルを取り戻すこと」が創価問題を解決する方法だということだと思います。

このブログを休止してから80日ほどになりますが、創価問題に対する私の気持ちも意外なほど変化がありました。以前はきつい思いをしても書かずにおれなかったのが、今はそれほどでもなくなりました。熱が冷めたという訳ではありませんが、コメント欄を停止して、自分一人が思うことを書いても、これまでさんざん書いてきたことなだけに、繰り返しになってしまうのと、やはりこのブログはタイトルが表しているように対話の場であることに意味があると再認識した次第です。

なので、もう少ししてから、コメント欄を再開しようと思います。

前スレのタイトルは「創価が宗教ではないことは誰にでもわかります」です。誰だってわかるのに、創価脳さんだけがわからないという現実に創価脳さんが気づかない限り、創価は学会員を騙し続け、学会員さんからお金を騙し盗り続けるという犯罪は止まりません。創価の被害者は学会員さんです。私はその被害者である学会員さんが一人でも少なくなってほしいという気持ちでこのブログを続けてきたことに変わりはありません。創価脳と空虚なバトルをするためではありません。ネット上では学会員と正宗の信者が創価の本尊と正宗の本尊の違いを論争したりしてますが、そんなの目くそ鼻くその違いでしかないです。正宗も創価のようなカルトをいつまで相手にするんでしょう。しかしそんなことすらどうだっていいように思います。そんなことをいい歳したおっさんたちがネット上で議論することにどれほどの意味があるのでしょう。今となってはもう「勝手にしたらいいじゃん」と思うようになりました。まともな対話すらできないような人に何を言っても無駄ということを、このブログを休止する少し前にも随分と思い知らされました。

だから、これからブログを再開するにあたり「論争はしない」ということを徹底したいと思います。論争したばっかりに、思わぬところでいろんな人がゴタゴタに巻き込まれてしまい、たくさんの人がいらぬ時間を使い、心を砕くことになってしまったからです。このブログの目的は創価被害を少しでも少なくしたいということです。議論して勝ったの負けたのということに何の価値を置くものではありません。

前スレまでの流れでは、これからギリシャ哲学からユダヤ教、キリスト教、イスラム教についての話をするつもりでしたが、そうしたものはYOUTUBEにもわかりやすい動画がたくさんあります。そうしたものを見ただけでも、学会員さんがいかに間違った宗教観を植え込まれているかがわかります。今の日本の仏教が異様なほど変わりはてた姿で継承されているかも、詳しい専門書など読まなくても、動画を眺めるだけでもわかることです。ましてや創価が宗教でないことはもちろん、会員からお金を巻き上げることを目的とした悪質な詐欺集団であることも簡単にわかるんです。学会員さんがそのことをわからないのは、わかるのが恐ろしいからです。わかってしまうと自分の人生を否定しなければならなくなると、心の底では薄々わかっているから、何が何でも認めようとしないんだと私は思います。だからネット上であっても創価を否定されると、自分を否定されたような気持ちになって、殴り込んでくるんだと思います。このブログを始めた頃はそれでもなんとかわかってもらいたいと思いながら続けていましたが、今はもう「わからない人に無理しても無駄」と割り切れるようになりました。というか、本当に無駄だと思うようになりました。それはこの数年の間に兄が創価脳のまま癌で急死したのも大きかったです。その後、兄嫁は相変わらずの創価脳のままです。夫婦共に創価に一生を捧げてきたのに、二人とも病気や事故が絶えず、最期は手の施しようのない末期癌が見つかってあっという間に亡くなった兄と、子どももなく一人で生活している兄嫁の姿をみると、こうやって創価に死ぬまで騙されて死んでしまう学会員は今もいるんだという現実に、我が身の無力さを思い知ったからなのだと思います。

だから、わかる人とだけ話をする場にしたいと思っています。創価のどんなにおかしなことを指摘しても、それをおかしいと思えない人には伝わらないし、文字通り話にならない。創価を信じてともに真面目に活動してきた夫が非業の死を遂げても、創価を少しも疑うことができない兄嫁の姿を見て、私はどこかプツッと心の糸が切れたような気がします。

私が学会員さんに言いたいことは、やはり「目の前の現実を見ましょう」ということにつきます。創価学会を信じてきた自分や自分の周りにいる学会員さんの現実を見ることができれば、創価学会が何なのかがわかるはずだと。逆に現実をむることができないでいるから、創価学会が素晴らしい宗教だなどと信じてしまうんだということです。そういう意味では、学会員さんはとんでもない現実逃避をして、自分が不幸であることに気づけないでいるんですね。人生、誰にだっていろんなことがあります。しかし創価を信じることは不幸でしかないことははっきりしています。創価じゃなければ幸せなのかというと決してそうではありません。しかし、創価でいる限り幸せになることはないと断言できます。その証拠は、これまでの学会員さんの人生が全てを証明してくれています。これ以上明確な動かしがたい証拠はないと思います。もう一度言います。創価が宗教ではないことの証拠は、現実の学会員さんの人生そのものです。

ということで、もう少ししてから、折を見て、コメント欄を再開しようと思います。それまでもうしばらくお待ちください。

創価が宗教ではないことは誰にでもわかります

創価学会の会員さんは、創価学会だけが正しいと思い込んでいます。それは日蓮が末法の衆生を救うために現れた「御本仏」であり、その御本仏の教えを唯一実行しているのが創価学会だからだという理屈です。そもそも「御本仏」という概念が存在するという時点で、仏教なのか?という疑問を持たれて当然なのです。これじゃまるで救世主を待ちわびるユダヤ教であり、イエスを神の子であり救世主だとする一神教のキリスト教に近い考え方だと言えます。そんなとても仏教とは程遠い概念がまかり通っているのが日蓮正宗であり創価学会です。

末法の御本仏が衆生救済のために遺した三大秘法を継承しているのが創価学会であり、その三大秘法を広めている学会員だけが幸せになるのは当然だという理由です。そしてそんな創価学会を批判したり脱会者を増やそうとする行動をする私のような人間は無間地獄に堕ちると学会員さんは思っています。残念ながら私は地獄になど堕ちていません(笑)

このところ「宗教ってなんだろう?」というテーマで、宗教についての一般的な史実をざっと書いてきました。まだギリシャ哲学からユダヤ教、キリスト教、イスラム教についての話までには至っていませんし、中国の思想家や宗教の話もしていません。これからぼちぼち気が向いたらと思っていますが、その前に話しておきたいことがあります。私が常々「創価学会は宗教ではなく詐欺だ」と言っていることを「いくらなんでもそこまで言うのは極端なんではないか」と思う人もいるでしょう。学会員さんはもちろん、創価のことを知らない一般の人たちも「そこまでは言いすぎなんじゃないか」と思うようです。それは創価にまともに関わったことがなければ、そう思うのも当然だと思います。しかし、実際に何十年も創価学会の組織の中で創価の実態を見てきた人間であればあるほど「創価学会は宗教ではなく詐欺だ」という強い確信を持つに至ります。創価に疑問を持った学会員さんがこのブログにたどり着いて、恐る恐る読んでみたら「創価は宗教じゃない」どころか「とんでもなく悪質な詐欺集団だ」などと書いてあるのを見たら「いくらなんでもそれは言い過ぎだろ」と思う気持ちもわかりますが、そのうちブログを読み進むにつれて、「確かに創価は宗教じゃないし、詐欺かもしれない」と考えが変わる学会員さんが続出しました。その結果、多くの学会員さんが自分のおかれた現実、自分がやってきたことのおかしさに気がついて、脱会するに至ってきました。また自分だけが脱会することで家族との関係悪化が懸念されるために、脱会にまではいけていない方が苦しんでいらっしゃいます。

はじめに「創価学会の会員さんは、創価学会だけが正しいと思い込んでいます。」と書きましたが、人間が作り出してきた様々な宗教がある中で「創価学会だけが世界で唯一の正しい宗教だ」と自分が信じていることの不自然さに気づいてもらうには、世界の宗教がどのような経緯で変化してきて今に至っているのかということを、ざっとでもいいから理解することができれば、「創価学会だけが世界で唯一の正しい宗教だ」と信じている自分の考えが、いかに特殊なことであり、その信じる根拠がないにもかかわらず、いつの間にか完全に信じ切ってしまっている自分の不自然さに気が付いてもらえればという考えで、世界の宗教についての話を書いています。

前回も書きましたが、「この世に不変の真理とか実体などない」というのが釈迦の悟りです。「人間の不幸の原因はそんなものがあると信じるからだ」というのが仏教の基本的な考え方でした。それが日本に伝わるまでに様々に変化したあげくの、まるでキリスト教のような一神教の教えに変わったのが日蓮の教えであり、中でも日蓮本仏論というとんでもないことを言い出したのが日蓮正宗であり、その日蓮正宗のおすがり信仰をうまいこと利用して会員からお金を騙し取ってきたのが創価学会です。創価が宗教ではなく詐欺だということは、一般的な宗教についての概要と、創価学会の現実を見比べれば、誰だってわかることなんですよね。

ということで、次回は元々はユダヤ教から始まったキリスト教、イスラム教についての一般的な史実についてざっと話をしていきます。